Neetel Inside ニートノベル
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(五)

 まどろみで漂う意識が、事新しい朝を訴えた。布団がいつもより温かい。
 ああ、そういえば昨日はフウリと一緒に寝たのだと、瞼を開けた視界にしかし、フウリはいなかった。
「あれ、フウリ……?」
 上半身を起こして部屋を見回しても姿がない。
 昨晩の温もりに慣れてしまったからか、朝の肌寒さがつらかった。氷のようなフローリングに裸足をつけ、居間を探そうと部屋を出る。
 その前に、見つけた。
 机の上に、大学ノートが開かれている。横には並べて、群青色のナイフ――エルミアー。几帳面なほど整えられた配置が、胸騒ぎを呼び起こす。
 大学ノートには文章が記されていた。喋りは流暢でも筆記は苦手なのか、カタカナばかり角ばった字で構成されている。

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(*読みやすさのために変換して掲載する)
陸人さんへ
 いままでお世話になりました。長いあいだ家に泊めてくれたこと、ご飯を食べさせてくれたこと、服を着せてくれたこと。それとなにより、わたしを好きだと言ってくれたことに感謝しています。陸人さんが温もりをくれたから、わたしは初めて生まれてきたことに価値があると思えました。
 わたしはとてもわがままです。自分の故郷の平和のために、死にたくありません。けれど、わたしが陸人さんの世界を少しでも平和にできるのなら、喜んで命を差し出すことができます。もう苦しい思いをせずに済みます。
 直接別れを言えなくてごめんなさい。引き留められたらきっと、また甘えてしまうので。
 言葉だけでなく残せるものを探したのですが、持っているものがそれくらいしかありませんでした。よければ受け取ってください。わたしにはもう必要ないものです。

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 文章を読み終える。二度、三度と紙面を往復しても、しばらくは事態を受け入れられなかった。
 僕を心配させるために、質の悪い冗談を仕掛けたのではないか。本当はコンビニにでも行っていて、弁当の入ったビニール袋を提げて帰ってきたときに、顔の青い僕を見てほくそ笑む算段ではないか。そんな考えが浮かぶ。
 しかしすぐに、フウリが買い物くらいで外出するわけがないと気づく。あれほど人との接触を嫌っていたのに。
 僕は階段を駆け下り、裸足のまま玄関に踏み入れる。扉を開けて首を巡らせても、銀髪の少女は見当たらなかった。
「いない……。くそ、またかよっ」
 そのまま道路に走り出しかけて、ぐっと堪える。
 状況は概ね把握できた。フウリを生かすことを目的とするなら、がむしゃらに探すのは得策ではない。
 たったいま下りてきた階段を駆け上がり、自室に入る。ゴミ箱を漁って、昨晩捨てた地図を探し当てた。
「ああ、あった。よかった」
 つまり、フウリの方では新しい地図を用意したか、記憶に頼って目的地に向かったのだろう。結果的に、地図が手元に残ったのは好都合だった。それに、もう一つ。
 僕は地図の他に、エルミアーをウエストポーチに押し込んだ。
 準備完了だ。
「喜んで命を差し出せるなんて嘘だろ」
 寝巻の上にジャケットを羽織り、今度こそ家を出る。
 タクシーを使うことも考えたが、自転車を飛ばすのが速いと結論づける。
 アスファルトはまだ濡れているが、雨はあがっていた。数時間前の暗雲がなかったかのように晴れあがる空の下、ペダルを回す。連日の酷使にチェーンが抗議を上げていても無視だ。
「僕は知ってるぞ、フウリの望みは言葉と裏腹だ。地図とエルミアーが家に残ってたのは偶然じゃない。ははは、なるほど、おあつらえ向きのシチュエーションじゃないか。分の悪い賭けだけど、それでこそ、約束が本気だってことを証明するチャンスだ!」
 太ももに力を込めながら、荒い息にのせて喋る。うっとうしいくらい清々しい青空に、挑戦状を叩きつけるみたいに。危機的な状況だというのに、僕は高揚していた。
「おっと」
 大通りを進んでいく途中、急ブレーキをかける。地図に書かれた道筋を逸れて、路地裏に入った。目的地への近道だ。家に引きこもってばかりいるフウリでは知らないだろう。
 フウリに追いついて、無理やり連れ戻すだけなら簡単だ。けれど、逃げ続けるだけでは希望がない。戦わなければ。怯えて縮こまっているだけの人生に、一体どれほどの価値があるというのか。
 頭の中には、あの日聴いたロックミュージックが繰り返し流れている。
 路地裏を抜けると、通行人は猛スピードの自転車に怪訝な視線を向けてくる。それも、しばらく進んでいくと少なくなっていった。通り過ぎる建物もまばらになる。
 人群れから離れて寂れた一帯に、目立って大きな廃倉庫があった。外壁も屋根も波型スレートの古めかしい装いで、敷地の雑草に囲まれて建っている。持ち主も知れず、おそらく解体する手間と費用すら惜しく打ち捨てられたのだろう。
 人を喰う化物が潜むには、ぴったりの秘密基地だ。
 僕は自転車を横倒しにしたまま建物に走った。大口を開けた扉から中に入ると、古い油の匂いが漂っている内部に目を凝らす。そして、ガラクタと鉄骨に隠れた奥隅に、蠢く影を見つけた。
 フウリではない。背後から、それは紺のパーカーに身を包んでフードを被っているとわかった。
 注意して進んだつもりだったが、僕の足音は倉庫内に反響した。パーカーの後姿がゆっくりと振り返る。
「あぁ……?」
 不審の声を上げたそれと、目が合う。
「誰だ、てめぇ」
「っ……!?」
 現世界の動物で何に一番近いかと尋ねられれば、ヒトのオスと答えるだろう。背丈は僕より少し高い程度で四肢がある。
 しかし、明らかにヒトとは異なる部分があった。
 まず、肌の色が常軌を逸している。白色、黒色、黄色のどれとも違う。露出した両手と顔面は毒々しい紫色をしていた。
 もうひとつの特徴は額の上部にあった。威嚇するように外したフードの奥から露わになる二つの突起。中央部を斜めに走る傷跡を挟んで左右対称に、皮膚が盛り上がった部分がある。頭角だ。ヒトには絶対にあるはずのない部位。
 やはり、存在していたのだ。
「ィユニュル……」
「あぁ? お前、どうしてこんなところに入ってきやがった」
 次に僕は、それが日本語を喋っていることに驚いた。
 そういえばフウリが言っていた。ィユニュルにもネアリオと同じく高い知能があり、言語を操ることができる。こんな化物でも、素顔を隠しながら社会に取り入っているのだろうか。
 ともかくとして、言葉が通じるのは都合がいい。僕は尋ねた。
「僕より先に、銀色の髪をしたネアリオの女の子が来なかったか?」
「銀色の髪の……女? 知らねぇ。さっきから何言ってるんだ。おい、それよりまず俺の質問に答えろ」
「よかった。まだ来てないんなら、第一の関門は突破だ。本題に挑もう」
 強がった台詞を言ってみるが、ウエストポーチに入れた手が震えているのがわかった。
 できるのだろうか。銃を使った狩猟すらしたことがないのに、言葉と感情を持った対象を刺し殺すなんてことが。
 いいや、それよりも。一番の問題は、僕に、もっと根本的な資質が備わっているのかということだ。
 フウリは言っていた。ィユニュルが現世界を避難先に選んだのは、食糧であるネアリアルを嗅ぎつけたからだ。ネアリオと酷似しているヒトにもネアリアルが秘められている。
 また、持ち込んだエルミアーは、使用者のネアリアルを吸って効果を得る。特別に才能豊かな個体に限って、ィユニュルに太刀打ちできるだろう。
 要するに、僕が特別な人間ならば目の前のこいつを刺せる。そうでなければ僕が死ぬ。
 いつかキボンでした会話を思い出す。
 『才能っていうのは偉大なゴッドが俺たちの魂の奥底に隠したお宝なんだよ。魂を燃やし尽くすくらい本気でやらなくちゃ見つかるわけないだろうが』
「わかってますよSHOYAさん、今回ばかりは本気です。本気で戦う。僕はきっと、神様くらいには愛されてるはずだ」
「おいイカれ野郎、さっきから一人でぶつぶつ喋ってんじゃねぇ」
 ィユニュルが肩を怒らせて歩いてくる。
 大丈夫だ。音楽はまだ聞こえている。
 僕はエルミアーを抜いた。
「殺す」
「っ……な、ん……てめぇ……」
「お前を殺す。必要ならお前以外も全部。フウリの仕事がなくなるまで」
 窓から射し込む陽が刃を光らせると、ィユニュルが一歩あとじさった。
 この武器は、想像していたよりもィユニュルにとって脅威なのかもしれない。
 僕に強大なネアリアルが秘められていたとしても、戦闘経験が皆無であることには変わりない。対等に戦えば圧倒されるのは知れている。万が一にも勝ち目があるとすれば、相手が体勢を整える前に殺すこと。先手必勝だ。
「はあっ!」
 僕は大きく踏み込んで、右手を振るった。
 最善の動作とは言いがたい。予備動作によって遠回りしたエルミアーが横に薙ぐ。
 首元へ向けたにもかかわらず狙いは下に外れ、それも手でガードされた。しかし、予想に反して刃はあっさりと相手の皮膚を裂いた。
「ぐあぁ……っ」
 手の甲辺りから鮮血が噴き出す。ィユニュルは痛みに悶絶してよろめいた。
 状況を判断する余裕などなかった。僕は返り血を浴びながらもう一歩踏み込み、グリップを握る。
「うわああぁぁああぁあっ」
 叫びで自分を奮い立たせ、全身に力をこめる。
 斬撃は防がれた。ならば。一瞬の判断が捻りの向きを変えた。肩口から真っすぐに切先を放ち、喉をめがける。相手は完全に体の制御を失っている。
 コマ送りになった時のなかで、ィユニュルと目が合う。
 切先が近づく。
 深々と、刃を潜らせる感触が伝わってくる。
 その瞬間、意識が薄く、遠く、引き伸ばされていった。
 気がつけば僕は、攻撃を終えた体勢で停止していた。手のひらには何も握られていない。エルミアーは、仰向けで倒れるィユニュルの喉に突き立っている。
「か、勝った……?」
 刺し傷から流れた血が地面に広がって、赤い海をつくっている。
「やったんだよな……」
 僕らを脅かす敵は死の底へと沈んだのだ。見開かれた瞳は虚空を見たまま瞬きしない。念のため呼吸を調べてみても、生命活動が停止していることは明らかだった。ィユニュルは死んでいる。僕が殺した。
「やった、やった、やったぞ、賭けに勝った! 僕は選ばれたんだ!」
 もちろん、人類の救世主などにではない。僕の使命はただ一つ、好きな女の子を守り抜くこと。
「フウリ、僕は君を守れる! これからは、何体敵が現れたって、この武器で!」
 快哉を叫びながら死体に歩み寄り、エルミアーを引き抜く。血に濡れたグリップを強く握れば握るほど頼もしく思えた。
 高い天井を見上げて、建物の中心に立つ。さび付いた箱はいま、新しい門出を祝う静謐な伽藍だった。中空に漂う塵が、窓枠に切り取られた陽に輝いている。
 最高のシーンのために、必要なピースはあとひとつ。僕は、共に歩むべき伴侶を待った。開かれた扉の向こうから、フウリが駆け寄ってくるのを夢想する。
 ――しかし、いくら待っても彼女が現れることはなかった。

       

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