Neetel Inside ニートノベル
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(十一)

 自分の悲鳴で目を覚ますのは初めての経験だった。
 ソファから身を起こすと、全身にじっとりと汗をかいている。
 悪い夢を見ていた気がする。もやのような悪感情だけが肺腑にわだかまって、内容は具体的に思い出せない。けれど、思い出す必要もないだろう。所詮は夢だ。
 そばにあったティッシュで顔の汗を拭う。すると、
「つっ……」
 鈍い痛みが走った。
 触って確かめてみると頬が腫れている。あいつに殴られたところが内出血を起こしているようだ。
「悪夢の原因はこれか。今日から学校あるのになぁ」
 クラスメイトに見られたら事情を聴かれるかもしれない。机にぶつけたことにしようか、階段でこけたことにしようか。
 考えながら、とりあえず飲み物でも飲もうと赴いた台所に、先客がいた。
「なんだ、起きてたのか」
「目が覚めました」
 フウリは冷蔵庫からお茶を取り出しているところだった。僕が部屋を出てから着替えたらしく、街で買ったパジャマを着ている。
 僕は二人分のコップを用意し、それぞれに注いだ。すると、フウリが顔を覗き込んでくる。
「陸人さん、その顔」
「ああ、ええと」
 事情を知っている相手に言い訳は効かないだろう。
「殴られたところが腫れてきちゃって」
「そうですか」
 フウリは無感情にお茶を一口飲んだと思いきや、
「わたしのせいですね」
 と呟いた。
「いやいや、あれは自分でやったことだから。元からあいつとは関係悪いし。そもそも、こんなの全然痛くない」
 強がってお茶を流し込むと、口内の傷にがっつり染みた。苦痛に顔がゆがむ。まったく、恰好がつかない。
「陸人さんは、わたしを殴らないんですね」
「はあ? なに言ってるんだ」
「家にふてぶてしく居座って、迷惑だと思っているんでしょう」
「ふてぶてしい自覚はあったのか」
「わたしのせいでベッドは使えないし、秘密を負わされるし、怪我はするし……。追い出したいって、考えてるんじゃないですか」
 しおらしい内容の割には、口調にはだだをこねているような雰囲気がある。
 僕は痛みを我慢してコップの中身を飲み干す。そして、右手をフウリの頭に置いた。僕もいまは、妙に感傷的な気分だ。悪い夢を見たせいかもしれない。
「迷惑か迷惑じゃないかっていったら、そりゃ、迷惑だよ。風呂の時間には気を遣うし、冷蔵庫の食べ物は勝手に減ってるし、急に不機嫌になられて対応に困るし……。けど、同じ屋根の下に住んでたら、迷惑かけるのなんて当たり前だ。それくらい、ヒトの常識では許されるものなんだよ。なあ、こっちの世界はいいところだろ、異世界人サマ」
 あるいは、それは経験に照らし合わせた皮肉だったけれど。ママゴトだと割り切っているからだろうか、案外、屈託なく言えたことが意外だった。
「あの……」
 フウリが上目遣いを向けてくる。
「なぜ、頭に手を置いているんですか」
「あ、ああ、ごめん、嫌だよな」
 慌てて手を引っ込める。
「いえ、そういうことではなく。この動作が現世界で何を意味するのかを知りたかったんです」
「僕をからかってるだろ」
「いいえ」
「むぅ……。そうだな、まあ、簡単に言えば親愛の証ってところだよ。わたしはあなたと仲良くするつもりですよっていう感じの」
「そうですか」
 フウリは事務的に返答をしつつも、まだ言いたいことがあるようだった。コップの縁を撫でながら、しきりに瞬きをしている。
「陸人さん、少ししゃがんでもらえますか」
「え? 突然どうしたんだ」
「いいから、しゃんでください」
「こ、これでいい?」
「もう少し」
 目線の高さが同じになるまで腰を下ろすと、フウリはおもむろに右手を僕の頭に置いた。
「ええと……」
 沈黙が降りる。
 置かれた右手は撫でるでもなく静止したまま。それだけで、手のひらの温度が頭頂から伝わってくる。
 小窓から射した月光が、台所を幻想的に染めていた。出会ったときと変わらず、彼女の首筋は白く輝いている。
 ――吸い込まれるような翠の瞳。
 僕ははっと息を呑んだ。フウリはものすごく綺麗だ。どうしてそのことを、一瞬でも忘れていたんだろう。
 気がつくと、頭から手が離れていた。フウリは無言で踵を返し、ほとんど小走りのような早歩きで立ち去る。コップに残ったままのお茶が、わずかに揺れて波紋をつくった。

       

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