Neetel Inside 文芸新都
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ベル詩集
短編小説「引力」

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「引力」



 その森は砂浜にのぞんでいた。風にのって木立にながれこむ、ほのかな海水の匂いでまずそれと知れたのだった。
 近づくにつれ、しだいに開いていく梢どうしのすきまからは黒々とした水面(みなも)の動きがうかがえ、まもなくそれは視界の下半分に広がって、暗い湖底のように上空の大気をささえた。あわく光る和毛(にこげ)をもった回遊魚の一団が、高所をゆっくりと通りすぎていくかたすみには、かれらの背を照らす三日月がぽつんと危なげに吊り下がっていた。あたかも突きだした枝につっつかれ、追い払われでもしたように、それは東のはての静穏な空に背中をつけて、おずおずと地上を見下ろしつづけるつもりのようだった。
 彼女の顔色に似た、しろい砂のしきつめられた砂地には見渡すかぎり人影がなかった。ただ太古からつづく潮騒の眠くなるようなリズムだけがあたりを満たし、波のようにそこを洗いつづけていた。
 やがて潮騒は、ぼつねんと立つやせた樹のほうへも打ち寄せ、その視野の下のすべてをひどくねばっこい眠気でおおった。

 目が覚め、つかのま身を預けていた木の幹から背と頭をひきはがし、周囲を見まわすと、こころなし遠く、波の浸食をまぬかれたあたりに足跡らしきものの散らばっているのが見えた。それを目で辿るうちに焚火の跡があるのも見えた。波打ち際にほど遠くないところから煙がうすく立ち昇り、近づくと空(から)の薬缶が薪の上にかけられていた。ブリキのコップや鉄串が散乱するかたわらには宴の名残を思わせるおびただしい数の足跡もきざまれていた。コップのいくつかには中身が半分以上残ったものもあり、見ていると、今はこの場にいないだれかの足踏みを感じ取ったかのような微細な波紋が、時折その表面にひろがった。
 ためしに何も入っていないコップを手に取った。と、見るまにそれはポロポロと崩れ出した。まず把手がくだけて容器の本体とともに落っこち、拾うとさらにこまかく砕け、指の間からさらさらと流れ落ちて、しばらく風とじゃれあったあと跡形もなく砂粒とまじりあった。鉄串にしても薬缶にしても同じことだった。のこるは薪と容器と無数の足跡のみとなったところにひときわ早い波がおしよせ、覆いかぶさって全てを持ち去った。
 見上げると月は先ほどより上方にあった。回遊魚たちはあくまでゆっくりと泳いでいた。ふと背後の森で物音がしたように思い、ふりむいて身じろぎもせずに耳を澄ますとなにかの焦げる臭いを感じた。梟が一羽、森から飛びたつのがみえた。

 来た道をそのまま辿ろうと思った。たっぷりと水を吸った靴を半ばひきずるようにして繰りだしながら、自分がつけた足跡にしたがって暗い森へと近づいていった。その距離を半分ほども縮めたそのとき、またどこからか音がひびいた。
 今度も空耳かもしれない、というおぼつかない心地で耳をすますと、それはどうやら楽器の音色のように思えた。途切れなくつづく楽の音(ね)は風にのり、絹糸のように頼りなく宙をただよいながら、いつしか浜辺をとりかこんでいた。すると、どこかの遠海をわたる一隻の客船のようなものの輪郭が、想像の視野のむこうを横切っていこうとしているのが見えた。まいあがる飛沫でぬれた船べりには背をまるめた男がひとり腰掛けており、その手にハープをかかえながら、うっとりと夢見るような目をかなたに投げあたえていた。ほそく光る弦を愛おしげになでる華奢な指でさえもがくっきりとこの目に見える気がした。

 ハープの弦は爪弾かれるたび、あるいは爪弾かれずとも風を受けてひとりでに海上の寒さにふるえ、いくつもの残像をはらんでふくれあがった。ならびたつ兄弟姉妹もおなじようにふるえ、静止した空間に息をおくり、それぞれちがう音でバラバラに鳴るにもかかわらず全体としてその合唱はこの上なく心地好くひびきあった。冷たくかぐわしい旋律が船をはなれ、無人の渚にたどりつくのにそう大した時間はかからなかった。木々の葉のてりかえしと風にまう砂のかずだけ、高い音域の音が空中を跳んだ。低い音は木の根とそこにすくう昆虫のかずだけ地面をころげまわった。
 そうして数限りない小動物と悪童にすがたをかえた音の一群が、索漠とした砂浜ににわかに賑わいと華やぎをあたえた。どこを向いてもなにかの動きがあり、それをとりかこむ笑いの渦があった。目を凝らすとあの猫背のハープ奏者は、いましも月に梯子を掛けてのぼっていくところだった。彼は三日月のくぼみに無事たどりつくとほっと胸をなでおろし、それからやおら背負っていたハープを膝に下ろして演奏にとりかかろうとしたが、すでに自分の放った和音たちが一人立ちして駆けまわっているのに気が付くと、驚きとともにそのさまに眺めいった。
 やがて音楽もたけなわとなったころ、忽然と、海の退潮をまねるかのようにそれはどこかへ後退していった。賑わしさはなりをひそめ、踊りくるう小人も、月面の奏者もいつのまにか姿を消していた。あとには静けさと暗闇がのこされた。
 月が雲に閉ざされたのだった。

 以後はなんの音楽も聞こえてはこなかった。暗闇はより一層濃くなるだけだった。
 あきらめて森のがわに向きなおると、すぐ目のまえに熊が一頭立っていた。熊はおもむろに手を挙げ、しごく鷹揚な声色で挨拶をよこした。「こんばんわ。」同様の返事で応じると、熊はあつい暗闇のむこうで目を細めるか何かしたようだった。ちょうどそのとき雲の流れがとぎれ、月明かりはいっとき地上に舞いもどってきた。熊はよくたしかめると毛皮を着た大男だった。豊かな髪と口ひげのあいだでまん丸な目が光っていた。
「ごきげんよう。とても過ごしやすい夜です。寒すぎず、暑すぎず」そういって大男は口ひげをなでた。見開いた目をギョロつかせ、視線をあわただしく行き来させてから、それをまたこちらに据え、覗きこむようにして尋ねた。
「何を考えておいででしょうか?」
「ここには誰もいないのでしょうか」
 大男は、その先をうながすように眉毛を片方だけもちあげてみせた。

「ずっと考えてきたのです、なぜ自分は誰にも出くわさないのだろうかと、なぜ、誰かにであう予感はあっても、その予感は実現しないのだろうかと。長い、ほんとうに気の遠くなるほどに長い旅をわたしは続けてきた気がしますが、そのあいだ中、さまざまな幻がわたしを翻弄していきました。つい今しがたも……」
 そうしてやや躊躇ってから付け加えた。「ひょっとすると、あなたが私の出会う、正真正銘、いちばん最初の人間かもしれない」

「記憶があいまいなようですね」と大男はわけ知り顔でつぶやいた。海からの風がまた強まり、雲の動きをうながして、ふたたび影を大地にひろく伸べようとしていた。彼はそのさまを眺めながら、もの思わし気に話しはじめた。

「大昔のことです。大変な、それは大変な病気が流行し、人びとはその病をうつしあうことを恐れた結果、誰も彼も、めっきり外を出歩かなくなりました。そうして長い、陰鬱な歳月が流れるなかで、悲しむべきことに、人間は他人の顔がわからなくなってしまったのです。せっかくウイルスを退治できたにもかかわらず、彼らは出会っても、もうお互いがそこにいることを認め合うことすらできません。ごくたまに、千載一遇の機会をつかんだ人間たちだけが、つかのま会話をしたり、再会を喜びあったり、二人がここにいる不思議を確かめあうこともできますが、じきにその記憶も流れ去ります。自分は誰かに出会ったようだという、たんなる不気味な喪失感だけが、その後もわだかまりつづけるのです」
 そういうと大男はぽつりと言い添えた。「われわれのこの出会いも、おそらくは、同様の運命をたどるでしょう」

 沈黙が、すきま風のように両者のあわいにすべりこんだ。だがそれはやって来たと同様こつ然と去っていった
「いまいちよくわかりません。……すると、あの浜辺の焚火跡に集まっていた人びとは、もう消えてしまったんですか」
「消えたのではありません。ただ、あなたには見えなくなったのです。彼らはいまも、われわれの見えないところに存在してはいます」
 大男は虚空に見入るようなしぐさをした。だしぬけに、森から数羽のフクロウが飛び上がったが、彼らはどこか物問いたそうな、気詰まりな鳴き声だけをのこして、そのうちまた暗闇のなかに溶けていった。
「もしくは」と大男は話をつづけた。「彼らはいまもここにいるのだが、われわれの方で気付いてあげられないのかもしれない」

 そういうと、大男は横目でこちらを窺った。
「信じましょう、彼らがまたここに戻ってくることを。きっと、呼び寄せられるでしょうよ、寄せてはかえす波のように。あの森の鳥たち、潮の干満――そして、今のあなたと私のように」
 そこでことばを切った。
 空は、いつのまにか雲が通りすぎたために目に痛いほど晴れわたり、ひかりかがやいていた。大気はこの上なく澄明であり、星と星とが呼びもとめあう、かすかな息づかいすら聞こえてきてもおかしくないほどだった。その息づかいのうちに、人間のものが――あの宴の参加者の、あの船とハープ奏者のものが含まれないと考える理由は、たしかにないように思えた。

「何に呼び寄せられるのですか?」
 大男はまどろんだかのような顔つきで答えた。
「引力ですよ」その目は海を見つめていた。
「月の引力です」



(2020/4/17 Fri.)

       

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