Neetel Inside ニートノベル
表紙

異世界人が働かない理由。
第二章

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(一)

 フウリとの同居が始まってから、約一か月が経った。
 その日は学校もバイトのシフトも入っていない正真正銘の休日で、目が覚めたのは昼過ぎだった。家事も前日におおかた済ませてあり、歯磨きをして顔を洗うだけでやることがなくなってしまった僕は、本でも読もうかと自室を訪れた。
 フウリとの関係はかなり気安くなっていた。最初期は自室に入るのも遠慮していたが、慣れてからは形だけのノック一回でいい。
 ドアを開けると、フウリの足裏が目に入った。パジャマ姿の彼女はベッドにうつ伏せて漫画を読んでいる。
「漫画、おもしろい?」
「……はい」
 開いたページに顔を向けたまま、気のない返事が返ってくる。
 フウリは学校に行かないため、暇している時間が多い。読んでいる漫画のタイトルが、いつ見ても違っている気がする。いまは、有名作家のサバイバル小説をコミカライズした作品を読んでいた。
 僕もラックを眺め本を選ぼうと思ったが、それよりもわきのケージに意識が向いた。
「ステイハム、元気にしてるか」
 呼びながら指を突っ込んでみるが、寄ってくる様子がない。床材のこんもりした場所に丸まってじっとしてる。
「なんだよ、世話しなくなったご主人様は用なしか」
 餌入れに目をやると、適量のペレットが積まれている。水も十分に入っているし、ケージのなかは清潔に保たれてみえる。前任者のときに比べればよほど良い飼育環境だ。
 しかし、その割には元気一杯という感じでもない。寒さが原因なのだろうかと思い、机の上のリモコンで暖房の温度を上げた。
 すると、漫画に没入していたフウリが顔を上げる。
「あ、ごめん、暑かった?」
「唇を合わせることは、現世界での一般的な契約の意味ではなかったんですね」
 読んでいるページを閉じて、脈絡もなく言う。
 何を言っているか数秒わからなかったが、記憶を探ってから合点がいった。
 そういえば、そんな勘違いをしていたんだったな。出会った日の出来事を、まるで大昔のことのように思い出す。
 おそらく、物語を読み進めていくうちにキスシーンに当たったのだろう。たったいま、男女の恋愛について正しい知識を得た。
 フウリのこういった言動は演技なのかと思っていたが、最近はそれを指摘したりもしなくなった。ひと月もやり取りをしていると、会話のなかでいちいち疑ってかかるのも面倒になるのである。それに異世界人でなくとも、度を過ぎた世間知らずである疑いはかなり強い。なので、
「ふーん、ようやくフウリも常識が身についてきたんだな」
 感心して頷いていると、膝辺りをめがけてクッションが飛んできた。
「なんで怒るんだよ」
「騙されました」
「僕から騙したんじゃないって。だいたい異世界人だっていうなら、こっちの世界がどうであれ、恥の基準まで寄せる必要はないだろ。異世界ではキスは恥ずかしいことじゃないし、気にしないんだから」
「っ……! き、気にしません、気にしていませんでした。……けど、気になるんです」
 気になるんかい。
 僕は溜息をつく。クッションの埃を払ってから、山なりで投げ返した。
 クッションが手から離れる瞬間、甘い香りが鼻先をかすめる。元々僕のベッドに置かれていたものだが、ひと月ですっかりフウリの匂いが染みついたらしい。同じシャンプーやボディソープを使っているはずなのに、どうして違う匂いがするのだろう。
 益体のない思考に耽っていると、フウリが「ところで」と呟く。
「ステイハムのことなんですが、最近、元気がないようなんです」
「うーん、寒くなってきたからかな。暖房はつけてあるんだけど」
「わたしは、陸人さんが散歩に出してあげたらいいと思うんですが」
「外? ああ、たまに部屋に放してやるといいんだっけ。でも、柵で囲うとかしないとだめらしいよ。一回散歩させると、習慣にしないとかえってストレスが溜まるとかも聞くし」
「いえ、部屋の中ではなく。部屋を散歩させるのもいいですけど」
「もしかして、家から出して歩かせたいってこと?」
「はい。遮光カーテンを開けると、ステイハムが窓のほうに首を伸ばすんです。きっと、外に出たがっているんだと思って」
「いやいや、さすがに無理だよ。ハムスターに首輪つけて散歩してる人なんて見たことない。それに、歩かせてる最中に野良猫に襲われるかも。ほら、フウリも公園にいたときに見たことあるだろ」
「はい。何匹もいました」
「町中にも至る所にいるからさ。フウリを見つけたときも、最初は野良猫かと思って近づいたんだよな」
「わたしは猫ではありませんよ」
「いや、知ってるけど」
 提案を却下されて、フウリは気落ちしているようだった。しかし、こればかりは折れるわけにもいかない。散歩中にステイハムがガブガブ食べられたりしたら、トラウマになるだろうし。
「わたし、猫については少し知識があります。人間の生活圏にも多く生息する害獣で、有志によってさまざまな方法で駆除が行われていると。なかでもポピュラーなのは、ホウ酸団子や不凍液を用いた毒餌戦法で――」
「殺す気かよっ」
 平然と続きそうな話を遮る。
「ペットの散歩のために近所の野良猫をジェノサイドするなんて、動物愛護団体が黙ってないって。とにかく、ダメダメ。外を散歩させるのは諦めて」
「……そうですか。わかりました」
「あと、こっちからも質問なんだけどさ」
 機会なので尋ねておくことにした。僕はさりげなさを演出する意図も含め、ラックから漫画を選んで抜き出す。中国史を描いた長編シリーズの十二巻、ちょうど盛り上がるところなのだ。
「フウリは外に出なくていいの? 学校……いや、任務とかさ」
 ベッドでだらけていた少女の、暢気に揺らしていた脚が止まった。
 密かにずっと気になっていたことだった。フウリが僕の想像通りに家出してきたのならば、一か月という期間は短くない。警察沙汰になることを最も嫌っているのは彼女自身なので、両親とは隠れて連絡をとっていたりするのかもしれないが、学校の出席日数だっていずれ足りなくなるだろう。精神的な面でも、ブランクが空くほど社会復帰は難しいと聞くし。
 加えて、別方面の問題が。
 設定上、彼女には敵を排する任務がある。それは異世界と現世界、双方の平和のために必要なはずで、敵の正体を掴んでさえいない現世界にとってはフウリだけが頼りなのだ。つまり、彼女は現状、寸暇を惜しんででも働いていなければ辻褄が合わない。
 暖房を操作した甲斐あって、室温が快適になってきていた。生ぬるい空気で頭がぼうっとしてくる。改めて思った。こんな宙ぶらりんの生活は、いつまでも続けられないのではないか。
 フウリはベッドに座り姿勢を正しつつも、僕から視線を外して言った。
「大丈夫です。わたし以外にも、任務に当たっている仲間はいますから」
「え、そうなの」
 初耳の情報に驚いたが、思い直す。
「でも、そうか。フウリの討伐ノルマはたったの一匹だって言ってたっけ。じゃあ最悪、フウリがやらなくても誰か他の人が働いてくれるんだ。……うん、まあ、だったら、いいんじゃない。うん……うん……」
 その解釈に、フウリは頷くことも首を横に振ることもしない。ただうつむいて、深い思考に沈んでいるようだった。
 続けて声を掛けるのもためらわれて、僕は部屋を出ようとする。
 すると、後ろから縋るように呼びかけられる。
「陸人さん!」
「なに?」
 振り返ると、フウリはいまにも泣き出しそうな表情をしていた。
「わたし……。わたしは、罪深い行いをしていますよね」
 抽象的な問いを向けられて、返す言葉に困ってしまった。
 彼女の言う罪深さはおそらく、僕の知り得ない彼女自身の事情に根ざしている。僕は所詮、宿を貸しているに過ぎない他人だ。
 迷った末に口にしたのは、場当たりの慰めだった。
「まあ、いいんじゃない、あんまり重く考えなくても。サボりくらい誰だってしてるし。人生には充電期間も必要だよ」
 言い置いて部屋を出た僕は、最近になって膨らんでいた感情を無視できなくなっていた。
 『こんな宙ぶらりんの生活は、いつまでも続けられないのではないか』。その考えの裏にある前提が突き付けられる。
 そうだ、僕はいつの間にか、フウリとの同居生活を続けたいと願っているのだ。成り行きで始まって、不満だらけだったはずの関係が壊れることを恐れている。そのために、彼女に合わせて心にもない相槌を打ち、薄っぺらな慰めを言ったりしている。
 頭がかあっと熱くなる。動揺に早まる鼓動が心地いいのか不快なのか、結論を出すのは先送りにした。

     

(二)

 ある日の放課後。
 終業のチャイムと同時に僕は席を立つ。ホームルームの最中に荷物はまとめてあった。最近は教科書類をなるべく持ち帰るようにしているのでバッグが重い。それでも、帰宅の途を憂鬱には感じない。
 一番乗りで教室を出る直前、優作から声を掛けられる。
「知り合いから変わったゲームを仕入れたんだが、部室でやらないか」
 魅力的な提案だったが、僕は立ち止まることなく「ごめん」と手を振って教室を出た。
 優作に限らず、このごろ友人の誘いを断ることが多くなった。付き合いが悪いと小言を言われたりもする。付き合いの頻度が減るやつは彼女ができていると相場が決まっているので、ひがみも半分こもっているのだろう。あながち的外れではない、と思う。
 遊びの誘いを断るからには、一途に帰宅するのがせめて礼儀というものだ。だから寄り道はしないと決めているのだが、この日は思わぬ誘惑があった。
 通り沿い、大型スーパーの駐車場から漂ってくる甘い香り。拡声器を通した粗い音声で「クレープいかがですか」と呼び込みが聞こえる。
 フウリに買っていったら喜ぶだろうか。
 機嫌を取る手段として、甘味はベターな選択に思えた。日用品も含め、すでにかなりの上京資金が彼女に溶けている。ためらいも掠めたが、移動販売車の引力には抗えなかった。
「チョコバナナクリームと抹茶白玉あずきクリーム。家で食べるので包装してください」
「へい」
 ポップなデザートに似合わないひげ面の店主だ。低い声で返事をするや否や、素早く調理に入る。鉄板の上で生地を延ばす手並みはさすがに職人技である。
「あ、やっぱり、陸人じゃない。なにしてるのよ」
 熟練された技に見入っていると、意外な人物に声をかけられた。
 気の強そうな上がり眉に短めの栗毛。制服をきっちり着こなした女子生徒。志麻子だ。
 しまった、と反射的に思った。
 しかし、僕の内心など知る由もない店主は見る間にクレープを完成させる。
「ほら兄ちゃん、クレープふたつ」
「あ、ありがとうございます」
 ポップなデザートに両手を塞がれた僕……を怪訝そうに見つめる志麻子。店主同様、僕にだってポップは似合わない。まして、甘さ全開のデザート二つを一人で平らげるわけがない。よって、志麻子の疑問は必然だった。
「他の誰かと来てるの?」
 そういって広い駐車場を見回しても、該当の人物はいないのである。
 志麻子は僕の家族をよく知っている。妹に買っていくんだなどと言っても妹がいないことは看破されるし、親にクレープをあげるなどと言っても信じてもらえないだろう。これが優作相手であったなら女の子にやるんだよと嘯きつつ詮索を突っぱねることもできたろうが、なんとなく志麻子には言いづらかった。
 曖昧なフィラーで時間稼ぎしながら思考を巡らした挙句、僕は言った。
「志麻子が遠くにいるのが見えたからさ。たまには日頃の感謝をこめておごろうかな、みたいな。ほら、このあいだ勉強を教えてもらったお礼もしてなかったろ」
「え……」
 予想した反応は疑われるか呆れられるかだったのだが、意外なことに志麻子は赤くなって慌てた。僕がよい行いをするのがあまりに意外だったのか。それはそれで失礼な話だ。
「で、どう。食べる?」
「……うん」
 差し出してしまった。フウリの分のクレープ。
 僕は歩きながら食べるか、さもなくば家に帰って食べたらと提案したのだが、志麻子は聞かなかった。なんやかんやと言い合ったのち、店の前にあるベンチに座らされ、並んで腰かけることになる。時刻は夕方には早い。出入りする客は少なかった。しかし、居心地の悪さは拭えない。
 たまたま、エコバッグを持った中年女性と目が合う。彼女は一瞬の間のあと、にこりと微笑んだ。絶対にカップルだと思われている気がする。
 志麻子は気まずくないのだろうか。隣を窺うと、そんな素振りもなくクレープにぱくついている。
「おいしい。ありがとね」
「感謝されるようなことじゃないけど」
 急に毒のないことを言われると調子が狂う。僕はこめかみを掻いてから、抹茶白玉あずきクリームにかじりついた。……甘い。他のにすればよかったかもしれない。
 しばらくは淡々と食べ進めていたが、志麻子がぽつりと尋ねてくる。
「陸人、その、このところ調子は大丈夫?」
「調子って、体の調子?」
「それも含めて」
 あまりに漠とした質問だったので、答えに窮する。
「うぅん……強いて言えばここ数日、夢見が悪いかもしれない。しかも、たいてい同じような夢を見るんだよ。あまりに何度も見るから、内容も憶えていられるようになっていきた」
「どんな夢?」
「場所はハッキリしないんだけど、暗いところ。そこで、死神みたいな恰好をした化物に襲われる。僕は必死で逃げようとするんだけど、なんでか地面に足をとられて走れない。で、化物がだんだん近づいてきて、殺される……って直前で、辺りが光に包まれる。闇が一瞬で取り払われて、むしろ眩しくて、その光の中心に誰かがいるのはわかるんだけど、姿を確認する前に目が覚める。変な夢だろ。夢占いではどういう結果になるんだろう。ちょっと気になるよ」
「…………」
「どうかした?」
「いや、なんでもないの」
 志麻子は顎に手をやって、深刻そうな顔で思案していた。記憶処理がどうとか、複数回は副作用がどうとか、不穏な小声のあと、取り繕うように言う。
「それより、ご飯はちゃんと食べてるの?」
「ご飯は、うん、食べてないってことはない」
「なによそれ」
「志麻子が心配することじゃないだろ」
「今日の夕飯の予定は?」
「冷凍のパスタかな」
「昨日の夕飯は?」
「えーと、冷凍のパスタ」
「……一応聞くけど、その前日は?」
「さすがに記憶が曖昧だなぁ。……うーん、あ、冷凍の餃子だった」
 志麻子はクレープの残りを口に放り込んで、猛然と立ち上がった。
 まずい、鬼の形相だ。
「な、なにか……?」
「あんた、これから予定ないんでしょ? ないわよね。私が料理作りに行くわ」
 いきなり、とんでもない事を言い出す。
「いやいやいや、そんな、いいよ、悪いし」
「気にしないで。私がしたくてするんだから」
「家片付いてないし、人を呼べるような状況じゃないってば」
「片付けも私がする。いまさら遠慮する仲でもないでしょ。それ、ゆっくり食べてていいわ。食材買い物してくるから」
 鼻息が聞こえるのではないかという勢いで詰め寄って、僕の手元を指さす。
 志麻子はクレープの包装をゴミ箱に捨て、スーパーの自動扉をくぐっていく。制止する暇もなかった。有無を言わせぬとはこのことだ。
「マズったなぁ……」
 僕は家に居るフウリの存在を思い、うなだれた。
 

 買い物を終えた志麻子は、パンパンに中身の詰まったビニール袋を両手に提げていた。そんなに食べられないと文句を言うと、僕の家の冷蔵庫に置いておく分も買ったのだという。
 状況に流されるままふたりで道を歩く。そして、家の扉の前に立ってようやく、差し迫った危機を感じた。
 この前のようにフウリが鉢合わせるのはまずい。あれだけ人に会いたくないと言っていたのだ。以前の二の舞となれば今度こそ、フウリはめちゃくちゃスネ倒すだろう。口を利いてもらえなくなるかもしれない。
 僕は扉の近くに立ち、大げさに咳ばらいをした。
「ああー、人を家に上げるのなんていつぶりかなー!」
 そして、鼻歌なんか歌いながら時間を稼ぐ。ないとは思うが、ちょうど玄関にフウリがいれば一発アウトだ。もしもそうなら、すぐ逃げてくれ。
「ねぇ、早く開けてよ」
「ごめんごめん、家の鍵がなかなか見つからなくて」
 志麻子の催促に耐えるにも限界があった。
 汗ばんだ手で扉を開ける。祈るような気持ちだった。
 果たして、玄関にフウリはいなかった。安心に胸を撫で下ろしたのも束の間、次の一手を打たねばならない。
 おじゃましますと慇懃に言う志麻子に、僕はまた大げさに返事をする。
「いらっしゃい、いらっしゃい。悪いね、客人を迎えるにはふさわしくない小汚い家だけど。それもこれも、実質、男の独り暮らしみたいなものだからさー。家に誰もいないと気を遣わなくなるだろ。あ、さすがに自室には入れられないよ。見せたくないものとかあるからさー!」
「陸人さっきから声大きい。家に帰ると人格変わるタイプだっけ?」
「いやぁ……」
 手は尽くした。もたつき過ぎても疑惑が生じる。
 家主の僕が先行し、玄関を抜けて廊下を通る。
 これもまた緊張だったのだが、居間にも台所にもフウリはいなかった。おそらく、いつも通り部屋に籠っているのだろう。あとは、僕が部屋を死守すればいいだけだ。志麻子もまさか、エロ本探しをさせろなどとは言い出さないだろうし。
 その志麻子は台所に着くとさっそく、冷蔵庫に使わない食材をしまった。それから棚を調べてエプロンを発掘したりしていたが、焦れた様子で文句を言う。
「まともな包丁がないじゃない」
「包丁?」
 役立たずの傍観者になっていた僕も、一応相槌を打つ。
「ほら、昔はあったでしょ、オールステンレスの三徳包丁」
「志麻子が最後に来たのって数年前とかだろ。その頃は母さんが料理してたけど、もう誰もやらないから。捨てちゃったんじゃない」
「し、信じられない……」
 志麻子は愕然としている。驚きの生活力のなさ。
「しょうがないから、果物ナイフを使うわ」
「なんだ、別のがあるんじゃんか。大げさだな」
「もういいから、座ってなさいよ」
 しっしとジェスチャー付きで追い返される。
 実際、使えない人材が台所に居座ったって邪魔だろう。開き直ってくつろぐことにする。
 居間のテーブルには、必要もないのに四人分の椅子が配置されている。見栄えの収まりの良さのためだ。僕はそのうちの一つに腰掛け、テレビをつける。なるべく騒がしそうなバラエティにチャンネルを合わせて音量を上げた。二階で大きな足音をたてられると困る。しかしいまのところ、耳を澄ましても物音は聞こえてこない。おそらく僕のサインが通ったのだろう。ひとまずは安心だ。
 気持ちが落ち着くと、不意に尿意に襲われた。
 席を立って、居間を出る。廊下中央のドアノブに手をかけたとき、違和感を感じた。
「あ、あれ……?」
 ノブが引っ掛かって動かない。いや、鍵がかかっているのだ。
 僕はおぼろげに状況を察しつつ、尿意の高まりを感じた。
「参ったな」
 トイレの扉の隙間に顔を寄せて囁く。
「フウリ、僕だ。いるんだろ、鍵を開けてくれ」
 ためらったのか、数秒の間をおいて開錠される。
「助かったよ」
 と、一歩踏み入れた僕の肩口に突っ張りが浴びせられる。バランスを崩し、半身が翻った状態で背後から抱きしめられた。というか拘束された。
「い、痛い……」
「来客なんて聞いていません」
「ごめん、僕の予定にもなかったんだよ。ところで、この体勢はなに」
「わたしがトイレに入っているときに、玄関から声が聞こえました。それで――」
「最中だった? なるほど、異世界人もはいせ痛い痛い痛い!」
 脇腹を締め上げられる。
「終わっていました。けれど流すのはまだでした。音を鳴らすのはまずいと思ったので」
 なるほど、流せてないから便器を見るなということだろう。言われて意識すると、かすかなアンモニア臭が鼻に触れる。小のほうでまだマシだったか。
「わかった。いまなら大丈夫だから、流してもいいよ」
「じっとしててください」
 解放ののち、水の流れる音が聞こえる。
「志麻子は台所で料理中だから、さっさと二階の部屋に戻ってて。あと、なるべく足音とか立てないようにしたほうがいい」
 トイレに長居するほど不審を招く。軽く忠告をしてお開きにしようとしたのだが、フウリはその場から動く気配がない。
「あの……早く出ていってもらえると助かるんだけど。僕もトイレしたいからさ。さすがに音とか聞かれるの恥ずかしいし」
「女の人を家に呼んだんですね」
「え」
 思わぬ切り口からの問いかけだった。
「家に呼んだのは女の人なんですね」
「言い換えなくてもいいよ。いや、呼んだっていうより、あっちが押し掛けてきたって感じなんだけど。不摂生な食生活を見かねたみたいで」
「そうですか。でも、断ることは可能だったんじゃないですか? 陸人さんはわたしが家にいることをわかっているんですから、強引にでも断るべきでした。浮かれていたんですか。その女の人とは仲が良いんでしょう。付き合いの浅いわたしなんかより」
 徐々に声量が増していく愚痴を、口ごと塞ぐ。
「声が大きいってば。話なら後で聞くから、取りあえず隠れろって」
 フウリはまだ、手のひらでもごもご言っていたが、トイレから無理やり放り出す。扉の鍵を閉めてしまえば、それ以上の追撃はなかった。
 排尿と水洗を済ませる。
「なんだっていうんだ」
 濡れた手を拭きながら、僕は呟いた。


 いつぶりだろう、食卓にまともな料理が並べられたのは。棚に幽閉されていた食器類との対面が久しい。懐かしさすら覚えた。
 帰宅してすぐ仕込みを始めて、完成までにおよそ一時間。皿洗いなどの後始末を含めると合計で一時間半くらいかかるだろう。今日は志麻子なりに気合を入れて手間のかかる料理を選んだのかもしれない。しかし、それにしたって毎日こんな作業を自分でする気にはなれない。冷蔵庫に残される食材の処遇が、悩みの種になりそうだ。
 目の前には料理が並んでいる。白米、鰆の西京焼き、筑前煮、ほうれん草のお浸し、だし巻き卵、納豆、吸い物。
「和食だ……」
「外食だと洋食とか中華に偏りがちでしょ」
「志麻子って料理が上手かったのか」
「上手いってほどじゃないわよ」
「いや、上手いって」
「おだてても何も出ないから。ほら、いただきます」
 志麻子が手を合わせたので、釣られて同じようにする。
 食事を始めてしばらくは口を利かなかった。不覚にも、夢中になっていたのだ。
 最近は、冷凍食品もレベルが高い。テーブルマ○クのお好み焼きだけで一週間は生きられるし、食生活に不満があったわけではないのだが、久しぶりの家庭料理は格別だった。
 味の感想は言わずとも伝わっただろう。憑りつかれたように食事を進める僕を見て、志麻子が言った。やせ細った犬でも心配するように。
「陸人、頼れる人とかいるの?」
「頼れるって?」
「だから、生活の色々なことよ。家事とか勉強とか、あと、進路のことも」
「家事はひとりでどうにかなってる。勉強は、まあ、落第しそうになったら志麻子に頼みこむつもり」
「本人を前にして言わないでよ。私はいいけど……。進路のことは、友達とかにも相談してるの? 地元を出ていくって言ったら、寂しがる人もいるでしょ」
 問われて、箸が止まる。せっかくおいしい料理だというのに気の重くなる。
 志麻子にしてみれば、料理を振舞うことは単なる口実だったのかもしれない。最初から、進路に横やりを入れて東京行きを阻止したかったのだ。
「またその話か。このあいだも言っただろ。僕はこの街を出ていく。外に出て行ってやりたいことを見つけるんだ」
「私だって別に、うるさく言いたいわけじゃないの。でも放っておくと、陸人は投げやりになりそうだから」
 言って、志麻子は居間を見回す。室内は散らかっているというほどではないはずだが、一般家庭のそれとは違うのだろう。共用スペースとしての生活感というものがない。実際、僕には家族がいないようなものなのだから仕方がない。でも、だからといって、それがなんだというんだ?
「家事のことなら、今日みたいに私が定期的に家に来ようか? 清美さんとは面識があるし、私から――」
「ああ、もう、うっとうしいな」
 僕は茶碗に箸を置く。
「学校以外のことは、志麻子には関係ないだろ。お節介もほどほどにしてくれって。ただの幼馴染に、やることなすこと説明しなくちゃいけないのかよ。家のことだって、志麻子には余裕があるから、同情してるのかもしれないけど」
「同情なんて。違う、私はそんなつもりで言ったわけじゃない」
「じゃなきゃ、なんだっていうんだ」
「私はただ……」
 志麻子はうつむいて黙りこくる。
「ほらみろ。親切なつもりでやってるのかもしれないけど、そういうのって、見下されてるみたいでかえって惨めなんだ。やめてくれよ」
 言い放った直後に、後悔が湧いてくる。責めるような言い方をするつもりはなかったのに。
 一応謝っておこうか。迷っているうちに、志麻子が口を開いた。
「同情なんてしてない」
 謝罪の出足を挫く、低い声だった。
「同情するわけないでしょ。だって、陸人は全然かわいそうじゃないもの。ありふれた環境よ。片親だからって、命まで取られるわけじゃない。学校に通えてるし、友達だっている。私に言われたくらいで自分が惨めだって感じるなら、それは傲慢な勘違い。悪事を働いていないのに理不尽に亡くなる人や、明日もわからない状況で闘っている人もいる。陸人くらいの人間はね、卑屈になって堕落する資格ないのよ。少なくとも、私には許せない」
 予想外に強い言葉が返ってきて、閉口する。言い分はもっともだと思った。僕は特別ひどい環境に置かれているわけではない。むしろ平凡だ。ふたりの意見は共通するはずなのに、どうして指摘を受けるのだろう。そして、どうして僕は図星を突かれたような気分になるのだろう。
 やがて、志麻子が箸を持ち直す。
「ごめんなさい。言い過ぎた」
「こっちこそ、ごめん」
 結局、謝罪の先手も取られてしまった。
 一連の言い合いのあと、重い空気のまま食事を終えた。取り繕ったように明るい話題を振りながら、志麻子は宣言通り部屋の片付けまでしてくれた。
 帰り際、彼女は一言「今度、言い訳をさせて」と残して帰っていった。

     

(三)

 暗闇の中で、揺れていると感じた。
 革製のソファは眠るには幅が狭く、バランスが悪い。体の収まりが落ち着かないことは日常茶飯事だ。だから例に従い、浅い眠りにしがみつきながら身じろぎをしていたのだが、しばらくして揺れが人為的なものであると気づいた。
 肩の辺りを掴まれ、揺すられている。
「陸人さん、陸人さん!」
 切羽詰まった声が聞こえる。
 薄く目を開けると、近くにフウリの顔があった。
「どうしたんだ。昼間のことなら謝っただろ」
 半覚醒のまま答え、掛け布団を引き寄せる。
「違います、そんなことじゃなくて。とにかく起きて部屋に来てください。ステイハムが!」
 時計に目をやると早朝五時。フウリの表情と見比べ、ようやくただ事ではないと思い至った。
 手を引かれ、二階の自室まで連れていかれる。ステイハムのケージを前にして、フウリは言った。
「ステイハムが冷たくなっているんです」
 一気に目が覚めた。
「本当に?」
「本当です。朝、目が覚めてケージを覗いたら隅で丸まっていて。最初は寝ているだけだと思っていたんですが全く動かなくて。触ってみたら冷たくなっていたんです。陸人さん、ステイハムを助けてください!」
「取りあえず、見てみるよ」
 フウリの目には涙が溜まっている。
 僕は急いでケージの蓋を開け、ステイハムの体に触れてみる。すると言う通り、生命のぬくもりが失われ、冷たくなっている。しかも、石ころのように硬くなっていた。その時点で諦めが頭を占めたが、祈るように見つめる現飼い主を前にして、簡単には口にできなかった。
 ほとんど希望がないとわかっていながら、日内休眠の可能性を疑ってみる。しかし、目を開いたまま呼吸は完全に停止して、毛並みも乱れていた。結果は明らかだった。そもそも、日内休眠に入るような室温ではないのだ。
 ステイハムは死んでいる。僕がそれを伝えると、フウリはフローリングに崩れ落ちた。
 かける言葉が見つからない。僕は声も出さずに泣いているフウリをよそに、顔を洗いに行った。中途半端な時間に二度寝するよりも、登校まで起きていたほうがいい。
 同居している女の子が悲しんでいるのは、学校を休む動機には足りる。けれど、憔悴している姿を眺めているのも辛かった。
 そうして結局、僕はいつも通りに登校し、授業を受け、帰宅して。自室の扉を開けた先に、朝方と同じ場所――ケージの前で佇む少女を見つけることになった。
 もしかして、数時間ずっと身動きをしていなかったのだろうか。時が凍ったような彼女の目元は腫れていた。
「ご飯は、食べた?」
「いえ」
「食欲がなくても、何か腹に入れといたほうがいいって。そうだ、魚肉ソーセージ持ってくる。あれくらいなら食べられるだろ」
「いりません」
 フウリは微動だにせず答えた。
 ケージにはまだ、ステイハムの亡骸が残っている。餌入れにはペレットが半分くらい盛られているが、これから減ることはない。ほんの前日まで生命活動の場として機能していたケージは、虚しい棺桶になり果てていた。
「わたしがいけなかったんです」
 絞り出された声は自責に塗れている。
「違うよ、フウリのせいじゃない。フウリの世話のし方、少なくとも僕が見る限り間違ってなかった。元々、ハムスターって長生きする生き物じゃないんだ。そいつも、うちのハムスターとしては二代目。だから落ち込むな、とは言わないけど」
「わたしが悪いんです」
「だから、違うって」
 フウリの口元が歪む。
 いまにも決壊しそうな気配を察して、僕は慌てて言い募った。
「ステイハムは庭に埋めて、墓を建ててやろう。フウリの手で埋葬してもらえるならステイハムだって喜ぶよ。そしたら、今度はペットショップに行って新しいハムスターを買ってこよう。ハムスターって毛並みの柄とか、種類がたくさんあるんだ。フウリも見てみたら、絶対に気に入ったのが見つかるよ。そうだ、次の土日にしよう。私服でなら出掛けたって構わないさ。神経質になる必要ない」
 すると、翠色の瞳が横目を向けてくる。
「最初のハムスターはどうしましたか」
「最初……?」
「陸人さんはステイハムを二代目だと言いました。一代目は死んでしまったんですよね。そのハムスターはどうしたんですか」
「あ、ああ、一代目も庭に埋めたよ。墓までは、つくらなかったけど……」
 なんとなく、やましい気持ちになる。
 埋められた動物は土に還る。分解されて草花の栄養にだってなる。そのサイクルは極めて自然だし、悪いことではないはずだ。しかし、過去の僕は、そんな高尚な理念を持って亡骸を埋めたわけではない。実のところ、今回の出来事が起こるまで、最初に飼っていたハムスターのことなど忘れていたのだ。
「そうですか」
 僕の態度から、フウリはネガティブな感情を鋭く感じ取ったのかもしれない。おざなりな返事をして瞼を伏せる。以降は、何を言っても上の空だった。
 飼い主がその調子なので一時、ステイハムの扱いについては保留になった。ペットの弔いには、業者に頼んで火葬してもらうやり方もある。ハムスターの購入価格からすれば値が張るが、こういうのは心の問題なのだろう。フウリが望むならば叶えてやってもいい。
 しかし保留といっても、ケージの中に亡骸を残しておくわけにはいかない。動物の腐敗が始まるのは存外早い。僕は放心状態のフウリに気を遣いつつ、ステイハムをジップロックに詰め、冷凍庫で保存した。
 冷凍庫の引き出しを閉める直前、魂の抜けたステイハムと目が合った。
「お前は幸せ者だよ。死んだら泣いてくれる飼い主がいるんだから。じゃあな」
 手向けの言葉とともに、僕は彼を暗闇に追いやったのだった。

     

(四)

 フウリの涙を見るのは久しぶりだった。一筋に流れる透明な液体。手に触れる感触。僕はその温度を知っている。……とはいえ、知っているのはそれだけだ。
 飼っているペットが死んで悲しむのはおかしくない。感受性が豊かならばこみ上げることもあるだろう。しかし、理由は他にもあるような気がした。ケージの中の小動物に入れ込む理由。
 それこそがあの日、公園で偶然の邂逅を果たしたときに見た涙の正体なのかもしれない。僕が彼女を匿っているのは、きっと知りたいからだ。
 ――君はどうして泣いているんだ?
 居間は薄闇に包まれている。
 寝つきは悪かった。掛け布団をひざ掛けがわりにして、僕はソファに座っていた。じっとしていると、静寂に混じるノイズが耳につく。
 台所からは冷蔵庫の作動音が、ごおごおと苛立ちを訴えているようだ。ステイハムが死にきれずに呻いているのだろうか。
 僕はなんとなく居心地が悪くなり、トイレに立った。
 廊下に出ると、一条の光が目に入る。トイレの扉があるより先、洗面所から照明が漏れている。
「こんな夜中に。電気消し忘れたかな」
 軽い気持ちだった。一応、中を確認しておこうと引き戸を開けた。別に、何かを覗き見ようというつもりはなかったのだ。
 中にはフウリがいた。
 無人だと思っていたので意表を突かれる。反射的に着替えの途中だったのではと考えが掠めたが、彼女はパジャマを着ていた。
 僕の目を奪ったのはもっと別の光景だった。
 焼き付いた画は群青と赤のコントラスト。
 フウリは手袋を外し、左腕の袖を捲くっていた。右手には異世界から持ち込んだと言っていた刃物が握られている。そして、その刃が左手首に押し当てられ、食い込んだ部分から血が滴っている。手首を伝い落ち、洗面台の曲面に血溜まりができていた。
 ポタリ、ポタリと血溜まりがカサを増していく。
 僕はしばらくのあいだ動けなかった。脳が認識を拒絶していた。
 フウリがゆっくりと、青ざめた顔を向ける。それでようやく踏み出せた。
「バカっ、なにやってんだ!」
 刃物を持つ右腕を掴み、当てられていた部分から遠ざける。抵抗しようとするので、体ごと壁に押さえつけた。
「やめてくださいっ、離して!」
「そんなわけにいくか!」
 フウリの力は弱かった。あっさりと刃物を奪い取って放り出すと、フローリングが硬い音を響かせた。
「離してください、離して……」
 フウリはうわごとのように言った。抵抗していた力が抜け、立っていることすらままならない様子。もみ合った際に触れた血が、僕の胸の辺りを汚していた。視界を埋める過激な色合いに、立ちくらみを起こしそうになる。
「動かないで待ってるんだ。消毒液と包帯を持ってくるから」
 動悸を抑え、とにかく状況への対処を優先する。
 救急セットの場所を探し出すのには苦労しなかった。普段、工作で怪我をすることがあったからだ。
 洗面所に戻ると、フウリは暴れたりはしていなかった。さっきとは一転、魂の抜けきった表情でへたり込んでいる。僕はだらりと落とされた腕を掴み、治療に取り掛かる。
 怪我の度合いは大したことはなかった。刃が裂いたのは表面の浅い部分までで、致命的な血管には届いていない。むしろおぞましかったのは、今回の傷ではなく、今回までに付けられた傷だ。
 刻まれた筋は一本だけではなかったのだ。手袋を外して露わになった部分には、無数の傷跡が残されていた。いくつかの筋は重なり、歪につくられた蛇腹は本数を数える気持ちを萎えさせた。
 そこで、今更になって認識された。フウリがやっていたのはリストカットなのだ。しかも、日常的に行われていた。
「聞くけど、これって、宗教的なおまじないとかいうわけじゃないだろ」
 仮にそうだとすれば、フウリの態度は明らかにおかしい。
 返事がなくとも肯定だと受け取った。
「どうしてこんなことしてるんだ」
「陸人さんには関係ありません」
「関係ないことはないだろ。僕たちは……同居人だ」
「だから、なんだっていうんですか」
「一緒に住んでる相手がこんなことしてたら心配するのは当たり前だろ」
「余計なお世話です」
 声色には明確な拒絶が含まれていた。
 最近は、出会った頃と違って距離が近づいたと思っていた。しかし、それは都合のいい勘違いだったのかもしれない。僕らは近づいたのではなく、互いに傷つかないように停滞を選んでいただけだったのではないか。
「傷は浅い。自殺しようとしてたわけじゃない。これは、助けを求めていたんだろ」
 指で触れる傷跡は、一つ一つが悲痛な叫びに思えた。
「違います。わたしは誰にも助けなんか求めません」
「嘘つけ」
「嘘じゃありません」
「でなきゃ、目に見えるように自分を傷つけるはずがない」
「陸人さんは何もわかっていません。何も知らないくせに、知ったふうなことを言わないでください」
「ああ、確かに知らないかもしれない。だったら、教えてくれよ」
「さっきも言いました。陸人さんには関係ありませんから」
「だから、関係――」
「どうだっていいじゃないですか!」
 フウリはいきなり大声を出し、手を振り払った。止めていなかった包帯が乱れて解ける。憎悪のこもった瞳が僕を射抜いた。
「どうだっていいんでしょう、わたしのことなんて。わたしが苦しんだり、死んだりしても、それはあなたにとって他人事じゃないですか。適当に可愛がりたいのなら、代わりはいくらでもいるはずです。家に来ていた彼女でもいいじゃないですか。親しそうでした。それでも足りなくなったら次、次、次。取り替えていけばいいんです。いちいち墓を建てる必要もありませんね!」
「まだあのことを根に持ってるのか? いい加減しつこいぞ」
「違います。違う。わたしは、安い同情をやめてくださいって言ってるんです。そんなもので心に踏み込んでこないで。放っておいて」
 フウリが髪を振り乱す。
 聞き覚えのある言葉だった。脳裏に反響が聞こえる。
 『僕に同情しているのかもしれないけど』
 まるでやまびこだ。数時間前に放った言葉が、そっくりそのまま返ってきたのだ。
 僕は反論する気力を失ってしまった。虚脱感が一斉に訪れ、体の芯から力が抜ける。言い捨てたのは、いわば負け惜しみだ。
「放っておけっていうなら、そっちが出ていけばいいだろ。好き勝手に飲み食いしておいて、都合のいいときだけ他人面か。
 この際だからはっきり言ってやる。やっぱり君、本当は異世界人じゃなくて家出してきただけなんだろ。それで、夜道をふらついては手頃そうな男を捕まえて匿ってもらおうって腹か。
 情緒不安定で友達もいない、リストカットするような人間なら納得だよ。そういう手合いは嘘つきって相場が決まってる。最初から世界を脅かす敵なんていない。任務なんてない。君が戦うべきなのは現実じゃないのか」
 長い沈黙。
 喧嘩になるだろうと思った。フウリは僕と同じ温度で反撃をしてくるだろうと。しかし、予想に反して彼女の口調は冷めていた。言葉を選んで、機械的に並べているような。
「確かに、わたしは嘘をつきました。世界を救うための任務だなんて、馬鹿らしいですよね」
 そして、おもむろに立ち上がった。
「出ていきます」
 彼女は洗面所を去る前に、洗面台横の棚に畳まれていた衣服――出会ったときに着ていたものを手に取る。
 そのまま廊下に出ると、転がっていた刃物も拾う。持っていく荷物はたった二つだけ。両手で足りる分が、この家から持ち出されるすべてだった。
 背後で聞こえる淡々とした足音。玄関の扉を開く音。閉じる音。
 拍子抜けするほどあっさりしていた。奇妙な同居生活は、白々しい静寂を残して終幕を迎えたのだった。

       

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