Neetel Inside ニートノベル
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(二)

 ある日の放課後。
 終業のチャイムと同時に僕は席を立つ。ホームルームの最中に荷物はまとめてあった。最近は教科書類をなるべく持ち帰るようにしているのでバッグが重い。それでも、帰宅の途を憂鬱には感じない。
 一番乗りで教室を出る直前、優作から声を掛けられる。
「知り合いから変わったゲームを仕入れたんだが、部室でやらないか」
 魅力的な提案だったが、僕は立ち止まることなく「ごめん」と手を振って教室を出た。
 優作に限らず、このごろ友人の誘いを断ることが多くなった。付き合いが悪いと小言を言われたりもする。付き合いの頻度が減るやつは彼女ができていると相場が決まっているので、ひがみも半分こもっているのだろう。あながち的外れではない、と思う。
 遊びの誘いを断るからには、一途に帰宅するのがせめて礼儀というものだ。だから寄り道はしないと決めているのだが、この日は思わぬ誘惑があった。
 通り沿い、大型スーパーの駐車場から漂ってくる甘い香り。拡声器を通した粗い音声で「クレープいかがですか」と呼び込みが聞こえる。
 フウリに買っていったら喜ぶだろうか。
 機嫌を取る手段として、甘味はベターな選択に思えた。日用品も含め、すでにかなりの上京資金が彼女に溶けている。ためらいも掠めたが、移動販売車の引力には抗えなかった。
「チョコバナナクリームと抹茶白玉あずきクリーム。家で食べるので包装してください」
「へい」
 ポップなデザートに似合わないひげ面の店主だ。低い声で返事をするや否や、素早く調理に入る。鉄板の上で生地を延ばす手並みはさすがに職人技である。
「あ、やっぱり、陸人じゃない。なにしてるのよ」
 熟練された技に見入っていると、意外な人物に声をかけられた。
 気の強そうな上がり眉に短めの栗毛。制服をきっちり着こなした女子生徒。志麻子だ。
 しまった、と反射的に思った。
 しかし、僕の内心など知る由もない店主は見る間にクレープを完成させる。
「ほら兄ちゃん、クレープふたつ」
「あ、ありがとうございます」
 ポップなデザートに両手を塞がれた僕……を怪訝そうに見つめる志麻子。店主同様、僕にだってポップは似合わない。まして、甘さ全開のデザート二つを一人で平らげるわけがない。よって、志麻子の疑問は必然だった。
「他の誰かと来てるの?」
 そういって広い駐車場を見回しても、該当の人物はいないのである。
 志麻子は僕の家族をよく知っている。妹に買っていくんだなどと言っても妹がいないことは看破されるし、親にクレープをあげるなどと言っても信じてもらえないだろう。これが優作相手であったなら女の子にやるんだよと嘯きつつ詮索を突っぱねることもできたろうが、なんとなく志麻子には言いづらかった。
 曖昧なフィラーで時間稼ぎしながら思考を巡らした挙句、僕は言った。
「志麻子が遠くにいるのが見えたからさ。たまには日頃の感謝をこめておごろうかな、みたいな。ほら、このあいだ勉強を教えてもらったお礼もしてなかったろ」
「え……」
 予想した反応は疑われるか呆れられるかだったのだが、意外なことに志麻子は赤くなって慌てた。僕がよい行いをするのがあまりに意外だったのか。それはそれで失礼な話だ。
「で、どう。食べる?」
「……うん」
 差し出してしまった。フウリの分のクレープ。
 僕は歩きながら食べるか、さもなくば家に帰って食べたらと提案したのだが、志麻子は聞かなかった。なんやかんやと言い合ったのち、店の前にあるベンチに座らされ、並んで腰かけることになる。時刻は夕方には早い。出入りする客は少なかった。しかし、居心地の悪さは拭えない。
 たまたま、エコバッグを持った中年女性と目が合う。彼女は一瞬の間のあと、にこりと微笑んだ。絶対にカップルだと思われている気がする。
 志麻子は気まずくないのだろうか。隣を窺うと、そんな素振りもなくクレープにぱくついている。
「おいしい。ありがとね」
「感謝されるようなことじゃないけど」
 急に毒のないことを言われると調子が狂う。僕はこめかみを掻いてから、抹茶白玉あずきクリームにかじりついた。……甘い。他のにすればよかったかもしれない。
 しばらくは淡々と食べ進めていたが、志麻子がぽつりと尋ねてくる。
「陸人、その、このところ調子は大丈夫?」
「調子って、体の調子?」
「それも含めて」
 あまりに漠とした質問だったので、答えに窮する。
「うぅん……強いて言えばここ数日、夢見が悪いかもしれない。しかも、たいてい同じような夢を見るんだよ。あまりに何度も見るから、内容も憶えていられるようになっていきた」
「どんな夢?」
「場所はハッキリしないんだけど、暗いところ。そこで、死神みたいな恰好をした化物に襲われる。僕は必死で逃げようとするんだけど、なんでか地面に足をとられて走れない。で、化物がだんだん近づいてきて、殺される……って直前で、辺りが光に包まれる。闇が一瞬で取り払われて、むしろ眩しくて、その光の中心に誰かがいるのはわかるんだけど、姿を確認する前に目が覚める。変な夢だろ。夢占いではどういう結果になるんだろう。ちょっと気になるよ」
「…………」
「どうかした?」
「いや、なんでもないの」
 志麻子は顎に手をやって、深刻そうな顔で思案していた。記憶処理がどうとか、複数回は副作用がどうとか、不穏な小声のあと、取り繕うように言う。
「それより、ご飯はちゃんと食べてるの?」
「ご飯は、うん、食べてないってことはない」
「なによそれ」
「志麻子が心配することじゃないだろ」
「今日の夕飯の予定は?」
「冷凍のパスタかな」
「昨日の夕飯は?」
「えーと、冷凍のパスタ」
「……一応聞くけど、その前日は?」
「さすがに記憶が曖昧だなぁ。……うーん、あ、冷凍の餃子だった」
 志麻子はクレープの残りを口に放り込んで、猛然と立ち上がった。
 まずい、鬼の形相だ。
「な、なにか……?」
「あんた、これから予定ないんでしょ? ないわよね。私が料理作りに行くわ」
 いきなり、とんでもない事を言い出す。
「いやいやいや、そんな、いいよ、悪いし」
「気にしないで。私がしたくてするんだから」
「家片付いてないし、人を呼べるような状況じゃないってば」
「片付けも私がする。いまさら遠慮する仲でもないでしょ。それ、ゆっくり食べてていいわ。食材買い物してくるから」
 鼻息が聞こえるのではないかという勢いで詰め寄って、僕の手元を指さす。
 志麻子はクレープの包装をゴミ箱に捨て、スーパーの自動扉をくぐっていく。制止する暇もなかった。有無を言わせぬとはこのことだ。
「マズったなぁ……」
 僕は家に居るフウリの存在を思い、うなだれた。
 

 買い物を終えた志麻子は、パンパンに中身の詰まったビニール袋を両手に提げていた。そんなに食べられないと文句を言うと、僕の家の冷蔵庫に置いておく分も買ったのだという。
 状況に流されるままふたりで道を歩く。そして、家の扉の前に立ってようやく、差し迫った危機を感じた。
 この前のようにフウリが鉢合わせるのはまずい。あれだけ人に会いたくないと言っていたのだ。以前の二の舞となれば今度こそ、フウリはめちゃくちゃスネ倒すだろう。口を利いてもらえなくなるかもしれない。
 僕は扉の近くに立ち、大げさに咳ばらいをした。
「ああー、人を家に上げるのなんていつぶりかなー!」
 そして、鼻歌なんか歌いながら時間を稼ぐ。ないとは思うが、ちょうど玄関にフウリがいれば一発アウトだ。もしもそうなら、すぐ逃げてくれ。
「ねぇ、早く開けてよ」
「ごめんごめん、家の鍵がなかなか見つからなくて」
 志麻子の催促に耐えるにも限界があった。
 汗ばんだ手で扉を開ける。祈るような気持ちだった。
 果たして、玄関にフウリはいなかった。安心に胸を撫で下ろしたのも束の間、次の一手を打たねばならない。
 おじゃましますと慇懃に言う志麻子に、僕はまた大げさに返事をする。
「いらっしゃい、いらっしゃい。悪いね、客人を迎えるにはふさわしくない小汚い家だけど。それもこれも、実質、男の独り暮らしみたいなものだからさー。家に誰もいないと気を遣わなくなるだろ。あ、さすがに自室には入れられないよ。見せたくないものとかあるからさー!」
「陸人さっきから声大きい。家に帰ると人格変わるタイプだっけ?」
「いやぁ……」
 手は尽くした。もたつき過ぎても疑惑が生じる。
 家主の僕が先行し、玄関を抜けて廊下を通る。
 これもまた緊張だったのだが、居間にも台所にもフウリはいなかった。おそらく、いつも通り部屋に籠っているのだろう。あとは、僕が部屋を死守すればいいだけだ。志麻子もまさか、エロ本探しをさせろなどとは言い出さないだろうし。
 その志麻子は台所に着くとさっそく、冷蔵庫に使わない食材をしまった。それから棚を調べてエプロンを発掘したりしていたが、焦れた様子で文句を言う。
「まともな包丁がないじゃない」
「包丁?」
 役立たずの傍観者になっていた僕も、一応相槌を打つ。
「ほら、昔はあったでしょ、オールステンレスの三徳包丁」
「志麻子が最後に来たのって数年前とかだろ。その頃は母さんが料理してたけど、もう誰もやらないから。捨てちゃったんじゃない」
「し、信じられない……」
 志麻子は愕然としている。驚きの生活力のなさ。
「しょうがないから、果物ナイフを使うわ」
「なんだ、別のがあるんじゃんか。大げさだな」
「もういいから、座ってなさいよ」
 しっしとジェスチャー付きで追い返される。
 実際、使えない人材が台所に居座ったって邪魔だろう。開き直ってくつろぐことにする。
 居間のテーブルには、必要もないのに四人分の椅子が配置されている。見栄えの収まりの良さのためだ。僕はそのうちの一つに腰掛け、テレビをつける。なるべく騒がしそうなバラエティにチャンネルを合わせて音量を上げた。二階で大きな足音をたてられると困る。しかしいまのところ、耳を澄ましても物音は聞こえてこない。おそらく僕のサインが通ったのだろう。ひとまずは安心だ。
 気持ちが落ち着くと、不意に尿意に襲われた。
 席を立って、居間を出る。廊下中央のドアノブに手をかけたとき、違和感を感じた。
「あ、あれ……?」
 ノブが引っ掛かって動かない。いや、鍵がかかっているのだ。
 僕はおぼろげに状況を察しつつ、尿意の高まりを感じた。
「参ったな」
 トイレの扉の隙間に顔を寄せて囁く。
「フウリ、僕だ。いるんだろ、鍵を開けてくれ」
 ためらったのか、数秒の間をおいて開錠される。
「助かったよ」
 と、一歩踏み入れた僕の肩口に突っ張りが浴びせられる。バランスを崩し、半身が翻った状態で背後から抱きしめられた。というか拘束された。
「い、痛い……」
「来客なんて聞いていません」
「ごめん、僕の予定にもなかったんだよ。ところで、この体勢はなに」
「わたしがトイレに入っているときに、玄関から声が聞こえました。それで――」
「最中だった? なるほど、異世界人もはいせ痛い痛い痛い!」
 脇腹を締め上げられる。
「終わっていました。けれど流すのはまだでした。音を鳴らすのはまずいと思ったので」
 なるほど、流せてないから便器を見るなということだろう。言われて意識すると、かすかなアンモニア臭が鼻に触れる。小のほうでまだマシだったか。
「わかった。いまなら大丈夫だから、流してもいいよ」
「じっとしててください」
 解放ののち、水の流れる音が聞こえる。
「志麻子は台所で料理中だから、さっさと二階の部屋に戻ってて。あと、なるべく足音とか立てないようにしたほうがいい」
 トイレに長居するほど不審を招く。軽く忠告をしてお開きにしようとしたのだが、フウリはその場から動く気配がない。
「あの……早く出ていってもらえると助かるんだけど。僕もトイレしたいからさ。さすがに音とか聞かれるの恥ずかしいし」
「女の人を家に呼んだんですね」
「え」
 思わぬ切り口からの問いかけだった。
「家に呼んだのは女の人なんですね」
「言い換えなくてもいいよ。いや、呼んだっていうより、あっちが押し掛けてきたって感じなんだけど。不摂生な食生活を見かねたみたいで」
「そうですか。でも、断ることは可能だったんじゃないですか? 陸人さんはわたしが家にいることをわかっているんですから、強引にでも断るべきでした。浮かれていたんですか。その女の人とは仲が良いんでしょう。付き合いの浅いわたしなんかより」
 徐々に声量が増していく愚痴を、口ごと塞ぐ。
「声が大きいってば。話なら後で聞くから、取りあえず隠れろって」
 フウリはまだ、手のひらでもごもご言っていたが、トイレから無理やり放り出す。扉の鍵を閉めてしまえば、それ以上の追撃はなかった。
 排尿と水洗を済ませる。
「なんだっていうんだ」
 濡れた手を拭きながら、僕は呟いた。


 いつぶりだろう、食卓にまともな料理が並べられたのは。棚に幽閉されていた食器類との対面が久しい。懐かしさすら覚えた。
 帰宅してすぐ仕込みを始めて、完成までにおよそ一時間。皿洗いなどの後始末を含めると合計で一時間半くらいかかるだろう。今日は志麻子なりに気合を入れて手間のかかる料理を選んだのかもしれない。しかし、それにしたって毎日こんな作業を自分でする気にはなれない。冷蔵庫に残される食材の処遇が、悩みの種になりそうだ。
 目の前には料理が並んでいる。白米、鰆の西京焼き、筑前煮、ほうれん草のお浸し、だし巻き卵、納豆、吸い物。
「和食だ……」
「外食だと洋食とか中華に偏りがちでしょ」
「志麻子って料理が上手かったのか」
「上手いってほどじゃないわよ」
「いや、上手いって」
「おだてても何も出ないから。ほら、いただきます」
 志麻子が手を合わせたので、釣られて同じようにする。
 食事を始めてしばらくは口を利かなかった。不覚にも、夢中になっていたのだ。
 最近は、冷凍食品もレベルが高い。テーブルマ○クのお好み焼きだけで一週間は生きられるし、食生活に不満があったわけではないのだが、久しぶりの家庭料理は格別だった。
 味の感想は言わずとも伝わっただろう。憑りつかれたように食事を進める僕を見て、志麻子が言った。やせ細った犬でも心配するように。
「陸人、頼れる人とかいるの?」
「頼れるって?」
「だから、生活の色々なことよ。家事とか勉強とか、あと、進路のことも」
「家事はひとりでどうにかなってる。勉強は、まあ、落第しそうになったら志麻子に頼みこむつもり」
「本人を前にして言わないでよ。私はいいけど……。進路のことは、友達とかにも相談してるの? 地元を出ていくって言ったら、寂しがる人もいるでしょ」
 問われて、箸が止まる。せっかくおいしい料理だというのに気の重くなる。
 志麻子にしてみれば、料理を振舞うことは単なる口実だったのかもしれない。最初から、進路に横やりを入れて東京行きを阻止したかったのだ。
「またその話か。このあいだも言っただろ。僕はこの街を出ていく。外に出て行ってやりたいことを見つけるんだ」
「私だって別に、うるさく言いたいわけじゃないの。でも放っておくと、陸人は投げやりになりそうだから」
 言って、志麻子は居間を見回す。室内は散らかっているというほどではないはずだが、一般家庭のそれとは違うのだろう。共用スペースとしての生活感というものがない。実際、僕には家族がいないようなものなのだから仕方がない。でも、だからといって、それがなんだというんだ?
「家事のことなら、今日みたいに私が定期的に家に来ようか? 清美さんとは面識があるし、私から――」
「ああ、もう、うっとうしいな」
 僕は茶碗に箸を置く。
「学校以外のことは、志麻子には関係ないだろ。お節介もほどほどにしてくれって。ただの幼馴染に、やることなすこと説明しなくちゃいけないのかよ。家のことだって、志麻子には余裕があるから、同情してるのかもしれないけど」
「同情なんて。違う、私はそんなつもりで言ったわけじゃない」
「じゃなきゃ、なんだっていうんだ」
「私はただ……」
 志麻子はうつむいて黙りこくる。
「ほらみろ。親切なつもりでやってるのかもしれないけど、そういうのって、見下されてるみたいでかえって惨めなんだ。やめてくれよ」
 言い放った直後に、後悔が湧いてくる。責めるような言い方をするつもりはなかったのに。
 一応謝っておこうか。迷っているうちに、志麻子が口を開いた。
「同情なんてしてない」
 謝罪の出足を挫く、低い声だった。
「同情するわけないでしょ。だって、陸人は全然かわいそうじゃないもの。ありふれた環境よ。片親だからって、命まで取られるわけじゃない。学校に通えてるし、友達だっている。私に言われたくらいで自分が惨めだって感じるなら、それは傲慢な勘違い。悪事を働いていないのに理不尽に亡くなる人や、明日もわからない状況で闘っている人もいる。陸人くらいの人間はね、卑屈になって堕落する資格ないのよ。少なくとも、私には許せない」
 予想外に強い言葉が返ってきて、閉口する。言い分はもっともだと思った。僕は特別ひどい環境に置かれているわけではない。むしろ平凡だ。ふたりの意見は共通するはずなのに、どうして指摘を受けるのだろう。そして、どうして僕は図星を突かれたような気分になるのだろう。
 やがて、志麻子が箸を持ち直す。
「ごめんなさい。言い過ぎた」
「こっちこそ、ごめん」
 結局、謝罪の先手も取られてしまった。
 一連の言い合いのあと、重い空気のまま食事を終えた。取り繕ったように明るい話題を振りながら、志麻子は宣言通り部屋の片付けまでしてくれた。
 帰り際、彼女は一言「今度、言い訳をさせて」と残して帰っていった。

       

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