Neetel Inside ニートノベル
表紙

異世界人が働かない理由。
第一章

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(一)

 物語は、まさに佳境を迎えていた。
 地球の命運はたったひとりの男に握られていた。
 彼は、昆虫の外殻を模したライダースーツを身に纏い、フルフェイスヘルメットの奥からは決意の眼光をぎらつかせている。装身具のすべては漆黒。その色の深さが、彼の壮絶な生い立ち、使命、苦しみを象徴していた。
「ギ……ギキ……。よくぞ、ここまで生き残ったものだ」
 無言で前を睨む男に立ちふさがっているのは、異形の怪物だった。
 動物の臓物を切り刻み、バラバラにつなぎ合わせたような肉体。それが辛うじて霊長類に似た形を成しているが、顔貌と思しきパーツ群は水月に空いた洞に光っている。
 体長は男のゆうに倍を超える。圧倒的優位を自覚してか、怪物の口元は嘲りに歪んでいた。
「誉めてやろう。家族を殺され、仲間に裏切られ、痛みに悶え。あらゆる困難に遭わせられながら、なおも戦意を失わないとは。人間の域を逸していると言っていい。ぜひ聞かせてもらいたい、貴様はどうしてそこまでして戦えるのだ?」
 怪物が言うと、不動だった男が一歩踏み出した。
 大理石の床には、彼によって葬られた魍魎共の残骸が四散している。連日狂宴に湧いていた魔城も、いまは寒々しい。
「愛のためだ」
 男から発された声は重く低い。怨念じみている。
「家族が殺されようと、仲間に裏切られようと、痛みに悶えようと、俺は諦めるわけにはいかない。この世界に、守るべきたったひとりが生きている限り」
「ギキキ、狂っているな。いいや、むしろ呆れるほどに正常なのか。貴様は恋人を愛するが故にウェロニアの力に魅入られた。伝承によれば、古代ソビラスの戦士たちは強い想念に囚われ、一生を捧げるのが運命さだめだったという。まるで呪いだ。自由のない生ほど愚かなものはないと思わないか。改心するならば、これまでの狼藉はなかったことにしてやってもいいが」
 男は答えない。ただ、ホールに殺気が立ち込めた。
「……ギキ、残念だ」
 怪物の腹部に埋められた眞光炉が脈打ち、蜘蛛の巣のように筋を浮き出させる。男の前腕がウェロニアの赤黒い瘴気に覆われる。
 柱のひび割れる音が、開戦の合図になった――。


「あれ?」
 主人公と悪役の激突と同時に、テレビの画面が真っ暗になった。電源をオフにしたときのジィィンというノイズを残して、部室にわびしさが押し寄せる。
 僕は後ろを振り返った。
「志麻子」
 そこには、電源を切ったらしい犯人がいた。
 栗色のショートボブを後ろに結んだ女の子が、リモコンを握っている。
「見てたんだけど」
「知ってる。だから消したの」
「いいところだったんだよ。安全に保護したはずの恋人が実は敵の配下に捕まってて、拷問されてるあいだに、それを知らない主人公が黒幕との最終決戦に挑んでるんだ。一大事だろ」
「一大事ね。でも、陸人にはもっと優先すべきことがあるでしょ」
「そういえば、志麻子がボードゲーム部の部室に来るのは珍しいな。つまり僕に用事があると?」
 純粋な疑問をぶつけただけだったのだが、元々吊り上がっていた志麻子の眉がさらに不穏な角度になる。
「信じられない。英語の宿題を教えてくれって、陸人から頼んできたんじゃない。教室に行ってもいないから、わざわざここまで来たのよ」
「ああ、そうだったっけ」
 言われてみれば、リモコンと反対の手には英語のノートが握られている。
 記憶を探ってみると確かに午前中、そんなお願いをした。宿題の該当範囲が理解できそうになく、教科担当の教師も厳しい人だったので泣きついたのだ。
「でも、面倒だなぁ」
「だったら早く終わらせればいいでしょ」
 弱音を漏らす僕を無視して、志麻子が隣に座る。問答無用で勉強用具を広げようとするので、机に置いてあったプラモデルを退避させた。まだ作りかけなのだ。
「陸人さ、もっとシャンとしなさいよね」
 宿題を始めるとすぐ、志麻子が言った。
 ノートに落書きしているのがバレたのかと思ったが、別にそれを咎めたかったわけではないらしい。もっと全般的に、生活態度のことを言っているのだ。
「聞いたの。最近、変なやつらと付き合いがあるらしいじゃない」
「心当たりないけど」
「チーマーとかいう連中から報酬を受け取って、武器の横流しをしてるとか」
「ええ、そんな物騒なことしてないって。僕はただ、知り合いを介してちょっとした仕事を請け負ってるだけだよ。いまやってるのはプラモデルの組み立てと塗装。仕事を頼んできた人が不良グループに属してて、その人が弟にするプレゼントなんだってさ。どこで尾ヒレが付いて、そんな噂になったのか知らないけど」
 事情を説明したのに、志麻子はまだ納得のいかない顔をしている。彼女にはどうも、僕がアウトローに足を踏み入れようとしているのだと勘違いしている節がある。
「でも、不良と関係があるのは本当なんでしょ。ほら、髪だってだらしなく伸ばして」
「いや、これは。切るのが面倒で放っておいたら、かえって邪魔にならなくなっちゃって」
「似合わないからやめなさいよね。きちんとしてれば、そこそこ見れる顔してるんだから……」
 志麻子はなぜか、うつむき加減に語尾を濁す。そして、落ち着きなさげに部屋をキョロキョロと見回すと、席を立った。
「なにしてんの?」
「掃除。汚いところにいるとイライラするの」
「あんまり色々いじらないでよ」
「わかってる」
 とは言うものの、プライベートな空間はいわば内臓みたいなもので、触られるのは心穏やかではない。そもそも学校の部室をプライベートに使うなという指摘は置いておいて。
 室内にはボロいソファとローテーブルの他に、僕と優作の私物が散乱している。優作が教師陣と生徒会をたらしこんで手に入れた部室だが、すっかり男の趣味に侵食されたものだ。特に、僕は起きている時間の半分近くをここで過ごしているのだから無理もない。
 本棚の奥には、年頃の女の子には猥褻物と同義であろうあれやこれやがしまわれている。それらが発掘されやしまいかと思うと宿題も手につかない。
 そうして肝を冷やしていると突然、部室の引き戸が開いた。
 中に僕がいるとわかってだろう。入ってきた人物は戸を開き切る前に用件を伝えてきた。
「おい、仕事の進捗はどう――」
 優作が戸を全開にする。そして僕に目をやり、次に志麻子に目をやると、声を途切れさせた。
 優作の容姿を一言で表すなら、昭和の男前だ。長身の屈強な体に加えて、顔からは真っすぐな男気が滲み出している。
 めったなことでは動じない彼だ。額に冷や汗をかいているのを見るのは珍しかった。
 それはともかくとして、僕は問いかけに答えてやる。
「組み立てはもうすぐ終わるよ。ほら、そこにあるだろ。あと、塗装は家に持ち込んでやろうと思ってる。この前、学校の校舎裏でスプレーを使ってたら苦情が入ったんだ」
「そ、そうか、順調ならいいんだが。……じゃあ、俺は失礼する」
「進捗を聞きにきただけ? 遊びに来たんだろ。だったら三人いるし、三麻でもやろうよ」
 横から無形の非難が突き刺さるのを感じながら、僕は言った。
「いや、遠慮しておく。俺はこれから約束があるんでな」
「どうせ男友達とだろ。僕も混ぜてよ」
 立ち上がりかけた僕の肩を掴んで、志麻子が作り笑いを浮かべる。
「ごめんね、陸人は行けないの。悪いけど、他のお友達と楽しんできて」
「あ、ああ、こっちこそ悪かった。それじゃあ」
 何に対してか不明の謝罪を置いて、優作は去っていった。
 思わずため息をついて隣を見ると、志麻子が探るような目つきをしている。
「仕事を回してくる知り合いって優作くんだったのね。陸人って飲食店のバイトもしてるでしょ。そんなにお金が欲しいのって……」
「前にも話しただろ。高校を出たら東京に行くんだ。資金はいくらあっても困らない」
 僕がこの話をすると、志麻子はいつも不満そうな顔をする。
「行って、どうするつもりなの? 勉強だって熱心にしてないのに」
「東京には大学がたくさんあるんだから、選ばなければどこかには入れるに決まってる。なんなら専門学校とかだっていい。とにかく、若いときに日本の中心に住むことが大事なんだよ。だって、日本にある一番素晴らしいものはたいてい、東京に集まってくるんだから」
 両腕を広げて熱弁してみるが、志麻子には熱が伝わらなかったようだ。うぅんと苦しげに唸って、
「東京に行ったってアメリカに行ったって、いるのは同じ、人間よ」
 的外れの正論をぶつけてくるので、僕は唇を尖らせた。
「幼馴染の唯一の目標くらい、素直に応援してくれればいいのにな」
「偏差値の低い大学や専門学校がダメだって言ってるわけじゃないの。ただ、陸人はもう少し将来を身近に考えてもいいんじゃないかと思って。曖昧な期待ばかりしていたら、なんでもないようなことで裏切られたと感じるかもしれないし」
「あーもー、いいってば。自分のことは自分で考えるから。志麻子には迷惑を掛けないようにする。それでいいだろ。さ、勉強、勉強」
 議論が平行線になりそうなので、強引に打ち切る。
 真面目にノートに向かうポーズをとると、志麻子もそれ以上は追及してこなかった。

     

(二)

 部室での勉強会がお開きになる頃には、陽が暮れ始めていた。
 志麻子とは家が近いけれど校舎内で別れた。幼馴染の関係を周囲に隠しているわけでもないが、廊下や通学路で連れ歩くのは抵抗がある。
 よって、僕は一人寂しく帰路につくことになった。
 刻一刻と赤らんでいく空が時間経過を知らせる。国道沿いの通りに入って住宅街を進み、屋根の高さが揃った区画に着く。
 僕の家は似たような民家のあいだに挟まれて、肩身が狭そうに建っている。
 今日も今日とて代わり映えしない自宅。家がトランスフォーマーみたいに変形したらいいのにと建築家を志したことがあったが、所詮は夢物語だった。
 だから、僕が立ち止まって瞠目したのは、別の理由だ。
 家の外観はいつも通りだった。違ったのは、普段は空っぽの駐車場に型落ちのベンツが止まっていたことだ。
 母親が帰っている。
 状況を理解しつつ、しばらくフリーズしてしまう。
 すると、数メートル先の玄関から男が現れた。皺のないイタリアンカラージャケットを羽織って、マフラーを洒落っぽく巻いているが、まずは洒落た体型をしろと言いたくなる小太りの男。彼は確かに、僕が帰ろうとしていた家の玄関から出てきた。
 一応、面識はある。
 男は庭を抜けて、門を開けてからようやくこちらに気付いた。硬直したままの僕を見て、不快そうに顔をしかめる。
「学校から帰ってきたのか。おい、挨拶くらいしろ」
 その言葉に我に返る。冷静な分析判断の末、僕は行動に移った。
 男に挨拶はしない。その横を無言で通り過ぎ、何事もなかったかのように歩みを再開する。家に帰るのではない。自宅の門すらも視界の外にやり、真っすぐ正面を向く。エキストラの通行人A。それが僕だ。
 歩き続ける背後では男がわめいている。
「なんだその態度は! 返事をしろ、聞こえているんだろう!」
 直後に盛大な舌打ち。
 追いかけてきたら走って逃げてやろう。僕だって俊足ではないが、脂肪の重りをたっぷりつけた中年には負けない。
 意気込んで準備をしていたものの、男は追ってこない。諦めたようだ。
 角を曲がって男の姿が見えなくなると、徒労感が押し寄せる。自宅から遠ざかりながら、途方に暮れた呟きが漏れた。
「さて、どうするかなぁ……」
 スマホを確認しても特に電話やメッセージは届いていない。しかし、駐車場に車があったということは、母親も家に帰っているのだろう。これまでも同じようなパターンは何度かあった。彼らが長居する可能性は低く、大抵は一晩すればもぬけの殻になっている。
 とはいえ、僕は当座の行き先を失ってしまったのだ。
 適当にぶらついた挙句、力尽きてベンチに座った。駄菓子屋の前に設置されたベンチは、ペンキが剥げてみすぼらしい。店から出てきた少年たちが、子ども特有の無遠慮な視線を横目でぶつけて去っていく。
 虫の居所が悪かった。駄菓子なんか暢気に食ってるんじゃないぞという、理不尽な怒りに駆られる。
「なにこんなところで座ってるの。変な顔して」
 不意に、別の方向から呼びかけられる。
 なんだよ、僕は家に帰るどころかベンチに座ることすら許されないのか。と、悪態をつく前に、相手が知り合いであることに気づいた。というか、志麻子だった。
 一旦帰ってから私服に着替えたらしい。季節に合わせたベージュの長いカーディガンを羽織って、下はデニムを履いている。
「家に帰ったんでしょ。どうしてまだ制服なの」
 答えをためらっているうちに、志麻子は表情から察したようだった。
「清美さん、帰ってきたの?」
「…………」
 首肯。
「恋人の男の人も一緒に?」
「…………」
 首肯。
「そうなんだ」
 毅然とした態度から一転、声色が柔らかくなった。そのことに、言いようのないむず痒さを覚える。
「だったら、今日はうちに泊まっていいから。お夕飯と寝床も、用意しておくように私からお母さんに頼んでおく」
「いや、いい」
「お父さんのことなら気にしなくていいってば。陸人のこと知ってるし、邪険にしたりしない」
「そういうことじゃなくて。さっき宣言したばかりだろ。志麻子に迷惑はかけない」
「迷惑だなんて思ってない」
「とにかく、遠慮しておく。アテなら他にいくらでもあるし。年頃の女の子の家に泊まるよりは、男友達に頼んだほうがよっぽど健全だろ」
「だったら無理にとは言わないけど……。でも、最終的に泊まれるところが見つからなかったら、意地を張らずに連絡すること。いい? 最近は物騒なんだから。明日から行方不明なんて嫌よ」
 額に突き刺さらんばかりに人差し指を近づけられる。今度は志麻子にしても珍しいほど強い語気だった。
「若い男を狙って誘拐なんてしないだろ」
 言い返してみるのに、
「陸人、知らないの?」
 と、思わぬ反応が返ってきた。
「知らないって、何を?」
「最近、関東圏で失踪者が多発してる話。ニュース番組をつければ、必ずと言っていいくらい報道してるのに」
「そういえば、ニュースなんてしばらく見てなかったな。積んでる特撮映画を消化するのに忙しかったから。でも、行方不明になる人なんて毎年そこそこいるんだろ」
「去年はだいたい八万五千人。だから、陸人の言う通り、行方不明者が珍しいわけじゃないの。でも、最近は異常。不明者の数は十月時点で去年を上回ってるし、しかも、認知症や家庭関係とかの明らかな理由がないケースばかり。年齢層も十代や二十代が多いから、むしろ陸人は危ないのよ」
「く、詳しいな……」
 具体的な数値まで持ち出してくるとは思わなかった。ニュースコメンテーターの受け売りなのか、口調まで真に迫っている。
 僕が気圧されている様子にバツが悪くなったらしい。志麻子はごまかすように咳払いをした。
「とにかく、夜になったら外を出歩かないこと。今日に限らずね。私知ってるんだから、陸人が毎日のように緑地公園に出かけてるの。民家のあいだを縫って歩いて、不審者みたいだし、警察に見つかったら補導されるよ」
「うわ、なんでそんなこと知ってるんだよ。誰にも話したことない秘密の趣味だったのに、深夜徘徊」
「……私の部屋の窓から見えるのよ。最初は泥棒かと思ったんだから」
「だからって、行き先まではわからないだろ。まさか、後をつけてたとか。志麻子は僕に構い過ぎる」
「…………」
「黙るなよ。この場合の黙秘は認めたも同然だからな」
 都合が悪くなったとみるや、志麻子は話を打ち切った。買い物にいかなきゃともっともらしく理由を付けて去る際には、約束を守れと念押しをしていったのだった。

     

(三)

 アテがあると強がりを言ったものの、一晩をやり過ごす具体的なプランは何もない。
 声をかければ泊めてくれそうな男友達はいるにはいる。しかし、他人を頼るのでは結局、自立するという信条を曲げることになるのではないか。その信条にしたって思いつきの付け焼刃なのだが、大事にするべきものの少ない僕にとっては貴重なのだ。
 住宅街はすでに夜の静けさに包まれている。民家の窓から漏れる光を眺めながら、スマホを取り出した。
 志麻子から安否確認のメッセージが届いていたので、無事に宿が見つかった旨を書いて返信する。
 うまくごまかせていますように。祈りつつスマホをしまうと、吹く風に肌寒さを感じた。
「制服を着替えられなかったのはマズかったな」
 夜が深くなるにつれて気温は冷え込むだろう。生徒の身分を晒していては、ファストフードなどの店舗でやり過ごすこともできない。
 寄る辺のない足取りはふらふらと、街灯の少ないほうへ吸い込まれていく。
 住宅街を離れ、林を横手に道を進むこと十五分ほど。短いトンネルを抜けると視界が開け、半円形の広場に出る。
 進むごとに段差になっている足元を、ポールライトに誘導されて奥へ。
 半円形を俯瞰して潰れた部分には、天使の彫刻と一体になった壁がそびえている。その壁面の端に『シベ超緑地公園』とプレートがあった。
 あれだけ言われておきながら、来てしまった。
 シベ超緑地公園は総面積100haを誇る広域公園だ。散歩のときは毎度違う道を通るが、ここには必ず訪れる。
 周辺では一番自然が豊かで、開放感がある。朝昼は犬の散歩や老人の集会所として使われていて、都会的なやかましさと対極にあるのが魅力だ。しかし、僕が夜にここを訪れるのはむしろ、星の音の賑わいを聞きたいからだった。
 わきにある階段から広場を離れる。昼間はそれなりに活気のある散策路も、とんと人が絶えている。
 色づいた広葉樹のざわめきが波のように寄せて耳に触る。
 左手に池を見ながらぐるりと周ると、緩やかな傾斜のついた路に入った。ここからの地形は丘になっている。体を温めるため、ふくらはぎをつかって鼓動を早めていった。
 熱い顔にひときわ強い風が吹きつけたかと思うと、見晴らしがよくなった。
 東屋の設置された頂上には望遠鏡もあり、展望台になっている。僕は正面に備えられた柵に手をかけて、遠くに自分の住む街を見下ろした。
 山嶺の連なりに見下ろされ、海にも面する雄大な土地からすれば、建物の集まったエリアはごく一部に過ぎない。上空にはペガスス座やアンドロメダ座が輝き、黒いキャンパスが無限に続いている。比べれば街灯りひとつひとつに暮らす人の悩みの、なんと矮小なことか。
 などとありがちな現実逃避をしていると、腹の虫が鳴った。
 宇宙規模の思索に励もうとも、人間は腹の虫を黙らせるために四苦八苦しなければならない。
 足元に置いたスクールバッグを漁ってみる。飴玉でも発掘できれば御の字だと思ったが、予想外の大物が潜んでいた。
 チャックのついた一番大きい口の底。筆箱に並んで同じような形の袋がある。取り出してみると、四つ入りの魚肉ソーセージが未開封のままだった。昨日コンビニで買ったまま入りっぱなしになっていたものだ。
 これ幸いと東屋に移動し、野外での晩飯と相成る。
 丘の頂上での食事というのも、ピクニック気分で悪くない。孤独な夜に前向きな姿勢を示そうとしていたのだが、意外な闖入者が視界に入った。
 犬歯でソーセージの包装を裂こうとする僕を、低い位置から睨み付けている。
 野良猫だ。
 茶トラ模様の毛並みは汚れているが、健康的な体つきをしている。
 相対したまま、じりじりと距離を詰めてくる。しなやかな足捌きで音もなく。
「な、なんだ?」
 醸し出される緊張感の意味がつかめない。
 野良猫がさらに頭を低くして、下肢に力を溜める。リーチの外だと油断していた。次の瞬間には、小さな体がバネのように飛び跳ね、僕の膝の上にあった。
 そこでようやく理解する。さっきのは、獲物を狙うハンターの眼光だったのだ。
 僕は為すすべもなく硬直するしかなかった。研ぎ澄まされた野性によって勝利者となった野良猫は、膝の上を蹂躙する。そしてあろうことか、残り三つが入っていたソーセージの袋を咥え、攫っていった。
「あ、おい!」
 野良猫は颯爽と去っていく。
「今日の晩飯!」
 僕は立ち上がって後を追う。
 野良猫は一目散に逃げていく。
 展望台から逸れた場所にある茂みのなかへ。そこは背の高い草が不規則に生え、鬱蒼とした陰になっている。しばらくすると、葉のトンネルを駆ける音も聞こえなくなった。
 半ば諦めた気持ちで草むらに分け入る。
「おーい、怒らないから出てこーい。せめて半々にしないかー」
 残された一本を大事に抱えながら辺りを探る。
 すると、
「ううぅぅぅ……ぅぅぅ……」
 どこからともなく、すすり泣きのような声が聞こえた。
「そこか?」
 あちこちに顔を覗かせながらも、違和感を覚える。
 猫の鳴き声にしてはイントネーションに人間味があるような。
 踏み入った先に、草に囲まれた小空間があった。子どもの隠れ家にちょうどよさそうな円形の中心に、桜の木が立っている。その幹に、声の主が背を預けて座っていた。
 正体は、猫ではなかった。
「え……?」
 そこにいたのは女の子だった。
 一目で視線を釘づけにする、綺麗な白色をしている。わずかに届く星明りを反射して、まるで自らが光り輝いているようにすら思わせる。
 僕はまず、その娘が死んでいるか気絶しているのじゃないかと疑った。
 彼女は僕の接近に気づいている様子がない。座っていると表現したが、むしろ倒れ込んでいると言ってもいい脱力した体勢に加えて、指先で地面をいじった痕跡も、そのデタラメな模様がダイイングメッセージに見えなくもない。どれもこれも、場所が場所なだけにただ事に思えないのだ。
 しかし、それらを差し置いて不可思議の筆頭は、やはり白色だった。日本人離れした肌の白さはもとより、セミロングに揃えた髪までも白銀に染まっているのはどういうことか。
 うつむき加減の顔を覗き込むと、瞼を閉じている。さらに注視してみると、目じりからは涙が流れていた。
「泣いてる……?」
 頬を伝って落ちようとする雫を、僕はとっさにすくってしまった。
 指先に、じわりと温かさが染みる。
「ん……」
 女の子がむずがる。
 僕はこの段になってようやく、ややこしい事態に置かれていると気付いた。夜の公園、人目のない茂みでふたりきり。女の子の側の事情によっては、よからぬ誤解が生まれるのでは。
 危機感を行動に移す暇はなかった。長い睫毛を何度か上下させたのち、女の子は目を開き、ぼんやりとした視線を向けてくる。そして、さもありなん、みるみる胡乱げな雰囲気を帯びていったのである。
「あ、いや、違くて、怪しい者じゃないんだ。その、たまたま、なんとなく通りかかってさ。こんなところに人がいるとは思わなかったんだけど、外で寝てたら風邪ひくし、もしかして急病人なのかもと思って。それに、泣いてるみたいだったし……」
 弁明を聞いて、女の子が目じりを確かめる。濡れた指先を見て、初めて自分が泣いている事実に気がついたらしい。彼女は、僕に屈辱を受けたかのように上目遣いを向けながら、涙を拭った。
「見ましたね」
「え? ああ、ご、ごめん。でも、別に涙なんて恥ずかしがることじゃないと思うよ。あ、それとも寝顔を見られたのが嫌だっていう話? それも大丈夫、変な顔はしてなかったよ。むしろ驚いたのは、すごく顔立ちが整ってたからで……って、何を言ってるんだろう。ごめん、いまのは忘れて」
「違います。わたしの姿を見ましたね」
「……うん?」
「ずっと、ヒトに見つからないように注意していたのに。食糧がなくなって、生活がたちゆかなくなってからも、ひとりで頑張っていたんです。わたしみたいな下っ端のせいで情報が漏れたら、故郷に顔向けができません。ただでさえ、任務がまったく捗っていないのに……」
 並べられる言葉は、耳を通ってそのまま抜けていく。意味不明だ。
 しかし、女の子は現在、窮地に立たされていて、その原因が僕にあるらしいことは辛うじて読み取れた。
 女の子はこの世の終わりのように独白する。
「もう、取り返しがつきません。端のほうに隠れて野宿していれば誰も来ないと、油断をしていたのがいけなかったんです。まさか、夜遅くに人気のない公園を探し回る奇特なヒトがいるとは。いえ、言い訳はやめます。それもこれも、すべて己の無能さが原因なんですから。夜遅くに人気のない公園を執拗に嗅ぎまわる変態がいるということを想定できなかったわたしが――」
「わーっ、やめてくれよ! 状況が全然つかめないけど、僕の立場がどんどん悪くなってることだけはわかる! とにかく、僕は君に敵意はない!」
「いいえ、きっと仲間を呼んでわたしを連れ去る気でしょう。トレンチコートを着た大人たちがやってきて、手を握って両脇に立つんです。そして、わたしを隅々まで解剖し、得た情報を世間に発表して……。そんな恥を晒すくらいなら、先に自殺します」
「どういう被害妄想だよ。待ってくれ待ってくれ。わかった、とにかく、隠れてたのに見つけられたのが気に入らないんだな。だったら、僕が見なかったことにすれば解決だ。ここを離れたら二度と思い出さないし、他の誰かに話したりもしない。僕と君は出会わなかった。そういうことにするから、いいだろ」
 言いながら後ずさりしようとすると、腕をがっしと掴まれる。
「うわべだけの言葉では、信じられません。あなたが嘘をつかない保証がありませんから。いいえ、きっと嘘に決まっています。わたしと別れるなり交番に駆け込んで、見聞きことを洗いざらい話すつもりなんでしょう。翌日には盾を装備した機動隊が周りを取り囲んでいるに違いありません。そんなことになったら、わたしは……。ああ、向こうにちょうどいい高さの崖がありましたね」
 女の子が猫背になって、展望台の柵に向かっていく。今度は僕がその腕をがっしと捕らえた。
 どうにか、東屋のベンチに座らせる。
「待ってくれ、オーケー、話し合おう、夜を徹して! 話し合えばきっとわかりあえる!」
 二つ平行に並べられているベンチのもう片方に座り、対面のかたちをとる。両膝を打って、できるだけ明るく話しかけた。
「正直、未だに事態が飲み込めない。でも、こうなったからには、お互い身内だと思って腹を割ろうよ。
 ほら、まずは自己紹介しよう。僕は八城陸人。近所にあるビップ学園に通ってる二年生。ヤング通りにある『キボン』っていうパブでバイトもしてる。趣味は工作全般。
 君は? 外国から来たのかな。日本語すごくうまいけど。君って呼び続けるのもなんだし、名前とか教えてもらえると助かるんだけど」
「言えません。機密事項なので」
 女の子はうつむいたまま切り捨てる。
 ちょうどそのとき、キュウという可愛い声で彼女の腹の虫が鳴いた。
「うぅ……数日、食べていないので……お腹が……。死んでしまう前に、動物の肉が食べられたらよかったのに……。贅沢は言いません……高級品でなくてもいい……せめて、加工された魚肉でもいいから食べられれば……うぅ……」
 言いながら、視線の矢印は一点に向けられている。
 僕の手には、完全に食べるタイミングを逃して、聖火のように握られている魚肉ソーセージがあった。
「よかったら、食べる?」
 仕方なく、唯一の晩飯を差し出す。
 女の子は鼻をぐずらせながらそれを受け取った。
 そして、さっそく食べようと包装を検分するのだが、スムーズにいかない。
 まずは切れ込みを探しているのか、回しながら全体に目を通す。芳しい成果が得られないとみると、今度は縦に入った継ぎ目をつまんで引っ張る。しかし、これもうまくいかない。頑丈さに手こずり爪を立ててみるのだが、そうすると継ぎ目のはみ出した部分だけがちぎれて端緒を失う。しまいに両端の金属部に挑戦してみても、ビクともせずに指を痛める。
 長い悪戦苦闘ののち、女の子は滂沱の涙を流した。
「ひどい……ひどい仕打ちです……」
「貸せよ! 開けるから!」
 ソーセージを奪い取る。猛犬さながら歯を立て、頭を振り乱して包装を破ってやった。
 ようやく女の子が食べ始める。
 腹が空いたと言うわりに、目の前で繰り広げられる食事風景はおしとやかだった。満腹中枢を刺激したいのか、ゆっくりと味わうように食べ進めている。おかげで『綺麗な女の子が細長い棒を繰り返し咥える様子』を眺められたのだが、僕のなかでのカテゴライズは『綺麗な女の子』から『ヤバい女の子』に移行しかけていたので複雑だった。
 彼女には、言動以外にも奇妙な点があった。服装だ。
 どこからどう見たって、秋空の下で一夜を過ごす恰好ではない。肩が大胆に露出したワンピースの丈は短く、生足が見えている。そのくせブーツと長手袋を身に付けている季節感不明な服装は、金色の刺繍からなにから、普段着の様相がまったくない。まるで、着付け途中のお姫様を攫ってきたかのように見える。
 一体どこからやってきたのだろう。気になるが、本人に明かすつもりはないらしい。
 やがて最後の一口を嚥下してから、女の子は言った。
「わたしは、こことは別の世界からやってきた異世界人です」
「うわぁ、勝手に喋りだした!?」
 ベンチに横になりかけていたところで、僕は飛び上がった。
「機密事項って言ってなかった?」
「気が変わりました」
「魚肉ソーセージ一つで……。まあ、話してくれるならなんでもいいか。
 でも、異世界人っていうのは? 君、たぶん外国……だから、ええと、フォーリンカントリーから来たんでしょ。だったら日本語では異世界人っていう表現はあんまりしないな。外国人でいいんじゃない。あ、じゃあ、機密事項っていうのも個人情報くらいの意味で使ってるのか」
「いいえ。わたしは日本人ではありませんが、言葉のニュアンスを理解しているつもりです。外国人でなく異世界人と言ったのは、そのほうが正確だからです」
 女の子はネイティブな日本人と同じく『ニュアンス』をカタカナ発音した。
「どういうこと?」
「あなたが知る限りの世界にわたしの故郷はありません。例えばアメリカや、南極、火星にも。探査機や衛星を使って宇宙をくまなく探しても見つけられない。言うなれば、存在位置の層そのものが違うんです」
「へ、へぇ……。ところで、その服装ってなんのアニメ?」
 僕は思わず苦笑いしてしまった。
 女の子は質問を無視し、大真面目な顔のまま続ける。
「わたしがやってきた理由を一から話します。
 わたしの世界にもこの世界――便宜上、あなたの都合に合わせて前者を異世界、後者を現世界と呼びます――と同じく様々な種の生物がいて、そのなかで、わたしは“ネアリオ”という種に属しています。
 種族の名の由来でもありますが、わたしたちには個体の内から発生する“ネアリアル”という独自のエネルギーがあります。現世界の概念を当てはめれば……魔力、がイメージしやすいでしょう。
 ネアリオはこのネアリアルを基礎にして文明を築いてきました。いまや日常生活や軍事活動、芸術活動などあらゆる場面でネアリアルは欠かせません。
 それは翻せば、ネアリアルを失うと文明全体が瓦解するということでもありますが、そのことはネアリオにとって弱点には成り得ないはずでした。なぜなら、ネアリアルは多寡の違いはあれど、ネアリオの全個体に内在する力で、ネアリオがネアリオという種として繁栄する限り、ネアリアルが尽きることはないからです」
「ややこしい、ややこしい。ネアリオとネアリアルがややこしいんだよ」
 ツッコミを入れるのも意に介さず、話は続く。
「ネアリアルという豊富なエネルギーを背景にして、食糧にも恵まれていたネアリアル、あ、間違えました、ネアリオは「ほら、自分で間違えちゃ「ごほん、ネアリオは着々と数を増やし、支配を広げていました。
 ところで……北、に遠く離れた土地には、別のィユニュルという種がいました。彼らは気候変動、寒冷化に伴って食糧を失い、元から繁殖効率が悪かったことも手伝って、絶滅の危機に瀕していました。ネアリオとは対照的な状況でしたが、寒冷化の波から逃れるように大移動を開始し、辿り着いた場所は同じだったんです。ネアリオとィユニュルの生活圏はいつからか重なってしまいました。
 ィユニュルはネアリオからすれば恐ろしい容姿をしていましたが、一方でネアリオと変わらない知能を持っていました。遭遇の初期には拒否反応的な諍いと同時に言語コミュニケーションが図られ、宥和の道も探られていたんです。将来は、衝突を繰り返しながらも二種が交わっていくのだろうと、民意が形成され始めた頃にある事実が判明しました。ィユニュルは地理上の版図に留まらず、自らの形質をも変化させていたのです。
 結論を言いましょう。ィユニュルは突然変異によって、ネアリオを喰うことでネアリアルを取り込み、繁殖力を高める体内機構を身に付けました。つまり、ネアリオを餌とするようになったんです。
 また、ネアリオを捕食した個体は、味覚を超越した至上の快楽を得ると言われています。彼らの理性はともかくとして……遺伝子、は協調を選ばなかったのです。
 結局、ネアリオとィユニュルの争いは、種の保存を懸けた全面戦争になりました。
 ィユニュル一個体の強さはネアリオを大きく上回りますが、技術力や兵の総数においてはネアリオが圧倒しています。戦争はいずれ、ネアリオの勝利で決着するでしょう。
 しかし勝ち目が薄いとみるや、ィユニュルのなかには逃げ出す者たちがいました。どこへか……わかりますよね。そう、現世界です。
 先ほど、現世界の宇宙をくまなく探しても、わたしたちの故郷は見つからないと言いました。しかし、そのことは現世界と異世界との物理的距離が遠いことを示すわけではありませんし、行き来の難しさを示すわけでもありません。実際に、わたしはこうして現世界に来ています。
 ほんの少し見る角度を変えればわかること。現世界と異世界はむしろ、あらゆる意味で近しいんです。二枚の紙がピッタリ重ねて射止められているような。なかでも――わたしを見ればわかるでしょう――ヒトとネアリオは創造主の作為を信じずにはいられないほど似通っています。
 ともあれ、ネアリオ側からすればィユニュルの逃走を看過できません。戦争で、ィユニュルの家族や友人は数え切れないほど死にました。放っておけば強い憎しみを抱き、ネアリオにとって必ずやっかいな敵になります。
 だから、現世界に逃げ込んだ残党は番一つ残さず抹殺しなければならない。それがわたしに課せられた任務です。
 実は、この任務は、異世界での戦いが終息してから行われる予定でした。それを、主戦場の戦力を手薄にしてまで並行するのは、逃げ出したィユニュルの再興が当初よりも早くなるだろうと発覚したからです。
 ィユニュルが現世界を避難先に選んだのは、単に行きやすかったからだけではありません。そこには種を立て直すために必要な要素――豊富な食糧があると知っていた。いわば、本能の導きです。
 さっき言いましたね、ヒトとネアリオは創造主の作為を信じずにはいられないほど似通っていると。もうわかりますか? あなたたちヒトもまた、ネアリアルを秘めているんですよ。まだ自覚していないというだけで!」
「ふわあ!?」
 突然の大声に意識が持ち上げられる。知らないうちに船を漕いでいた。
「……とても重要な話をしています」
「いやだって、長いから」
「…………」
「じょ、冗談だよ。大丈夫、内容も聞いてたって。
 要するにこういうことでしょ。僕が知らないところに、僕が生きているのとは別の世界がある。そこには元々ィユニュルっていう悪いやつらがいて、こっちの世界に入り込んで人間に危害を加えようとしている。君はそいつらを倒して両方の世界を救うためにやってきたスーパーヒロイン」
「いくつか間違った認識があります。でも、つまりはわたしの話を信じてくれるんですね」
「いいや、全然」
 宣言すると、女の子の無表情がしかめ面に変わった。
 少し心が痛むが、以後の対応のためにハッキリさせておかなくてはいけない。
「君の言いたい『設定』は大体わかる、お約束だから。でも、それは映画や漫画のなかのお約束だ。僕だって現実とファンタジーの区別くらいつく。
 話を聞く限りだと、君はネアリアルっていう魔法みたいなやつを扱えるんだろ。だったらいまここで、ビームでもなんでも出してみてくれ。実際に超常現象を目の当たりにしたら、本当だって信じられるかもしれない」
「それは……」
 女の子は気勢を失い、目を泳がせた。「できません」
「だよな」
 別に、責める気にはなれなかった。僕にだって、まったく身に覚えがないわけではない。満たされない欲求を埋め合わせるための誇大妄想。重度になれば、手頃な文化知識を増幅器にして電波を発し、無限に黒歴史を生産する。
 多くの人が中学生くらいには通る道だ。彼女はちょっと重症で、長引いているのだろう。
「たぶん君、本当は親と喧嘩して家を出てきたとかなんだろ。うちも結構ろくでもない家庭だから、気持ちはわかる。でも、さすがに準備が足りないよ。見たところ手ぶらだし、せめて宿くらい確保しておかないと。現に食糧も尽きて死にかけてたわけだし。だから、今回は割り切って、大事になる前に帰ったほうがいい。帰りの交通費が足りないんだったら少しくらい恵んであげてもいいから。ごっこ遊びは、終わりにしよう」
 なるべく穏便に、目を覚まさせてやろうと思った。親切のつもりで言ったのだが、女の子は不服そうだった。声を震わせながら、膝の上でこぶしを握っている。
「……したんですね」
「え?」
「騙したんですね。わたしから情報を引き出しておいて、逃げる気なんですか」
「待ってくれ。情報を引き出すって、自分で勝手に話したんじゃないか」
「いいですか。現在はィユニュルと敵対している関係上、ヒトとは利害が一致します。しかし、ネアリオはあなたたちを仲間とはみなしていません。他種とのみだりな交わりはやがて、新たな戦争の火種になる。そう、経験で知っているんです。ヒトが異なる世界について知り過ぎれば境界が揺らぎ、混沌が訪れる。
 あなたは事情を知った以上、責任を負わなければいけない。逃げるつもりなら、わたしは実力行使するつもりです。日本にはこういうことわざがあるそうですね。『死人に口なし』」
 女の子がゆらりと立ち上がる。ついでに、人を殴り殺すのに必要十分そうな石を足元から拾っていた。持ち上げた片腕はみるからに細いが、意気込みはバッチリという感じである。
 イカれてる。
 僕は認識を改めた。こちらの常識が通じない相手に論を説いてもしょうがないのだ。自分の身を守るためには、理屈を捨てて折れなければならないときもある。
「ま、待った。わかった、言うことを聞くから。僕はどうすればいい?」
 両手を上げて降伏を示す。
「秘密を漏らす危険因子には、死んでもらうのが最善です。でも、もしも、あなたがどうしても生きたいというのなら、ネアリオに全面協力する意思を見せることです。害意がなく、口が堅く、さらに助けになることをアピールすれば、生きることくらいは許されるかもしれません。
 たとえば、そうですね……。現地で任務にあたっている者に拠点を与え、継続的に食糧を提供する……とか」
 魚肉ソーセージの抜け殻に視線を向けて、女の子は言った。
「つ、つまり、君を養えと……?」
「いいんですか?」
「いや、その」
「いいんですね?」
「…………はい」
 食い気味の要求に押され、がっくりとうなだれる。
 実際、宿なしで寒そうな娘を放っておくつもりはなかったのだ。本人がいいなら一日や二日、家に匿ったって構わない。問題は、果たして彼女の滞在が一日や二日で済むのかということだが。
 僕はとてつもない凶兆が膨らんでいくのを感じながら、山並からかすかに覗く陽光に目を細めた。

     

(四)

 こそこそと人目を避けて家に戻り、駐車場に車がないことを確かめたときには日が高かった。
 あのあと、宿泊を取り付ければ用済みとばかりに、女の子の饒舌はなりを潜めていた。初対面の相手に黙られると僕からも話しかけづらい。だから長いこと太陽とにらめっこしていたのだが、玄関に入ってようやく口を開く機会がきた。
「待って待って、靴!」
 女の子は、ブーツのまま上がり框を超えようとしていた。
「ああ、日本では脱ぐんでしたね」
「頼むよ」
 本気の勘違いなのか冗談なのか、貼り付けたような無表情からは読み取れない。
「ついてきて」
 訝しみながら、二階の自室に案内する。
 自室は4.5帖と手狭で、来客を迎える準備もない。女の子には学習椅子を使ってもらい、僕はベッドの上の置時計に目をやる。
「取りあえずは部屋でおとなしくしておいて。僕は学校に行くよ。歳は同じくらいみたいだし君も本当は通ってるだろ、学校」
 すでに授業の大半は終わっている。徹夜の頭で残りに挑んだところで成果はないだろう。しかし、志麻子に大口を叩いたからには全休は避けたい。
「学校。わかります。ネアリオにも同じような施設がありますから。大勢の子どもたちを集めて、共同体の一員としての思想教育を施す。要するに、テイの良い洗脳ですよね。知恵づく前に首輪をかけるという意味では、うってつけだと思います。傍から見れば、同じような立場の大人と子どもが首を絞め合っているんですから滑稽ですけど。気づいていますか、あの箱のなかは、恐怖の循環によって規範が成り立っているんですよ」
「急に早口になったな。まあ、うん、いろいろ察するけど。ともかく、今日に限らず平日は学校に行かなくちゃいけない。留守番は頼んだよ。あと、物盗りは勘弁してくれ。信じてるからね」
「あ、待ってください」
 釘を刺してから部屋を出ていこうとすると、呼び止められる。
「なに? 学校までついてくるなんて言わないでよ」
「あなたを見張りたい気持ちはありますが、やめておきます。でも、約束してください。わたしの存在や話した内容を、他の誰かに言いふらさないと」
「はいはい、言いふらさないって」
「……本当ですか? 信じられません」
「またそれか。そんなこと言ったってどうすればいいんだよ」
「口約束では信じられないんです」
 言って、女の子は椅子から立ち上がった。既視感のある、野良猫のような忍び足で距離を詰めてくる。
 僕は混乱する。いまは奪い取られる食糧も持っていないはずだ。
 至近距離で向き合う。伸びてきた両腕が僕を通り過ぎて、肩の辺りに絡みつく。
「ちょ、ちょっと?」
 女の子がつま先立ちになる。そのまま、鼻先が触れようというところまで顔が近づく。
 甘い匂いがする。体温が伝わる。吐息がかかる。
 負荷の大きい情報が一気になだれ込み、脳がパンクしそうだった。そして、一切の抵抗もできないまま、僕は侵略を許してしまったのである。
「ん……」
 唇に弾力のある感触。押し付けられて、わずかに唾液が混ざる。
 ――――――――。
 ホワイトアウトした世界が戻ったころには、事が終わっていた。
「ど、ど、どうして」
「こちらで男女が重要な約束を交わすときには、唇を合わせるものと」
「いや……」
「約束を守る気になりましたか。なっていないのなら、もう一度します」
「なった、なったから! 約束する!」
「よかったです」
「うん……」
 動揺を抑えつつ、逃げるように部屋を出ていこうとする。しかし、ノブに手をかけたときにふと思いついた。
「そういえば、大事なものを聞いてなかった。君、名前は?」
「フウリナ・メイクゥルネア・エピネスです」
 淀みなく言われて、渋顔になるのが自分でもわかった。まあ、予想の範疇ではある。ここでいきなり山田花子とか言われたら笑ってしまう自信がある。とはいえやはり、問わずにはいられない。
「それ、本名?」
「はい。フウリナ・メイクゥルネア・エピネスです」
「繰り返されても覚えられないけどね。わかったよ。じゃあ、短くしてフウリって呼んでもいい?」
 女の子は一瞬、虚を突かれたような表情をした。
「あれ、だめだった?」
「いえ、問題ありません」
「それはよかったよ」
 僕は今度こそ部屋を出る。
 後ろ手にドアを押し、しっかりと閉まった音を確認してから、
「キスしてから名前を聞くなんて、ぜったい順番間違ってるよなぁ……」
 呟いた声が、無人の廊下に吸い込まれた。

     

(五)

 終業のチャイムが鳴ってもまだ、僕は夢うつつをさまよっていた。寝不足特有の気怠さがまとわりついている。
 しかし一方で、頭の片隅にはそわそわとして落ち着かない部分もあった。
 今朝の、あの口づけがフラッシュバックする。甘い匂い、体温、吐息。最後には、唇に伝わる感触。
「初めてだったんだよな……」
 男のファーストキスに価値などないとわかっているが。
 懊悩する。キスのひとつで、僕はすっかり正気を失ってしまったらしい。
「おい、陸人、大丈夫か」
 横を見ると、優作が立っていた。
「うわあ、いきなり話しかけるなよ。驚くだろ」
「さっきから何度も呼んでたんだが」
 優作は珍品でも鑑定するようにして、僕の額に手のひらを当てた。
「お前、病気じゃないのか? 陰気に独り言を呟いてるかと思ったら指で唇をなぞったりして。気持ち悪かったぞ」
「うるさいな、放っておけよ。だいたい、どうして優作が二組の教室にいるんだ」
「部室を覗いたら珍しく無人だったからな。お前こそ、居残りの用事でもあるのか?」
 見渡すと、教室に残っているのは数人だけだった。その数人も全員、机に向かって作業している。貰った宿題は教室で終わらせるという、怠惰なんだか勤勉なんだかわからない連中だ。
「なあ、優作」
「なんだ?」
 重たい瞼を持ち上げながら、僕は言った。
「これは真剣な話なんだけど……。実は、この世界に危機が迫ってるんだ」
「は?」
「優作を頼もしい親友と見込んで話をするよ。あのな、知らなかっただろうけど、僕たちが生きているのとは異なる世界っていうのが、別次元に存在するんだ。最近、その異世界から侵入した敵性生物が街に潜んで、夜な夜な人を喰っている。つまり人類滅亡の危機だ。マジでヤバい。
 でも、希望はあるんだ。同じく異世界からやってきた別の生物が、秘密裏に敵性生物を駆除してくれているらしい。もしも機会があれば、僕たち一般市民は、味方である生物に対して手助けをしてやるべきじゃないか。
 ……っていうようなことを僕が言ったら、優作はどう思う?」
「お前の頭が狂ったんじゃないかと思うだろうな」
「だよな」
 だから、こんなことは秘密にする必要すらないのだ。
 僕は机の上に両腕を敷いて伏せった。
 優作の反応は至極まっ当といえる。僕自身も、冷静な部分では同じ感想を抱いているのだ。わずかでも理性の綻びがあるとすれば、それは唇から入った亀裂だ。だって、初対面の女の子からキスをされるなんて、思春期の男からすれば世界の危機と変わらない異常事態じゃないか。
「よくわからんが、悩んでるなら街に出て気晴らしでもしたらどうだ。俺は買い物の用事があってな。一緒に来るか?」
「うーん……」
 体調不良を理由に断りかけて、僕も買い物が急務であることに思い至る。
「行くよ」
 荷物を持って、優作の後ろについていった。

     

(六)

 街での買い物を終えたあと。
 地元の駅を出て、僕らは立ち止まった。
 周辺は会社帰りのサラリーマンで賑わい始めている。人波を避けるため、出入りぐち正面に立つモニュメントに背をつく。
 鉄の棒で編まれた、ねじれた形の壺みたいなモニュメントは現代美術というやつなのだろうか。意味の解らないデザインだが、とにかく目立つので待ち合わせに使われる。
 仕事終わりにデートへ向かう社会人カップルを見送りながら、優作が言った。
「もしかして、昼間は女関係で悩んでたのか?」
「なんだよいきなり」
「いや、やけに別行動で買い物したがるから怪しいと思ってな。女へのプレゼントで悩んでいたのかと。一体、何をそんなに買い込んだんだ」
 優作が靴屋の袋ひとつに対して、僕の荷物は大量だ。複数の店舗で買いあさった品々は、大きい紙袋ふたつにまとめてある。持ち上げているだけでも乳酸が溜まる重さなので、いまは石畳の上に置いていた。
「なんだっていいだろ」
「そういえば昨日、元原が部室に来てたな。ようやく付き合うことになったのか。だったら隠すな。別に茶化したりしない。下手な隠し方をされるとこっちが気を遣うんだ」
「はあ、志麻子と? トンチンカンなこと言うなよ」
「なんだ、違うのか。なら、別の娘と? いやしかし、それは義理に欠けるんじゃないか。人の色恋に口を挟むつもりはないが、筋ってものを通しておかないと後から面倒だぞ」
「だから違うってば。そもそも、志麻子とは付き合いが長いだけで恋愛感情とかはお互いないから。あいつが僕に構うのはただのお節介焼きだよ。たまにいるだろ、人のことに首を突っ込んで、あれこれ説教したがるやつ。
 ああ、そういえば、きのう部室からさっさと逃げ出したのって、変な気を回してたんだろ。やめろよしょうもない」
「うーむ……。まあ、俺から勝手な配慮は差し出がましいか」
 優作はまだ言いたげだったが、吹っ切るように限定品のスニーカーが入った袋を持ち直す。
「今日はここで解散にするか。夜道には気をつけろよ、最近は治安が悪いからな」
「ああ、また明日」
 挨拶を交わし、別々の方向に分かれる。
 置いてあった荷物を持ち上げると、二の腕に重さがのしかかる。
「優作のやつ、妙なところで鋭いな」
 両手に提げた袋の中には、指摘通り女の子へ渡すものが大量に詰まっている。ただし恋人へのプレゼントではなく、同居人への貢ぎ物という表現が正しいが。
 駅前の繁華街を離れると途端に人通りが絶える。
 やがて、ヤングビップ橋にさしかかった。
 ヤングビップ橋はプゲラ川を渡す幅広のトラス橋だ。天気が良ければ有名な霊峰を眺められる場所だが、橋の下の河川敷は陽の当たらない死角になっている。そのため、粗大ゴミが大量に不法投棄されて問題になっていた。
 最近では役所が腰を上げて、ゴミの撤去とともにホームレスの追い出しも敢行したのだという。橋の上には地域自慢の景色があって下には淀んだ現実、という対比は興味を惹かれる皮肉であり、故に苦情も多かったのだろう。とはいえ、目を塞いだら貧困が消えてなくなるわけでもないだろうに。
 そんな経緯があったから、橋に差し掛かって不審な声を聞いたときには、ホームレスが抗議活動でもしているのだと思った。しかし、よく耳を傾けると声は女性のものらしい。すすり泣きと悲鳴の中間のような、不吉を孕んだ響き。
「イマドキ女子のあいだでは、外で泣くのが流行ってるのか?」
 僕は帰宅の足を止めて引き返す。堤防の斜面を降り、橋の下側へと入っていく。スマホを握りしめて、液晶の光を懐中電灯がわりにして進んだ。
 奥まりに入っていくと、だんだん不安になってくる。
 もしも暴漢に襲われている女性がいたとしても、非力な僕では助けられない。警察に通報する準備くらいしておこうか。番号をタッチする手が汗ばんでいた。
 声は断続的に続いている。発生源に近づいていくにつれて、女性の声以外が混ざっているのがわかった。水気を含んで不規則な、まるで生肉を調理しているときのような音。
 この時点でもう、僕は引き返した気持ちでいっぱいだった。しかし一方で、後ろ暗い好奇心の炎には次々薪がくべられ、足を加速させた。
 ほとんど駆け足になって深部に辿り着く。そして、見てしまった。
 大々的に撤去を行っても懲りない住民はいるらしい。暗所にはゴミが積み上げられている。
 放置自転車、家具類、中身の詰まった黒いビニル袋。
 人の捨てたゴミだけならばよかった。
 うずたかく積まれたガラクタの手前に、乱暴にちぎられた生肉が散らばっている。
「ぁ……ぁぅ……ぁぁ」
 声は肉片のひとつから聞こえた。
 二十代くらいの若い女性だ。
 彼女の下半身は胴体と辛うじてつながっていた。抉られたような傷が至る所にあり、鮮血をぶちまけている。
 女性はうつ伏せに這いつくばった体勢で、濁りかけた眼を僕に向けている。助けを求めているのだ。
 全身から血の気が引いていくのがわかった。悲鳴を漏らさなかったのは平静を保っていたからではなく、声帯が固まってしまったからに過ぎない。
 解体された肉は一人分だけではない。女性の周囲には他にも大量に転がっている。大半は彼女よりも悲惨な有様で、形を留めていないものも多い。
 心拍が早まるにつれて、呼吸が難しくなる。
「つ、通報しないと」
 自分を励ますように絞り出す。
 気を失ってはいけない。
 事態はつかめないが、眼前の光景は何らかの災いによってもたらされたに違いない。いま気を失うことは危険だと直感していた。
 番号はすでに入力してある。あとは通話ボタンを押すだけ。硬直した親指をどうにか動かそうとしたとき、
「グフフ、知らない餌が紛れているなぁ……?」
 妙に甲高い、間の抜けた声がした。
 暗がりの中から、闇を引き延ばして現れた影。
 いなかったはずのものが、足音もたてずにそこにいる。
 全身を覆い隠す黒のローブを纏い、顔は目と口を三日月にくり抜いた仮面で隠されている。
 道化と呼ぶにはあまりに禍々しい。
 まるで死神のようだ、と思った。
「少し待っていなさい。調理は順番にしないと落ち着かなくてねぇ」
 死神は僕に向かって言う。
 声色は男らしかったが、人間の性別を当てはめることに意味はない。一目で確信している。こいつは、人間ではない。
 ローブの袖からは返り血のついた刃物が飛び出している。三尺以上はあろう巨大な獲物には切っ先がない。戦いのためではなく、相手を一方的に切り刻むためのエクスキューショナーズソード。それを引きずって、女性の首を落とす。本当に、なんの感慨もないような手つきだった。
 女性は、胴体と切り離されてから驚愕を表情づくった。スプラッタ映画の一コマを見ているようで、現実感がない。
 死神は剣をハエ叩きの要領で使い、蚊の鳴くような断末魔ごと頭蓋を叩き潰した。鈍い音とともに、脳漿が飛び散る。
「次はお前だ」
 仮面の隙間から覗く蛇目が、ぎろりとこちらを向いた。
 瞬間、金縛りが解ける。
「うわああああああああっ!!」
 ちぎれんばかりに脚を動かし、来た道を全速力で引き返す。
 駆けだしてすぐ、僕は恐怖に負けて振り向いた。
 背後では、死神が棒立ちで剣を持ち上げている。いかにリーチが長くても、すでに間合いは十分にとった。大丈夫だ。逃げ切れる。
 振り上げられた剣が、そのまま地面に下される。力なくコンクリートを叩いた音は降参の合図だと思ったが、違った。
 僕は見た。
 武器と地面の接地部分に陰が凝集していく。ペンキをぶちまけたような無秩序な模様がやがて一つの塊となり、それ自体が意思を持っているかのように蠢きはじめる。
 あれは僕を狙っている。理解したときには遅かった。
 地に現れた絵画が大蛇のように這いずり、向かってくる。速度は僕の脚力を凌駕していた。あっという間に、股の下に入られる。
「うわぁ……っ」
 いきなり脚のバランスが崩れた。
 黒に侵食された部分はコンクリートのはずなのに、沼のように沈んだ。踏み込んだ足裏を取られ、あっさりと膝をつく。しかし、ついた膝すら粘性の液体のなかに沈んでいくのだ。
 トリモチに捕まった虫のようにもがく。
 背後では処刑人が近づいている。カラカラと、剣を引きずる金属音が線を描いて向かってくる。
「なんなんだよ、あいつは! ああ、そうだっ、フウリ……」
 この現実離れした状況はまさに、彼女の話を裏付けるものではないか。人が生きる世界に化物が紛れ、災いをもたらす。やつこそがィユニュルとかいうやつなのだ。フウリは真実を話していた。ならば、彼女が敵を討つ救世主であることも真実のはずだ。
「フウリ、フウリならあいつを倒せるはずだ」
 僕は手に持ったスマホを操作する。
 まずは電話帳を開くが、そういえば連絡先交換などしていなかった。
 仕方なく、家の電話番号を入力する。受話器をとってくれる望みは薄いが、他の方法は思い浮かばなかった。
「グフ、助けを呼ぶのか。無駄無駄、お前はもう喋れなくなる」
 喋れなくなる?
 死神の言葉を聞いた直後、下半身が異常を訴える。
 黒い沼に浸かっている部位から、不快感がせりあがり、内側から押し上げられる感覚。まるで触手が這っているような。
 肌に脂汗が滲む。加速度的に進む不快は喉元まで来ていた。
「ぉごっ……うげぇ、げほっ、げほっ」
 体を折って嘔吐する。吐き出されたものは、胃の内容物ではなかった。脚を取っている未知の物質が体内まで侵食して、さらに這い出ようとしているのだ。吐き出しても吐き出しても、際限なく。口内を満たし、気道を塞ぐ。
「……っ……ぐぅ……」
 たまらず口に手を突っ込んで引きずりだすが、それでもキリがない。
 脳に送られる酸素が減っているのがわかった。視界が暗くなり、強烈な死の予感が押し寄せる。
 取り落としたスマホが何度目かのコールを鳴らしている。
 黒色の涙を流しながら、僕は後悔していた。
 僕がフウリと出会ったのは、きっと運命だったのだ。彼女の話を真剣に聞いて、ィユニュルへの対策を打っておくことが唯一、救われる道筋だったのではないか。神様から垂らされた糸を、僕は自らフイにしてしまった。
 しかし、そんな後悔すらも、もう遅い。僕は何者にもなれないまま死んでいくのだ。
 せめて苦しむ時間が短く済みますように。祈るような気持ちで目を閉じたとき、後方で誰かの声が聞こえた。
「≪Hear attentively the noise of his voise≫」
 ――雷鳴が、弾けた。
 眩い光が、瞼を貫いて突き刺さる。爆発じみた轟音が地面を大きく揺らした。
「ひいいぃぃぃぃぃ! 腕がぁっ、私の腕があぁぁぁっ!」
 次に聞こえてきたのは死神の悲鳴だった。同時に、口内を満たしていた物質が煙のように消え失せる。
「っ……はぁぁぁっ」
 肺が欲していた空気を大量に取り込み、肋骨を繰り返し膨らませた。
 何が起こったんだ? 僕は恐る恐る目を開ける。
 一帯はまだ光に満たされている。死神はその輝きに喰われたかのように、片腕を削り取られていた。赤色の血液ではない、紫色の体液が大量に流れている。傷口を抑えて呻く姿からは、先ほどのまでの威容は失せていた。
 この場における狩人の立場は取って代わられていた。死神の正面には、光を受けて陰影を強くする人物。
「陸人、立てる? 立てるなら、走ってなるべく遠くに逃げて」
 聞き馴染みある声の主はすぐわかった。僕に世話を焼くときのトーンは、いつも同じだから。
「志麻子」
 学校の制服を着ているのかと思ったが、よく見ると違う。ブレザーの質感は似ているが、白地に蛍光の青線が入った近未来的なデザインは見覚えがない。肩に掲げられた盾のシンボルマークにも。
 さらに注意を惹いたのはその周囲だ。
 志麻子の四肢や頭上など至る所に、武器や鎧を模した、とにかく物騒な機械が纏われている。磁力を思わせる動きで滑空するそれらは、志麻子を中心にしてSTGのオプションのような働きをしているように見えた。
「ほら、陸人ったら」
「こ、腰が抜けて逃げられそうにない」
「わかった。だったらそこで伏せてじっとしてて。すぐに済ませるから」
 言うが早いか、彼女の隣に浮く、剥き出しのターボエンジンのようなパーツが光った。
「≪Hear attentively the noise of his voise≫」
 再び雷撃。炸裂する音と光。凝視してみても、攻撃の軌道を捉えられない。
 壊れたコンクリートが粉塵になって舞い上がる。視界が晴れると、死神は虫の息だった。膝をつき、胸部に空いた穴と仮面の口の隙間から体液を溢れさせている。
「思ったよりしぶといわね」
「グォォ……。き、貴様、例の“協力者”だな。その聖籍せいじゃく、誰から譲り受けた」
「さあ? 教えられない」
「毛のない猿風情が、過ぎた力を振り回しおってぇ……。あげく私が殺されるなど、あり得ない。あってたまるものか」
「でも残念、これが現実よ。あなたは、いままで見下して、蹂躙してきた種族に葬られるの。覚悟しなさい」
 志麻子の宣告に呼応するように、機械群が布陣を整えはじめる。
「ま、待て。わかった、態度を改めよう。私を生かしておいてくれるなら、相応の対価を与えると約束してやる。貴様らが喉から手が出るほど欲しがっている情報がいくらでもあるぞ、グフフ」
「…………」
 浅ましくへつらいだした死神に、志麻子は冷たい視線を向けた。
 次弾への準備は止まらない。鎧だったパーツが音を立てながら、解体し、接続し、背中に銀色の翼を展開させる。
「あ、あ、あ……。ヒィーやめてくれぇー! 殺すな! 死にたくない! こんな理不尽があるか! 私は、私自身の使命を果たしていたまで! 貴様には手を出していないのに、どんな権利があって罰するというのだ!」
「あなたもよく知っているでしょ。この光は応報の光。罰するのは私じゃない。あなたは、あなた自身の罪によって裁かれるの」
「ヒ、ヒ、ヒィ、いやだ、死にたくない……。頼むぅ……頼むぅ……」
 ついに平伏した死神だったが、恐る恐る顔を上げ、志麻子の表情から望みのないことを悟ると、声を荒げた。
「グフハハ! いいか聞け、絶対に後悔させてやるぞ! 今生が尽きても、私はいつか必ず貴様を見つけ出して、殺して喰う! 皮と肉を剥ぎ、はらわたを引きずり出し、血の一滴残らずまで征服してやる! 覚悟しろ、貴様の身近な――」
 死神の遺言を待たず、志麻子は唱えた。
「≪He directeth it under the whole heaven≫」
 詠唱と同時に、銀色の翼が一斉に毛羽立つ。風切に当たる各部から放射された光線が空中で寄り集まって巨大な球となる。
 まるで、太陽が地上に降りてきたみたいだ。
 僕は眩しさに目をかばったが、それ以上に苦しんでいるのは死神だった。
「があぁああぁぁぁっ! 許さんぞ! こんな、必ず、き、さ、ま、を……」
 断末魔をあげ、頭を抱える手が指先からひび割れていく。時を早回しにしたかのように、その体は生命力を失っていた。
 輝きが急速に増し、臨界に達した球が爆ぜる。四方八方に飛び散った光線のひとつが向かってきて、
「うわっ」
 僕は伏せて丸まった。
 事はすぐに済んだ。蝋燭の火じみた残照のなかで、ゆっくりと自分を確かめる。攻撃が直撃したように思えたが、怪我はしていないようだ。
 よかった。胸を撫で下ろし、目をやった前方に死神だったものがあった。
 光に焼かれ乾ききり、灰と化した全身がやがて、微風に乗って霧散する。
 抜け殻になったローブと仮面、剣だけが地面に落ちた。
「ふぅ……」
 志麻子が息をつく。続けて小声で英語らしきものを呟くと、初めからなかったかのように機械群が消え失せる。こちらを振り向いたときには、女の子は十年来の幼馴染の姿だった。
「大丈夫? 怖かったでしょ」
「はは……。まあ、軽くトラウマかな」
 強がっておどけてみせるが、声が震えている。しかし、恐怖に先立つ疑問がいくつもあった。
「いやいや、それよりも志麻子がどうしてここに。というか、いまのはなんだったんだよ!」
「ここに来たのはたまたま、巡回のルートだったから。このところ事情があって、街の目立たないところにさっきみたいなやつらが潜んでいるの。私は、秘密裏に治安を守る組織の隊員ってわけ。
 でも本当に、間に合ってよかった。一足遅れてたら陸人、死んでたんだから。あ、ついでに言うと緑地公園も巡回のルートなの。私、ストーカーなんてしてないからね。……って、いま説明しても意味がないんだけど」
「え、どういうこと」
「全部、忘れさせるから。そういうわけで、トラウマのことも心配しなくていい。
 はあ、まったく、戦いよりも後処理の方が大変ね。剣も放っておくわけにはいかないし、処分しておかないと。ところで、あの荷物って陸人のよね。そう、じゃあ、持たせておく。ほら、動かないで、じっとしてて」
 言って、志麻子は僕の頭に手をかざしてくる。
 途端、脳みそを揺らされているような酩酊感が襲った。
「なんだ、これ……」
「大丈夫、一回だけなら大した副作用もないはず」
 意識に透明の膜が張り、志麻子の輪郭がおぼろげになっていく。発せられる声も、距離感がぐわんぐわんと定まらない。
「そういえば、ねぇ、陸人が忘れてしまうなら一度、言ってみたいことがあったの」
 辛うじて聞き取れる言葉に耳を傾ける。
 ひとこと、その一文はハッキリと届いた。
「私、陸人のことが好き」
「待っ――」
 問い詰める前に、世界は暗転してしまった。

     

(七)

 違和感があった。
 僕は、いつの間にか家の玄関に突っ立っていた。ふと靴箱の上の置時計に目をやると、デジタルの液晶が示す時刻は午後九時。駅で優作と別れた時間が八時頃だったから、やや時間が経ち過ぎている。駅から家に帰るまでのあいだ、寄り道はしなかったはずなのに。
 しかし、その部分がどうも判然としない。家に着くまでに、どこかに寄った記憶はないが、真っすぐ帰ってきたという記憶も曖昧だった。ひとりで歩く道のりを強く意識したりはしないが、それにしたって。
「うーん……。まあ、いいか」
 結局、時計とお見合いしながら首を傾けるだけで、違和感は捨て置いてしまった。
 紙袋を持って玄関を上がると、物音がした。居間のほうからだ。
 発生源を追って階段を横切る。扉をあけて食卓をのぞいてみるが、一見、誰もいない。
「あれ?」
 いよいよ不安になってきて、忍び足で歩を進める。
 物音の正体はすぐにわかった。なんのことはない、それはキッチンカウンターの裏に隠れていたのだ。
「フウリ、なにしてるんだ、こんなところで」
 しゃがみこんで熱中していたらしい彼女が振り返る。その口には剥き身の魚肉ソーセージが咥えられていた。包装を破ることには成功したらしい。
 手元では複数の棚が開かれて、物色された跡がある。
「いえ、これは」
「つまみ食い?」
「違います。……その、ちょっとした調査を」
「なるほど、キッチンの調査か。成果は得られたみたいだ」
「……わたしをいじめて楽しいですか?」
「うわ、開き直った。いじめるつもりはないけどさ。世界の危機を救いにきたっていう設定の割には、調査の内容が平和すぎない」
「まだ、わたしの話を信じてくれていないんですね」
「そりゃまあ、体験していないことを信じるのは難しいよ。仮に、フウリの言う敵――ィユニュルとやらに襲われて死にかけたりしたら、信じてもいいんだけど」
「ィユニュルに出くわせば、死にかけでは済みませんよ」
 言い訳をするのが面倒なのか、フウリは僕の横を通り抜ける。階段を上っていく背中を慌てて追った。
 僕の自室に着くと、フウリはいの一番にある一角へ向かった。
 学習机と隣接するサイドテーブルに、ひと抱えくらいの金網ケージが置かれている。彼女は腰を屈め、興味深そうに中の様子を窺う。
「ハムスターが気になるの?」
「ハムスター? これはマウスではないんですか。スペースや餌の観点で飼育しやすく、ヒトと同じく哺乳類に属することから生体実験に広く利用されている。……という知識を持っているんですが」
「自室でなんの実験をするのさ。そいつはペットだよ。ジャンガリアンハムスターっていう種類で、実験じゃなくて可愛がるために飼ってるんだ。名前は“ステイハム”、イカしてるだろ」
「ステイハム……」
 呟いた瞳に好奇の光が宿っている。
「この動物の餌を探すために、台所にいたんです。牢獄に閉じ込められた末に餓死でもしたら、巻き添えでわたしまで呪われそうですから」
「牢獄って。棘のある言い方するなよ。可愛がってるんだってば」
「ひどいエゴですね。この動物が一言でも、飼ってくれと頼んだんですか?」
「いや、頼まれてはいないけど……」
 面倒くさい。
 反論すると長引きそうなので、話を逸らすことにした。
「まあ、それはそれとして、人間の食べ物は塩分が濃いから、ハムスターの健康にはよくないよ。あと、餌は決まった時間にあげてるから、フウリは気にしなくていい」
「あ、そうですか……」
 露骨に残念そうな顔をする。
 どうやら餓死の心配というのは方便で、餌やりをしてみたいらしい。
「……まあ、絶対に時間厳守ってわけでもないし、やってみる?」
「え?」
 学習机の引き出しから、ひまわりの種が入った袋を取り出す。
「餌をあげてみるかって。怯えられてる様子もないし、手渡しでも食べるんじゃないか」
 種の一粒を受け取ったフウリは、生唾を飲み込んで頷いた。
 隙間から指を差し伸べると、ステイハムは躊躇うことなく近づいてきて、種を持って行った。それから中央に戻り、忙しそうに口を動かしている。
「わ……。本当だ、すごい。もう一回、もう一回やらせてください」
「ダメだよ。食べさせ過ぎると太るから」
 勘違いされがちだが、ひまわりの種はハムスターの主食ではない。脂肪分が非常に多い贅沢な食べ物なのだ。
 またもフウリが残念そうな顔をしたので、提案してみる。
「ステイハムが気に入ったなら、他の世話もしてみる?」
「他の世話というのは?」
「水を替えたり、ケージ内の掃除をしたり。やり方なら教えるよ」
「え、いいんですか、やります」
 間髪いれずに肯定される。
 それぞれの工程を説明してやると、フウリは熱心に頷いて聞き入っている。正直、掃除などは面倒でサボりがちになっていたので他の人にやってもらえるのはありがたい。しかし同時に、現在の構図は滑稽なものじゃないかとも思った。
 成り行き上、僕はフウリの世話をすることになり、フウリはハムスターの世話をすることになった。一方で僕もフウリも現在、自分の世話さえ十分にこなせているかといえば怪しいものだ。自分よりも他人に施しを与えるほうが、優先したくなるものなのだろうか。
 説明を終えても、しばらくは飽きもせずにケージを眺めていたフウリだったが、やがて床に置かれた紙袋に目を向けた。
「あれはなんですか?」
「ああ、今日は買い物をしてきたんだ。フウリってば、着替えも日用品も持ってないだろ。一通り適当に用意しておいたから、他に必要なものがあればそのつど言ってよ」
「わたしはネアリアルを用いてある程度、清潔や健康を一定に保つことができますが」
「また適当なこと言ってるな。……でも、言われてみれば放浪してたにしては肌とか髪とか――」
「肌と髪が、なにか」
「いや、なんでもない」
 きのう接近した場面を思い出して顔が熱くなる。
 なし崩しで受け入れていたが、同年代の女の子と一緒に暮らすというシチュエーションは改めて自覚しないほうがよさそうだ。薬局で生理用品を買うときには努めて心を無にしていたけれど、以降はこういう気苦労が増えるかもしれない。
「ところで、ずっと言おうと思ってたんだけど、フウリの服装ってめちゃくちゃ目立つよ。正体を隠したいっていうなら、普通の洋服を着たほうがいいんじゃないか。髪は……ウィッグを被るっていう方法もあるし」
「心配には及びません。家から一切出掛けなければ済む話ですから」
「人の家に引きこもる気マンマンだし……。でもまぁ、万一ってこともあるからさ。買ってきた洋服は貰ってくれないと困る」
 僕は紙袋の中から、さらに服屋のロゴが描かれた紙袋を取り出し、中身をベッドの上に広げた。
「女の子のファッションなんてわからないし、安いのをたくさん買ってきた。好きなものを選んで着ていいよ」
「好きなもの……」
 フウリはおっかなびっくりベッドに歩み寄ると、難しい顔をした。
「もしかして、全部気に入らなかったとか?」
「いえ、そういうわけではありません。自分の好みで衣服を選んだ経験がないので、基準がわからないんです」
「いま着てる服は?」
「あなたに親しみやすい言い方をすれば、学校の制服と似たようなものです。わたしは私服に当たるものを持ち合わせていません」
「一着も?」
「はい」
 フウリは平然と返事をする。
 またよくわからない嘘の一環なのか。しかし、彼女が恥ずかしげもなく着ている奇抜な服を鑑みれば、一般的なオシャレに縁がないことは頷ける。あるいは、そういった表に出しがたい個性を抑圧された反動が、家出という不良な行動なのか。僕は憐れみを覚えた。
「いい機会じゃんか選びなよ。初めての経験ってことで」
 進言に、小さく唸ったり頭を抱えたりしたフウリだったが結局、
「不可能です、わたしには選べません。陸人さんが決めてください」
 投げた匙をパスされてしまった。
「決めるったって……。さっきも言ったけど、女の子のファッションなんてわからないんだってば」
「わたしだってわかりません。けれど陸人さんはわたしに選べと命令しました。自分にもできないことをやらせようとしたんですか」
「ぐ……。あー、わかったよ、僕が決める。いいか、死ぬほどダサい組み合わせでも我慢して着るんだぞ」
「望むところです」
 なぜかふたり、喧嘩腰の口調になる。
 そして、今度は僕が頭を抱える番だった。
 実のところ、僕にはある程度の目星がついていた。元の服装が目のやり場に困るので、膝の下くらいまでは隠してほしい。フウリは美人だけどあどけない雰囲気もあるから、可愛い感じも似合うだろう。
 たとえば、この、腰にリボンが飾られたフレアスカートに、長袖の口を絞ったブラウスを合わせたりたら……よさそうだ。
 しかし、この場でそれらを披露することは、僕がフウリに押し付けたい趣味みたいなものを吐露することと同義なわけで、つまりどういうことかというと、死ぬほど恥ずかしいのだ。
 僕はなるべく無作為に選んだふうに服を取り上げ「店のマネキンはこんな感じの組み合わせだったような」とか適当な言い訳をしながら勧めた。
 幸い、馬鹿にされたりはしなかった。
「着てみてもいいですか?」
「うん。サイズ感とかあるし、やっぱり着てみないと」
 と、言い終わるや否や、フウリは着ている服に手をかけた。
「うわっ、僕の目の前で着替えるなよっ」
「? 陸人さんの背後に回ればいいんですか」
「違う! 僕は一旦部屋から出ていくから、着替え終わったら呼んでくれ」
「面倒ではありませんか?」
「面倒でもそうして!」
「……はい、だったら、わかりました」
 どっと疲れた気分で部屋を出る。
 そのままドアを背にして待とうとしたが、背後から衣擦れの音が聞こえて、もうやってられるかと階段を下りる。
「陸人さん、下着の着け方がわかりません!」
 頭上から呼びかける声には「頑張れ!」とやけっぱちで叫んだのだった。
 以降、着替えは手こずりに手こずったらしく、入室許可が下りたのは十分以上も経ってからだった。
 もしかして着替え途中だったりしないかと、何度も確認してから部屋に入る。
 フローリングの中央には、私服姿の女の子がいた。
「どうですか?」
 開口一番、フウリはスカートの端をつまんで感想を尋ねてくる。
 僕は不覚にも息を詰まらせてしまった。
「に、似合ってるんじゃない」
「そうですか」
 本当に、似合っている。出会ったときから鑑賞用の人形みたいな容姿だと思っていたけれど、普通の服を着るとかえって素材の良さが際立つというか。街に出るためとさっき言ったのを訂正したくなった。人混みに紛れても、隠し切れない可愛らしさだ。
「変なところがあるなら言ってください」
 黙りこくっていたのを不満があると捉えられたらしい。咎められて、僕は言い訳を探した。
「いや、違うんだ。変じゃないって。でも、そうだな、手袋は外さないの?」
 袖から伸びる腕には、サテン生地っぽい長手袋が着けたままになっている。
「これは、基本装備なので」
「その理屈もよくわからないけど」
「絶対に外さないといけないんですか?」
「いや、不自然ってほどでもないと思う。ほら、自分でも見てみなよ」
 部屋の隅にある姿見を持ってきてやる。フウリは木枠のなかに映る自分を物珍しそうに観察している。
 僕は急速に、居心地の悪さを感じていた。彼女と同じ空間にいるだけで、むずむずとして居ても立っても居られなくなる。同居生活を続ける自信を失っていく。
 フウリは背面まで細かに確かめたあと、小さな声量で言った。
「陸人さん、この言語表現が正しいのかよくわかりませんが、えと……あ、ありがとうございます」
 その頬にはほんのりと朱が射していて。僕は、今夜もぐっすり眠れないだろうなと確信したのだった。

     

(八)

 僕を不眠へと追い込んだのは、女の子と一つ屋根の下というシチュエーションだけではない。もっと直接的な原因として、居間のソファで寝るハメになったからだ。
 だって仕方がない。まさか自室のベッドに並ぶわけにはいかないし、客人をソファで寝かせるわけにもいかない。母親の部屋は空いていたが、これは使うのも使わせるのもためらった。繊細な男心というやつだ。
 おかげで翌朝の寝覚めは悪かった。折よく休日でなければ暴れていたかもしれない。
 僕にとって休日といえば、平日のツケを払う日だ。
 我が家には、常に家事をこなしてくれる人材などいない。しかし、溜まった仕事は誰かがやらなければいけない。誰とは僕だ。
 たっぷり昼近くまでだらけたあと、洗面所で。
「うぅん……やるしかないよなぁ……」
 洗濯籠に山のように積まれた衣類を前にして、僕は仁王立ちしていた。
 山頂付近には、フウリの服も挟まっている。
 入浴における作法はすでに叩き込んだ。脱衣時には洗面所の戸を閉めろ。風呂を出たら裸でうろつくな。しょうもないハプニングが起きる前に先手を打ったのだ。しかし、脱いだ服を洗濯籠に入れるなとは言えなかった。
 一目見てもう、視覚的な刺激がある。無造作に置かれたスカートとシャツはもちろん、僕が買ってきた下着が使用済みでいる様は背徳的ですらあった。
「やるしかないさ」
 僕は頬を張って作業を開始した。
 下着にはなるべく触れず、自分の衣類にサンドイッチして洗濯機に放り込む。
 次々に作業を進める途中、フウリが最初から身に付けていた、本人曰く『学校の制服のようなもの』が現れた。上下一体の構造で、スカート丈がやたら短いと思っていたが、捲ると中はレオタードみたいになっている。つまり、ちらちら見えていたのはショーツではなかったのだ。
 などと考察しているあいだに、僕は服を手に取って触れていた。
「……はっ、しまった。ダメだダメだ、邪念を捨てろ」
 自省して手を離そうとしたとき、あることに気がついた。
 表からは見えない、スカート部分の内側にポケットがついている。
「ん、中になにか入ってるじゃないか。危ないな、洗濯するところだった」
 手を突っ込み、取り出したのは見たことのない機械だった。スマホを一回り分厚くしたような形だが、液晶はない。外装はプラスチックっぽい素材で、絵も字も描かれていないボタンと小さな穴が複数確認できた。
 異世界のテクノロジーという割にはショボい気もする。とはいえ日常生活で見かけたこともないから、未知の機械には違いない。
 手がかりを求めて観察してみる。正面だけではなく、側面、背面と回して目視するが、他には何も見当たらない。大きさの割には軽いが、中身が入っている感じはする。振っても音はしない。
 液晶がないということは、パソコンの類ではないのだろう。小さな穴はネジ穴か、あるいはマイクやスピーカーか。後者なら電話の類似品という可能性もある。
 穴は思いのほか深い。奥を見るには光の加減を調節する必要があった。手に乗せた機械の角度を変え、照明に当ててじっと睨む。
 奥は網目状になっていた。おそらく、音声を入出力するのだろう。
 見当をつけて、凝視していたピントを戻したとき。
 洗面所の引き戸がわずかに開いて、そこから瞳が覗いているのに気づいた。
「見ましたね……」
「ひぃっ」
 狭い隙間から上半身をねじ込んでくる様はホラー映画さながら。僕は悲鳴を上げて後じさる。
 はずみで滑り落としそうになった機械を悪霊、もといフウリが奪い取った。
「い、いや、悪気はなかったんだよ。洗濯物のポケットに混じってて……。水で洗ったら壊れるかもしれないから」
「だからといって、自分以外の所有物を勝手にいじるのはいけないんじゃないですか」
「悪かったって」
 フウリは取り戻した機械を早々としまおうとする。
「ところで、それって一体――」
 言いかけたところを、上塗りして邪魔が入った。
 ブーッ、ブーッと。
 音量以上に神経をざわつかせるビープ音はまさに謎の機械から発せられていた。
 フウリはちょっと僕を見て、眉をしかめた後にそれを掲げる。そのまま、携帯電話のように使うのかと思いきや、耳ではなく頭に平らな面をあてがった。
「なにしてんの?」
 フウリは黙ったまま。瞑目して、集中しているのか微動だにもしない。
 見守ること数秒。
 ビープ音が鳴り終わると、フウリは機械をしまう。
「おーい……?」
 瞼が静かに持ち上がり、現れた瞳は焦点を失っていた。
 まるで催眠にでもかけられたよう。自失した状態のまま、今度は懐からメモ帳とボールペンを取り出した。見覚えのある男モノのデザイン。僕が知らないあいだに部屋からくすねたらしい。
 フウリはページを一枚破いて洗面台に置き、ペンを走らせた。
 内容を隠す素振りはない。というより、知覚を一切遮断しているみたいだ。
 僕は、彼女の肩越しに手元を覗いた。
「なんだこれ?」
 紙上にはミミズが這ったように線が散りばめられている。
 文章という感じではない。行や列という概念がなさそうだ。線は所々で交差し、直線も曲線も一見、法則性がない。
 すると、無秩序な線の隙間に、イラストが描かれ始めた。
「羽が生えた……魚、の上半身?」
 他にも立方体を積み上げた塔や、食べかけのドーナツなどを加えて、シュールさを増していくキャンパスの中心に、止めとばかり黒点が置かれる。
 それを最後に、フウリの焦点が再び結ばれる。何度も瞬きをしたあと、手元の落書きがいきなり現れたとでもいうように見つめた。
「ねぇ、なんなのこれ?」
「なんだっていいじゃないですか。詮索しないでください」
 紙がグシャリと握りつぶされる。せっかく書き上げられた成果物は一瞬にしてゴミ箱行きとなった。
 フウリが洗面所を出ていく。
 狐につままれる気分とはこういうことか。残された僕は呆然としてから、ゴミ箱に手を入れた。
「捨てちゃっていいのかよ」
 ぐしゃぐしゃに折り目がついた紙を広げる。二回見たって図柄が変わるわけではないが、認識が変わることはあるかもしれない。
「なんだろう、黒魔術の魔法陣?」
 はじめは、フウリへの偏見にまみれた候補が浮かぶ、しかし、しばらく眺めていると毛色の違う参考を引っ張り出すことができた。
 思い出したのは昔、小学校で配られた災害対策マップとかいうやつだ。
 橋の表し方が酷似しているのが決め手だった。
「なるほど、地図か」
 ひらめきが降りてしまえば、芋づるで理解が及ぶ。
「直線や曲線で表されてるのが道路だとしたら、この鱗みたいなやつは山地かな。入り組んだ市街地の周りを囲んでいるなら納得がいく。だとしても、よくわからない部分もあるけど……」
 最も不可解だったのは、所々に配置された謎のイラストだった。羽の生えた魚の上半身、立方体を積み上げた塔、食べかけのドーナツ……。意味ありげなような、やっぱりなさげなような、判断に迷うものばかり。
 もしかしたら、単に遊び心だったりするのかもしれない。かわいいもの好きの女の子が、数学への理解を放棄してノートの端に描く猫と同じで。だとしたら、やっぱりフウリのセンスは相当おかしい。
 ともかくとして、これは世に出回っている地図帳などとは趣が異なる。汎用性がない、とでも言えばいいのか。元から近辺に土地勘を持った人以外には扱いづらいだろう。お粗末と言ってもいい。
 そうしてさらに目を滑らせると、地図の右上外れに塗りつぶされたような箇所があった。インクの出を試したのだと思ったが、もしかしたら異世界の文字や数字なのかもしれない。つまり、図柄はあくまで補助であって、この座標が正確な位置情報なのでは。
 ――と、そこまで推理して我に返る。
 推理もなにも、描かれているものはどうせフウリの妄想の産物に過ぎないのだ。
わざわざ僕の目の前で書き上げたということは、宝さがしにでも誘っているのかもしれないが。いずれにせよ、彼女の独りよがりに付き合ってやる義理もない。
「地図の場所を掘り返したら、徳川埋蔵金が埋まってたりして」
 しょうもない妄想を一笑に付すと、僕は紙ぺらをゴミ箱に捨て直した。

     

(九)

 昼のうちに溜まった家事を消化して、夕方からはバイトのシフトが入っていた。
 僕が働いているのは、住宅街からも繁華街からも少し離れたブリティッシュパブ『キボン』だ。
 狭い通りに門を構えて隠れ家を思わせつつも、中に入るとけっこう広く、ヴィクトリアン調の内装が異国情緒を醸し出す。初めて訪れたときには、海外のマフィアがトランプとかしてそうだなと感想を抱いた覚えがある。
 しかし、実際に荒れているわけではなく、どちらかといえば裕福そうな人たちが憩っている。客の回転も激しくなく、単価重視のため忙しい時間帯は少ない。つまり職場としては理想的で、このバイトを勝ち取れたのは運がよかった。
 この日も仕事は大過なく進んでいた。
 空いた手でグラスを拭いていると、入店を知らせるベルが鳴る。
 条件反射で挨拶しながら視線を向けると、そこに見知った人物がいた。
「よう陸、久しぶりだな」
「SHOYAさん、帰ってきてたんですか」
「まあな」
 指を二本立てるジェスチャー。キザっぽい振る舞いが様になっている。
 レザーのパーカーにサングラス、髪は派手な金色。背負ったギターケースがなければチンピラかという見た目はとにかく目立つ。案の定、周囲の客がざわつきだした。
「帰る前に、あらかじめ連絡してくれればいいのに」
「サプライズで来たほうが盛り上がるだろ?」
 隣にいた店長が「仕事はもう上がっていいから、二人で食べていきなさい」と言ったので、さっそくグラス拭きを放ってカウンター席についた。
 SHOYAさんは知名度のある人物で、特にこの店には縁がある。常連が囃し立てるのに乗っかって、僕も言った。
「このあいだの『Mスタ』見ましたよ。全国放送でSHOYAさんの演奏が聴けるなんて感動したなぁ」
「おいおいやめろよ、近所のババアと同じような感想言いやがって。陸は俺の演奏を直に聴いてたくせによ」
「もちろん、演奏は生のほうが迫力ありますけどね。自分の知ってる人が世間に認められるっていうのは嬉しいんですよ。いまじゃ、東京でも外を出歩くのが大変なんじゃないですか」
「んなわけねぇだろ。グラサンして髪染めてりゃ、バンドマンの見分けなんてつかねぇし、そもそもテレビで見ただけの連中はボーカルの顔くらいしか覚えてねぇよ」
 言って、SHOYAさんはサングラスを外した。
 猛禽類を思わせる精悍な顔立ちは、初対面ではたいてい恐ろしい印象を与える。僕も例には漏れなかった。しかし、引け腰でいたのは彼とメンバーが演奏を始めるまでだ。
「SHOYAさんがそこでギター弾いてたの、つい最近なのに、なんだか懐かしいですね」
 僕は店内の隅にある演奏スペースに視線をやった。
 SHOYAさんがギターを担当する『ne-to』は地元民で結成されたロックバンドだ。ライブハウスや飲食店、ときには路上で。あちこちで演奏していて、キボンはその一つだった。特に店長とSHOYAさんの気が合い、契約を結んで定期的にステージに上がっていた。
「初めて聴いたときは印象強烈だったな。感動して体が震える経験なんてしたことなかったから」
「ケケ、音がでかくて震えてただけじゃねぇの」
「そんなことありませんて」
 店長がフィッシュアンドチップスを出してくれたので、ふたりでつまむ。
「でも、実際にここで演奏してた期間て短いんですよね。あれよあれよという間に出世しちゃったから。いいなぁ」
「無名だろうが有名だろうがやることは変わんねぇよ。なんだよ陸、お前テレビスターになりたいのか?」
「いや、僕はSHOYAさんみたいに特別な才能ないからなぁ……」
「だから、楽器をやれって勧めたろ」
「やってみたけど、全然へたくそでしたもん」
「バカ、やってみたって精々一か月くらいだったじゃねぇか。どうせFコードがうまく弾けないとかそんなんだろ。いいか、才能っていうのは偉大なゴッドが俺たちの魂の奥底に隠したお宝なんだよ。魂を燃やし尽くすくらい本気でやらなくちゃ見つかるわけないだろうが」
「そうですかね」
「なんだその気のない返事は。いいか、大人になったつもりで達観ぶって、のめり込むやつを幼稚だとか見下す価値観はクソだ。負け犬の考えだ。他人との競争に負けた犬じゃねぇぞ、そんなもんは問題にならねぇんだ。自分自身の感性に負けて、背を向けて逃げ出すのがクソなんだよ。幼稚で上等。気に入らねぇ事がある度にギャン泣きする赤ん坊が最強だ。あいつらは、腹が減ってるくせにそこそこ満たされてますとかごまかす腰抜け共とは違うからな。だから、ギターは赤ん坊の泣き声と同じなのさ。聴こえるだろ、俺のエモーショナルな叫びが!」
 喋っているうちに滾ってきたらしい。SHOYAさんは、僕に口を挟む隙を与えない。どころか、明後日の方を向いて、ギターをケースから取り出してかき鳴らした。突然の音に振り向いた客たちが歓声を上げる。

~~~~~~~~~~~~~~

眩むやいば振り違えば
慰みに追われて
傷をふさいでても消えないなら
刻む牢のうち囚われ独り
『ゲンジツニマケナイ』
星の音のしるべを探す
この詩が動きだすまで

~~~~~~~~~~~~~~

 ステージまで担ぎだされたSHOYAさんは、マイクもなしに熱唱する。
 『ロマンチックファイター』。作詞作曲者のメンバー曰くひねくれた曲らしいのだが、それでも僕を高揚させることには違いない。普段ボーカルを担当しないSHOYAさんの歌声も、言うだけあって魂を感じさせる。
 僕は自然と拍を取って、体を揺らしていた。
 メロディを後頭部から背筋に吸い込み、さらに深みへ潜ろうとする。
 その、ちょうどいいところでスマホが震えた。
 なんだってこんなときに!
 電話が友達から遊びの誘いならまだよかったが、掛けてきたは母だった。
 つまらない話で生演奏を台無しにされるのはごめんだ。
 応答する気にはなれず、スマホをそのままポケットにしまい直す。
 曲は二番の終わりを迎えていた。最高潮へ至ろうとする店内のボルテージに乗り遅れまいと、僕はステージ前の人垣へと駆けていった。

     

(十)

 店を出たときには、底冷えのする夜だった。
 街灯を頼りに家路を辿るあいだ、心配事といえばフウリがきちんと夕飯を食べたかどうかくらいだったが、玄関ドアに手をかけたときに予感があった。
 なんとなく嫌な感じ。理由は明確じゃない。強いて言えば、扉のガラス部分から光が漏れていたくらい。ともあれ扉を開き、玄関にサイズの大きい男物の靴を見つけたときには、予感どころではなく血の気が引いた。
 靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上る。
「フウリっ!」
 身の危険を考慮する暇もなく、自室のドアを開け放つ。
 中にいたのが強盗の類でなかったのは幸運だった。
 しかし、状況はそれとは別に想定を超えて、僕を狼狽させた。
「来ないでくださいっ」
 フウリが叫ぶ。切羽詰まった声だ。
 見ると、彼女は頼りなさげに立ち、手には刃渡り十五センチほどの刃物を握っていた。刃物は、グリップから刃の全体が群青色の妖しい光沢を放っている。
 その切っ先も叫びも、向けられた対象は僕ではない。
「おい待て、こんなことをしていいと思っているのか。武器を下ろせ」
 対峙している相手は丸腰だった。後じさりつつも、尊大な態度で応じている。
 独特なマフラーの巻き方は忘れたくても忘れがたい。僕はその男を知っている。母親の恋人だ。
 突入時にはもう、緊張は頂点に達していた。
 フウリの吐く息が荒くなる。刃物を握り直したタイミングで、僕は飛び込んでいた。
「やめろ、フウリ!」
 僕の存在を認識すらしていなかったのか、細い体はあっさりとなぎ倒せた。やみくもに腕を動かそうとするのをどうにか抑える。
「離してっ」
「落ち着け、僕だよ。怪我させたりしない」
 至近距離で繰り返し言い聞かせると、次第に抵抗が弱まる。完全に鎮圧したあと立ち上がり、僕は男に向かって言った。
「彼女は僕の知り合いです」
「なんだと?」
「ちょっとした誤解があったみたいです。害意はなかった」
 男は眉を寄せて僕とフウリを睨み付けた。
「お前はいままで出かけていたんだろうが? どうしてこの女が一人で家に居るんだ」
「……そんなこと関係ないじゃないですか、あなたには」
 口ごたえすると、男は見るからに不機嫌になった。
「家に知らないやつがいたら普通、空き巣か何かだと思うだろう。ガキの分際で、女なんか連れ込むな」
「だから、関係ないって言ってるだろ。だいたい、ここはあんたの家じゃない。あんただって空き巣と変わらない」
「なんだと」
 男の顔がみるみる紅潮していく。
 直後に振り上げた腕が見えたが、僕は避けなかった。
 頬に重たい衝撃が加わる。
「……っ」
「自立もできていないガキが生意気を言うな。清美さんの苦労も知らずに。お前みたいなのがいるから、周りが迷惑するんだ。これは躾だからな。せいぜい反省しろ」
 グーで殴っておいて、躾と言い張るのは苦しいのではないか。
 男は言いたい放題言ったあと舌打ちをして、部屋から出て行った。
 傍若無人な振る舞いをしておいて、反抗されたら激高する。終いには自分を正当化して済ませるお決まりの流れ。なんて単細胞なやつなのだろう。きっと異性にモテないだろうなと思いきや、そういえば僕の母親が引っかかっているのだった。
 男が階段を下りて、外に出ていく気配がした。
「ちくしょうっ」
 口内の血をティッシュに吐き出して、僕は悪態をついた。
 事の成り行きは概ね想像がつく。さっきキボンで母からきた電話は、男が家に来ることを伝えるつもりだったのだろう。忘れた荷物を取りにくるとか、用件はわからないが。しかし、僕はそれを知らずに帰宅が遅れて、結果的に鉢合わせが起こってしまった。
 フウリはフローリングで膝を抱えている。
「ごめん、僕の失態だ」
 謝罪しても返事はない。縮こまって、ブツブツと何かを呟いている。
「悪かったって。今後こういうことはないようにするから」
 差し伸ばした手を払って、フウリは言う。
「見られました」
「ああ……」
「わたしは、ヒトに姿を見られてはいけないのに」
 出会った時からさんざん聞いた。誰にも見られてはならない、知られてはならない。頑なな理由はイマイチわからないが、家に強制送還されることを恐れているのだろう。
 帰りたくない家。僕にだって共感はできる。
「本当にごめん。だけど、あいつはあんなことを言ってたけど、僕の素行に大して関心ないから。フウリのことも細かく探ろうとなんてしてこないよ」
「さっきの男は、陸人さんの父親ですか」
「いいや」
「最初に招かれたときから疑問でした。この家は一人で暮らすためのつくりではありません。あなたの家族はなぜ暮らしていないのですか」
「…………」
 問いは、僕にとって触れられたくない話題だった。説明は長くならないが、なにせ話すのがつまらない。退屈な話題に労力を割きたくはない。しかし、今回のトラブルの一端を担っている身としては、つっぱねるのも憚られる。
「つまらない話だよ。聞いても楽しくないと思う」
 フウリは顔を伏せたまま、無言で先を促した。
「僕は元々、両親と一緒に暮らしてた。けど、夫婦が離婚した。そして母親のほうに引き取られて、いまは書類上、この家に親子で暮らしてることになってる。簡単に言えばそれだけ。本当に、つまらない話なんだ。離婚するまでの過程では、家裁を通して多少やり合ったりしたんだけど、当時の僕にはよくわからなかったし。最近じゃ子どもがいても離婚する夫婦なんてありふれてるし、僕みたいな境遇も珍しくない。経済的に困ってない分、恵まれてるくらいだよ」
 真面目くさって話すのに耐えきれず、ひまわりの種を取り出した。
 ケージを覗くと、さっきの騒ぎに怯えたのかステイハムが隅で震えている。無用なストレスは短命の元だ。申し訳ないことをした。
「もうこの話やめにしない?」
「まだ説明になっていません」
 フウリが首を横に振る。僕は憂鬱な気分で続けた。
「家に父親がいないのは言った通り離婚したから。母親がいないのはまあ、仕事とかいろいろだけど……。端的に、あの人は家にいたくないんだ。この家も僕も、言ってしまえば人生の汚点で嫌な思い出なんだろうから仕方ないけど。
 さっきの男は母親の恋人だよ。元は勤務先の客だったんだっけかな。でも、僕にとっては父親じゃない。前の父親も別の女の人と結婚したらしくて連絡よこさないし、だから僕に家族はいない。どう、理解できた? つまんない話だったろ。
 男が突然家に来たのは誤算だった。あらかじめ可能性があるってフウリに伝えとくべきだったよ。だから、ごめん」
 三度目の謝罪とともに頭を下げる。すると、フウリは膝に埋もれさせていた頭を上げた。
「では、陸人さんとさっきの男は他人の関係ということですか」
「そうだよ」
「……わかりました。だったら、いいです」
「ああ。ところでなんだけど」
 少しは機嫌が直ったようなので、僕はずっと気掛かりだったことを尋ねた。「その物騒なものはなに?」
 手袋越しの手のひらにはまだ、群青色の刃物が握られている。厚めの刃で頑丈そうなつくりだが、柄の部分は持ちにくそうだ。人間工学的にどうなの、という不規則に波打った形をしている。刃物に造詣は浅いが、少なくともネット通販のトップページに表示される代物でないのはわかる。
「異世界から持ち込んだ武器で、“エルミアー”といいます。触れている使用者のネアリアルを吸って、ィユニュルへの攻撃を補助する効果があります」
「おぉ、久々にすごいのがきたね」
 妄言のために小道具まで用意するなんて周到なことだ。
 僕は皮肉も込めて『すごい』と評したのだが、フウリは違う捉え方をしたらしく饒舌になった。
「興味がありますか? 大量破壊兵器の威力という点ではヒトに劣りますが、ネアリオの科学力も優れています。特に、ネアリアルの利用を模索することは、それを授けた創造主へ近づくための崇高な行いですから活発です。わたしたちは、ヒトよりもずっと敬虔なんですよ。
 そうだ、陸人さんに特別な秘密を教えます。あなたが住んでいる現世界には、ネアリオが科学力を結集してつくった建造物がすでに建っているんです。しかも至る所に、誰にも気づかれることなく。
 不可能だと思いますか。でも、現に可能なんです。それらの建造物にはネアリアルによって認識阻害の法が施され、ヒトにとっては、あたかも昔から存在していたかのように錯覚されています。
 現世界と異世界は重なった二枚の紙に例えられる、という話は前にしましたね。これらの建造物は、両者の位置関係を合わせるランドマークとして任務に利用され、同時に、異世界から現世界へ干渉するための尖兵としても機能します。もしもネアリオとヒトの戦争が起こり、ネアリオの勝利に終わるとしたら、その最大の要因になるでしょうね。どうです、恐ろしいですか?
 ともかく言いたいのは、ネアリオが優秀な道具をいくつも持っているということです。
 ほんの最近まで、ィユニュルの皮膚はいかなる物理攻撃も受け付けないとされてきました。戦争に勝利するために、エルミアーの開発は本当に画期的だったですよ。もっとも、ネアリアルの絶対量が不足するわたしでは、かすり傷をつけるくらいが精一杯ですけど」
「そういえば、フウリって下っ端なんだっけ」
「……自分以外から言われるのは気分が悪いですが、事実です。
 ヒトと同じように、ネアリオにも各々に才能の差があります。エルミアーを用いても、単身でィユニュルを殺せる個体はほとんどいません。そのような強者は創造主に選ばれたとして祝福され、丁重に扱われます。わたしとはまったく異なる身分ですよ」
「ふーん。じゃあフウリはどうやって敵と戦うんだよ。僕はてっきり、ビームみたいなのを使ってバッタバッタと敵をなぎ倒していく……っていう設定だと思ってたのに。
 いや、わかったぞ、何度か見た覚えがある。下っ端って自称しておいて、実は違うパターンだ。本来の力を他人に封じられているとか、トラウマがあって自らセーブしているっていう設定だな。で、ピンチになると呪縛から解き放たれて無双するんだ。『お、お前、どこにこんな力を隠し持っていたんだ』って周りに驚かれたりして。うわー、ベタな設定だなぁ」
 呆れて言うと、フウリが目を尖らせる。
「設定ではありません。三回も言わないでください」
「ごめん、ごめん。つい本音が」
「それに陸人さんの想像は的外れです。なぜならわたしは、敵を大量になぎ倒す必要はありませんから。下っ端には下っ端なりの仕事があります。簡単なこと、たった一匹――そう、たった一匹、ィユニュルを殺せばいいんです。それだけでわたしは、生まれ落ちた使命を果たしたことになります」
「生まれ落ちた使命って、大げさだな」
 自分のことを話すときには、フウリはなぜか自嘲を含ませる。僕は少しだけ、荒唐無稽な設定に興味が湧いてきていた。
 しかし言い募る前に、彼女はいち早くベッドに潜り込んでしまう。
「疲れたので、今日はもう寝ます。出ていくなら、豆電球にしていってください」
 本来僕のものであるベッドはすっかり占領されている。
 布団をかぶって間もなく、深い呼吸が聞こえてきた。すると釣られたのか、あくびがこみ上げてくる。
「僕も、疲れたな……」
 家事をやって、バイトを終えたあとにアレだ。意識するなり、体が鉛のように重くなってくる。何度もあくびを噛み殺しながら部屋を後にした。


 その日の夜、僕は奇妙な夢を見た。
 場所は自宅の居間。時間軸は過去、おそらく十年前くらい。そう判断したのは、現れた自分と両親の容姿からだ。僕は第三者の視点から、過去の自分と両親の様子を傍観していた。
 両親が食卓を挟んで言い争っている。
 気圧差で起こるような耳鳴りが邪魔して、内容は聞き取れない。実のところ、内容に意味などないのだ。それらは単にノイズ。交わされているのは剥き出しの怒りや憎しみ、相手を傷つけたいという意思だけ。
 子どもの頃の僕は、暴風の吹き荒れる居間の隅でしゃがみこんでいた。頭を抱え、巻き込まれないように。ただただ事が過ぎるのを待っていた。
 しかし思い返せば、息を殺している必要などなかったのかもしれない。望み通り、年月を経て家は静かになった。世間体とか財産とか、捨て置けないものについて妥協を終えたあと、両親は家からいなくなった。彼らは最初から興味を持っていなかったのだ。家にも、僕にも。
 僕は、空っぽになった家に愛着を持たない。ここに価値のあるものなど残されていないのだ。あの人たちがゴミのように捨てていったおさがりを、後生大事に抱えてなんていられるか。
 居ても立っても居られず駆けだした先に、扉はなかった。玄関だったはずの位置には、のっぺりとした壁だけがあり、押しても引いても開かない。舌打ちをして、次は玄関を諦めて窓を探すが、家中を走り回っても立ちはだかるのは壁ばかりだった。
 出口を見つけられないでいると、いつしか照明が暗くなっていた。頭上の電灯が光を失いかけて灰色になっている。眺めていると細かな明滅を繰り返し、ついに力尽きた。
 前後不覚の闇のなか、腐った水の臭いがする。
 台所から漂ってくる? いや、違う。僕が立っている場所は居間のフローリングから、硬いコンクリートの上にすり替わっていた。
 幼い自分も若い両親も姿を消した。一人称の身体感覚だけが、ぼんやりと保たれている。
 コツン。
 背後で地面を叩く音。
 振り向くと、そこには死神がいた。
 ローブと仮面を身に付けていて素顔はうかがい知れない。手には大鎌ではなく、処刑用の剣が握られている。
 振り下ろされた剣と地面の接地部分に陰が凝集していく。ペンキをぶちまけたような無秩序な模様がやがて一つの塊となり、それ自体が意思も持っているかのように蠢きはじめる。
 あれは僕を狙っている。理解したときには遅かった。
 地に現れた絵画が大蛇のように這いずり、向かってくる。速度は僕の脚力を凌駕していた。あっという間に、股の下に入られる。
 僕は沈んでいく、どす黒い水の底に。手足を絡めとる液体は粘性で、もがいて抵抗するほど逆効果だった。
 誰か! 助けを求めて叫ぶ。醜態を晒しながら肩まで沈み、やがて指一本すら動かせなくなる。黒い涙を流しながら、死を覚悟した。
 そのとき、鮮烈な光が射し込んだ。
 光と闇の趨勢が瞬く間に逆転する。僕は眩さに手庇をつくりながら、状況を確かめようと瞼をこじ開けた。
 苦しみ悶える死神を前に、陰影を強くして立っていたのは――。

     

(十一)

 自分の悲鳴で目を覚ますのは初めての経験だった。
 ソファから身を起こすと、全身にじっとりと汗をかいている。
 悪い夢を見ていた気がする。もやのような悪感情だけが肺腑にわだかまって、内容は具体的に思い出せない。けれど、思い出す必要もないだろう。所詮は夢だ。
 そばにあったティッシュで顔の汗を拭う。すると、
「つっ……」
 鈍い痛みが走った。
 触って確かめてみると頬が腫れている。あいつに殴られたところが内出血を起こしているようだ。
「悪夢の原因はこれか。今日から学校あるのになぁ」
 クラスメイトに見られたら事情を聴かれるかもしれない。机にぶつけたことにしようか、階段でこけたことにしようか。
 考えながら、とりあえず飲み物でも飲もうと赴いた台所に、先客がいた。
「なんだ、起きてたのか」
「目が覚めました」
 フウリは冷蔵庫からお茶を取り出しているところだった。僕が部屋を出てから着替えたらしく、街で買ったパジャマを着ている。
 僕は二人分のコップを用意し、それぞれに注いだ。すると、フウリが顔を覗き込んでくる。
「陸人さん、その顔」
「ああ、ええと」
 事情を知っている相手に言い訳は効かないだろう。
「殴られたところが腫れてきちゃって」
「そうですか」
 フウリは無感情にお茶を一口飲んだと思いきや、
「わたしのせいですね」
 と呟いた。
「いやいや、あれは自分でやったことだから。元からあいつとは関係悪いし。そもそも、こんなの全然痛くない」
 強がってお茶を流し込むと、口内の傷にがっつり染みた。苦痛に顔がゆがむ。まったく、恰好がつかない。
「陸人さんは、わたしを殴らないんですね」
「はあ? なに言ってるんだ」
「家にふてぶてしく居座って、迷惑だと思っているんでしょう」
「ふてぶてしい自覚はあったのか」
「わたしのせいでベッドは使えないし、秘密を負わされるし、怪我はするし……。追い出したいって、考えてるんじゃないですか」
 しおらしい内容の割には、口調にはだだをこねているような雰囲気がある。
 僕は痛みを我慢してコップの中身を飲み干す。そして、右手をフウリの頭に置いた。僕もいまは、妙に感傷的な気分だ。悪い夢を見たせいかもしれない。
「迷惑か迷惑じゃないかっていったら、そりゃ、迷惑だよ。風呂の時間には気を遣うし、冷蔵庫の食べ物は勝手に減ってるし、急に不機嫌になられて対応に困るし……。けど、同じ屋根の下に住んでたら、迷惑かけるのなんて当たり前だ。それくらい、ヒトの常識では許されるものなんだよ。なあ、こっちの世界はいいところだろ、異世界人サマ」
 あるいは、それは経験に照らし合わせた皮肉だったけれど。ママゴトだと割り切っているからだろうか、案外、屈託なく言えたことが意外だった。
「あの……」
 フウリが上目遣いを向けてくる。
「なぜ、頭に手を置いているんですか」
「あ、ああ、ごめん、嫌だよな」
 慌てて手を引っ込める。
「いえ、そういうことではなく。この動作が現世界で何を意味するのかを知りたかったんです」
「僕をからかってるだろ」
「いいえ」
「むぅ……。そうだな、まあ、簡単に言えば親愛の証ってところだよ。わたしはあなたと仲良くするつもりですよっていう感じの」
「そうですか」
 フウリは事務的に返答をしつつも、まだ言いたいことがあるようだった。コップの縁を撫でながら、しきりに瞬きをしている。
「陸人さん、少ししゃがんでもらえますか」
「え? 突然どうしたんだ」
「いいから、しゃんでください」
「こ、これでいい?」
「もう少し」
 目線の高さが同じになるまで腰を下ろすと、フウリはおもむろに右手を僕の頭に置いた。
「ええと……」
 沈黙が降りる。
 置かれた右手は撫でるでもなく静止したまま。それだけで、手のひらの温度が頭頂から伝わってくる。
 小窓から射した月光が、台所を幻想的に染めていた。出会ったときと変わらず、彼女の首筋は白く輝いている。
 ――吸い込まれるような翠の瞳。
 僕ははっと息を呑んだ。フウリはものすごく綺麗だ。どうしてそのことを、一瞬でも忘れていたんだろう。
 気がつくと、頭から手が離れていた。フウリは無言で踵を返し、ほとんど小走りのような早歩きで立ち去る。コップに残ったままのお茶が、わずかに揺れて波紋をつくった。

       

表紙

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