玉匣の姫

玉匣の姫

浦の嶋子は姫との別れ際、玉匣という美しく飾られた箱を受け取る。
「決して明けてはならない。」と託された匣を手に村へ戻った嶋子を待っていたものは見覚えのない人たち。

浦の嶋子という若いものがいたということだが
海の果てに消えてしまった。
海のかみさまに魅入られたのだと皆は口々に言ったということだ。
嶋子は帰らなかった。

それも三百年も四百年も前のできごとだというが。
おまえさま。どうして、知ってなさる。

しらじらとした目で問い返す村の者。
数百年。自分に纏わる昔話。海。死。
何かがおかしい。

懐かしいはずの村は何かが、違う。
人も土も草も。木も。何もかも。

見えない壁にひとり、取り囲まれるようで、息が苦しい。

わずか。わずか前に、別れてきた姫は、
水の底の都はまぼろし。だったのか。

匂い立つ姫の美貌。
快楽に満たされたあの日々は
手ざわりのないまぼろし。だったのか。



手にした匣(はこ)を眺める。
夢とも現ともつかない出来事と、今を結ぶ一点。

これは。なぜここにあるのか。
この中には姫と俺を繋ぐ何かがあるのか。
おしえてくれ。



嶋子は匣を明けてしまう。

匣の内からは、さっと煙が立ち昇る。
悲鳴のような。耳を裂くような。音がいつまでも響き呆然と宙を見つめる。


気がつくと、
静かに、ただ青い空が広がっていた。

これは御伽草子が書かれるはるかに昔。
仙人や精霊が今よりも身近に親しまれ、そのものがたりが流行して
いた頃のつくりばなし。

話の好きなものが身振り手振りを駆使し、面白く、可笑しく、上手く
語る。

惹きつけられた他の誰か。話し好きが、誰へとは無く、面白く、可笑
しく、上手く、語り。それが遠く、遠く、遠くへと流れ流れてていく。

ものがたりは人々の裡に入るほどに日常の景色へと溶け込んでいく。

なにげない海にも里にも姫や嶋子の姿を映し出す。
いつのまにかその地で暮らすもののこころへ住み着きヒトとともに生きる。


ある日ある処である者はこの話しを聴く。
そして、思う。

美しく官能的で奔放。
財があり、地位も人望もある。
無いものが無い姫。
なぜ、匣に入ったのだろう。
そしてなぜ嶋子というものに自身を託したのだろう。

音も光も無い小さな匣の中へ
これまでの全てを捨ててしまう。

どのようにして匣に入ったのだろう。
水底に宮殿を造り、そこで暮らすもの。
それは容易いことかもしれないが。

嶋子は、どうだったろう。
混乱や、不安を掻き消すため、手掛かりを求め、
また、郷愁や、姫への恋慕にも似た気持ちで
匣を明けてしまったのではないだろうか。

彼の帰りついた先が先が寂れた、しらじらとした村では無く
この、目の前の、壮大で、華麗で、躍動的な都だったなら果たしてどうしただろう。
不安で、孤独で、心細くて、匣を明けてしまうだろうか。

精緻で巨大な建造物には明かりが灯る。
見惚れるほどに美しい。

着飾った男女が行き交い。
それぞれが思い思いに振る舞う。
珍しく、おもしろおかしい物がいたるところにあふれる。
水辺には何艘もの船が行く。
人も物も、夜も昼も無く動きつづけ
飽きることを知らない。

にんげんは不老でも不死でもない。
悩みもし、苦しみもする。
「やんごと無き」は、ほんの一握りの人びとを指す。言わば、ことばの遊びだ。

それでも、ここは、きっと水の底の都のように美しい。

匣になってまで、嶋子のもとにやってきたのはまだ見ぬ地上に何か求めたのだろうか。

にんげんは、にんげんの技で楽園を、築こうとする。

にんげんとは異なる技を持つものたちは、水の底に都を築き、そこにに居る。
いや、水の底に楽園をつくるものたちならば、
地の底にも、世の果てにも、目に見えぬ時の行く末にも、
きっと住むことだろう。

広大な眺めに目を見張る。
果てしなく打ち寄せる波。

目を閉じ息を吸い込む。
不思議だ。心が安らぐ。
ゆっくりと目を開く。

それは
海に思える。

砂浜に腰を降ろし履物を脱ぐと締め付けられていた
足にじわじわと血が巡る。
開放された足がほっと息をする。

寄せて来た波に足を浸けると
いろいろなものが洗い流される。
旅の疲れ。路銀の心配。どこへ向おうという漠然とした不安。

もう一度、息を吸い込むと生まれ育った
郷の川の匂いがした。
深い緑に覆われた山の中の
郷の匂いがした。

目の前には霞むように島々が浮かぶ。
そのはるか先には岸があり山々が薄墨のように広がる。

故郷のように心地良く。
見慣れぬ景色がどこまでも拡がる。
ぽつんと、旅の途中であることを知る。

これが、淡海なのだ。

寄せてきた波に袴が濡れて
あわてて立ち上がる。
あははと大声で笑うと
履物も履かず波と戯れ歩き始めた。



日の沈む頃になったが宿場には辿りつけ無かった。遊びが過ぎたのだ。

見晴らしがいい。水辺のはるか彼方に灯りが見える。あの小さな光は人が寄り集まり街を構成している。飯があり、酒があり、宿がある。
宿では布団で眠れる。もしかしたら風呂が沸いているかもしれない。

急ぐ訳でもない。と辺りに座ろうとすると水辺の方から

「もうし。」と呼ぶ女の細い声が聴こえる。
突然のことに「わっ。」と飛び退く。

声の主は切れ長な目の娘だった。
娘は音も無く近寄ると手を取り、倒れた男を引き起こした。

こんな夜更けに娘がひとりとは妙なことだと思い尋ねると娘は言った。

連れとはぐれて困っている。家に帰りたい。

家はどこだと聞くと何も言わず。淡海の方を指差す。

不審に思い娘の方を振り向くとそこに娘は居なかった。
「もうし。」と声のするほうに目をやると
どこにあったのか。小舟に娘が乗っている。

こんな夜更けに舟などよせと言うが娘を乗せた舟はゆらゆらと沖のほう
へと出ていく。

しかたが無いと小舟に駆け寄り乗り込むと櫓を手に漕ぎ始めた。

水面を娘の指すほうへ進んで行くと
「ここで。」と娘は手を上げた。

辺りは静まり返り波ひとつ無い。

娘は髪をほどき帯を解き衣服を脱ぎ去った。
月の光の中白い肌がぼうと浮かび上がる。
娘は男に覆いかぶさると衿から手を差し込み胸を撫でる。
胸元がはだけ男の身体を這うように女の手が袴のひもに伸び、躊躇い
無く解かれる。
女のねっとりした唇が胸に触れぬめぬめと舐めまわす。

情の濃い女に出会ってしまったのだと男は身を任せることにした。

酔ったような目でからだじゅうを舐めまわし、身を擦りつける。
いつの間にか解かれてしまった下帯が情けなく船底に落ちている。

身を起こし、女を組み伏せると口を合せる。
薄く開いた女の目に微かに涙が浮かんでいる。
sage