Neetel Inside ニートノベル
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(七)

 ヤングビップ橋の下には、じめじめとした空気が充満している。放置されたゴミに生モノでも混じっているのか、肉が腐ったような悪臭が鼻をつく。川から立ち昇る湿気がそれをさらに際立たせていた。
 すぐに来てくれと書いたのに、かれこれ一時間は経つ。僕は待ちくたびれていた。
 人群れを避けてこんな場所に逃げ込んだけれど、心の安寧は取り戻せていない。コンクリートに遮られた空、星明りの残滓、積み上げられたゴミ袋。それらに紛れて、まるで最初からあったように、ギョロついた目が並んでいる。
 正気と狂気の境目は溶け合っていくばかりだ。彼女が来なければ流出は止まらないだろう。
「早く来い……早く……」
 恐慌に押されて叫べば、タガが外れてしまう。震える歯を食いしばりながら呟いた。
 静寂のなか。微かに、反響が聞こえた。やがて連続した音が耳に届き、誰かが歩いているのだとわかる。
 外界から訪れた人物は、着実に近づいてきている。
 僕は乱れたローブを整えて客を待った。目を凝らすと人影が姿を現す。
 白い肌、翠の瞳、学校の制服。
 僕にとってはアンバランスな取り合わせだが、彼女にとっての真実はこちらなのだろう。
 ひとまず、歓迎の意を示す。
「ようこそ。待ちわびたよ」
「…………」
 少女は立ち話にはやや遠い距離で立ち止まり、眉間を寄せた。
「やっぱり陸人さん、ですよね。その恰好は……?」
「ああ、これ?」
 僕は付けていた仮面を外した。
「演劇の衣装かな。ゴミに混じって捨ててあったからさ。ちょうどよかったから貰ったんだ。ボロボロだけどね」
「……どうして?」
「君を驚かせたくて。死んだ上村正史が地獄から蘇ったと思っただろう?」
 仮面を足元に放り捨てる。コンクリートに打ち付けられた端の部分が、音を立てて欠けた。
「メッセージ、見てくれたんだよね」
「はい。知らない送信元からで、びっくりして。本文に『上村正史より』とありましたけど」
「ごめん、ごめん。正直に名乗ったら来てくれないと思ったんだ。死んだ恋人からだったら、何事かと確認したくなるだろ。なんたって、ただ死んだだけじゃなく、君が殺した相手なんだ。幽霊からの怨念がこもったメッセージ、ゾっとした?」
「…………」
「あれ、否定しないの。上村正史を殺したのは君だ」
「……わたしは、彼を殺していません」
「そうこなくちゃ。犯行を否定する君を説き伏せるために、僕は来たんだから。ああ、逃げ出すのはやめてよ。推理は最後まで聞いてから帰ってくれ。一度はちゃんと聞いてくれたんだ、今回もいいだろ。
 そうだ、ところでなんだけど、僕は君のことをなんて呼べばいいんだ。本名はリンドブラード有栖だっけ? 有栖の方が名前か」
「どう呼んでもらっても構いません」
「ああ、そう。じゃあ、有栖って呼ばせてもらう。あと、できればその他人行儀もやめてほしいんだけど。僕らって同学年らしいじゃん。女の子にさん付けで呼ばせて興奮する趣味もないし。いや、あったのかな。実際、結果が出ちゃったんだから。まあ、別にそれはいいや」
 僕は自分自身の長広舌に酔いしれながらも、意外な気持ちだった。
 本心では、有栖が馬鹿正直に現れるとは予想していなかったのだ。もし現れたとしても、僕を見るなり引き返すだろうと思っていた。
 彼女は、どういった心境で佇んでいるのだろう。僕は嫌われているのだろうか。いまさらになって、そんな女々しい考えが頭をもたげる。
 唐突に、気弱になってしまった。
 子どものように泣きながら、駄々をこねて懇願したい。都合のいい嘘に溺れさせてほしい。僕の推理はすべて勘違いで、これからもフウリとして一緒にいると言ってくれれば、この身を尽くすことができるのに。
 僕が黙ってしまったので、有栖は警戒している素振りを見せた。布団のなかで抱き合った女の子はもういない。ふたりの間には、話をするにも不便な距離が横たわっている。この距離こそが真実なのだ。
 後戻りはできない。決死の覚悟で一声を放った。
「要するに有栖は、上村正史を殺したかったんだ。しかも自分の手を汚さず、潔白を確保したうえで。そのために、僕を利用した」
 有栖は表情を変えずに聞いている。
 僕は続けた。
「前に言ったよね。君を無力な異世界人と仮定すれば、物事の辻褄が合うって。僕は、君を信じるという結論ありきで推理を展開したんだ。でも、この論には欠点があることも承知だった。つまり、君をただの人間と仮定しても、辻褄が合わないわけじゃないってことだ。
 真っ当な分別を持っていれば、選ぶ前提は決まってる。異世界なんていう荒唐無稽なものは存在しない。変な格好をしてたって、女の子はただの人間だ。行動の動機はつまらない愛憎関係。……反吐が出るね。
 十月下旬の夜、僕らが出会ったのは偶然じゃない。僕が散歩を日課にしていて、緑地公園に訪れることを知ったうえで、有栖は仮装して待ち伏せをしていた。そして、誘いにまんまと乗せられた僕の自宅に上がり込んだ。これが、計画の第一段階。違う?」
 反論の機会を与えてみるが、有栖はうんともすんとも言わない。苛立たしかったので、少し意地悪をしてやる。
「ところで、インターネットの動画サイトに有栖のハメ撮りが流出してたよ」
 すると、有栖はわずかに顔をしかめた。
「フェラが上手そうで感心したよ。あれって上村正史に仕込まれたの? それとも、結構、男性経験豊富だったりして。思い返すと、他の男のアレを咥えた口でキスされたのって複雑だな。はは、考えすぎか」
「……やめてください」
「残念だったね。あの動画が出回る前に殺したかったんだろ。たぶん、上村正史も身の危険を感じてたんじゃない。先手を打たれて、相打ちにされたわけだ」
 不快な気分にさせられたみたいなので、少し満足した。
「そうだな、話が出たし、せっかくだから動機を先に処理しよう。まず最初、有栖と上村正史は交際してた。でも、うまくはいってなかったんだろう。円満なカップルからああいう動画が流出するとは思えないから。たまには、ふたりともの趣味が合って合意で……っていうケースもあるんだろうけど、有栖は個人利用のための撮影でも渋ってたみたいだし。
 リベンジポルノっていうんだっけ。こういうのは大概パターンが決まってるらしい。円満なときに撮影したものが、破局するときになって脅しの道具になるんだ。
 あくまで想像だよ。交際中に仲が悪くなって有栖は別れたくなったけど、上村正史のほうは嫌がったんだろ。で、『別れるなら動画をばら撒くぞ』と言ってきた。こうなれば八方塞がりだ。名誉を守るためには別れられないし、脅し道具を手に入れた男は強権的にエスカレートしていく。
 有栖は相当、追い詰められたんだろう。リストカットを始めたのがその頃なのかはわからないけど。とにかく、交際相手を殺さなければどうにもならないと思った。でも、人を殺してその罪を背負う覚悟はなかった。唯一の方法は完全犯罪を成し遂げることだけど、これも簡単じゃない。
 学校ではふたりの恋愛関係が広まってる。上村正史の他殺体が発見されれば、警察が痴情のもつれを疑わないわけがない。被害者との関係が明確な以上、容疑を免れるためには、他により明確な犯人がいることが必要だ。
 そこで目を付けたのが僕ってわけだ。どうして僕だったのかは正直わからない。というより、意図して無作為に選んだのか。なるべく無関係の人物のほうが都合がよかったはずだから。男に酷い目に遭わされておいて、他の男を利用しようっていうのも見上げた根性だと思うけどね」
 話しているうちに、沸々と怒りがこみあげてくる。人は己を擁護するためならば、いくらでも卑怯になれるのだ。僕は幼少期からさんざん学んできたはずだったのに。裏切られてきた経験すら無駄にしてしまった。
 頭に血が上っている。深呼吸して、気持ちを落ち着けた。
「話を戻そう。僕に上村正史を殺してもらうことを思いついても、素直なやり方は通じない。当たり前だけど、対象の人間を殺させるために、さらに別の人間を唆すのも犯罪だ。最悪、自ら実行するのと変わらない刑の重さになったりもするはず。
 でも、限りなく犯罪の立証までを難しくすることはできる。第三者を唆したという証拠を残さなければいいんだ。
 僕の家に上がり込んだ有栖は、計画のうちの準備段階に入った。やろうとしたことは主に二つ。僕にフィクションを信じ込ませることと、フウリという架空のキャラクターに好意を抱かせること。
 前者はしばらくうまくいかなかったね。設定だとか世界観だとか事前に詰めてはきてたんだろうけど、僕を騙せなかった。もっとも、口頭での説明を並べたてるだけで信じてもらえるとは、有栖自身も思ってなかっただろうけど。
 一方で、後者はすんなりと成功した。手段に色仕掛けを選んだのは正解だったみたいだ。僕にはそういう耐性がまったくなかったから、いきなりキスされたり、正直、女の子と一緒に暮らすってだけで舞い上がってた。僕はさぞチョロかったんだろ。適当に好意がありそうな素振りをするだけで甘い態度になっていくんだから、面白くてたまらなかったはずだ。
 そして、フウリに惚れさせてしまえば、前者もおっつけどうにかなるって寸法さ。
 有栖は同棲生活のなかで、色々なヒントをばら撒いてた。
 異世界人のフウリは不憫な境遇に置かれていて、ケージに飼われたハムスターに共感している。異形の敵を殺すことが使命だけれど、正攻法では叶わない。だから、彼女の命を救うためには、代わりに僕がやるしかない。もちろん、これらは空想に基づいたフィクションなんだけど。
 恋は盲目っていうのは偉大な格言だね。僕は撒かれた餌を都合のいいように解釈して、進んで奴隷になってたってわけだ。
 それにしたって、大した仕事だったとは思うな。だって四六時中、アドリブと軌道修正の連続だっただろ? 最終的に上村正史を殺させるゴールに辿り着けばいいとはいえ、相手の反応を窺いながら即興で物語をつくるなんて。脚本と女優と監督を兼任しているようなものだ。
 ああそういえば、ステイハムを殺したのも有栖なの? 物語の演出のために、世話する名目で弱らせてたのか。まさに、天性の悪女だね。恐れ入ったよ。
 ところで計画には、僕を騙す以外にもポイントがあった。つまり、僕ら以外の人間に気づかせないことだ。殺害対象である上村正史はもちろん、無関係の人に知られることすら避けなくちゃいけない。怪しい恰好をした女が加害者と親しくしていたって話が出てこれば、警察に嗅ぎつけられる可能性が高いから。
 一時的に第三者の目を逃れるため、有栖は設定を利用した。人目を忍ぶ任務であると称して僕の口を塞ぎ、できるだけ家に引きこもる。そうして失敗の芽を摘んでおく。ニートみたいな生活を送っていた理由だ。
 とはいえ、まったくトラブルが起こらなかったわけじゃない。僕の母親の愛人に見つかったときは慌てただろう。最悪、計画を白紙に戻すことも考えたはず。だから、僕にあいつとの関係を聞いたんだろ。まぁでも、血縁でないのを確認したうえで、少々のリスクだと飲み込んで強行した。
 ポイントはもう一つある。凶器だ。上村正史を殺したあと、僕が現場に凶器を残してしまう事もわずかだけどありえた。そうなった場合、もしもあのナイフが有栖の私物だったら、入手経路から辿られてしまう危険がある。だから、あれは元々有栖の持ち物ではない。
 殺しを終えた後さ、塗装が剥げてきちゃったよ。ステンレスに色を定着させるのは、きちんと足付けをしても素人じゃ難しい。台所にあった三徳包丁を使ったろ。塗装のスプレーはもちろん、グリップの加工に使ったのも家にあった紙粘土か。思い込みの力ってすごいな。当時は、異世界の未知の素材でつくられてるんだろうなとか思ってたけど、いまはどこから見たって素人手製のガラクタだ」
 隠し持っていたナイフを取り出してみせる。ほんの少し前までは、この一振りが僕をどこまでも連れて行ってくれると信じていた。脆いものだ。張りぼての理想は容易く剥がれ落ちて、馴染みのある鈍色が顔を出した。
 ナイフを手の中で弄びながら、続ける。
「他にも見えない紆余曲折はあったんだろうけど、計画は最終段階まで進んだ。雨の日の一件で僕が陥落したことを確信して、有栖は姿を消した。ご丁寧に、殺人に必要な道具――地図とナイフを用意しておいてね。その一方で有栖として連絡し、適当な理由をつけて上村正史を廃倉庫に呼び出した。僕と彼は一度しか顔を合わせなかったけれど、あの邂逅は、長く仕組まれた必然の交点だった。
 結果、計画は成功した。僕がまんまと殺人を実行して、有栖は雲隠れ。表面上、事件の加害者と被害者は明らかだ。
 もしも警察が、無垢のままだった僕から取り調べをしたら、どう思っただろうな。異世界からやってきた少女を救うためだったんです。世界の平和のためにも必要なことなんです。……はは、精神鑑定の結果、投獄は免れたりして。
 笑えるだろう? 笑えよ。僕のことを愚かだって思ってるんだろう。見事に台本通り踊ってやったんだから、せめて笑い飛ばしてくれるのが情けってものじゃないのか。陳腐なヒロイズムに囚われて、こんな行き止まりまで来てしまった。おい、いつまで能面みたいな顔してるんだ。ひとつくらい、言いたいことはないのか?」
「…………」
「そうか。なら、もう少し話そう。言っておくけど、有栖のほうだって安心するにはまだ早いんだぞ。上村正史の殺害っていう目的は達成できたけど、なにもかも万全ってわけじゃない。
 まず、フウリの顔を見たのは僕以外にもひとりいるだろう。あの男が絶対に黙っているとは限らない。いくら僕のことが邪魔でも、警察の捜査が及べば従順に見たままを話すんじゃないか。
 あと、僕に現実の素性を知られたのも有栖の誤算だ。ビップラ学園で出くわしたのは完全な偶然だから当たり前だけど。警察に捕まれば、僕は一般人としての有栖を挙げることができる。異世界人としてのフウリが妄言だって切り捨てられるとしても、実際に存在するリンドブラード有栖なら話は別だろう。はたして、有栖はつつかれて困る部分がひとつもないんだろうか。僕の家に落ちた毛髪や指紋は残らず処分してあるのか。それとも、実行犯との接触はいっそ認めて、唆したつもりはなかったって主張するか。僕が勝手に勘違いしたんだって。裁判には詳しくないけど、そういう手もあるだろうね。好きにすればいい。
 でも、もしも罪を逃れたって平穏な未来が待ってるわけじゃない。ビップラ学園では、男子の間で例のハメ撮り動画が出回ってる。学校中に広まるのも時間の問題だろう。恋人が死んだっていう状況もセンセーショナルだ。学校だけじゃない、地域中から奇異の目で見られる。きっと息苦しいに違いないよ。いっそ引っ越しでもして、すべてを捨ててやり直してみるか。そうやって世間からも罪からも逃げ続けられるのか。よく考えてみたらいい」
 僕の話を聞き終わっても、有栖は激しい感情を表さなかった。精一杯に挑発してみたにもかかわらず、怒りも、恐怖も、洗い流されたかのように澄んだ表情をしている。動画の件を明かしたときには少なからず苦しそうにしていたのに、僕が話すにつれて平静を取り戻していったような気さえする。
 むしろ、怯えているのは僕のほうだった。
 目の前で佇む少女が、何を考えているのかわからない。そのことがただただ恐ろしかった。
 やがて、薄い唇がおもむろに開かれる。
「陸人さんを初めて見つけたのは緑地公園の展望台でした。フウリとして会ったときよりも五か月くらい前です。陸人さんと同じで、わたしも散歩に来ていたんです。たまたま普段とはコースを変えていて、そこで。
 なんとなく気になって、計画に利用する候補として調べていくうちに、陸人さんはわたしに似ていると思いました。寂しくて、傷ついていて、どこか遠くへ行ってしまいたいと願っている。だから、選んだんです。
 当時、言われた通り、正史くん……上村正史との交際はうまくいっていませんでした。彼はとても嫉妬深くて、わたしが他の男の子と話しているのを見つけると、あとで暴力を振るってきました。そのうち、親から与えられているというマンションの一室にわたしを呼びつけて、軟禁のようなことを繰り返すようになりました。わたしを傷つけたあと、彼はいつも泣いて謝るのですが、次の日には同じように暴力を振るうんです。
 わたしは次第に疲れていって、耐えられなくなりました。彼の隣に居続けることはできなかった。そこはわたしの居場所ではなかったから。
 たいして長く生きていない子どもですけど、わたし、逃げ出した経験だけは豊富なんですよ。恋人の元からだけではありません。思い返せば、いつも何かから逃げ出すことばかり考えていました。
 両親が離婚したあとに母親に引き取られましたが、折り合いが悪くなって独り暮らしをするようになりました。幸い養育費の支払いと割のいいバイトがあったので生活費が賄えて、たまに自立していると褒められたりもしたけれど、嬉しくありませんでした。わたしは、当たり前にあった理想の家庭が崩れてしまって、母親と向き合うことができなくなったんです。理想の家庭とはいかなくても、壊れてしまった残骸を繋ぎ合わせれば、それなりに満足のいくものができたはずなのに。
 学校の友達ともうまくいきませんでした。ハーフという要素があって、良くも悪くも目立ったんですが、わたしは埋没してしまいたかった。色々な人とぶつかりながら地位を確立していくのは大変な苦労に思えたんです。だから最初は自衛のために、人を拒絶して孤独な世界に閉じこもりました。けど、不思議なものですよね、身を守るために仕方なくと思っていたはずなのに、そのうち自分を正当化するようになりました。わたしは人とは違っていて、優れていて、だから学校の仲間には入らないんだって。能力は平凡で特技なんてありませんでしたから、普通の子には理解できない内面にこそ価値があるとか自分を騙して。
 けれど所詮、思春期の気の迷いに信念なんかありませんから。運命の相手だなんて言い聞かせて、恋人をつくったりもしました。結局、優しくされたかったんですね。陸人さんの言う通りです。わたしは貞淑な女の子ではありません。
 でも、そんなわたしでも、話したこともない男の子とキスをするのは嫌だったんですよ。陸人さんの家に上げてもらったあのとき、計画のためとはいえ唇を合わせるのはためらいました。悩んだ末に出た発想がキスから始まる恋物語なんて、少女漫画チックですよね。恥ずかしくて、何度も別の方法にしようかって考えたんですけど、他にいい案が浮かばなくて。……本当に、嫌々だったんです」
 有栖は微かにはにかむ。その表情は、これまで見たことがない、等身大の少女としてのものだった。
「嫌々……だったのに。おかしいですよね。冬になって雨の日の夜、陸人さんが迎えに来てくれて、家まで連れ帰ってくれて。布団のなかでしたキスは嫌じゃありませんでした。計画がうまくいってほっとする気持ちも、陸人さんに触れて嬉しくなった気持ちも、どちらも両方あったんです」
 有栖の言葉を聞いてこみ上げた感情は形容しがたい。ともかく、それは巨大で、抗いがたい衝動に形を変えた。
「陸人さんの指摘はひとつも間違っていません。謝って済むことじゃないともわかっています。けれど、わたしにとってもここが行き止まりなんです。陸人さん、もしも、いまでもわたしを好きでいてくれるなら、わたしと――」
「黙れ!」
 続く言葉をかき消すように叫ぶ。
 もう、うんざりだ。
 激情に任せ、ナイフの歪なグリップを握り込む。
 切先を向けてにじり寄ると、有栖は怯えるように後退した。
「お、落ち着いてください」
「僕は人を殺してしまったんだ。後戻りなんかできないんだよ。お前の嘘に二度と騙されてやるもんか。もしも僕に対して誠実でいたいと思うなら、ここで詫びながら死んでみせろ!」
 体は自動的に動いていた。
 踏み込んだ地面からは反発がなく、無重力にいるような浮遊感ばかり。それでも僕はまっすぐに、猛然と突き進んでいた。
 甲高い悲鳴が耳をつく。
 有栖は恐怖に負けて背中を向けたのだ。武器を振り上げた僕にとって、絶好の的だった。
 次の瞬間には、肉を裂く感触。
「痛い、痛いよぉ……」
 有栖は痛みに悶えてうずくまる。
 浅い。
 ブレザーは斜めに切り刻まれて血が滲んでいるが、致命傷には程遠い。
 殺せるだけの隙は十分にあったはずだ。僕はそこで、自分が彼女を殺すことをためらったのだと理解した。
 手が震えている。
 もう一度ナイフを握り、今度は上から突き刺せばいい。心臓を狙える。冷徹な判断とは裏腹に、殺意は鋭さを失っていた。
 そうして硬直しているあいだに、有栖は四つん這いの姿勢をとった。背中の傷を晒し、のろのろと遠ざかりながら振り向く顔は汗と恐怖にまみれている。まるで芋虫だ。生にしがみつく醜い肉の塊。いくら綺麗ごとを言ったって、こいつは結局、保身しか考えていない。
 僕は決定的なアクションを取れないまま、あとをついて歩いた。
 この女がすべての元凶なのだ。
 この女さえいなければ。
 恨みを振り絞るようにしてナイフを構え直す。
 そのときだった。
 まばゆい光が奔った。
 背後から放たれた膨大な光量が、一帯を照らしている。
 瞬きをする暇もなく、次いで轟音が響く。弾けた雷鳴が内側から心臓を揺らす。
「≪Hear attentively the noise of his voise≫」
 雷鳴に紛れた言葉は意味がわからなかったが、声には聞き覚えがあった。僕は反射的に後ろを振り向く。
 そこには僕の体から伸びる光があり、さらに奥に、複雑な機械群を従えた志麻子の姿があった。
 驚愕に見開かれた眼と視線がかち合う。「うそ」。彼女の唇はそう発したようだった。
 どうして志麻子がこんなところにいるんだろう。
 降ってわいた疑問を解する前に、別の事実に気が付く。
 僕の体――正確には鳩尾付近から伸びる光は、志麻子の肩口にある、オプションのような機械に繋がっている。
 いや、そうではない。
 オプションから放たれた光の槍が、僕の中心を貫いているのだ。
 じわりと、痛みが広がっていく。
「うぶっ……」
 人形の糸が切れたように力が抜ける。強かに地面に倒れ伏したかと思うと、大量の血が口からあふれ出した。
「ぐ……あぐっ……」
 防衛のための機能が働いたのか、意識をすりつぶす痛覚は即座にシャットダウンされた。
 他のあらゆる五感も鈍っていく。現実世界の出来事は遠く響く潮騒のようだ。
 志麻子がそばに駆け寄ってきてわめいている。「どうして」、「だって恰好が」、「そんなわけない」。断片的に届く台詞は悲痛に染まっている。一通り取り乱してから救助を要請したようだが、手遅れなのは明らかだった。自分のことは自分が一番わかっている。僕は間もなく死ぬだろう。
 死を目前にしてうろたえないのは諦めに達したからでもあるが、脳が別の処理に追われているせいもあった。
 血の絨毯に横たわりながら、僕は奔流のただなかにいた。
 凍結されていた記憶の氷塊が溶け出して、怒涛のように押し寄せている。いまのいままで忘れていたのが不思議なほど、現れた場面は鮮明だった。
 フウリのために買い物をした帰り。同じ時間帯、同じ場所で見た肉片と死神、そして閃光を連れた志麻子。僕は、本物の超常体験に出会っていたのだ。
 最後の力を振り絞って、仰向けに転がる。霞む視界では、ふたりの少女が上から覗き込んでいた。
 僕は泡立った血をしぶきにしながら笑う。
 あまりに滑稽だった。最後の最後、死の手前まで勘違いをしていただなんて。張りぼての英雄譚に裏切られて、それでもなお悲劇の主人公を気取っておきながら、演じていたのはおもしろおかしい喜劇だった。
 なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。
 僕は笑う。笑い続ける。
 吐き出すばかりで息が苦しくなってくる。気がつけば目の端が温かい。笑い過ぎて涙が出てきたのだ。
 視界が暗い。いよいよ終幕が近づいている。だから、言葉を探した。締めにふさわしい一言を。
 今生は思い通りにならないことばかりだった。舞台上でさんざん踊らされたのだから、最後くらい本当の気持ちで。
 途切れかける意識で台詞を探して――愛しい名を選んだ。
 それは、掬い上げた砂漠の砂に見つけた、一粒の金のような。
 一つだけ確かなこと。僕は、彼女を狂おしいほどに愛していた。
「フウリ――」
 呼びかけは、行方も知れず闇に消えた。

(了)

       

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Neetsha