日曜日、キングは思い切って、数年ぶりの釣りに出かけた。持ち物は、竿と糸と青いルアーがいくつか。彼は脚が悪くて杖を持たなければならないので、自慢の長い竿ではなく、片手で持てるように縮小できる竿を選んだ。悔しかったが仕方がない。きっと、歩きながらこの世のあらゆる交通事故を恨んだと思う。それから、キングは足りない道具を釣具店でそろえて、近場の川に到着すると、まずは腰掛けられる石を探した。大きくて平たい岩が川の近くにあったので、彼はそこに腰を下ろし、杖を足元に置いてから竿にルアーを取り付け始めた。目が悪くなったせいか、糸を上手く穴に通せなかったが、苦難の後に成功すると、竿をぐっとしならせて水面にぽちゃんと投げた。

 かつてキングは釣りが趣味だった。脚が悪くなる前まで、家のことも放って置いて頻繁に川や海に行っていた。平日は仕事のせいにして、休日は唯一の休みであるからと自分に言い訳をしていた。妻のクイーンはこれを黙認していたが、きっと子供たちを放って出て行ったキングを恨んだだろう。しかし彼は交差点の信号で車と衝突してから殆ど外で遊ぶことがなくなった。

 キングは時々思うのだが、車に轢かれた際、その場では何も身体に異常がないからと運転手を気軽に許したことをずっと後悔していた。あとから左脚が痛み出して動きが鈍くなることを知っていたら、絶対に許さなかったのに。おかげで趣味もなくなった。

 しかし同時にこうも思っていた。もしかしたら、外で遊ばなくなったのは交通事故のせいじゃなくて、ビショップが死んだからかもしれない。比較的、この二つの不幸の時期は近かったのだ。彼の見解では自分の脚が悪くなってから、ビショップが死んだことになっている。だが、そうとも言い切れないと疑惑も感じている。なんたって、ビショップがどんな死に方をしたのか誰も知らないからだ。きっと死ぬ前だろうと彼は思うことにした。

 竿はぴくりとも動かない。時間が過ぎるばかりだった。

 ……そういえば、俺はどれだけビショップと遊んでやれたのだろうか、とキングは唐突に思った。そもそも、子供たちとまともに接した時期があったのだろうか。彼は沈んだ気持ちで考えながら水面に映る木の枝を見て、一回だけ幼いルークとビッショップを連れて小高い山に登ったことを思い出した。だが、どういう経緯で山なんかに登ったのかわからない。記憶にあるのは、じゃれあっている子供たちの背中と、頬に痣があるルークがビショップと一緒にめそめそ泣いている顔だけだ。

 兄ちゃん、とビショップが言ってルークのわき腹を指でつついていた気がするな、とキングは考えた。ルークは呆れて笑いながらも、楽しそうにしていた。しかしなぜ泣いたんだろう? なぜ、ルークの頬に痣があったんだろう?

 彼は竿をひょいと上げた。何もなし。それからルアーを新しいものに変えて釣りを続け、五分後、ポケットにある携帯電話が鳴って竿を岩に立てかけた。ナイトからだった。「父さん」という滑らかな声が彼の右耳の中を通った。「今、どこにいるの? 」

 「川だよ。釣りをしてる」

 「どこの? 」

  彼はあたりを見渡した。木々の間に飲食店の看板が見えて、それをゆっくりと読み上げると、そこの近くだよ、と付け加えて言った。

 「知らない店だ」とナイトは言った。「それより、母さんが探してたよ。今日、外食にするけど、どうするかって。まだ釣っとく? 」

 「いや、帰るよ」

 「どうだった? 」

 「坊主」とキングは笑った。「疲れちゃったよ」

 「まあ、そんな時もあるよ。迎えに行かなくても大丈夫? 」

 「いや、大丈夫。ありがとう」

 「オーケー。そういえば、ルーク兄さんから伝言が……」

 かさかさ。キングの左耳に草の音が聞こえた。彼が地面にさっと視線を移したら、放っていた竿がばたんと草の上に倒れて川に引き寄せられていた。彼は自由奔放な竿に驚き、咄嗟に携帯電話を岩に置くと、杖を持つことも忘れて竿を追いかけた。不自由ながらも、何とか川に入る前に竿をぐっと掴んで引っ張った。そして胸をどきどきさせながらリールを慌てて巻いた。こいつはきっと大物だぞ、という感触があった。彼は冷静でいなければと自制しながらも、もうそれが出来ずにいた。額は脂汗で滲んで、心臓の鼓動がますます早くなった。必要以上に腕に力を入れて竿がぐんぐんと曲がった。絶対に釣ってやる!

 しかし途中で糸がぷつんと音を立てて切れた。彼は尻餅をつくと、しばらくその姿勢のままでいた。逃げた魚がどんな姿をしているのか想像しながら、もう俺のルアーは二度と帰ってこないんだろうなと思った。これじゃあ、どっちが釣られたのか分からない。熱くなった身体が急激に冷める感じがした。海に流れ落ちたマグマみたいに表情が去った。そして頭の中で過去の忘れた映像がぱっと流れた。キングは唖然とした。

 ……そうだ、俺だった、と彼はようやく理解した。どんな理由だったか不確かだが、あの時の俺は相当むしゃくしゃしてた記憶がある。本当になんで気が立ってたかも分からない。だけど、俺がルークを殴ったんだ。これが事実だ。そしてビショップとルークを泣かしたのも、間違いなく俺だったんだ。

 胸がきゅっと痛くなった。彼は左胸を押さえながら難儀そうに立ち上がり、ナイトとの電話の途中だったことを思い出した。岩までのそのそと歩き、携帯電話を持って、「すまない」と一言謝った。「それで、話って? 」。返事はなし。既にナイトとの電話は切れていたのだ。彼はそれを知ると口を閉ざした。手が震えていた。唇は乾燥しているし、心臓の鼓動がまた早くなるのを感じた。身体が固まっててちゃんと動かないが、唇だけはわずかに動かせそうだったので、携帯電話を右耳に当てたまま言った。「すまない」。それだけでは足りない気がしたので、もう一度呟いた。「……すまない」

 しかしキングは一人だった。周りには草木と川だけ。彼の声は誰も聞いてはくれない。そこでは、どんな言葉だって誰にも知られず、流れる川の音と共に消えてしまうのだ。当然、誰にも届かないのに相手からの返事もないだろう。やがて辿り着く海からだって何も答えはないだろう。