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 注意事項があるとすれば、チェス家の人々を手放しで賞賛したり馬鹿にしない方が賢明だろう。というのも、この人たちの行動は、一見ナンセンスに見えるだろうし、気味が悪いかもしれないが我々を実に物語ってくれているからだ。もしあなたがチェス家を嘲笑するならば、それは鏡を見ながら笑うのと似ている。ただ大衆的な娯楽として笑うだけなら、それは川で釣りをしながら足元の鮎を見逃しているのに似ている。それはそれで愉快なことだと思うのなら否定はしないが、あまり勧めることはできない。別に僕は、あなたに命令する立場でないし、そんなことはしたくない。好きな風にチェス家を見ればいいと思う。

 でも、どこかで自分の見解について批判的に見たり、懐疑的になってくれることを願っている。その結果が、たとえ嘲笑するに値したり、娯楽として楽しむことになったとしても構わない。まあ、チェス家の人々をどう見ようと、正解なんてあってないようなものなのだけれど……。

 チェス家は6人のメンバーで成り立っている。あるいは10人かもしれないが、それはあなたが判断することだ。父親のキングに、母親のクイーン。子供たちに、ナイト、ルーク、ビショップ、それからポーンが複数的にいる。ちなみに共生者に猫がいたり、いなかったりするが、ナイトはペットは家族ではないと否定している。僕もこの見解は間違ってないと思っているが、これもあなたが判断することだろう。(当然であるが、すべてにおいて、あなたの考え次第なのだ! )他にも家族はいるかもしれないが、おおよそこれで全部となる。 

 この6人だか、10人だかのメンバーは、お互いに必要な役割をそれぞれ演じている。しかし、その多くが役割との不一致を感じていたり、理想に押しつぶされて失敗したり、演じる行為がメンバー内で被って困惑している。時には、それが家庭の崩壊の危機にまで及んでしまい、一度は崩壊とまではいかないかもしれないが、欠けてしまったことがある。しかし幼いビショップの謎の死により、この危機は不幸中の幸いにも去った。彼の死因が何一つ解明されていないにも関わらず、メンバーはより強い結束力を得たのだ。まるでハンマーで叩くほど頑丈になる鋼のように。

 物語には彼の影が常に潜んでいる。これはビショップが生前よりも、死後にこそチェス家のメンバーに大きな影響を与えたせいかもしれない。

 その一つとして、これぞ我らの亡霊ビショップ、と言えるようなエピソードを語ろう。ルークが見た夢の話だ。それは彼が大学を卒業して会社に勤めてから間もない頃で、仕事でこれまでと環境が変わり、なかなか慣れなくて疲弊していた時期だった。とりわけ、彼は何かに適応する能力が乏しく、馴染むまでたくさんの時間を必要としたのだ。

 金曜日の晩、ルークはいつも通り仕事を終えると、用意されている夕飯を食べることもなく、スーツも脱がずに自分の部屋のベッドに倒れた。その頃はそうすることが日常的だった。仕事と家の往復にうんざりし、食欲もなく、とにかく疲れて眠たかった。クイーンが心配して声をかけても、ルークはどこか上の空であったし、休日もぼうとする時間が増えた。……とんでもなくダウンしちまってるみたいだ、と彼は夜の天井を見ながら時々呟いた。もう終わりだよ、俺は。明日も上手くいかないし、もうどうしようもない。俺には縦と横だけ。くそったれめ。

 やがて過去の恥ずかしい思い出が蘇り、「死ね! 」と暗闇で叫んだ。すぐに部屋にノックする音が聞こえて、ナイトがこの異常を確かめに来た。ルークはさっと瞼を閉じる。胸がどきどき鳴るのを感じながらも、質問をされたら気味悪がられないための言い訳をいくつか考えた。その中に、ビショップを使ってやろうという案があった。思いやりのあるナイトなら何かを察するように部屋から出て行ってくれるだろう。しかしルークが寝た振りをするのを見て、ナイトは静かに扉を閉めて出て行った。

 死にたい、と彼はシーツを握りながら心の中で叫んだ。こんなことってあんまりだ! ……ああ、ビショップごめん。お前の死をこんなしょうもないことに利用したなんて。俺はなんて恥さらしなんだろう。ナイトはきっと俺がクレイジーだって既にわかってたに違いないのに。(事実、ナイトは言わないだけであり、彼が日頃から部屋で一人言を呟いたり叫んでいることを知っていた)今さら隠しちまおうなんてどうかしている。

 この自己嫌悪を深夜まで続けて、明日は希望があるかもしれないという希望を抱くことでようやくルークは落ち着いた。彼はその日も同じように考えることをやめた。次第に眠くなり、夢の中で過去の情景が浮かび上がった。チェス家で夢を鮮明に記憶できる数が多いルークとしては、別に夢なんて珍しいことではなかったが、この夢に限って言えば彼は新鮮な気分を味わえたはずだ。なぜなら、カーテンから漏れる日の光を見つめながら彼はビショップと朝食を食べていたからだ。ビショップは小さな手でスプーンを使って人参のスープを飲んでいる。その瞳がルークをじっと捉え、「ピーマンなんて嫌いだね」と彼は言った。ルークは不思議に思った。テーブルの上に置いてある料理にピーマンなんて一つもないのにも関わらず、なぜそんなことを言うのだろうか。そもそもビショップはピーマンが嫌いじゃなかった。だが、彼は何も言わずに自分もスープを飲んだり、鳥のから揚げを頬張った。ビショップも最初の一言だけで、あとは黙々とフレンチトーストに蜂蜜をたっぷりかけて食べていた。二人で目玉焼きやウインナーを平らげたところで、ルークは少しだけ不安になった。こりゃ、母さんに怒られかねないぞ。彼はビショップにそろそろ食べるのをやめさせようと思った。ああ、もう皿にこれだけしかないじゃないか。これじゃあ、家族の分がなくなっちまう。しかし、もりもりと口いっぱいにサラダを頬張るビショップを見ると、そんな心配なんてどうってことないやと思い直せた。母さんに謝って、また作ってもらえばいいじゃねえか。それからルークも残りの食事を続けることにした。俺って、こんなに食えたんだなあ、と自分でも驚きつつ、精神的な何かも求めながら次々と料理を口に運んだ。

 朝になった。ルークはぱちりと目が覚めた。そして小さいビショップのことを思い出し、涙で視界が霞んだ。天井がぼやけて見える。しばらくその状態でいると、何か甘い香りが部屋に漂ってきた。彼は寝ぼけていた瞼を見開いた。それから急いでベッドから起き上がり、花粉を求める蜂のように香りの方向へと足が進んだ。リビングには既に家族がテーブルに集まっており、それぞれ台所にいるクイーンの料理を待っていた。

 ルークがリビングにやってくると、「おはよう」とクイーンが料理を運びながら言った。彼はじっと料理を目で追いかけ、その甘い香りを嗅いで本人でもびっくりするぐらい笑顔になった。クイーンが嬉しくも不思議そうに理由を聞くと、彼は大きな声で夢のことを話し始めた。キングは新聞を読む振りをしながら、ビショップの話なんてやめて欲しそうな顔付きになり、それにいち早く察したナイトがクイーンの気をそらして話題を変えさせようと考えたが、それでもルークはきっと止まらなかっただろう。もう全てをぶちまけたくて仕方がなかったのだ。

 あのさ、母さん、と彼は喜々として言った。とんでもない夢を見ちまったよ。俺、夢の中でビショップと飯食ってたんだ! しかも全部平らげちまったのさ。本当、変な話だけど、あいつピーマン嫌いなんだって。そんなことないのにね。そうそう、二人でフレンチトーストも食べたんだよ。母さんが作ったのと同じやつ。そう、それだよ。美味しそうだね。あいつさ、蜂蜜をどばどばかけるもんだから心配しちゃったな。いつか糖尿病になるぜって言ってやりたかった。それでさ、ビショップの奴、フォークを使ってんのにウサギみたいな小さな手をべとべとに汚しちゃってんだよな。それがどうしようもなく可愛いくて、さっきはつい笑ちゃったんだ。いや、それにしても、そのフレンチトースト美味しそうだね。

 チェス家のメンバーにはそれぞれ他にない特質があるが、その中でも極めて目立つとしたら、それは『ポーン』の存在だろう。『ポーン』はチェス家の末っ子であり、一つの集合体で成り立っている。あるいは、複数的な一人の『ポーン』なんていなくて、四人の子供たちが集まっているだけだ。ポーン長男がいて、ポーン次男、ポーン長女に、ポーン三男。これで全部。もちろん、この兄弟はただの四つ子であり、ちゃんと個別的な名前もある。事実、『ポーン』という呼称も、この四つ子の中の誰かの名前なのだ。しかし、キングやクイーンが四つ子を呼ぶときに「ポーン逹」と纏めて言うから、四つ子もその呼称を自然と受け入れることになった。そして四つ子も名前がある一人でいるよりも、集合体である『ポーン』を演じることが本来の自分の役割であると考えている。

 このポーン四兄弟は――便宜上、彼らを纏めてこう言わせてもらう――四つ子であっても似ているわけではない。性格もみんな違えば、顔の形も見分けがぱっと見でわかるぐらいには判別できる。しかし彼らの絆は四つ子であることで結びつけられている。そこに求められるのは、同じ時間をクイーンの胎内で共に過ごし、同じ日に生まれた子供であることだけだ。当然、誰も胎内で過ごした日々の記憶はないが、そこのところをポーン四兄弟はあまり気にしていない。彼らにとって、かつては一つであったという過去があれば何も問題ないのだから。

 だからポーン四兄弟は互いに喧嘩もするし、いつも一緒にいるわけではない。趣味もそれぞれ変わっている。ポーン長男が昆虫採集で、ポーン長女は家でクッキーを焼くこと、ポーン次男はクラブでの野球、ポーン三男は一人でするテレビゲーム。それぞれ違っていて特徴的だ。ただ、彼らは常として、その日の出来事や、それに伴う感情を詳細に語り合うことで情報を共有し合っているので、同じ行動をしなくても他の三人のことを可能の限り理解しようと勤めている。時にそれは彼らの部屋でひっそりと行われ、または公園の滑り台の下で行われる。恥ずかしいことも、悲しいことも、四兄弟は暴露し合わなければならないのだ。そして哲学的な問題がある話は、長々と討論して一つの意見にまとめる。彼らは幼いながらも無意識的に、体験を限りなく並列化することで、『ポーン』という仮説的な存在を維持させ続けようとしているのだ。四人で一つであること。これが宿命であるかのように暗黙の了解として彼らは成り立っていた。そこに五人目が入る隙はなく、たまにナイトが会話に入れてもらおうと話しかけても話がぷつりと途切れて四人は場所を変えるのだ。これにより、ナイトは口に出さないが、内心では弟たちに好かれてないのではないかと心配している。しかし四兄弟はルークにも、キングにも、クイーンにだって話さない。知っているのは四人だけ。ある時、それに辟易としたクイーンが四人に、「お前たちは何でそんなに秘密主義なの? 」と言ったことがある。四人はぽかんと口を開けた。しかし互いの顔を見つめ合うと、示し合わせたようににやりと笑った。

 「なんたって、四つ子だもの! 」
 

 日曜日、キングは思い切って、数年ぶりの釣りに出かけた。持ち物は、竿と糸と青いルアーがいくつか。彼は脚が悪くて杖を持たなければならないので、自慢の長い竿ではなく、片手で持てるように縮小できる竿を選んだ。悔しかったが仕方がない。きっと、歩きながらこの世のあらゆる交通事故を恨んだと思う。それから、キングは足りない道具を釣具店でそろえて、近場の川に到着すると、まずは腰掛けられる石を探した。大きくて平たい岩が川の近くにあったので、彼はそこに腰を下ろし、杖を足元に置いてから竿にルアーを取り付け始めた。目が悪くなったせいか、糸を上手く穴に通せなかったが、苦難の後に成功すると、竿をぐっとしならせて水面にぽちゃんと投げた。

 かつてキングは釣りが趣味だった。脚が悪くなる前まで、家のことも放って置いて頻繁に川や海に行っていた。平日は仕事のせいにして、休日は唯一の休みであるからと自分に言い訳をしていた。妻のクイーンはこれを黙認していたが、きっと子供たちを放って出て行ったキングを恨んだだろう。しかし彼は交差点の信号で車と衝突してから殆ど外で遊ぶことがなくなった。

 キングは時々思うのだが、車に轢かれた際、その場では何も身体に異常がないからと運転手を気軽に許したことをずっと後悔していた。あとから左脚が痛み出して動きが鈍くなることを知っていたら、絶対に許さなかったのに。おかげで趣味もなくなった。

 しかし同時にこうも思っていた。もしかしたら、外で遊ばなくなったのは交通事故のせいじゃなくて、ビショップが死んだからかもしれない。比較的、この二つの不幸の時期は近かったのだ。彼の見解では自分の脚が悪くなってから、ビショップが死んだことになっている。だが、そうとも言い切れないと疑惑も感じている。なんたって、ビショップがどんな死に方をしたのか誰も知らないからだ。きっと死ぬ前だろうと彼は思うことにした。

 竿はぴくりとも動かない。時間が過ぎるばかりだった。

 ……そういえば、俺はどれだけビショップと遊んでやれたのだろうか、とキングは唐突に思った。そもそも、子供たちとまともに接した時期があったのだろうか。彼は沈んだ気持ちで考えながら水面に映る木の枝を見て、一回だけ幼いルークとビッショップを連れて小高い山に登ったことを思い出した。だが、どういう経緯で山なんかに登ったのかわからない。記憶にあるのは、じゃれあっている子供たちの背中と、頬に痣があるルークがビショップと一緒にめそめそ泣いている顔だけだ。

 兄ちゃん、とビショップが言ってルークのわき腹を指でつついていた気がするな、とキングは考えた。ルークは呆れて笑いながらも、楽しそうにしていた。しかしなぜ泣いたんだろう? なぜ、ルークの頬に痣があったんだろう?

 彼は竿をひょいと上げた。何もなし。それからルアーを新しいものに変えて釣りを続け、五分後、ポケットにある携帯電話が鳴って竿を岩に立てかけた。ナイトからだった。「父さん」という滑らかな声が彼の右耳の中を通った。「今、どこにいるの? 」

 「川だよ。釣りをしてる」

 「どこの? 」

  彼はあたりを見渡した。木々の間に飲食店の看板が見えて、それをゆっくりと読み上げると、そこの近くだよ、と付け加えて言った。

 「知らない店だ」とナイトは言った。「それより、母さんが探してたよ。今日、外食にするけど、どうするかって。まだ釣っとく? 」

 「いや、帰るよ」

 「どうだった? 」

 「坊主」とキングは笑った。「疲れちゃったよ」

 「まあ、そんな時もあるよ。迎えに行かなくても大丈夫? 」

 「いや、大丈夫。ありがとう」

 「オーケー。そういえば、ルーク兄さんから伝言が……」

 かさかさ。キングの左耳に草の音が聞こえた。彼が地面にさっと視線を移したら、放っていた竿がばたんと草の上に倒れて川に引き寄せられていた。彼は自由奔放な竿に驚き、咄嗟に携帯電話を岩に置くと、杖を持つことも忘れて竿を追いかけた。不自由ながらも、何とか川に入る前に竿をぐっと掴んで引っ張った。そして胸をどきどきさせながらリールを慌てて巻いた。こいつはきっと大物だぞ、という感触があった。彼は冷静でいなければと自制しながらも、もうそれが出来ずにいた。額は脂汗で滲んで、心臓の鼓動がますます早くなった。必要以上に腕に力を入れて竿がぐんぐんと曲がった。絶対に釣ってやる!

 しかし途中で糸がぷつんと音を立てて切れた。彼は尻餅をつくと、しばらくその姿勢のままでいた。逃げた魚がどんな姿をしているのか想像しながら、もう俺のルアーは二度と帰ってこないんだろうなと思った。これじゃあ、どっちが釣られたのか分からない。熱くなった身体が急激に冷める感じがした。海に流れ落ちたマグマみたいに表情が去った。そして頭の中で過去の忘れた映像がぱっと流れた。キングは唖然とした。

 ……そうだ、俺だった、と彼はようやく理解した。どんな理由だったか不確かだが、あの時の俺は相当むしゃくしゃしてた記憶がある。本当になんで気が立ってたかも分からない。だけど、俺がルークを殴ったんだ。これが事実だ。そしてビショップとルークを泣かしたのも、間違いなく俺だったんだ。

 胸がきゅっと痛くなった。彼は左胸を押さえながら難儀そうに立ち上がり、ナイトとの電話の途中だったことを思い出した。岩までのそのそと歩き、携帯電話を持って、「すまない」と一言謝った。「それで、話って? 」。返事はなし。既にナイトとの電話は切れていたのだ。彼はそれを知ると口を閉ざした。手が震えていた。唇は乾燥しているし、心臓の鼓動がまた早くなるのを感じた。身体が固まっててちゃんと動かないが、唇だけはわずかに動かせそうだったので、携帯電話を右耳に当てたまま言った。「すまない」。それだけでは足りない気がしたので、もう一度呟いた。「……すまない」

 しかしキングは一人だった。周りには草木と川だけ。彼の声は誰も聞いてはくれない。そこでは、どんな言葉だって誰にも知られず、流れる川の音と共に消えてしまうのだ。当然、誰にも届かないのに相手からの返事もないだろう。やがて辿り着く海からだって何も答えはないだろう。


 ビショップが生きている頃の話だ。彼は誕生日をどの兄弟よりも愛していた。いや、正確には一番恐れていたのかもしれない。ルークみたいに儀礼的にケーキの蝋燭を消すのとは違い、ナイトのようにどんなプレゼントにも笑顔を見せるわけでもなかった。彼は本気で楽しんだ。この日だけは、自分が唯一の主役であり、家族は僕だけを愛してくれると信じて疑わなかった。そして、この家族の振舞いから365日で自分がどれくらい大切にされているのかを判断した。
 
 事件が起きたのは、彼の6歳の誕生日だった。その日、クイーンはまだ小さいナイトを連れて、パン屋でケーキを買ってから、家に帰る途中だった。彼女は車を運転しながら、ある種の気味悪さを感じていた。なにか大きな不安が隠れているようだ。はたして、私はどんなミスをしちゃったのかな、と彼女は考えた。ケーキはあるし、食材も冷蔵庫にあるし、蝋燭もちゃんと6本ある。家の鍵も閉めたはずだわ。信号の色が変わってから気づいた。……ああ、誕生日プレゼントだ、と。 

 計画では途中でデパートに寄って、予約をしていた銃の玩具を引き取るはずだったのだ。このままではビショップが泣き喚いてしまう。彼女は助手席に座っているナイトに、理由を話すと、急いでデパートに電話をするように頼んだ。ナイトは頷いたが、理由を聞いた時点で既に携帯電話でデパートの連絡番号を検索していた。いくつか会話の応酬があってから、ナイトは眉を困らせた。

 「……母さん、もうデパート閉めるんだって」

 クイーンは携帯電話を譲り受けると、許しを請うように言った。

 「あと五分で着くんです。子供が楽しみにしているし、その玩具がなかったらきっと傷ついてしまいます。五分だけでいいです。それだけだから少しだけ待ってくれませんか? 」

 「申し訳ございません。規則で六時に閉店することになっているんです」

 若い女の声だった。アルバイトか、精々入社一年目といったところだ。たどたどしく、少し自信がなさそうな口調だ。

 「いつも七時まで開いていなかったかしら? 」とクイーンはすかさず言った。「ねえ、違ったかしら? 」

 「いつもはそうなのですが、今日は創業記念日で従業員がいなくなってしまいます。申し訳ございません」

 「ねえ、お願い。少しだけでいいの。子供があなたのところの商品を待ってるのよ。五分だけ。ほら、今は五十六分だから、一分だけ待ってくれたらいいの。お願いしますから……」

 女の従業員は言った。

 「申し訳ございません。規則なんです」

 五分後、クイーンは電話を切った。色々粘って交渉したが、相手はすみませんの一点張りだった。デパートの目の前に着いたにも関わらず、また戻らなければならなかった。たった一分がビショップの誕生日をぶち壊しちゃったのだわ、と彼女は悲しくなった。ああ、もうどうしよう。

 「明日にでも他の玩具をやったらどうかな? もっといいやつ」とナイトは言った。「そうしたらビッショップも許してくれるかも」

 「そうね」とクイーンは搾り出すように答えた。「ビショップはいい子だもの」

 二人はそのまま車を走らせて家に戻った。やがて空が暗くなり、理由を知ったビショップはわんわん泣いた。その日、家族の誰も笑うことはなく、ケーキは丸いまま冷蔵庫に仕舞われた。クイーンは必死にビショップをあやしながら、彼を撫でようとした手を拒まれて胸が苦しくなった。ねえ、ごめんなさいね。もっといい玩具の銃を買ってあげるから。だからお母さんを許して、ビショップ。しかしビショップはベッドで伏せたまま、何も答えなかった。

 「それにしても、何で駄目だったんだろうね」とナイトが車で言ったことをクイーンはビショップを見つめながら、ふと思い出した。「一分で何がそんなに違ったのかな? 」
sage