Neetel Inside ニートノベル
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異世界人が働かない理由。
第三章

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(一)

「チェックだ」
 威圧するような宣言を聞いて、僕は思い出したように顔を上げた。
 正面には優作の顔がある。その手前、ふたりの間に挟まれた盤面には、目を背けたくなる劣勢が広がっていた。
「何をぼーっとしてるんだ、勝負の途中だぞ」
「ああ、いや……」
 思考の連続性は断たれていた。これまで読んでいたはずの流れは輪郭すら見えない。突如として現れた盤面の模様に、文字通り場当たり的な手を指さざるを得なかった。
 チェスを改変したこのゲームは、フィールド効果とユニットの特性を相乗させなければ勝ち目はない。僕の手は悪手だった。みるみるうちに身動きが制限され、死地へと追い込まれていく。
「負けたー」
 手に持ったビショップを放り投げて降参する。
「どうした、調子が悪いな」
「たまたまだよ」
 勝負はこれで五連敗だった。
 僕は大きく伸びをして、絨毯の上に寝そべる。換気のために開けた窓から、運動部の掛け声が聞こえてくる。練習には身が入っているようだ。美しき青春ってやつか。
「はーあ、つまんないな」
 意味もなく、絨毯についた埃を拾い集める。脚を使ってティッシュをつまみ出し、塊になった埃を包んだ。ゴミ箱は遠い。シュートを試みたところ、壮大に狙いを外した。
「お前、いいのか」
 優作が苦々しい顔で言った。
「いいのかって、何が」
「何がかは……知らないが。連日、この部室に通い詰めているだろう」
「いままでと同じじゃんか」
「いいや、最近のお前は忙しそうにしていた。目的があったというか、良い顔つきになったと感心していたんだ。なのに、以前の腑抜けた面に戻っている。いや、むしろ悪化している」
「ひどい言い方だな。いいだろ、おかげで優作の遊びに付き合ってやれるんだから」
「恋人と破局したのか?」
 僕が睨みを向けると、優作はどこ吹く風で盤面をいじり始めた。先ほどの勝負の再現をしているらしい。
「恋人じゃない」
「じゃあ、想い人に振られたわけか」
「それも違う。……どっちかといえば、僕のほうから振ったんだよ」
「とてもそうは見えないがな。取り返しのつくことなら、行動したほうがいいぞ」
 僕は返事をするのも億劫で目をつむる。
 フウリが僕の家を去ってから、四日が経っていた。
 現在、彼女がどこにいるのか、何をしているのか、まったく情報がない。連絡手段もない。
 もっとも、もしも再会したとしても、できることはない。結局のところ、ふたりの縁は家の中にしかなかったのだ。あの日、フウリが出ていくのを引き留めなかった時点で僕らは終わっていた。取り返しがつくかどうかと問われれば、取り返しはつかないのだろう。
 ところで――僕はフウリを取り戻したいのだろうか? いまとなっては意味のない疑問が浮かび上がる。
 彼女は最後に認めていた。敵と戦うつもりなどなかった。嘘をついていた。僕を騙していた。ならば、事は一件落着なのではないか。虚言癖の女に捕まりかけていたけれど、最小限の被害で決別できた。授業料を払ったと思えば、財布の痛みも我慢できないほどではない。
「でも、本当に……」
「ん? 何か言ったか?」
「独り言だよ」
「そうか」
 すると、優作はポケットからスマホを取り出して操作しだした。
「ところでなんだが、俺の知り合いに自転車が壊れたってやつがいるんだ。見てやってくれないか。お前、得意だろう」
「うーん……」
「わかってるよ、必要経費と手間賃だろう。症状を確認してから、希望を伝えてくれればいい」
「いや、やっぱやめとくよ。他を当たって」
「どうしてだ」
「なんとなく、気が乗らない」
「……重症だな」
 優作は溜息をつくと、遊び道具を片づけにかかる。失恋がらみで落ち込んでいる女々しい人間だと思われるのは心外だったが、怒る気力も湧いてこない。フウリがいなくなって、面倒ごとはむしろ減ったはずなのに。帰ってきた日常には倦怠ばかりが取り巻いている。
 倦怠、退屈、停滞。そういうものに支配されそうになったとき、頭の中にはいつも同じ音楽が流れる。
 陽気な酔っ払いに連れられたイングリッシュパブで聴いた演奏。薄暗い店内で、たった四人の指先と声帯が生み出すうねりが、それまでの人生のすべてを否定してくれた気がした。
 素晴らしい演奏を聴いたくらいで、人格が変わるわけでもないけれど。きっと、僕が街を出ると決めたのはあのときなのだ。
 鍵を頼むと言って去っていく優作を見送って、僕はスマホに手を伸ばした。
「SHOYAさん、ちょっと時間、大丈夫ですか」
 忙しいと撥ね付けられるのを覚悟していたのだが、電話越しの彼は意外なことを言った。
「おお陸、ちょうど俺から連絡しようと思ってたところだったぜ」
「え?」
「マスターから電話があってな。ホールにゾンビが歩き回って迷惑だからなんとかしてくれってよ。お前、顔に出るタイプだよな」
「うわ、本当ですか」
「悩みがあんだろ。前置きはいいから話せよ」
「は、はい。ええと、何から話せばいいか――」
 促されるまま、僕はここ二か月ほどで起こった出来事を話した。異世界がどうのという詳細は伝えづらく、また僕自身が把握しきれていないために、かいつまんで。
 相手が電話越しなのがかえってよかったのかもしれない。話し始めてしまえば、言葉が次々と湧いてきた。特に、同居生活での不満はいくらでも思い出すことができる。やっぱり僕は、フウリとの生活が嫌だったのかもしれない。だとすれば清々する。
 一通り話し終えると、黙って聞いていたSHOYAさんが声を発する。
「要するに、別れた女のことが忘れられないってか」
「違いますよ。僕の話、聞いてました?」
「長かったからよ」
「いいですけどね。別に、解決を求めて相談したわけじゃないですし」
「だったらなんなんだよ」
「変な女に騙されたっていう希少体験を語りたかっただけです。ちょっとだけ愚痴も混ざってますけど」
「騙されたねぇ……」
 向こう側から、溜息をつく気配が伝わってくる。
「なんですか。SHOYAさんは、女の嘘は許してやれっていうタイプなんですか」
「そう殺気立つなよ。寛容なのがカッコイイとか言うわけじゃねぇ。ただ、一体誰が嘘と真実を仕分けしてくれるんだろうなと思ってよ」
「どういうことですか?」
「俺は職業柄……なのかはわからねぇが、イカれた女と知り合う機会は結構あるんだよ。で、そういうやつらって高確率で虚言癖も併発してるんだよな。たいていは迷惑かけまくって、周りからも避けられたりしてるんだが、実際、そういうイカれ女と付き合うと印象が変わるもんなんだよ。
 関係が浅いうちは、言ってることと現実が食い違うから嘘ついてるって思うわけだ。でも親密になってみると、騙してやろうなんて悪意がないことがわかってくる。
 俺が作曲作業してるといつも、そいつは扉の隙間から甘えるタイミングを図ってるんだぜ。でもっていざ膝枕でもしてやると、二言目には『翔也くんが緑色のシャツを着てるから、歯磨き粉が毒になって蓄積するの。やめてよ』とか言うんだよ。マジで意味わかんねぇだろ? 俺は別に、恋人の好みに合わせてファッションを変えるくらいは構わねぇんだ。だから、緑色のシャツがダサいと思うならそう言えばいいって諭すんだが、頑なに訂正しねぇ。本人曰く、俺が緑色のシャツを着てると歯磨き粉の味が変わって、しかも体調が悪くなるんだと。昔、そいつがオナニーしてないとか抜かしたときには、問い詰めたら一分で白状したのにな。どうして、歯磨き粉が毒になるなんて一ミリの得もない嘘を貫き通す? そういう、脈絡のわからん思考と、オナニーを恥ずかしがるくらいの常識が混ざりあって、周りの人間にとって質の悪い嘘が出来上がるわけだ。
 そいつは自分自身の言葉を本気で信じてるんだよ。だったら、周囲と乖離してるのはなんなのかっていったら、感じ方なんだよな。同じ世界を対象にしてるようでも、感じ方が違う。
 でもって、そういう女と四六時中も話してると、だんだん俺の感じ方も引っ張られていくんだよ。緑色のシャツを着てる日は、歯磨き粉が苦かったりしてな」
「洗脳されてるじゃないですか。ヤバいですよ」
「まあ、結局そいつとは別れたんだが。でも、洗脳っていうなら、この世に洗脳されてないやつがいるのか?
 人間は狼に育てられれば獣になる。俺たちが知ってる言葉や概念は、関わった社会に頼ってるだろ。俺は、大人の戯言に耳を貸すなって歌ったりもするが、歌ってる俺こそがすでに、社会に歪められてることを否定できない。この世界の何もかもが幻でないと、誰が言えるんだ?」
「そういう哲学があるのは知ってますけど……」
「ピンとこないか。じゃあ、この話は終わりだ。なあ、嘘といえば思い出したんだが、陸、イソップのオオカミ少年の話は知ってるだろ」
 自分で狼と口にしたから連想したのだろう。相変わらず会話が自己完結的というか。僕の悩みを聞いてくれるという建前はどこへいったのだろう。すっかり主導権を握ったSHOYAさんに調子を合わせる。
「知ってますよ、ええと……。少年が『狼が出たぞ』っていう嘘を繰り返してたら、あるとき本当に狼が出て、今度こそ心から助けを呼んだけど誰も来なかったって話でしたよね。それで、少年は狼に食べられてしまう」
「村の羊がしこたま食べられちまうバージョンもあるんだぜ」
「え、知りませんでした」
「教訓としては、嘘つきのガキが食べられたほうがわかりやすいわな。死にたくないなら嘘つくなってめちゃくちゃだと思うが。でも俺はひねてるから、この寓話を聞いて、現実味ねぇなって思ったんだよ。だって、いくらガキが嘘を繰り返してたとしても、村人全員が無視するってこたないだろ」
「そうですか? 僕は違和感ありませんけど。普通は、嘘つきの言うことを信じないでしょう」
「『普通は』な。でも、大勢の村人のなかには、普通じゃないやつも紛れてるのがそれこそ普通だろ。家畜の危機と聞いたら居てもたってもいられない強迫症気味の羊飼いとか、その日こそはガキを折檻してやろうと息巻いてるカミナリおやじとかよ。そのうちの一人でも確認に向かえば、いや、家の窓から覗きさえすれば、スピーカーになって村中に危険を知らせられる。誰もが狼少年を無視するのはかえっておかしいだろ。だって現実に、後ろ指を差されるような不良でも、一人や二人、構ってくれるやつがいるもんだ」
「なるほど、周りから避けられてるイカれ女と付き合っちゃうSHOYAさんならではの視点ってことですか」
「煽ってんのか。お前も似たようなもんだろ」
「ははは……」
 乾いた笑いを漏らすと、SHOYAさんが再び溜息をついた。
「まあ、だからよ、いつまでもクヨクヨしてても甲斐ねぇぞ、たぶん」
「え?」
「俺は話で聞いただけだから、陸が会った女のことはよくわからん。でも、そいつも今頃、他の誰かとよろしくやってると思うぜ。まして、美人なんだろ。周りの男どもはだいたい味方だ。陸がわざわざ庇ってやらなくてもよ。経験上、そのテの女は次の男を捕まえるのが早い。だから、あんま引きずんな。陸は陸で、新しい女でも捕まえればいいさ」
「SHOYAさん……」
 好き勝手に話しているように思えて、SHOYAさんなりに慰めようとしてくれたらしい。気持ちは素直に嬉しかった。
「でも、僕は……」
 僕は、この期に及んでも割り切れないでいた。
 喉に刺さった小骨のように、残り続けている懸念。一緒にいるときには、微塵も信じていなかったはずなのに。彼女の荒唐無稽な与太話を受け入れろと訴える声が聞こえるのだ。
 失恋のショックからくる願望などではない。僕は理性によって嘘を看破しながら、その嘘が実は真だと知っている。まるでデジャヴ。そう、何かしらの経験によって、フウリが異世界人であることは決定づけられていたはずなのだ。それが現在の矛盾した感覚を生み出している。
 では、いつ? 僕はいつ、フウリが異世界人であると知ったのだろう。
「うっ……」
 頭痛がした。
 張り巡らされた有刺鉄線に触れたみたいに、生理的な反応が思索を取りやめさせた。
 とにかく、僕は馬鹿げた可能性に囚われたままだった。もしも、だ。もしもフウリが、本当に孤独な異世界人だったとしたら。世界に彼女の味方が一人もいないのだとしたら。――救ってやれるのは僕しかいない。

       

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Neetsha