Neetel Inside ニートノベル
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(七)

 違和感があった。
 僕は、いつの間にか家の玄関に突っ立っていた。ふと靴箱の上の置時計に目をやると、デジタルの液晶が示す時刻は午後九時。駅で優作と別れた時間が八時頃だったから、やや時間が経ち過ぎている。駅から家に帰るまでのあいだ、寄り道はしなかったはずなのに。
 しかし、その部分がどうも判然としない。家に着くまでに、どこかに寄った記憶はないが、真っすぐ帰ってきたという記憶も曖昧だった。ひとりで歩く道のりを強く意識したりはしないが、それにしたって。
「うーん……。まあ、いいか」
 結局、時計とお見合いしながら首を傾けるだけで、違和感は捨て置いてしまった。
 紙袋を持って玄関を上がると、物音がした。居間のほうからだ。
 発生源を追って階段を横切る。扉をあけて食卓をのぞいてみるが、一見、誰もいない。
「あれ?」
 いよいよ不安になってきて、忍び足で歩を進める。
 物音の正体はすぐにわかった。なんのことはない、それはキッチンカウンターの裏に隠れていたのだ。
「フウリ、なにしてるんだ、こんなところで」
 しゃがみこんで熱中していたらしい彼女が振り返る。その口には剥き身の魚肉ソーセージが咥えられていた。包装を破ることには成功したらしい。
 手元では複数の棚が開かれて、物色された跡がある。
「いえ、これは」
「つまみ食い?」
「違います。……その、ちょっとした調査を」
「なるほど、キッチンの調査か。成果は得られたみたいだ」
「……わたしをいじめて楽しいですか?」
「うわ、開き直った。いじめるつもりはないけどさ。世界の危機を救いにきたっていう設定の割には、調査の内容が平和すぎない」
「まだ、わたしの話を信じてくれていないんですね」
「そりゃまあ、体験していないことを信じるのは難しいよ。仮に、フウリの言う敵――ィユニュルとやらに襲われて死にかけたりしたら、信じてもいいんだけど」
「ィユニュルに出くわせば、死にかけでは済みませんよ」
 言い訳をするのが面倒なのか、フウリは僕の横を通り抜ける。階段を上っていく背中を慌てて追った。
 僕の自室に着くと、フウリはいの一番にある一角へ向かった。
 学習机と隣接するサイドテーブルに、ひと抱えくらいの金網ケージが置かれている。彼女は腰を屈め、興味深そうに中の様子を窺う。
「ハムスターが気になるの?」
「ハムスター? これはマウスではないんですか。スペースや餌の観点で飼育しやすく、ヒトと同じく哺乳類に属することから生体実験に広く利用されている。……という知識を持っているんですが」
「自室でなんの実験をするのさ。そいつはペットだよ。ジャンガリアンハムスターっていう種類で、実験じゃなくて可愛がるために飼ってるんだ。名前は“ステイハム”、イカしてるだろ」
「ステイハム……」
 呟いた瞳に好奇の光が宿っている。
「この動物の餌を探すために、台所にいたんです。牢獄に閉じ込められた末に餓死でもしたら、巻き添えでわたしまで呪われそうですから」
「牢獄って。棘のある言い方するなよ。可愛がってるんだってば」
「ひどいエゴですね。この動物が一言でも、飼ってくれと頼んだんですか?」
「いや、頼まれてはいないけど……」
 面倒くさい。
 反論すると長引きそうなので、話を逸らすことにした。
「まあ、それはそれとして、人間の食べ物は塩分が濃いから、ハムスターの健康にはよくないよ。あと、餌は決まった時間にあげてるから、フウリは気にしなくていい」
「あ、そうですか……」
 露骨に残念そうな顔をする。
 どうやら餓死の心配というのは方便で、餌やりをしてみたいらしい。
「……まあ、絶対に時間厳守ってわけでもないし、やってみる?」
「え?」
 学習机の引き出しから、ひまわりの種が入った袋を取り出す。
「餌をあげてみるかって。怯えられてる様子もないし、手渡しでも食べるんじゃないか」
 種の一粒を受け取ったフウリは、生唾を飲み込んで頷いた。
 隙間から指を差し伸べると、ステイハムは躊躇うことなく近づいてきて、種を持って行った。それから中央に戻り、忙しそうに口を動かしている。
「わ……。本当だ、すごい。もう一回、もう一回やらせてください」
「ダメだよ。食べさせ過ぎると太るから」
 勘違いされがちだが、ひまわりの種はハムスターの主食ではない。脂肪分が非常に多い贅沢な食べ物なのだ。
 またもフウリが残念そうな顔をしたので、提案してみる。
「ステイハムが気に入ったなら、他の世話もしてみる?」
「他の世話というのは?」
「水を替えたり、ケージ内の掃除をしたり。やり方なら教えるよ」
「え、いいんですか、やります」
 間髪いれずに肯定される。
 それぞれの工程を説明してやると、フウリは熱心に頷いて聞き入っている。正直、掃除などは面倒でサボりがちになっていたので他の人にやってもらえるのはありがたい。しかし同時に、現在の構図は滑稽なものじゃないかとも思った。
 成り行き上、僕はフウリの世話をすることになり、フウリはハムスターの世話をすることになった。一方で僕もフウリも現在、自分の世話さえ十分にこなせているかといえば怪しいものだ。自分よりも他人に施しを与えるほうが、優先したくなるものなのだろうか。
 説明を終えても、しばらくは飽きもせずにケージを眺めていたフウリだったが、やがて床に置かれた紙袋に目を向けた。
「あれはなんですか?」
「ああ、今日は買い物をしてきたんだ。フウリってば、着替えも日用品も持ってないだろ。一通り適当に用意しておいたから、他に必要なものがあればそのつど言ってよ」
「わたしはネアリアルを用いてある程度、清潔や健康を一定に保つことができますが」
「また適当なこと言ってるな。……でも、言われてみれば放浪してたにしては肌とか髪とか――」
「肌と髪が、なにか」
「いや、なんでもない」
 きのう接近した場面を思い出して顔が熱くなる。
 なし崩しで受け入れていたが、同年代の女の子と一緒に暮らすというシチュエーションは改めて自覚しないほうがよさそうだ。薬局で生理用品を買うときには努めて心を無にしていたけれど、以降はこういう気苦労が増えるかもしれない。
「ところで、ずっと言おうと思ってたんだけど、フウリの服装ってめちゃくちゃ目立つよ。正体を隠したいっていうなら、普通の洋服を着たほうがいいんじゃないか。髪は……ウィッグを被るっていう方法もあるし」
「心配には及びません。家から一切出掛けなければ済む話ですから」
「人の家に引きこもる気マンマンだし……。でもまぁ、万一ってこともあるからさ。買ってきた洋服は貰ってくれないと困る」
 僕は紙袋の中から、さらに服屋のロゴが描かれた紙袋を取り出し、中身をベッドの上に広げた。
「女の子のファッションなんてわからないし、安いのをたくさん買ってきた。好きなものを選んで着ていいよ」
「好きなもの……」
 フウリはおっかなびっくりベッドに歩み寄ると、難しい顔をした。
「もしかして、全部気に入らなかったとか?」
「いえ、そういうわけではありません。自分の好みで衣服を選んだ経験がないので、基準がわからないんです」
「いま着てる服は?」
「あなたに親しみやすい言い方をすれば、学校の制服と似たようなものです。わたしは私服に当たるものを持ち合わせていません」
「一着も?」
「はい」
 フウリは平然と返事をする。
 またよくわからない嘘の一環なのか。しかし、彼女が恥ずかしげもなく着ている奇抜な服を鑑みれば、一般的なオシャレに縁がないことは頷ける。あるいは、そういった表に出しがたい個性を抑圧された反動が、家出という不良な行動なのか。僕は憐れみを覚えた。
「いい機会じゃんか選びなよ。初めての経験ってことで」
 進言に、小さく唸ったり頭を抱えたりしたフウリだったが結局、
「不可能です、わたしには選べません。陸人さんが決めてください」
 投げた匙をパスされてしまった。
「決めるったって……。さっきも言ったけど、女の子のファッションなんてわからないんだってば」
「わたしだってわかりません。けれど陸人さんはわたしに選べと命令しました。自分にもできないことをやらせようとしたんですか」
「ぐ……。あー、わかったよ、僕が決める。いいか、死ぬほどダサい組み合わせでも我慢して着るんだぞ」
「望むところです」
 なぜかふたり、喧嘩腰の口調になる。
 そして、今度は僕が頭を抱える番だった。
 実のところ、僕にはある程度の目星がついていた。元の服装が目のやり場に困るので、膝の下くらいまでは隠してほしい。フウリは美人だけどあどけない雰囲気もあるから、可愛い感じも似合うだろう。
 たとえば、この、腰にリボンが飾られたフレアスカートに、長袖の口を絞ったブラウスを合わせたりたら……よさそうだ。
 しかし、この場でそれらを披露することは、僕がフウリに押し付けたい趣味みたいなものを吐露することと同義なわけで、つまりどういうことかというと、死ぬほど恥ずかしいのだ。
 僕はなるべく無作為に選んだふうに服を取り上げ「店のマネキンはこんな感じの組み合わせだったような」とか適当な言い訳をしながら勧めた。
 幸い、馬鹿にされたりはしなかった。
「着てみてもいいですか?」
「うん。サイズ感とかあるし、やっぱり着てみないと」
 と、言い終わるや否や、フウリは着ている服に手をかけた。
「うわっ、僕の目の前で着替えるなよっ」
「? 陸人さんの背後に回ればいいんですか」
「違う! 僕は一旦部屋から出ていくから、着替え終わったら呼んでくれ」
「面倒ではありませんか?」
「面倒でもそうして!」
「……はい、だったら、わかりました」
 どっと疲れた気分で部屋を出る。
 そのままドアを背にして待とうとしたが、背後から衣擦れの音が聞こえて、もうやってられるかと階段を下りる。
「陸人さん、下着の着け方がわかりません!」
 頭上から呼びかける声には「頑張れ!」とやけっぱちで叫んだのだった。
 以降、着替えは手こずりに手こずったらしく、入室許可が下りたのは十分以上も経ってからだった。
 もしかして着替え途中だったりしないかと、何度も確認してから部屋に入る。
 フローリングの中央には、私服姿の女の子がいた。
「どうですか?」
 開口一番、フウリはスカートの端をつまんで感想を尋ねてくる。
 僕は不覚にも息を詰まらせてしまった。
「に、似合ってるんじゃない」
「そうですか」
 本当に、似合っている。出会ったときから鑑賞用の人形みたいな容姿だと思っていたけれど、普通の服を着るとかえって素材の良さが際立つというか。街に出るためとさっき言ったのを訂正したくなった。人混みに紛れても、隠し切れない可愛らしさだ。
「変なところがあるなら言ってください」
 黙りこくっていたのを不満があると捉えられたらしい。咎められて、僕は言い訳を探した。
「いや、違うんだ。変じゃないって。でも、そうだな、手袋は外さないの?」
 袖から伸びる腕には、サテン生地っぽい長手袋が着けたままになっている。
「これは、基本装備なので」
「その理屈もよくわからないけど」
「絶対に外さないといけないんですか?」
「いや、不自然ってほどでもないと思う。ほら、自分でも見てみなよ」
 部屋の隅にある姿見を持ってきてやる。フウリは木枠のなかに映る自分を物珍しそうに観察している。
 僕は急速に、居心地の悪さを感じていた。彼女と同じ空間にいるだけで、むずむずとして居ても立っても居られなくなる。同居生活を続ける自信を失っていく。
 フウリは背面まで細かに確かめたあと、小さな声量で言った。
「陸人さん、この言語表現が正しいのかよくわかりませんが、えと……あ、ありがとうございます」
 その頬にはほんのりと朱が射していて。僕は、今夜もぐっすり眠れないだろうなと確信したのだった。

       

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