(八)
僕を不眠へと追い込んだのは、女の子と一つ屋根の下というシチュエーションだけではない。もっと直接的な原因として、居間のソファで寝るハメになったからだ。
だって仕方がない。まさか自室のベッドに並ぶわけにはいかないし、客人をソファで寝かせるわけにもいかない。母親の部屋は空いていたが、これは使うのも使わせるのもためらった。繊細な男心というやつだ。
おかげで翌朝の寝覚めは悪かった。折よく休日でなければ暴れていたかもしれない。
僕にとって休日といえば、平日のツケを払う日だ。
我が家には、常に家事をこなしてくれる人材などいない。しかし、溜まった仕事は誰かがやらなければいけない。誰とは僕だ。
たっぷり昼近くまでだらけたあと、洗面所で。
「うぅん……やるしかないよなぁ……」
洗濯籠に山のように積まれた衣類を前にして、僕は仁王立ちしていた。
山頂付近には、フウリの服も挟まっている。
入浴における作法はすでに叩き込んだ。脱衣時には洗面所の戸を閉めろ。風呂を出たら裸でうろつくな。しょうもないハプニングが起きる前に先手を打ったのだ。しかし、脱いだ服を洗濯籠に入れるなとは言えなかった。
一目見てもう、視覚的な刺激がある。無造作に置かれたスカートとシャツはもちろん、僕が買ってきた下着が使用済みでいる様は背徳的ですらあった。
「やるしかないさ」
僕は頬を張って作業を開始した。
下着にはなるべく触れず、自分の衣類にサンドイッチして洗濯機に放り込む。
次々に作業を進める途中、フウリが最初から身に付けていた、本人曰く『学校の制服のようなもの』が現れた。上下一体の構造で、スカート丈がやたら短いと思っていたが、捲ると中はレオタードみたいになっている。つまり、ちらちら見えていたのはショーツではなかったのだ。
などと考察しているあいだに、僕は服を手に取って触れていた。
「……はっ、しまった。ダメだダメだ、邪念を捨てろ」
自省して手を離そうとしたとき、あることに気がついた。
表からは見えない、スカート部分の内側にポケットがついている。
「ん、中になにか入ってるじゃないか。危ないな、洗濯するところだった」
手を突っ込み、取り出したのは見たことのない機械だった。スマホを一回り分厚くしたような形だが、液晶はない。外装はプラスチックっぽい素材で、絵も字も描かれていないボタンと小さな穴が複数確認できた。
異世界のテクノロジーという割にはショボい気もする。とはいえ日常生活で見かけたこともないから、未知の機械には違いない。
手がかりを求めて観察してみる。正面だけではなく、側面、背面と回して目視するが、他には何も見当たらない。大きさの割には軽いが、中身が入っている感じはする。振っても音はしない。
液晶がないということは、パソコンの類ではないのだろう。小さな穴はネジ穴か、あるいはマイクやスピーカーか。後者なら電話の類似品という可能性もある。
穴は思いのほか深い。奥を見るには光の加減を調節する必要があった。手に乗せた機械の角度を変え、照明に当ててじっと睨む。
奥は網目状になっていた。おそらく、音声を入出力するのだろう。
見当をつけて、凝視していたピントを戻したとき。
洗面所の引き戸がわずかに開いて、そこから瞳が覗いているのに気づいた。
「見ましたね……」
「ひぃっ」
狭い隙間から上半身をねじ込んでくる様はホラー映画さながら。僕は悲鳴を上げて後じさる。
はずみで滑り落としそうになった機械を悪霊、もといフウリが奪い取った。
「い、いや、悪気はなかったんだよ。洗濯物のポケットに混じってて……。水で洗ったら壊れるかもしれないから」
「だからといって、自分以外の所有物を勝手にいじるのはいけないんじゃないですか」
「悪かったって」
フウリは取り戻した機械を早々としまおうとする。
「ところで、それって一体――」
言いかけたところを、上塗りして邪魔が入った。
ブーッ、ブーッと。
音量以上に神経をざわつかせるビープ音はまさに謎の機械から発せられていた。
フウリはちょっと僕を見て、眉をしかめた後にそれを掲げる。そのまま、携帯電話のように使うのかと思いきや、耳ではなく頭に平らな面をあてがった。
「なにしてんの?」
フウリは黙ったまま。瞑目して、集中しているのか微動だにもしない。
見守ること数秒。
ビープ音が鳴り終わると、フウリは機械をしまう。
「おーい……?」
瞼が静かに持ち上がり、現れた瞳は焦点を失っていた。
まるで催眠にでもかけられたよう。自失した状態のまま、今度は懐からメモ帳とボールペンを取り出した。見覚えのある男モノのデザイン。僕が知らないあいだに部屋からくすねたらしい。
フウリはページを一枚破いて洗面台に置き、ペンを走らせた。
内容を隠す素振りはない。というより、知覚を一切遮断しているみたいだ。
僕は、彼女の肩越しに手元を覗いた。
「なんだこれ?」
紙上にはミミズが這ったように線が散りばめられている。
文章という感じではない。行や列という概念がなさそうだ。線は所々で交差し、直線も曲線も一見、法則性がない。
すると、無秩序な線の隙間に、イラストが描かれ始めた。
「羽が生えた……魚、の上半身?」
他にも立方体を積み上げた塔や、食べかけのドーナツなどを加えて、シュールさを増していくキャンパスの中心に、止めとばかり黒点が置かれる。
それを最後に、フウリの焦点が再び結ばれる。何度も瞬きをしたあと、手元の落書きがいきなり現れたとでもいうように見つめた。
「ねぇ、なんなのこれ?」
「なんだっていいじゃないですか。詮索しないでください」
紙がグシャリと握りつぶされる。せっかく書き上げられた成果物は一瞬にしてゴミ箱行きとなった。
フウリが洗面所を出ていく。
狐につままれる気分とはこういうことか。残された僕は呆然としてから、ゴミ箱に手を入れた。
「捨てちゃっていいのかよ」
ぐしゃぐしゃに折り目がついた紙を広げる。二回見たって図柄が変わるわけではないが、認識が変わることはあるかもしれない。
「なんだろう、黒魔術の魔法陣?」
はじめは、フウリへの偏見にまみれた候補が浮かぶ、しかし、しばらく眺めていると毛色の違う参考を引っ張り出すことができた。
思い出したのは昔、小学校で配られた災害対策マップとかいうやつだ。
橋の表し方が酷似しているのが決め手だった。
「なるほど、地図か」
ひらめきが降りてしまえば、芋づるで理解が及ぶ。
「直線や曲線で表されてるのが道路だとしたら、この鱗みたいなやつは山地かな。入り組んだ市街地の周りを囲んでいるなら納得がいく。だとしても、よくわからない部分もあるけど……」
最も不可解だったのは、所々に配置された謎のイラストだった。羽の生えた魚の上半身、立方体を積み上げた塔、食べかけのドーナツ……。意味ありげなような、やっぱりなさげなような、判断に迷うものばかり。
もしかしたら、単に遊び心だったりするのかもしれない。かわいいもの好きの女の子が、数学への理解を放棄してノートの端に描く猫と同じで。だとしたら、やっぱりフウリのセンスは相当おかしい。
ともかくとして、これは世に出回っている地図帳などとは趣が異なる。汎用性がない、とでも言えばいいのか。元から近辺に土地勘を持った人以外には扱いづらいだろう。お粗末と言ってもいい。
そうしてさらに目を滑らせると、地図の右上外れに塗りつぶされたような箇所があった。インクの出を試したのだと思ったが、もしかしたら異世界の文字や数字なのかもしれない。つまり、図柄はあくまで補助であって、この座標が正確な位置情報なのでは。
――と、そこまで推理して我に返る。
推理もなにも、描かれているものはどうせフウリの妄想の産物に過ぎないのだ。
わざわざ僕の目の前で書き上げたということは、宝さがしにでも誘っているのかもしれないが。いずれにせよ、彼女の独りよがりに付き合ってやる義理もない。
「地図の場所を掘り返したら、徳川埋蔵金が埋まってたりして」
しょうもない妄想を一笑に付すと、僕は紙ぺらをゴミ箱に捨て直した。