Neetel Inside ニートノベル
表紙

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(三)

 微細な雫が絶え間なく降りて、地面を叩く音は厚みを増していく。
 夕方から雨が降り始めていた。
 テレビに映る天気キャスターの女性は、悪天候が明日の早朝まで続くことを伝えている。
 曰く、前線を伴った低気圧が通過している途中らしい。その南岸低気圧とやらがベーマガ島付近よりも北にあるから、雪ではなく雨が降るのだそうだ。
 詳しい天気解説は、誰のためにやっているのだろうと不思議に思ったことがある。市井の民からすれば知りたいのは一点、傘を持つべきか否かだけじゃないだろうかと。物事の理由なんてどうでもいい。自分の行動には影響を及ぼさない。
 けれどいま、僕は理由をこそ見出したいと欲していた。
 フウリと過ごした生活で、彼女が見せた表情や言動。そのすべてを貫く一本の筋があるはずだ。知る必要がある。でなければ、僕に彼女を連れ戻す権利はないだろうから。
 食卓から離れ、窓越しに空をにらむ。
 地上にのしかからんばかりの暗雲が一帯を覆っている。陽の光は届いてこない。
 僕はその場で、時間を忘れて立ち尽くした。

 『別の世界からやってきた異世界人です』――『ネアリオは着々と数を増やし』――『これはマウスではないんですか』――『わたしには選べません』――『詮索しないでください』――『たった一匹ィユニュルを殺せばいいだけです』――『ステイハムを外に出してやることはできませんか』――『ホウ酸団子や不凍液を用いた毒餌戦法で』――『任務に当たっている仲間はいますから』――『罪深い行いをしていますよね』――『わたしがいけなかったんです』――『いちいち墓を建てる必要もありませんね』――

            『わたしは嘘をつきました』

 知らず遠ざかっていた雨音が、現実とともに帰ってきた。
 僕は、椅子の背に掛けてあったダウンを羽織る。急ぎ廊下を通って出発する直前、玄関で二本の折り畳み傘を持つ。
 予感が正しければ、フウリはいまも雨に濡れているはずだ。寒さに震えているはずだ。
 ――僕を待っているはずだ。
 外へと飛び出して、自転車を駆った。


 出発時間を把握していなかったので確かめようもないが、到着するまで五分とかからなかっただろう。全力で回した車輪を急ブレーキで滑らせると、目の前には『シベ超緑地公園』のプレートがあった。
 入口広場に自転車を乗り捨て、わきの階段を上る。
 雨で熱を奪われた体が重い。息も絶え絶えに坂を上り、辿り着いた頂上は一見無人だった。
 空っぽの東屋に雨水の幕がかかっている。展望台からの街並みは煙って雲の中に沈んでいるようだった。
 僕はそれらを無視して、片隅の茂みに足を踏み入れる。
 予感は当たっていた。目隠しの草を分けて顔をのぞかせた先に、彼女はいた。
「フウリ」
 出会った日と同じ場所に、同じ服装、同じような体勢でうずくまっている。
 ぬかるんだ地面に尻をつけて、僕の接近には気づいているはずなのに、顔を伏せたまま上げようとしない。気配に身を固めたところを見ると、死んでいるわけでも、眠っているわけでもないはずだ。
 濡れた銀髪が肌に張り付いている。手遅れとわかっていたが、僕は持ってきた折り畳み傘を差しかけてやった。
「帰ろう。迎えに来たんだ」
 フウリは膝頭に顔を擦りつける。
 帰りたくないという意思表示。けれど、彼女が迎えを待っていたことは明らかだ。
「いつから座りこんでるんだ」
「いつからだって、いいじゃないですか」
「僕を待ってたんだろ。でなきゃ、こんなところで雨に打たれてない」
「待っていません。うぬぼれないでください」
 あまりに想定通りの返答に、僕は笑ってしまった。
「ずっと思ってたけど、フウリって実は構ってちゃんだよな」
「…………」
「今日さ、志麻子に好きだって告白されたよ。ほら前、家に来てた友達」
「そうですか、よかったですね。どうぞ、ふたりで幸せになってください。わたしには関係ありませんけど」
 抑揚のない口調は、押し殺そうとする怒りを隠しきれていない。わかりやすい反応を見て安心した。まだ望みがある。フウリの心は、完全に離れてしまったわけではない。
「付き合ってくれとは言われなかったよ。でも、仮に交際を申し込まれても断った」
「……どうしてですか」
 傘を叩く雨音がうるさい。僕は一段、声量を上げた。
「フウリに好きだって言うためだ」
「っ……」
 フウリの肩がかすかに跳ねる。でも、まだ顔は上げてくれない。
 勝負はこれからだ。
「ところでさ、家を出ていったときのこと覚えてる? フウリ言ったろ、僕は何も知らないんだから、他人事に関わろうとするなって。
 事情を聞いても教えてくれないくせに理不尽だって腹が立ったけど、一理ある。端から話を信じるつもりもないやつに、興味本位で干渉されたくないよな。
 でも、僕はフウリのことが好きだからさ。本気で考えることにした。
 フウリが異世界人だっていうこと、フウリを取り巻く状況、フウリを苦しめている敵。考えた結果、信じることにした。
 だって、信じれば辻褄が合うから。一緒に過ごしたなかで、散りばめられてた断片が繋がる。
 フウリの性格はそれなりにわかってるつもりだよ。素直じゃないから、人に弱みを見せたくない。でも、痛みを独りで抱えきれるほど強くもない。だから、遠回しにサインを送ってくれてたんだろ。時間がかかったけど、ようやくだいたいの全体像がつかめた。フウリがどうして泣いていたのか、わかった気がするんだ」
 一旦、言葉を切る。
 ここから先は、憶測の渦に飛び込むようなものだ。弱気を押し殺して進むしかない。
「フウリ、君は、野良猫じゃなくてマウスだったんだろ。そして同時に、毒餌でもあった」
「…………」
「はじめ、どうしてフウリの主張を疑わしく思ったかっていえば、証拠がなかったからだ。出会ったときに、そこの東屋で正体を打ち明けてくれただろ。僕は、異世界からやってきた救世主なら、わかりやすい奇跡や超常現象を起こせるだろうと思った。だから証拠を見せろと迫ったけれど、フウリはできないと言って断った。それが嘘だと決めつけた理由。
 同居するようになってさらに確信したよ。フウリは無力だ。街に歩いてる普通の女の子と変わらないくらい。
 だったら、やっぱりただの人間で、嘘をついてるだけなのか。
 ……違う。それは、フウリの言行をなにもかも無視した暴論だ。他にもっと、筋の通った説明のつけ方がある。
 つまり、フウリは無力な異世界人なんだってこと。
 まず前提として、僕が勝手に抱いていた救世主像は捨てなくちゃいけない。映画に出てくるヒロインと違って、フウリは世界の命運を握る重要人物じゃない。
 出会ったときからして、公園で路頭に迷っていたくらいだ。異世界からの支援はろくになかったんだろう。どうしてか。任務は支援を必要とするほど長期間になる予定じゃなかったか、あるいは最悪失敗しても構わないと上層に思われていた。
 いつだったか、フウリの口からも聞いた。任務に当たっている仲間は他にもいる。創造主に選ばれてない凡庸な下っ端では、持ち込んだ武器――エルミアーも使いこなせない。
 あと、もう一つ聞いたことがあった。『たった一匹ィユニュルを殺せばいいだけ』。そう、課せられたノルマは一匹だけだって。
 でも、これについて考えると不思議なことがある。持ち込んだ武器は敵に通じないのに、一匹とはいえどうやってノルマを果たすのか。“選ばれた者”じゃないフウリに、戦う術はないはずじゃないのか。
 もし仮に、真っ向勝負以外の搦め手があるとしてもおかしい。一方的に敵を倒せる手段が存在するなら、討伐ノルマを一匹に限定する必要はないはずだ。上層の立場になってみればいい。駒の能力にムラがあるならなおさら、敵を倒せる個体にはたくさん働いてもらったほうがいいに決まってる。
 じゃあ、フウリのように派遣されてきた個体の役割はなんなのか。
 任務地に送られて、支援もなく放置されるのは、帰りの燃料を積まない戦闘機みたいなものだ。しかも、倒せる敵は一匹だけの一人一殺戦法。少し想像力を使えば選択肢は絞られる。
 あのときは半分寝ながら聞いてたけど、頑張って思い出したよ。フウリが最初に話した内容。ィユニュルは、ネアリオを喰うことで内在するネアリアルを糧にする性質を持つ。しかも、ネアリオという種は数が多いんだってね。下っ端が少々減っても大事とはみなされない。
 これらの情報を組み合わせれば、結論が導き出せる。
 任務に派遣されてきた個体は――フウリは、ィユニュルにとっての毒餌だ。
 戦争中に命が軽んじられるのは、どこでも同じなんだろうね。こっちの世界でも、決死の作戦っていうのはあったらしい。
 ネアリオについての知識が足りないから、詳しい仕組みまでは知りようがない。けど、作戦の概要は単純だ。フウリは故郷で、ィユニュルに喰われたときに発動する毒を仕込まれる。あとは任務地に来て、ィユニュルがいる近くで突っ立っていればいい。戦闘能力なんて必要ない。喰われれば仕事は終わりなんだから。
 フウリが任務に積極的でなかった理由も、泣いていた理由も単純だ。ただ、死にたくなかったから。責められる謂れなんかない、当たり前の感情だよ」
 雨脚が強まっている。
 忘れていた寒さが、急激に押し寄せるのを感じた。体の芯から震えがこみ上げてくる。
 空を仰いで思う。世界はどうしてこんなにも残酷なのか。寒夜に輝いて見える少女も僕と変わらない。いや、僕よりもずっと見放された存在だったのだ。
 一方通行の攻勢はいったん区切りだ。辛抱強く返答を待っていると、フウリがおもむろに口を開いた。
「陸人さんの推理には欠点があります」
「どこ?」
「長々と話してくれましたけど、すべては想像じゃないですか。わたしの訴えと同じで証拠がありません。見聞きした情報を都合よく繋ぎ合わせているだけです。たとえば、わたしがあなたを欺くために、誘導を仕掛けたとは考えないんですか」
「一体なんのために、フウリがそんな労力を払わなくちゃいけないんだよ。動機がない。
 だいたい、最初から間違っていたのは僕なんだ。好きな子の話をそのまま信じるだけでよかった。立派な証拠なんているもんか」
 それに、もしも嘘をつかれていたとしても構わない。いずれにせよ、地獄の底まで付き合うつもりなのだから。
 僕の説得が通じたのか、あるいは頑固さに呆れたのか、
「フウリナ・メイクゥルネア・エピネア――」
 フウリの声色が切り替わった。
「フウリナ・メイクゥルネア・エリス、フウリナ・メイクゥルネア・メロウ、フウリナ・メイクゥルネア・メロウズ、フウリナ・メイクゥルネア・アリアル、フウリナ・メイクゥルネア・リーリア、フウリナ・メイゥルネア・レヴィアン」
 重々しく呟くたびに、足元の雑草を引き抜いていく。色白の手が土に汚れても、気に留める様子もない。狂気に憑りつかれた行為は自傷を連想させた。
「わたしたちの名前は通し番号を含んだ型番のようなものですから、同じエリアには似たような名前の個体が集まります。いま挙げたのは、わたしよりも先に死んでいった仲間です。彼女たちはわたしのせいで寿命を縮めました。意味がわかりますか」
 言って、スカートから手のひら大の機械を取り出す。以前、洗濯の際に見つけたものだ。
「それ……」
「普段はずっと持ち歩いているものです。形は覚えていますよね。でも、機能までは知らないでしょう。
 これは、任務に派遣された個体に配られ、上層から指示を受けるために使います。とはいっても言語でのやり取りはできません。一方的に、簡単な図形――発見されたィユニュルの位置情報を含んだ地図を想起させるんです。
 組織は放任なやり方で、上司から逐一指示を受けたりはしません。複数の個体へ向けて一斉に地図が配られ、なかでも都合のつく者が、自主的に喰われにいくんです。犠牲になるべき個体が誰か、厳密な決まりはありません。ですから、指定のポイントに一番近い個体が動かなければ、トラブルがあったと判断して他の個体が穴埋めをします。上層に連絡を取れない代わりに、通し番号の似通った個体同士は簡単な信号を送り合えますから。
 わたしはかつて、地図上のィユニュルに対して一番近い位置にいたことがありました。でも、動けなかった。自分が行くべきだとわかっていたのに、ずっと震えているだけだったんです。そして、トラブルだと判断した別の個体――フウリナ・メイクゥルネア・エピネアが代わりに喰われて、仕事を果たしました。
 彼女とは、施設にいたときに一度だけ会話をしたことがありました。内容はなんてことでもありません。日常生活の愚痴とか、好きな献立とか、それくらい。なのに、彼女から届く信号が途絶えたとき、とてつもない後悔と喪失感がありました。だから決めたんです。次の機会は仲間のために、急いで身代わりになろうと。
 ……いいえ、これも嘘ですね。わたしはずっと、同胞のために尽くすつもりなんてなかった。陸人さんが指摘したように、エルミアーは下っ端が持っていても用途がありません。あれは支給品ではなく、任務に行く直前に盗み出したものです。万分の一、なにかの間違いでィユニュルから身を守れたりしないかと思って。実際には、恐怖を和らげるお守りにすらなりませんでしたが。
 現世界においては、派遣された全員が全員、迅速に動けたわけではありません。理由もわからずロストしたりは珍しくありませんし、わたしのように働く気を失ったらしい個体もいます。だからといって、上層は任務を放棄した者を処分したりはしません。主戦場に比べて優先順位が低く、いちいち処分するのも手間ですから。精々、ィユニュルの発見に応じて予備員を送り込むくらいです。
 自分が臆病者だと知ってから、わたしは言い訳を思いつくようになりました。他にも働いていない個体はいる、罰がないのなら許されているも同然、誰にも気に留められていないのにイイ子ぶる必要はない。そうしているあいだにも、いくつも信号が消えていったのに。
 わたしを含めた下っ端のネアリオは、一通りの思想教育を受けています。死んでいった個体は教育通りに従順で、勇敢だったんです。
 教育だけでなく、言われるまま手術や実験も受けました。腹を裂かれて、薬を打たれて。死んだら楽になると考えたことは一度や二度じゃありません。痛いのも苦しいのも、慣れているはずでした。わたしは、死を受け入れられるはずだったんです。
 なのに、怖かった。喰われることがじゃない。自分の生に意味がないと思えてしまったから。なんの意味も得られないまま死ぬのが、怖くて、怖くて、堪らなかった。
 きっと、わたしたちが仕事を果たさなくても、戦争の大勢には影響しません。主戦場が落ち着いたあとに、優秀な兵が駆けつけて残党狩りをしてくれるでしょう。でも、それではィユニュルに隙を与えるかもしれない。なるべく早くに数を減らしておいたほうが楽だ。そういう理由で仕事が回されているんです。『かもしれない』、『なるべく』、そういう理由で、わたしたちは死ぬんです。
 任務に赴く意義について教育を受けたとき、実情についてはおそらく正確に教えられました。わたしたちは勝利にとって重要なピースじゃない。そのうえで、故郷のために死んでほしいと頼まれたんです。教育を施す側からすれば、せめて嘘をつかないという良心的な配慮だったのかもしれません。でも、すぐに死ぬ相手に対する配慮ではないと思いませんか。わたしはせめて、騙してほしかった。戦争の勝利には犠牲が不可欠で、死ぬことで英雄になれるんだと言ってほしかった。うまく騙してさえくれれば、わたしは最低の裏切り者にならずに済んだのに!」
 フウリは手袋越しの手首に爪を立てる。
「仲間が死んで信号が途絶えるたび、背負う穢れが増えていく気がしました。耐えがたいと思うのに、自分から死を選ぶこともできない。どうしようもなくなって、手首に傷をつけてみると、少し落ち着きました。罰にもならない罰を受けた気になれたんでしょう。最初は一回だけにするつもりだったのに、いつの間にかやめられなくなって。それでも、救われた気になるのは一時だけです、時間が経つと、そんな誤魔化しをしている自分がもっと嫌いになっていく。繰り返しでした」
 悔恨とともに吐き出された息が、最後に白く浮かんで絶えた。
 僕はこれまで、フウリに対して幽霊に接するような気持ちでいたのかもしれない。人の形をした幻影。不確かだからこそ畏れて、触れれば消えてしまうと思い込んだ。
 でも、ためらう時間はとっくに終わっている。
「ステイハムが、まだ凍ったままなんだ。帰って、埋めてやってほしい」
「嫌です。もう、死体を見ていられないんです」
「フウリは、ステイハムを自分と重ねてたんだろ。どうにもならない格子に囲われて、選択は狭い個室の中にしかない。ステイハムを可愛がることで、自分自身を慰めてた」
「言わないでください。ひどい押し付けだってわかっているんです。陸人さんにエゴだって批判をしておきながら、私はもっと愚かでした」
「愚かでもいいさ。お互い、傷を隠すのはやめにしよう。取り繕ったぬるい関係は飽き飽きだ。フウリの痛みは全部確かめたい。安い同情をしてるんじゃない。僕も、一緒に背負うから。絶対に、最後の最後まで付き合う。だから」
「最後まで付き合っても、良い結果にはなりませんよ。わたしは陸人さんの幸せを願うことなんてできません。自分が不幸だから、幸せな人は妬ましいんです。あなたは、一緒に不幸になってくれるんですか? 一緒に死んでくれるんですか?」
 フウリが顔を上げた。
 翠の瞳が僕を捉えている。一挙一動を見逃すまいと、必死で目を凝らしている。試されているのだ。今度こそ、ヘマはしない。
 僕は傘を捨てた。その場にしゃがみこんで、フウリと視線を合わせる。
「できれば、幸せを掴みたいところだけどね。でも、フウリが死ねと言うんだったら、死んだっていい」
 微笑んで、右手をフウリの頭に置いた。
 すると、強張っていた表情が口角から歪んでいく。恐れていた真実はあっけない。僕の目の前にいるのはやはり、ひとりのか弱い女の子だった。
 フウリは僕の首に腕を回し、すがりついてくる。そして、調律が狂ったような叫びで訴える。
「助けてほしかったんです! 恐ろしかったんです、苦しかったんです、寂しかったんです! 陸人さんがいないあいだも、ずっと!」
「わかってる。ごめん」
「……許しません」
「好きだ、フウリ」
「…………はい」
 耳元で嗚咽の混じった泣き声が聞こえる。雨に混じって、温かい液体が肌に触れるのを感じた。僕はもう、その涙の理由を知っている。

       

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Neetsha