Neetel Inside ニートノベル
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(六)

 駅前は夜の空気に様変わりしていた。
 電飾看板の煌々とした光に照らされて、スーツ姿のサラリーマンが闊歩してる。
 僕は衆目から逃れるように足を早めた。
 冬の鋭い寒さが衣服を貫いて、内臓まで凍らせるみたいだ。白い息を吐くたびに、酔いが急速に引いていく。
 脳裏にはフェラチオの映像がへばりついていた。淫猥に口をすぼめた少女は上目遣いにこちらを見ている。それは紛れもなく、僕を誑かして支配した、汚らわしい女の性そのものだ。
 僕は彼女に騙されたのだ。
 以前とは正反対の前提から推理が出発する。断片的な傍証を伴ってもたらされた結論は猛毒だった。全身を隅々まで巡り、神経を爛れさせる猛毒。
 スマホでメッセージ画面を開き、教えられたアドレスを宛先に設定する。歩きながら文面を作成し、消去し、何度も同じ作業を繰り返した。
 送信が叶わないまま顔を上げると、歩道わきに交番が建っていた。ガラス扉を隔てて一瞬、警官と向き合う格好になる。
「…………っ」
 視線がかち合う寸前、すぐに道を折れて建物を離れる。心臓が痛いくらいに鳴っていた。
 走って逃げ出したくなるのを必死に押しとどめる。後ろを振り返って確かめる勇気はなかった。
 怪しまれなかっただろうか。
 動揺はしたが、明らかに不審な行動はとっていないはずだ。まだ補導されるような時間帯ではないし、僕よりも怪しい人相をしている大人はいくらでもいる。大丈夫だ。
 言い聞かせつつも、安全などどこにも保障されていないことを思う。
 三日前に上村正史の死体が見つかったのなら、捜査がまったく進んでいないことはないだろう。幸い凶器は残さなかったが、鑑識によって痕跡が洗われれば特定は可能なのかもしれない。
 もしも警察が目星を付けているなら、末端署員にも顔が割れているのでは?
 僕の懐には、被害者を殺した刃物がしまわれている。職務質問のついでに探られれば終わりだ。
 日本の警察は優秀と聞く。人を殺しておいて、最後まで逃げおおせられるとは思えない。
 恐怖に震え上がる。奥歯からカチカチと鳴る音を抑えられない。
 社会から罰せられるべき罪を負うなんて、少し前まで思いもしなかった。
 ただ、逃げ出したかったのだ。退屈なくせに落ち着かなくて、煩わしいばかりの猥雑な日常から。子供じみた願いに対する報いにしては重すぎる。
 警官は追ってこなかった。僕は知らず早歩きになっていた足を止め、街外れの十字路に立ち尽くす。
 隣接する公園は寂れており、点滅する街灯に羽虫が集っている。
 その奥、公園の茂みの隙間から気配を感じた。目を凝らすと、ロウソクに火を灯したみたいに二つの点が現れる。
 あれは、瞳だ。
 そのことを認識すると、周囲の闇に隠れていた瞼が一斉に開いた。
「う、うわあぁ……ああああぁぁ……」
 無数の瞳が僕を監視している。睨む目つきで咎めるように。
 人殺し。人殺し。人殺し。
「違うんだ、僕は悪くない! 僕は騙されて……そうだ、あの女が全部悪いんだ! そんな目で僕を見るな! うぅ……ぐうぅぅぅぅ……ぅぅ……」
 半狂乱になって顔を覆う。
 わかっている。これは現実ではない。罪に苛まれる意識がつくり出した幻だ。
 訴える理性とは裏腹に、瞳はさらに数を増やしていく。
 耐えきれず、僕は走り出した。
 逃げるのだ。誰にも見られない、人間社会から打ち捨てられた場所に。そして、あの女が元凶であると突き付ける。神に無実を証明するのだ。
 気がつくと、メールの送信が終えられていた。

       

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