Neetel Inside ニートノベル
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異世界人が働かない理由。
第三章

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(一)

「チェックだ」
 威圧するような宣言を聞いて、僕は思い出したように顔を上げた。
 正面には優作の顔がある。その手前、ふたりの間に挟まれた盤面には、目を背けたくなる劣勢が広がっていた。
「何をぼーっとしてるんだ、勝負の途中だぞ」
「ああ、いや……」
 思考の連続性は断たれていた。これまで読んでいたはずの流れは輪郭すら見えない。突如として現れた盤面の模様に、文字通り場当たり的な手を指さざるを得なかった。
 チェスを改変したこのゲームは、フィールド効果とユニットの特性を相乗させなければ勝ち目はない。僕の手は悪手だった。みるみるうちに身動きが制限され、死地へと追い込まれていく。
「負けたー」
 手に持ったビショップを放り投げて降参する。
「どうした、調子が悪いな」
「たまたまだよ」
 勝負はこれで五連敗だった。
 僕は大きく伸びをして、絨毯の上に寝そべる。換気のために開けた窓から、運動部の掛け声が聞こえてくる。練習には身が入っているようだ。美しき青春ってやつか。
「はーあ、つまんないな」
 意味もなく、絨毯についた埃を拾い集める。脚を使ってティッシュをつまみ出し、塊になった埃を包んだ。ゴミ箱は遠い。シュートを試みたところ、壮大に狙いを外した。
「お前、いいのか」
 優作が苦々しい顔で言った。
「いいのかって、何が」
「何がかは……知らないが。連日、この部室に通い詰めているだろう」
「いままでと同じじゃんか」
「いいや、最近のお前は忙しそうにしていた。目的があったというか、良い顔つきになったと感心していたんだ。なのに、以前の腑抜けた面に戻っている。いや、むしろ悪化している」
「ひどい言い方だな。いいだろ、おかげで優作の遊びに付き合ってやれるんだから」
「恋人と破局したのか?」
 僕が睨みを向けると、優作はどこ吹く風で盤面をいじり始めた。先ほどの勝負の再現をしているらしい。
「恋人じゃない」
「じゃあ、想い人に振られたわけか」
「それも違う。……どっちかといえば、僕のほうから振ったんだよ」
「とてもそうは見えないがな。取り返しのつくことなら、行動したほうがいいぞ」
 僕は返事をするのも億劫で目をつむる。
 フウリが僕の家を去ってから、四日が経っていた。
 現在、彼女がどこにいるのか、何をしているのか、まったく情報がない。連絡手段もない。
 もっとも、もしも再会したとしても、できることはない。結局のところ、ふたりの縁は家の中にしかなかったのだ。あの日、フウリが出ていくのを引き留めなかった時点で僕らは終わっていた。取り返しがつくかどうかと問われれば、取り返しはつかないのだろう。
 ところで――僕はフウリを取り戻したいのだろうか? いまとなっては意味のない疑問が浮かび上がる。
 彼女は最後に認めていた。敵と戦うつもりなどなかった。嘘をついていた。僕を騙していた。ならば、事は一件落着なのではないか。虚言癖の女に捕まりかけていたけれど、最小限の被害で決別できた。授業料を払ったと思えば、財布の痛みも我慢できないほどではない。
「でも、本当に……」
「ん? 何か言ったか?」
「独り言だよ」
「そうか」
 すると、優作はポケットからスマホを取り出して操作しだした。
「ところでなんだが、俺の知り合いに自転車が壊れたってやつがいるんだ。見てやってくれないか。お前、得意だろう」
「うーん……」
「わかってるよ、必要経費と手間賃だろう。症状を確認してから、希望を伝えてくれればいい」
「いや、やっぱやめとくよ。他を当たって」
「どうしてだ」
「なんとなく、気が乗らない」
「……重症だな」
 優作は溜息をつくと、遊び道具を片づけにかかる。失恋がらみで落ち込んでいる女々しい人間だと思われるのは心外だったが、怒る気力も湧いてこない。フウリがいなくなって、面倒ごとはむしろ減ったはずなのに。帰ってきた日常には倦怠ばかりが取り巻いている。
 倦怠、退屈、停滞。そういうものに支配されそうになったとき、頭の中にはいつも同じ音楽が流れる。
 陽気な酔っ払いに連れられたイングリッシュパブで聴いた演奏。薄暗い店内で、たった四人の指先と声帯が生み出すうねりが、それまでの人生のすべてを否定してくれた気がした。
 素晴らしい演奏を聴いたくらいで、人格が変わるわけでもないけれど。きっと、僕が街を出ると決めたのはあのときなのだ。
 鍵を頼むと言って去っていく優作を見送って、僕はスマホに手を伸ばした。
「SHOYAさん、ちょっと時間、大丈夫ですか」
 忙しいと撥ね付けられるのを覚悟していたのだが、電話越しの彼は意外なことを言った。
「おお陸、ちょうど俺から連絡しようと思ってたところだったぜ」
「え?」
「マスターから電話があってな。ホールにゾンビが歩き回って迷惑だからなんとかしてくれってよ。お前、顔に出るタイプだよな」
「うわ、本当ですか」
「悩みがあんだろ。前置きはいいから話せよ」
「は、はい。ええと、何から話せばいいか――」
 促されるまま、僕はここ二か月ほどで起こった出来事を話した。異世界がどうのという詳細は伝えづらく、また僕自身が把握しきれていないために、かいつまんで。
 相手が電話越しなのがかえってよかったのかもしれない。話し始めてしまえば、言葉が次々と湧いてきた。特に、同居生活での不満はいくらでも思い出すことができる。やっぱり僕は、フウリとの生活が嫌だったのかもしれない。だとすれば清々する。
 一通り話し終えると、黙って聞いていたSHOYAさんが声を発する。
「要するに、別れた女のことが忘れられないってか」
「違いますよ。僕の話、聞いてました?」
「長かったからよ」
「いいですけどね。別に、解決を求めて相談したわけじゃないですし」
「だったらなんなんだよ」
「変な女に騙されたっていう希少体験を語りたかっただけです。ちょっとだけ愚痴も混ざってますけど」
「騙されたねぇ……」
 向こう側から、溜息をつく気配が伝わってくる。
「なんですか。SHOYAさんは、女の嘘は許してやれっていうタイプなんですか」
「そう殺気立つなよ。寛容なのがカッコイイとか言うわけじゃねぇ。ただ、一体誰が嘘と真実を仕分けしてくれるんだろうなと思ってよ」
「どういうことですか?」
「俺は職業柄……なのかはわからねぇが、イカれた女と知り合う機会は結構あるんだよ。で、そういうやつらって高確率で虚言癖も併発してるんだよな。たいていは迷惑かけまくって、周りからも避けられたりしてるんだが、実際、そういうイカれ女と付き合うと印象が変わるもんなんだよ。
 関係が浅いうちは、言ってることと現実が食い違うから嘘ついてるって思うわけだ。でも親密になってみると、騙してやろうなんて悪意がないことがわかってくる。
 俺が作曲作業してるといつも、そいつは扉の隙間から甘えるタイミングを図ってるんだぜ。でもっていざ膝枕でもしてやると、二言目には『翔也くんが緑色のシャツを着てるから、歯磨き粉が毒になって蓄積するの。やめてよ』とか言うんだよ。マジで意味わかんねぇだろ? 俺は別に、恋人の好みに合わせてファッションを変えるくらいは構わねぇんだ。だから、緑色のシャツがダサいと思うならそう言えばいいって諭すんだが、頑なに訂正しねぇ。本人曰く、俺が緑色のシャツを着てると歯磨き粉の味が変わって、しかも体調が悪くなるんだと。昔、そいつがオナニーしてないとか抜かしたときには、問い詰めたら一分で白状したのにな。どうして、歯磨き粉が毒になるなんて一ミリの得もない嘘を貫き通す? そういう、脈絡のわからん思考と、オナニーを恥ずかしがるくらいの常識が混ざりあって、周りの人間にとって質の悪い嘘が出来上がるわけだ。
 そいつは自分自身の言葉を本気で信じてるんだよ。だったら、周囲と乖離してるのはなんなのかっていったら、感じ方なんだよな。同じ世界を対象にしてるようでも、感じ方が違う。
 でもって、そういう女と四六時中も話してると、だんだん俺の感じ方も引っ張られていくんだよ。緑色のシャツを着てる日は、歯磨き粉が苦かったりしてな」
「洗脳されてるじゃないですか。ヤバいですよ」
「まあ、結局そいつとは別れたんだが。でも、洗脳っていうなら、この世に洗脳されてないやつがいるのか?
 人間は狼に育てられれば獣になる。俺たちが知ってる言葉や概念は、関わった社会に頼ってるだろ。俺は、大人の戯言に耳を貸すなって歌ったりもするが、歌ってる俺こそがすでに、社会に歪められてることを否定できない。この世界の何もかもが幻でないと、誰が言えるんだ?」
「そういう哲学があるのは知ってますけど……」
「ピンとこないか。じゃあ、この話は終わりだ。なあ、嘘といえば思い出したんだが、陸、イソップのオオカミ少年の話は知ってるだろ」
 自分で狼と口にしたから連想したのだろう。相変わらず会話が自己完結的というか。僕の悩みを聞いてくれるという建前はどこへいったのだろう。すっかり主導権を握ったSHOYAさんに調子を合わせる。
「知ってますよ、ええと……。少年が『狼が出たぞ』っていう嘘を繰り返してたら、あるとき本当に狼が出て、今度こそ心から助けを呼んだけど誰も来なかったって話でしたよね。それで、少年は狼に食べられてしまう」
「村の羊がしこたま食べられちまうバージョンもあるんだぜ」
「え、知りませんでした」
「教訓としては、嘘つきのガキが食べられたほうがわかりやすいわな。死にたくないなら嘘つくなってめちゃくちゃだと思うが。でも俺はひねてるから、この寓話を聞いて、現実味ねぇなって思ったんだよ。だって、いくらガキが嘘を繰り返してたとしても、村人全員が無視するってこたないだろ」
「そうですか? 僕は違和感ありませんけど。普通は、嘘つきの言うことを信じないでしょう」
「『普通は』な。でも、大勢の村人のなかには、普通じゃないやつも紛れてるのがそれこそ普通だろ。家畜の危機と聞いたら居てもたってもいられない強迫症気味の羊飼いとか、その日こそはガキを折檻してやろうと息巻いてるカミナリおやじとかよ。そのうちの一人でも確認に向かえば、いや、家の窓から覗きさえすれば、スピーカーになって村中に危険を知らせられる。誰もが狼少年を無視するのはかえっておかしいだろ。だって現実に、後ろ指を差されるような不良でも、一人や二人、構ってくれるやつがいるもんだ」
「なるほど、周りから避けられてるイカれ女と付き合っちゃうSHOYAさんならではの視点ってことですか」
「煽ってんのか。お前も似たようなもんだろ」
「ははは……」
 乾いた笑いを漏らすと、SHOYAさんが再び溜息をついた。
「まあ、だからよ、いつまでもクヨクヨしてても甲斐ねぇぞ、たぶん」
「え?」
「俺は話で聞いただけだから、陸が会った女のことはよくわからん。でも、そいつも今頃、他の誰かとよろしくやってると思うぜ。まして、美人なんだろ。周りの男どもはだいたい味方だ。陸がわざわざ庇ってやらなくてもよ。経験上、そのテの女は次の男を捕まえるのが早い。だから、あんま引きずんな。陸は陸で、新しい女でも捕まえればいいさ」
「SHOYAさん……」
 好き勝手に話しているように思えて、SHOYAさんなりに慰めようとしてくれたらしい。気持ちは素直に嬉しかった。
「でも、僕は……」
 僕は、この期に及んでも割り切れないでいた。
 喉に刺さった小骨のように、残り続けている懸念。一緒にいるときには、微塵も信じていなかったはずなのに。彼女の荒唐無稽な与太話を受け入れろと訴える声が聞こえるのだ。
 失恋のショックからくる願望などではない。僕は理性によって嘘を看破しながら、その嘘が実は真だと知っている。まるでデジャヴ。そう、何かしらの経験によって、フウリが異世界人であることは決定づけられていたはずなのだ。それが現在の矛盾した感覚を生み出している。
 では、いつ? 僕はいつ、フウリが異世界人であると知ったのだろう。
「うっ……」
 頭痛がした。
 張り巡らされた有刺鉄線に触れたみたいに、生理的な反応が思索を取りやめさせた。
 とにかく、僕は馬鹿げた可能性に囚われたままだった。もしも、だ。もしもフウリが、本当に孤独な異世界人だったとしたら。世界に彼女の味方が一人もいないのだとしたら。――救ってやれるのは僕しかいない。

     

(二)

 翌日、土曜の昼。
 洗面所の鏡で自分の顔を観察すると、確かにこけているように見えた。ゾンビとまでは言わないまでも、心労がたたっていると邪推されても仕方がない。
 じっと鏡を眺める。すると、映る背景に血色が滲んだ。
 洗面所、刃物、血液、……フウリ。それらすべては関連付けて記憶されている。
 眩暈がした。
 目頭を押さえ、瞑目する。深呼吸してから瞼を開くと、今度こそ鏡の中にゾンビを見た。
「ぶっ倒れる前にちゃんと食べた方がいいな」
 台所に行き冷蔵庫を開けると、志麻子に貰った食材が並んでいた。
 同居人がいなくなり、もはや消費は不可能と踏んで見て見ぬふりをしてきたが、向き合ってみてもいいだろう。凝った料理は作れないので鍋にしよう。冬だし、暖まるにもちょうどいい。
 方針が決まったところで食材を選びはじめるが、一日や二日で使い切れる量ではないことを悟る。生肉は腐っているか怪しいものもある。また、パックに期限が書かれていればまだいい。表示がない野菜などはいつまで保つのかもわからない。
「すぐに使えない分は凍らせておくか」
 迷った挙句、冷凍庫に移すことにした。
 そして、下段の引き出しを開けた奥に、死体があった。
「うわ」
 思わず声を出す。
 すっかり忘れていた。冷凍食品の隣には、ジップロックに詰められたステイハムが横たわっている。
「ステイハム、久しぶりだな。お前のおかげで食欲が失せたよ」
 もちろん死体は返事をよこさない。収納した時と同じ姿で、僕をじっと見つめてくる。
「よしわかった、腹ごしらえの前に、墓をこしらえてやろう」
 家には、本来は園芸を楽しむためであろう、中途半端な広さの裏庭がある。
 居間から掃き出し窓を開け、石段にあるスリッパを履いて裏庭に出る。やせた土ばかりで相応しい場所とは言いがたいが、端のほうにローズマリーが群れているのを見つけた。その近くに埋めてやる算段をつける。
 しかし、埋めただけでは墓とは言えない。端に設置されている物置小屋を漁り、DIY用にとっておいた木っ端を探す。ついでにスコップも取り出した。墓標をつくるのだ。
 ステインを塗ったり、文字を転写することも考えたけれど面倒だったので、直接ペンキで描く。『ステイハム』と名前だけ。出来栄えはチープだったが、墓標はものの数分で完成した。
 用意は揃った。あとは埋めるだけだ。
 さっそく穴を掘る。ハムスターならば、穴は拳大で十分だ。そしていよいよステイハムを底に置き、上から砂をかければお終い。これで、永遠の別れ――。
 あとは砂をかけて、地面を固めるだけ。なのに、下半身を埋めた段階で作業が止まった。
 スコップを握る右手が小刻みに震え出す。体が自分の意思に反していた。
 やがて、目の前の地面に変色が起こる。斑模様に散らされた、色が濃い部分ができていく。何事かの事象によって、地面が濡れているのだ。
 左手を目元にやって気づく。僕は泣いていた。涙ぐむ、どころではない。涙腺はダムが決壊を起こしたように制御を失い、止めどなく透明な液体を流し続けている。
 肉体と精神が乖離したような感覚だった。涙に連鎖して喉がひっくり返り、嗚咽を吐き出す。地に這いつくばり、頭を垂れる情けない男がそこにいた。
 大騒ぎになっている体とは裏腹に、頭は冷静だった。
 自分の状況について理解が及ぶ。僕はツケを払っているのだ。ここ数日のあいだ拒絶していた本心に、逆襲の牙を剥かれている。
 スコップを持ち直し、半分かかっていた砂を無我夢中で掘り返す。毛に絡まった分までできるだけ払い落してから、亡骸をジップロックにしまい直した。
「いやだ。まだ、諦めたくない」
 ステイハムは、フウリと一緒に埋めるのだ。そうでなければ供養は済まない。
 諦めてたまるか。
 頑なな感情が湧き起こるのと、ズボンにしまったスマホが震えるのは同時だった。
 メッセージだ。
 志麻子からだった。


 本文の内容は至って簡潔。可及的速やかに待ち合わせ場所に来い。すぐに済むから、用事があっても来いと。
 指示に従って訪れたのは近所の空き地だった。立ち並ぶ家々の隙間にある、ポケットみたいな空白地帯。幼い頃によく遊んでいた場所だ。
「変わってないね、ここ」
 先に待っていた志麻子に呼びかける。
「……そうね」
 志麻子は引き締まったシルエットのコートを着て、手首にはブレスレットを嵌めている。
「街に出るの? 悪いけど、やることがあるから一緒には行けないよ」
「大丈夫。伝えたでしょ、時間は長く取らせないって」
 とか言うわりには口が重そうだ。歩み寄る足取り一つ一つから、並々ならぬ緊張感が漂ってくる。辺りには風が吹いていた。今日は一段と強い。
 居心地の悪い間が続いたので、僕から話を振った。
「そういえば、周りにどんどん一軒家が建つのに、どうしてここだけずっと空き地なんだろう。微妙に細長いから間取りが難しいのかな。まあ、僕としては周りに家なんて建たないほうがいいけどさ。ほら、道沿いに隙間なく建物が詰まってるのって息も詰まるだろ。空き地の一つや二つもないと息継ぎができない」
 志麻子は頬をほころばせた。
「子どもの遊び場にもなるものね。陸人、覚えてる? ここで、小学生のときにキャッチボールしてたの」
「あぁ……。あったなぁ、そんなこと」
「この空き地は私たちの家の中間地点だから、いつも使ってた」
 よくもまぁ、飽きもせずに毎日集まっていたものだと思う。休みの日ともなれば、朝食を食べては遊び、昼食を挟んで、陽が暮れるまでまた遊んでいた。
 脳裏に焼けるような夕陽の景色が思い出される。太陽系の仕組みが変わったわけでもないのに、あの頃と同じ黄昏は二度とやってこない確信があった。
 志麻子はあさっての方角を向いて、投球の真似をした。様になったフォームから放たれた架空のボールは、遠くの寒空に消える。
「キャッチボール、最初に誘ってきたのは陸人からだったでしょ」
「そうだったかな」
「そうよ。小学三年生の夏休み。確か前日に、テレビで甲子園の試合がやってたんだっけ。勝ったチームのエースピッチャーがフラミンゴみたいなフォームでかっこよかったって言って、私の家に押し掛けてきてさ。『ふたりで甲子園に出よう』とか目をキラキラさせて、無理やり引っ張って連れられた。学校で部活動に参加できるのは四年生からだったから、それまで空き地で特訓しようってことになったのよ」
「よくそんなことまで詳しく覚えてるな」
 照れ臭くなって鼻を掻く。
「昔の僕、めちゃくちゃだっただろ。考えなしなくせにエネルギーが有り余っててさ。そもそも、女は甲子園に出られないだろって」
「付き合わされるのは嫌じゃなかった。でも、一か月もしたらキャッチボールやめちゃったじゃない。私が誘っても頑なに『行かない』って。突然だし、理由も教えてくれないし。ねぇ、結局あれなんだったの?」
 恨みがましい視線を向けられる。
 僕は当時の記憶を掘り返しながら弁明した。
「小学生の頃の行動に怒られてもな。できれば時効にしてほしいんだけど。
 いや、その、僕の中では突然嫌になったんじゃなかったんだよね。あの頃って、志麻子のほうが体が大きかっただろ。しかも、運動神経の良さなんて比べるべくもないわけで。はじめて二週間もしたら実力差ができてて、後々差が広がるばっかりなのも目に見えてたからさ。簡単に言うと、悔しくてスネてたんだよ」
「そんなことだろうと思った」
 志麻子は呆れたようにそっぽを向く。
 思えばあの出来事は、ふたりで遊ぶ機会を減らしたきっかけだったかもしれない。
「あのときと比べると、私たちの関係も変わったよね」
「どうかな。関係自体は変わってないような気もするんだけど」
「変わったよ。昔みたいに、陸人に引きずり回されることもなくなった。さっきも言ったけど、わたしは嫌じゃなかったのに」
「へぇ、知らなかったよ。志麻子は、僕がやることなすこと気に入らないのかと思ってた」
「そんなわけないでしょ。……でね、小さい子どもじゃなくなってからは、私が陸人を引きずり回してやろうって思ってたの。私たちは男と女だから、年が経つごとに面倒が増えていくのも実感してた。でも、そんなもの解決方法は分かりきってる。形式的な手続きを踏むだけでいいんだから、すぐにでも実行してやろうって思ってた」
「……?」
 なんだか、わざと迂遠な言い回しをされている気がする。
 困惑する僕をよそに、志麻子は幼子を慈しむように微笑んだ。笑みを向けた先は僕ではなく、過去の彼女自身らしかった。
「でも、全然ダメね。私って意外に勇気がないみたい。すぐにでもなんて言っておきながら、明日にしよう、機会が来たらにしようって先延ばしにしてた。……しかもそんなことしてるうちに、別のことに巻き込まれて、陸人に深入りする資格なくしちゃって。馬鹿みたい。
 ……でね、いまから言うのは自分勝手な落とし前。一応、伝えておきたかったから」
「う、うん」
 志麻子が姿勢を正したので、つられて僕も背筋を伸ばす。
「ええと、聞いて。その、私たぶん、陸人が思うほどお節介な性格じゃないの。女友達の進路相談に乗ったりしたこともないし。むしろ、人それぞれ考えが違うんだから、基本的に放っておけばってタイプ。進路に限らず、なんでも。だってそうでしょ、遊ぶくらいしか関わらない相手に、責任を負う気もないくせに、あれこれ押し付けるのはよくないって、その程度の分別はつくつもり、なの。冷静でいられるときには。
 だから、陸人にしつこく付きまとったり口を出すのは、ただ幼馴染だからじゃない、別の理由」
 ひときわ強い風が吹いた。
 足元の砂が舞い上がって、僕は腕で顔を覆い隠す。
 しばらくすると風は止んだ。
 細めた目を開きながら、腕をどける。
 背景に黄昏れはじめた空。目の前にいた女の子は、まるで人が変わったみたいだった。風に散らされた毛先。決意に満ちた瞳。
 志麻子は、実に堂々とした居住まいをしている。
「私は――」
 ――――――――。
 伝えられた言葉は僕にとって、できすぎた答え合わせだった。

     

(三)

 微細な雫が絶え間なく降りて、地面を叩く音は厚みを増していく。
 夕方から雨が降り始めていた。
 テレビに映る天気キャスターの女性は、悪天候が明日の早朝まで続くことを伝えている。
 曰く、前線を伴った低気圧が通過している途中らしい。その南岸低気圧とやらがベーマガ島付近よりも北にあるから、雪ではなく雨が降るのだそうだ。
 詳しい天気解説は、誰のためにやっているのだろうと不思議に思ったことがある。市井の民からすれば知りたいのは一点、傘を持つべきか否かだけじゃないだろうかと。物事の理由なんてどうでもいい。自分の行動には影響を及ぼさない。
 けれどいま、僕は理由をこそ見出したいと欲していた。
 フウリと過ごした生活で、彼女が見せた表情や言動。そのすべてを貫く一本の筋があるはずだ。知る必要がある。でなければ、僕に彼女を連れ戻す権利はないだろうから。
 食卓から離れ、窓越しに空をにらむ。
 地上にのしかからんばかりの暗雲が一帯を覆っている。陽の光は届いてこない。
 僕はその場で、時間を忘れて立ち尽くした。

 『別の世界からやってきた異世界人です』――『ネアリオは着々と数を増やし』――『これはマウスではないんですか』――『わたしには選べません』――『詮索しないでください』――『たった一匹ィユニュルを殺せばいいだけです』――『ステイハムを外に出してやることはできませんか』――『ホウ酸団子や不凍液を用いた毒餌戦法で』――『任務に当たっている仲間はいますから』――『罪深い行いをしていますよね』――『わたしがいけなかったんです』――『いちいち墓を建てる必要もありませんね』――

            『わたしは嘘をつきました』

 知らず遠ざかっていた雨音が、現実とともに帰ってきた。
 僕は、椅子の背に掛けてあったダウンを羽織る。急ぎ廊下を通って出発する直前、玄関で二本の折り畳み傘を持つ。
 予感が正しければ、フウリはいまも雨に濡れているはずだ。寒さに震えているはずだ。
 ――僕を待っているはずだ。
 外へと飛び出して、自転車を駆った。


 出発時間を把握していなかったので確かめようもないが、到着するまで五分とかからなかっただろう。全力で回した車輪を急ブレーキで滑らせると、目の前には『シベ超緑地公園』のプレートがあった。
 入口広場に自転車を乗り捨て、わきの階段を上る。
 雨で熱を奪われた体が重い。息も絶え絶えに坂を上り、辿り着いた頂上は一見無人だった。
 空っぽの東屋に雨水の幕がかかっている。展望台からの街並みは煙って雲の中に沈んでいるようだった。
 僕はそれらを無視して、片隅の茂みに足を踏み入れる。
 予感は当たっていた。目隠しの草を分けて顔をのぞかせた先に、彼女はいた。
「フウリ」
 出会った日と同じ場所に、同じ服装、同じような体勢でうずくまっている。
 ぬかるんだ地面に尻をつけて、僕の接近には気づいているはずなのに、顔を伏せたまま上げようとしない。気配に身を固めたところを見ると、死んでいるわけでも、眠っているわけでもないはずだ。
 濡れた銀髪が肌に張り付いている。手遅れとわかっていたが、僕は持ってきた折り畳み傘を差しかけてやった。
「帰ろう。迎えに来たんだ」
 フウリは膝頭に顔を擦りつける。
 帰りたくないという意思表示。けれど、彼女が迎えを待っていたことは明らかだ。
「いつから座りこんでるんだ」
「いつからだって、いいじゃないですか」
「僕を待ってたんだろ。でなきゃ、こんなところで雨に打たれてない」
「待っていません。うぬぼれないでください」
 あまりに想定通りの返答に、僕は笑ってしまった。
「ずっと思ってたけど、フウリって実は構ってちゃんだよな」
「…………」
「今日さ、志麻子に好きだって告白されたよ。ほら前、家に来てた友達」
「そうですか、よかったですね。どうぞ、ふたりで幸せになってください。わたしには関係ありませんけど」
 抑揚のない口調は、押し殺そうとする怒りを隠しきれていない。わかりやすい反応を見て安心した。まだ望みがある。フウリの心は、完全に離れてしまったわけではない。
「付き合ってくれとは言われなかったよ。でも、仮に交際を申し込まれても断った」
「……どうしてですか」
 傘を叩く雨音がうるさい。僕は一段、声量を上げた。
「フウリに好きだって言うためだ」
「っ……」
 フウリの肩がかすかに跳ねる。でも、まだ顔は上げてくれない。
 勝負はこれからだ。
「ところでさ、家を出ていったときのこと覚えてる? フウリ言ったろ、僕は何も知らないんだから、他人事に関わろうとするなって。
 事情を聞いても教えてくれないくせに理不尽だって腹が立ったけど、一理ある。端から話を信じるつもりもないやつに、興味本位で干渉されたくないよな。
 でも、僕はフウリのことが好きだからさ。本気で考えることにした。
 フウリが異世界人だっていうこと、フウリを取り巻く状況、フウリを苦しめている敵。考えた結果、信じることにした。
 だって、信じれば辻褄が合うから。一緒に過ごしたなかで、散りばめられてた断片が繋がる。
 フウリの性格はそれなりにわかってるつもりだよ。素直じゃないから、人に弱みを見せたくない。でも、痛みを独りで抱えきれるほど強くもない。だから、遠回しにサインを送ってくれてたんだろ。時間がかかったけど、ようやくだいたいの全体像がつかめた。フウリがどうして泣いていたのか、わかった気がするんだ」
 一旦、言葉を切る。
 ここから先は、憶測の渦に飛び込むようなものだ。弱気を押し殺して進むしかない。
「フウリ、君は、野良猫じゃなくてマウスだったんだろ。そして同時に、毒餌でもあった」
「…………」
「はじめ、どうしてフウリの主張を疑わしく思ったかっていえば、証拠がなかったからだ。出会ったときに、そこの東屋で正体を打ち明けてくれただろ。僕は、異世界からやってきた救世主なら、わかりやすい奇跡や超常現象を起こせるだろうと思った。だから証拠を見せろと迫ったけれど、フウリはできないと言って断った。それが嘘だと決めつけた理由。
 同居するようになってさらに確信したよ。フウリは無力だ。街に歩いてる普通の女の子と変わらないくらい。
 だったら、やっぱりただの人間で、嘘をついてるだけなのか。
 ……違う。それは、フウリの言行をなにもかも無視した暴論だ。他にもっと、筋の通った説明のつけ方がある。
 つまり、フウリは無力な異世界人なんだってこと。
 まず前提として、僕が勝手に抱いていた救世主像は捨てなくちゃいけない。映画に出てくるヒロインと違って、フウリは世界の命運を握る重要人物じゃない。
 出会ったときからして、公園で路頭に迷っていたくらいだ。異世界からの支援はろくになかったんだろう。どうしてか。任務は支援を必要とするほど長期間になる予定じゃなかったか、あるいは最悪失敗しても構わないと上層に思われていた。
 いつだったか、フウリの口からも聞いた。任務に当たっている仲間は他にもいる。創造主に選ばれてない凡庸な下っ端では、持ち込んだ武器――エルミアーも使いこなせない。
 あと、もう一つ聞いたことがあった。『たった一匹ィユニュルを殺せばいいだけ』。そう、課せられたノルマは一匹だけだって。
 でも、これについて考えると不思議なことがある。持ち込んだ武器は敵に通じないのに、一匹とはいえどうやってノルマを果たすのか。“選ばれた者”じゃないフウリに、戦う術はないはずじゃないのか。
 もし仮に、真っ向勝負以外の搦め手があるとしてもおかしい。一方的に敵を倒せる手段が存在するなら、討伐ノルマを一匹に限定する必要はないはずだ。上層の立場になってみればいい。駒の能力にムラがあるならなおさら、敵を倒せる個体にはたくさん働いてもらったほうがいいに決まってる。
 じゃあ、フウリのように派遣されてきた個体の役割はなんなのか。
 任務地に送られて、支援もなく放置されるのは、帰りの燃料を積まない戦闘機みたいなものだ。しかも、倒せる敵は一匹だけの一人一殺戦法。少し想像力を使えば選択肢は絞られる。
 あのときは半分寝ながら聞いてたけど、頑張って思い出したよ。フウリが最初に話した内容。ィユニュルは、ネアリオを喰うことで内在するネアリアルを糧にする性質を持つ。しかも、ネアリオという種は数が多いんだってね。下っ端が少々減っても大事とはみなされない。
 これらの情報を組み合わせれば、結論が導き出せる。
 任務に派遣されてきた個体は――フウリは、ィユニュルにとっての毒餌だ。
 戦争中に命が軽んじられるのは、どこでも同じなんだろうね。こっちの世界でも、決死の作戦っていうのはあったらしい。
 ネアリオについての知識が足りないから、詳しい仕組みまでは知りようがない。けど、作戦の概要は単純だ。フウリは故郷で、ィユニュルに喰われたときに発動する毒を仕込まれる。あとは任務地に来て、ィユニュルがいる近くで突っ立っていればいい。戦闘能力なんて必要ない。喰われれば仕事は終わりなんだから。
 フウリが任務に積極的でなかった理由も、泣いていた理由も単純だ。ただ、死にたくなかったから。責められる謂れなんかない、当たり前の感情だよ」
 雨脚が強まっている。
 忘れていた寒さが、急激に押し寄せるのを感じた。体の芯から震えがこみ上げてくる。
 空を仰いで思う。世界はどうしてこんなにも残酷なのか。寒夜に輝いて見える少女も僕と変わらない。いや、僕よりもずっと見放された存在だったのだ。
 一方通行の攻勢はいったん区切りだ。辛抱強く返答を待っていると、フウリがおもむろに口を開いた。
「陸人さんの推理には欠点があります」
「どこ?」
「長々と話してくれましたけど、すべては想像じゃないですか。わたしの訴えと同じで証拠がありません。見聞きした情報を都合よく繋ぎ合わせているだけです。たとえば、わたしがあなたを欺くために、誘導を仕掛けたとは考えないんですか」
「一体なんのために、フウリがそんな労力を払わなくちゃいけないんだよ。動機がない。
 だいたい、最初から間違っていたのは僕なんだ。好きな子の話をそのまま信じるだけでよかった。立派な証拠なんているもんか」
 それに、もしも嘘をつかれていたとしても構わない。いずれにせよ、地獄の底まで付き合うつもりなのだから。
 僕の説得が通じたのか、あるいは頑固さに呆れたのか、
「フウリナ・メイクゥルネア・エピネア――」
 フウリの声色が切り替わった。
「フウリナ・メイクゥルネア・エリス、フウリナ・メイクゥルネア・メロウ、フウリナ・メイクゥルネア・メロウズ、フウリナ・メイクゥルネア・アリアル、フウリナ・メイクゥルネア・リーリア、フウリナ・メイゥルネア・レヴィアン」
 重々しく呟くたびに、足元の雑草を引き抜いていく。色白の手が土に汚れても、気に留める様子もない。狂気に憑りつかれた行為は自傷を連想させた。
「わたしたちの名前は通し番号を含んだ型番のようなものですから、同じエリアには似たような名前の個体が集まります。いま挙げたのは、わたしよりも先に死んでいった仲間です。彼女たちはわたしのせいで寿命を縮めました。意味がわかりますか」
 言って、スカートから手のひら大の機械を取り出す。以前、洗濯の際に見つけたものだ。
「それ……」
「普段はずっと持ち歩いているものです。形は覚えていますよね。でも、機能までは知らないでしょう。
 これは、任務に派遣された個体に配られ、上層から指示を受けるために使います。とはいっても言語でのやり取りはできません。一方的に、簡単な図形――発見されたィユニュルの位置情報を含んだ地図を想起させるんです。
 組織は放任なやり方で、上司から逐一指示を受けたりはしません。複数の個体へ向けて一斉に地図が配られ、なかでも都合のつく者が、自主的に喰われにいくんです。犠牲になるべき個体が誰か、厳密な決まりはありません。ですから、指定のポイントに一番近い個体が動かなければ、トラブルがあったと判断して他の個体が穴埋めをします。上層に連絡を取れない代わりに、通し番号の似通った個体同士は簡単な信号を送り合えますから。
 わたしはかつて、地図上のィユニュルに対して一番近い位置にいたことがありました。でも、動けなかった。自分が行くべきだとわかっていたのに、ずっと震えているだけだったんです。そして、トラブルだと判断した別の個体――フウリナ・メイクゥルネア・エピネアが代わりに喰われて、仕事を果たしました。
 彼女とは、施設にいたときに一度だけ会話をしたことがありました。内容はなんてことでもありません。日常生活の愚痴とか、好きな献立とか、それくらい。なのに、彼女から届く信号が途絶えたとき、とてつもない後悔と喪失感がありました。だから決めたんです。次の機会は仲間のために、急いで身代わりになろうと。
 ……いいえ、これも嘘ですね。わたしはずっと、同胞のために尽くすつもりなんてなかった。陸人さんが指摘したように、エルミアーは下っ端が持っていても用途がありません。あれは支給品ではなく、任務に行く直前に盗み出したものです。万分の一、なにかの間違いでィユニュルから身を守れたりしないかと思って。実際には、恐怖を和らげるお守りにすらなりませんでしたが。
 現世界においては、派遣された全員が全員、迅速に動けたわけではありません。理由もわからずロストしたりは珍しくありませんし、わたしのように働く気を失ったらしい個体もいます。だからといって、上層は任務を放棄した者を処分したりはしません。主戦場に比べて優先順位が低く、いちいち処分するのも手間ですから。精々、ィユニュルの発見に応じて予備員を送り込むくらいです。
 自分が臆病者だと知ってから、わたしは言い訳を思いつくようになりました。他にも働いていない個体はいる、罰がないのなら許されているも同然、誰にも気に留められていないのにイイ子ぶる必要はない。そうしているあいだにも、いくつも信号が消えていったのに。
 わたしを含めた下っ端のネアリオは、一通りの思想教育を受けています。死んでいった個体は教育通りに従順で、勇敢だったんです。
 教育だけでなく、言われるまま手術や実験も受けました。腹を裂かれて、薬を打たれて。死んだら楽になると考えたことは一度や二度じゃありません。痛いのも苦しいのも、慣れているはずでした。わたしは、死を受け入れられるはずだったんです。
 なのに、怖かった。喰われることがじゃない。自分の生に意味がないと思えてしまったから。なんの意味も得られないまま死ぬのが、怖くて、怖くて、堪らなかった。
 きっと、わたしたちが仕事を果たさなくても、戦争の大勢には影響しません。主戦場が落ち着いたあとに、優秀な兵が駆けつけて残党狩りをしてくれるでしょう。でも、それではィユニュルに隙を与えるかもしれない。なるべく早くに数を減らしておいたほうが楽だ。そういう理由で仕事が回されているんです。『かもしれない』、『なるべく』、そういう理由で、わたしたちは死ぬんです。
 任務に赴く意義について教育を受けたとき、実情についてはおそらく正確に教えられました。わたしたちは勝利にとって重要なピースじゃない。そのうえで、故郷のために死んでほしいと頼まれたんです。教育を施す側からすれば、せめて嘘をつかないという良心的な配慮だったのかもしれません。でも、すぐに死ぬ相手に対する配慮ではないと思いませんか。わたしはせめて、騙してほしかった。戦争の勝利には犠牲が不可欠で、死ぬことで英雄になれるんだと言ってほしかった。うまく騙してさえくれれば、わたしは最低の裏切り者にならずに済んだのに!」
 フウリは手袋越しの手首に爪を立てる。
「仲間が死んで信号が途絶えるたび、背負う穢れが増えていく気がしました。耐えがたいと思うのに、自分から死を選ぶこともできない。どうしようもなくなって、手首に傷をつけてみると、少し落ち着きました。罰にもならない罰を受けた気になれたんでしょう。最初は一回だけにするつもりだったのに、いつの間にかやめられなくなって。それでも、救われた気になるのは一時だけです、時間が経つと、そんな誤魔化しをしている自分がもっと嫌いになっていく。繰り返しでした」
 悔恨とともに吐き出された息が、最後に白く浮かんで絶えた。
 僕はこれまで、フウリに対して幽霊に接するような気持ちでいたのかもしれない。人の形をした幻影。不確かだからこそ畏れて、触れれば消えてしまうと思い込んだ。
 でも、ためらう時間はとっくに終わっている。
「ステイハムが、まだ凍ったままなんだ。帰って、埋めてやってほしい」
「嫌です。もう、死体を見ていられないんです」
「フウリは、ステイハムを自分と重ねてたんだろ。どうにもならない格子に囲われて、選択は狭い個室の中にしかない。ステイハムを可愛がることで、自分自身を慰めてた」
「言わないでください。ひどい押し付けだってわかっているんです。陸人さんにエゴだって批判をしておきながら、私はもっと愚かでした」
「愚かでもいいさ。お互い、傷を隠すのはやめにしよう。取り繕ったぬるい関係は飽き飽きだ。フウリの痛みは全部確かめたい。安い同情をしてるんじゃない。僕も、一緒に背負うから。絶対に、最後の最後まで付き合う。だから」
「最後まで付き合っても、良い結果にはなりませんよ。わたしは陸人さんの幸せを願うことなんてできません。自分が不幸だから、幸せな人は妬ましいんです。あなたは、一緒に不幸になってくれるんですか? 一緒に死んでくれるんですか?」
 フウリが顔を上げた。
 翠の瞳が僕を捉えている。一挙一動を見逃すまいと、必死で目を凝らしている。試されているのだ。今度こそ、ヘマはしない。
 僕は傘を捨てた。その場にしゃがみこんで、フウリと視線を合わせる。
「できれば、幸せを掴みたいところだけどね。でも、フウリが死ねと言うんだったら、死んだっていい」
 微笑んで、右手をフウリの頭に置いた。
 すると、強張っていた表情が口角から歪んでいく。恐れていた真実はあっけない。僕の目の前にいるのはやはり、ひとりのか弱い女の子だった。
 フウリは僕の首に腕を回し、すがりついてくる。そして、調律が狂ったような叫びで訴える。
「助けてほしかったんです! 恐ろしかったんです、苦しかったんです、寂しかったんです! 陸人さんがいないあいだも、ずっと!」
「わかってる。ごめん」
「……許しません」
「好きだ、フウリ」
「…………はい」
 耳元で嗚咽の混じった泣き声が聞こえる。雨に混じって、温かい液体が肌に触れるのを感じた。僕はもう、その涙の理由を知っている。

     

(四)

「部屋に来てください」
 ドライヤーを終えて洗面所を出ると、フウリが直立待機していた。
「うわ、どうしたの。風呂を出たら寝るんじゃなかったのか。廊下に立ってると風邪ひくよ」
「はい、寝るつもりです」
「そうなんだ。じゃあ、僕は居間で寝るから……」
「いいえ、部屋に来てください」
 フウリは一足先に入浴を終えてパジャマ姿だ。
 心境の変化があったのだろう、いつもの長手袋をはめていない。新鮮に目にする素手に袖を引かれ、僕は疑問符を浮かべながら着いていった。
 話を巻き戻す。
 緑地公園での一件のあと、ふたりでどうしたかといえば、徒歩で帰った。行きにはかっ飛ばした自転車だが、勾配のある道を引いていくのは控えめにも苦行で、ゆえに僕の言葉数は少なかった。
 道中、黙っていた理由はもう一つある。恥ずかしかったからだ。大仰に語った原稿用紙何枚分か。推理の披露をしたといえば聞こえはいいが、つまり僕は、長々と愛の告白をしたのだ。マンホールの蓋をこじ開けようという衝動に、幾度か駆られた。
 家に帰ってからは、なによりも先んじてステイハムを埋葬した。一つの折り畳み傘にふたりで入り、しゃがみこんで。作業中、フウリはずっと黙っていたが、こうして誘ってくるのだから吐き出したい思いがあるのかもしれない。
 歩調に合わせて揺れる後髪からは、ほのかにシャンプーの香りが漂ってくる。
「入ってください」
 階段を上り終えると、自室だというのに客の扱いで招待される。
 何か話があるのだと思った。だからベッドに腰掛けたのだが、スプリングが更に沈みこんで戸惑った。
「あれ?」
 隣を見ると、至近距離にフウリの横顔がある。「話があるんじゃ?」
 部屋での位置関係は基本的に対面だ。僕がベッドならフウリが椅子、フウリがベッドなら僕が椅子。
「わたしは寝ると言いました」
「そうなんだ。じゃあ、僕は居間で寝るから……」
 立ち上がりかけて、裾を掴んで引き戻される。出来の悪いコントみたいだ。
「ずっと、悪いとは思っていたんです。家主である陸人さんがソファで寝て、わたしがベッドで寝ている状況は不公平ですから」
「いや、そんなことは気にしなくていいって。女の子をソファで寝かせるのはマズいだろうし」
「はい、それは。ベッドは素晴らしい発明だと思います。私も使いたいです」
「だよね、うん。……うん?」
「だから、折衷案です」
 この状態こそがベストです。そう言いたげに、フウリはうなずいて訴えかけてくる。
「もしかして、一緒に寝るっていうこと?」
「はい」
 一緒に寝る。つまりふたりで同じ布団に入り、一夜を共にするということか。いわゆる同衾。
 想像が危うい色合いを帯びる前に、自制の言葉が飛び出した。
「い、いやいやいや、それはダメなんじゃない」
「どうしてですか」
「どうしてって、ええと、そういうのは、家族とか好きあってる男女だけがすることだし」
「…………」
 無言の圧力。言いたいことはわかる。抱きしめながら愛を告白しておいて、好きじゃありませんは通らない。
「いや、でもなぁ……」
 おそらく、フウリに邪な企みはないのだろう。元々キスについての知識もなかったのだし、それ以上を知っているとは思えない。提案は、文字通り一緒に寝ることなのだ。しかし、だからといって問題はある。
 僕だって木石ではない、健康な男子高校生なのだ。好きな女の子と同じ布団に押し込められれば、滾る若さを抑えきれるとは限らない。
 室温が高まるのに応じて、空調が息をひそめる。
 緊張する僕の横で、フウリが唐突に声を発した。
「エ――」
「え?」
「――ックチュン!」
 小鳥の鳴き声みたいなくしゃみだった。
 僕は枕元にあったティッシュを取って渡してやる。
「ありがとうございます」
 鼻を拭く姿を見て、なんだか気が抜けてしまった。
「はあ、わかった、僕もここで寝るよ。言い合ってるあいだに風邪をひいても馬鹿らしいし」
 先んじて布団にもぐり、枕代わりにクッションを敷く。
 照明はフウリの希望で常夜灯になった。
 普段は消灯するので落ち着かない気持ちでいると、背後で囁きが聞こえた。
「こっちを向いてください」
「え……?」
 僕は壁とお見合いする体勢をとっていた。ただでさえ明るいのに、顔を見合ったまま眠れるわけがないと判断したのだ。
 背中が熱い。
「陸人さん、こっちを向いてください」
 再び呼びかけられて、思わず振り向いてしまう。
 寝転がって反転した先に、熱源があった。
 フウリは、想定していたよりもずっと近くにいた。
 甘い匂いがする。体温が伝わる。吐息がかかる。
 あのときと同じだ。二か月前の体験が鮮明によみがえり、唇を熱くする。
 フウリは、残り数センチのところで停止した。
「わたしの名前は型番のようなものだと言いましたよね」
「……ああ」
「個体として識別するとき、陸人さんのいう“フウリ”という呼び方では、とても不自然です。区切り方が中途半端で、伝えるべき情報が伝わりませんから。元いた世界では、誰もそんなふうに呼びませんでした」
「他にしておいたほうがよかった?」
 フウリは枕の上で瞑目した。
「いいえ。おそらく、新しく名付けられたときに初めて、組織のための道具ではなく、わたしはわたし自身になることができました。陸人さんに呼ばれることで、わたしはフウリになれたんです。だから――」
 唇が触れる。接触は一瞬だった。
「――わたしは、陸人さんのものです」
 直後、再び唇を塞がれる。
 前回に比べれば、行為を克明に受け入れることができた。
 目の前にはフウリの睫毛がある。閉じた瞼の細かな動きまで観察しながら、手元にある腰を抱き寄せる。
「ん……」
 体を密着させると、フウリは喉から小声を漏らす。それが可愛らしくて、さらに強く抱きしめた。
「ぅ……ぁむ……ぁぁ……ぷぁっ」
 長いキスのあと、唇を離す。フウリの頬は薄闇でもわかるほど紅潮していた。
 その表情に、胸を締め上げられるような切なさと、下腹部の熱を同時に感じる。フウリはおそらく、いまは何をされても抵抗しないのではないか。ならば、このまま――。
 僕が、両腕に欲望を絡めようとしたときだった。
 ブーッ、ブーッと。
 フウリの腰辺りからビープ音がした。
 まるで犯罪者を吊し上げるかのような攻撃性のある音色は、絶妙のタイミングと併せて冗談みたいだった。異世界人とのセックスは禁止です。
 石化する僕の間近で、フウリは「すみません」と小声で言ってポケットを探る。
 眠るときにも手放せないらしい。取り出されたのは例の、敵の位置を知らせるという機械だ。それを、祈るような所作で額に押し当てる。ゆっくりと離したときには、僕を見つめる瞳が焦点を失っていた。
 フウリが布団を出る。そのまま操り人形じみた動きで机へ向かうと、筆記具を取り出してイメージの再現を始めた。
 僕も隣に立ち、作業を見届ける。
「駅前のモニュメント……?」
 出来上がった模様を見て、呟きが漏れた。
 右上の端にある座標らしき文字列は相変わらず解読できない。しかし、描かれたイラスト群――針を突き刺された親指、ガッツポーズする人面犬、穴だらけのアーチ、それらに紛れた一つには覚えがあった。
 鉄の棒で編まれた、ねじれた奇形の壺。地元民のあいだで待ち合わせ場所に使われがちな。
 駅周辺には土地勘がある。実際の地形と照らし合わせて考えると、思ったよりも縮尺は小さいようだ。黒点が示す位置は駅から間近というほどでもない。交通の便が悪い、寂れた工業地域だったはずだ。しかし、そんなことよりも問題は……。
「……近い」
 隣で漏らされた感想を聞いて、心臓が締め付けられる。
 黒点の位置は、僕が住む住宅街から赴くことが可能な距離だった。他のネアリオがどれくらいの間隔で配置されているのかは知らない。真っ先に死ににいくべき候補者は誰なのか。
 フウリが息を詰める気配が伝わる。回答は暗に示されてしまっていた。
 気づけば僕は、地図が描かれた紙を握りつぶしていた。ぐしゃぐしゃになった紙を丸めてゴミ箱に捨てる。
「余計なことは考えなくていいんだ。フウリは悪くない。僕と一緒にいてくれさえすればいい」
「でも――」
「大丈夫だから」
 続く言葉を遮って、きつく抱きしめる。
 胸のなかで怯える少女は、小さくて温かい。守らなければならないと思った。彼女は弱い。無機質な機械から知らされる、たった一点に翻弄されるほど脆い心を抱えている。だからこそ、僕が守ってやらなければならない。
 さっきまで昂っていたはずの獣欲は、いつの間にか霧散していた。
 その夜、僕らは互いを抱き合ったまま眠りに就いた。衣服越しにも溶けあう体温が、最後の記憶だった。

     

(五)

 まどろみで漂う意識が、事新しい朝を訴えた。布団がいつもより温かい。
 ああ、そういえば昨日はフウリと一緒に寝たのだと、瞼を開けた視界にしかし、フウリはいなかった。
「あれ、フウリ……?」
 上半身を起こして部屋を見回しても姿がない。
 昨晩の温もりに慣れてしまったからか、朝の肌寒さがつらかった。氷のようなフローリングに裸足をつけ、居間を探そうと部屋を出る。
 その前に、見つけた。
 机の上に、大学ノートが開かれている。横には並べて、群青色のナイフ――エルミアー。几帳面なほど整えられた配置が、胸騒ぎを呼び起こす。
 大学ノートには文章が記されていた。喋りは流暢でも筆記は苦手なのか、カタカナばかり角ばった字で構成されている。

~~~~~~~~~~~~~~

(*読みやすさのために変換して掲載する)
陸人さんへ
 いままでお世話になりました。長いあいだ家に泊めてくれたこと、ご飯を食べさせてくれたこと、服を着せてくれたこと。それとなにより、わたしを好きだと言ってくれたことに感謝しています。陸人さんが温もりをくれたから、わたしは初めて生まれてきたことに価値があると思えました。
 わたしはとてもわがままです。自分の故郷の平和のために、死にたくありません。けれど、わたしが陸人さんの世界を少しでも平和にできるのなら、喜んで命を差し出すことができます。もう苦しい思いをせずに済みます。
 直接別れを言えなくてごめんなさい。引き留められたらきっと、また甘えてしまうので。
 言葉だけでなく残せるものを探したのですが、持っているものがそれくらいしかありませんでした。よければ受け取ってください。わたしにはもう必要ないものです。

~~~~~~~~~~~~~~

 文章を読み終える。二度、三度と紙面を往復しても、しばらくは事態を受け入れられなかった。
 僕を心配させるために、質の悪い冗談を仕掛けたのではないか。本当はコンビニにでも行っていて、弁当の入ったビニール袋を提げて帰ってきたときに、顔の青い僕を見てほくそ笑む算段ではないか。そんな考えが浮かぶ。
 しかしすぐに、フウリが買い物くらいで外出するわけがないと気づく。あれほど人との接触を嫌っていたのに。
 僕は階段を駆け下り、裸足のまま玄関に踏み入れる。扉を開けて首を巡らせても、銀髪の少女は見当たらなかった。
「いない……。くそ、またかよっ」
 そのまま道路に走り出しかけて、ぐっと堪える。
 状況は概ね把握できた。フウリを生かすことを目的とするなら、がむしゃらに探すのは得策ではない。
 たったいま下りてきた階段を駆け上がり、自室に入る。ゴミ箱を漁って、昨晩捨てた地図を探し当てた。
「ああ、あった。よかった」
 つまり、フウリの方では新しい地図を用意したか、記憶に頼って目的地に向かったのだろう。結果的に、地図が手元に残ったのは好都合だった。それに、もう一つ。
 僕は地図の他に、エルミアーをウエストポーチに押し込んだ。
 準備完了だ。
「喜んで命を差し出せるなんて嘘だろ」
 寝巻の上にジャケットを羽織り、今度こそ家を出る。
 タクシーを使うことも考えたが、自転車を飛ばすのが速いと結論づける。
 アスファルトはまだ濡れているが、雨はあがっていた。数時間前の暗雲がなかったかのように晴れあがる空の下、ペダルを回す。連日の酷使にチェーンが抗議を上げていても無視だ。
「僕は知ってるぞ、フウリの望みは言葉と裏腹だ。地図とエルミアーが家に残ってたのは偶然じゃない。ははは、なるほど、おあつらえ向きのシチュエーションじゃないか。分の悪い賭けだけど、それでこそ、約束が本気だってことを証明するチャンスだ!」
 太ももに力を込めながら、荒い息にのせて喋る。うっとうしいくらい清々しい青空に、挑戦状を叩きつけるみたいに。危機的な状況だというのに、僕は高揚していた。
「おっと」
 大通りを進んでいく途中、急ブレーキをかける。地図に書かれた道筋を逸れて、路地裏に入った。目的地への近道だ。家に引きこもってばかりいるフウリでは知らないだろう。
 フウリに追いついて、無理やり連れ戻すだけなら簡単だ。けれど、逃げ続けるだけでは希望がない。戦わなければ。怯えて縮こまっているだけの人生に、一体どれほどの価値があるというのか。
 頭の中には、あの日聴いたロックミュージックが繰り返し流れている。
 路地裏を抜けると、通行人は猛スピードの自転車に怪訝な視線を向けてくる。それも、しばらく進んでいくと少なくなっていった。通り過ぎる建物もまばらになる。
 人群れから離れて寂れた一帯に、目立って大きな廃倉庫があった。外壁も屋根も波型スレートの古めかしい装いで、敷地の雑草に囲まれて建っている。持ち主も知れず、おそらく解体する手間と費用すら惜しく打ち捨てられたのだろう。
 人を喰う化物が潜むには、ぴったりの秘密基地だ。
 僕は自転車を横倒しにしたまま建物に走った。大口を開けた扉から中に入ると、古い油の匂いが漂っている内部に目を凝らす。そして、ガラクタと鉄骨に隠れた奥隅に、蠢く影を見つけた。
 フウリではない。背後から、それは紺のパーカーに身を包んでフードを被っているとわかった。
 注意して進んだつもりだったが、僕の足音は倉庫内に反響した。パーカーの後姿がゆっくりと振り返る。
「あぁ……?」
 不審の声を上げたそれと、目が合う。
「誰だ、てめぇ」
「っ……!?」
 現世界の動物で何に一番近いかと尋ねられれば、ヒトのオスと答えるだろう。背丈は僕より少し高い程度で四肢がある。
 しかし、明らかにヒトとは異なる部分があった。
 まず、肌の色が常軌を逸している。白色、黒色、黄色のどれとも違う。露出した両手と顔面は毒々しい紫色をしていた。
 もうひとつの特徴は額の上部にあった。威嚇するように外したフードの奥から露わになる二つの突起。中央部を斜めに走る傷跡を挟んで左右対称に、皮膚が盛り上がった部分がある。頭角だ。ヒトには絶対にあるはずのない部位。
 やはり、存在していたのだ。
「ィユニュル……」
「あぁ? お前、どうしてこんなところに入ってきやがった」
 次に僕は、それが日本語を喋っていることに驚いた。
 そういえばフウリが言っていた。ィユニュルにもネアリオと同じく高い知能があり、言語を操ることができる。こんな化物でも、素顔を隠しながら社会に取り入っているのだろうか。
 ともかくとして、言葉が通じるのは都合がいい。僕は尋ねた。
「僕より先に、銀色の髪をしたネアリオの女の子が来なかったか?」
「銀色の髪の……女? 知らねぇ。さっきから何言ってるんだ。おい、それよりまず俺の質問に答えろ」
「よかった。まだ来てないんなら、第一の関門は突破だ。本題に挑もう」
 強がった台詞を言ってみるが、ウエストポーチに入れた手が震えているのがわかった。
 できるのだろうか。銃を使った狩猟すらしたことがないのに、言葉と感情を持った対象を刺し殺すなんてことが。
 いいや、それよりも。一番の問題は、僕に、もっと根本的な資質が備わっているのかということだ。
 フウリは言っていた。ィユニュルが現世界を避難先に選んだのは、食糧であるネアリアルを嗅ぎつけたからだ。ネアリオと酷似しているヒトにもネアリアルが秘められている。
 また、持ち込んだエルミアーは、使用者のネアリアルを吸って効果を得る。特別に才能豊かな個体に限って、ィユニュルに太刀打ちできるだろう。
 要するに、僕が特別な人間ならば目の前のこいつを刺せる。そうでなければ僕が死ぬ。
 いつかキボンでした会話を思い出す。
 『才能っていうのは偉大なゴッドが俺たちの魂の奥底に隠したお宝なんだよ。魂を燃やし尽くすくらい本気でやらなくちゃ見つかるわけないだろうが』
「わかってますよSHOYAさん、今回ばかりは本気です。本気で戦う。僕はきっと、神様くらいには愛されてるはずだ」
「おいイカれ野郎、さっきから一人でぶつぶつ喋ってんじゃねぇ」
 ィユニュルが肩を怒らせて歩いてくる。
 大丈夫だ。音楽はまだ聞こえている。
 僕はエルミアーを抜いた。
「殺す」
「っ……な、ん……てめぇ……」
「お前を殺す。必要ならお前以外も全部。フウリの仕事がなくなるまで」
 窓から射し込む陽が刃を光らせると、ィユニュルが一歩あとじさった。
 この武器は、想像していたよりもィユニュルにとって脅威なのかもしれない。
 僕に強大なネアリアルが秘められていたとしても、戦闘経験が皆無であることには変わりない。対等に戦えば圧倒されるのは知れている。万が一にも勝ち目があるとすれば、相手が体勢を整える前に殺すこと。先手必勝だ。
「はあっ!」
 僕は大きく踏み込んで、右手を振るった。
 最善の動作とは言いがたい。予備動作によって遠回りしたエルミアーが横に薙ぐ。
 首元へ向けたにもかかわらず狙いは下に外れ、それも手でガードされた。しかし、予想に反して刃はあっさりと相手の皮膚を裂いた。
「ぐあぁ……っ」
 手の甲辺りから鮮血が噴き出す。ィユニュルは痛みに悶絶してよろめいた。
 状況を判断する余裕などなかった。僕は返り血を浴びながらもう一歩踏み込み、グリップを握る。
「うわああぁぁああぁあっ」
 叫びで自分を奮い立たせ、全身に力をこめる。
 斬撃は防がれた。ならば。一瞬の判断が捻りの向きを変えた。肩口から真っすぐに切先を放ち、喉をめがける。相手は完全に体の制御を失っている。
 コマ送りになった時のなかで、ィユニュルと目が合う。
 切先が近づく。
 深々と、刃を潜らせる感触が伝わってくる。
 その瞬間、意識が薄く、遠く、引き伸ばされていった。
 気がつけば僕は、攻撃を終えた体勢で停止していた。手のひらには何も握られていない。エルミアーは、仰向けで倒れるィユニュルの喉に突き立っている。
「か、勝った……?」
 刺し傷から流れた血が地面に広がって、赤い海をつくっている。
「やったんだよな……」
 僕らを脅かす敵は死の底へと沈んだのだ。見開かれた瞳は虚空を見たまま瞬きしない。念のため呼吸を調べてみても、生命活動が停止していることは明らかだった。ィユニュルは死んでいる。僕が殺した。
「やった、やった、やったぞ、賭けに勝った! 僕は選ばれたんだ!」
 もちろん、人類の救世主などにではない。僕の使命はただ一つ、好きな女の子を守り抜くこと。
「フウリ、僕は君を守れる! これからは、何体敵が現れたって、この武器で!」
 快哉を叫びながら死体に歩み寄り、エルミアーを引き抜く。血に濡れたグリップを強く握れば握るほど頼もしく思えた。
 高い天井を見上げて、建物の中心に立つ。さび付いた箱はいま、新しい門出を祝う静謐な伽藍だった。中空に漂う塵が、窓枠に切り取られた陽に輝いている。
 最高のシーンのために、必要なピースはあとひとつ。僕は、共に歩むべき伴侶を待った。開かれた扉の向こうから、フウリが駆け寄ってくるのを夢想する。
 ――しかし、いくら待っても彼女が現れることはなかった。

       

表紙

ヤスノミユキ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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