Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      

 シグレは千寿の裏通りを歩いていた。



 目的地まではメインストリートを通れば早く着くが、フクロウ並の夜目がきくシグレにとって、人混みのある場所より薄暗い裏道を行く方が遥かに安全だった。



 今夜、シグレはある老夫人を殺した。病室の寝台の上に、人工呼吸器を付けた彼女はいた。



 三十年前まで、彼女は名のある殺し屋だった。毒を用いた殺しを得意とし、議員や証券会社の社員、主婦や学生、あるときは物乞いや浮浪者まで、富者や貧者を区別せず、請負った依頼であれば分け隔てなく相手を葬ってきた。



 殺し屋を引退したのち、郊外の一建屋に住んでいた彼女は半年前に肺がんを患い、千寿中央病院に入院していた。



 シグレに殺しの依頼をした者は、彼女と同じ年齢の男性だった。奇しくも、彼も肺がんを患っていて、医師に余命を宣告された彼は、シグレに妻の仇をとるよう依頼をした。



 殺した者を特定することも、居場所を探し出すことも、命を奪うことも、シグレにとって、これまでになく簡単な依頼だった。



 彼女の病室に入ると、まるで死んだように眠っている彼女がいた。顔には呼吸器を付けられ、モニターに映し出された心電図は弱弱しかった。



 シグレは呼吸器を掴むと、ゆっくりと取り外した。



 手足が僅かに痙攣するのと同時に、心電図の音の感覚が長くなっていく。



 そして、彼女の鼻から息がすぅっと出るのを見た。同時に、彼女の心拍は停止した。



 これが、自分たちの成れの果てだ。



 孤独に生き、孤独な死を遂げる。



 花を手向ける者はおらず、看取るのは自分を殺しに来た者だけ。



 愛や情熱とも無縁な生の末、地獄に堕ちる。



 だが、そんな生き方を自分は選び、そんな死に方を自分は望んだ。闘争の中でこそ、自分が自分であるように実感できたし、必要だった。愛や情に縛られ、自分を見失うよりはマシだ、とシグレは思った。



 裏道を過ぎると、とあるバーの角にたどり着いた。



 シグレが訪れたのは、「レ・マグネシア」というシガーバー。



 扉を開くと、ラム酒にも似た独特の芳香が鼻に入ってきた。



 葉巻を吸えるバーは珍しくはないが、ウォークインヒュミドールまで持っている場所は少ない。



 葉巻は適度な湿度や温度で管理する必要がある。シグレは葉巻を手に取ると、香りを一本一本確かめた。近づけてもあまり香りがないものや、驚くくらい強く香るものがある。



 シグレがシガーを選ぶときは、長さが百四十ミリメートルで、太めのものを選ぶ。葉巻が長ければ時間は長く、細いものはやや辛くなりやすい。



「何かお探しですか。」

 シグレが葉を吟味していると、黒ベストを着た嗄れ声の壮年の男が話しかけてきた。



「ヴィルフォールを探している。」

「かしこまりました。こちらにどうぞ。お好きなものを取っていらしてください。」



 シグレは目についた葉巻を取ると、男の後をついて歩きだした。



 裏の厨房の奥、薄暗い階段を下りたところの部屋に彼はいる。



 部屋に近づくにつれ、蜜にも似た甘い香りが鼻につき始めた。



「こちらに。」

 シグレが通されたのは、四方十坪ほどの広さの部屋だった。



 部屋の壁一面には赤い背景に巨大な竜の刺繍が施されている。室内に入ると、甘い香りの中に僅かな刺激臭があり、まるで部屋中に染み込んでいるようだった。そして、蛇柄のシートの掛かったソファーの上には、白いスーツを着た白髪の男が座っていた。



「シグレか。座るといい。そうだ、ラム酒でもどうだ。」

「遊びに来た訳じゃないぞ、ライゾウ。仕事の話だ。」



 シグレは月に一度ほど、レ・マグネシアを訪ねて、ライゾウに仕事の依頼や情報を求める。



 ライゾウの表向きはシガーバーのオーナーだが、裏の顔は闇仕事の仲介を引き受けるヤクザの元締めで、老け顔の見た目とは裏腹に、年齢は四十に達していない。



 若い頃は玄龍会というヤクザの用心棒を務め、多くの者より腕が立ったが、十年前、商売仇に殺された兄の稼業を継いだ。そして、のちに経営に天賦の才を見出し、今では千寿の闇仕事の全てを切り盛りするまでに組を成長させた。



 ライゾウは手元のシダー片をシグレに向けてテーブルに置いた。



「そう急ぐな、シグレ。それとも、死に損ないの婆さんを殺して気が立っているのか。」



 シグレは向かい側のソファーに座ると、葉巻の吸い口にパンチカッターを当てて穴をあけた。

「いい気分ではない。相手が名のある殺し屋と聞いていたが、あんな物は仕事ではない。」



「だが、報酬はいい。それに、殺したのがお前なら、婆さんも満足だろうよ。」

「死んだ者の事はどうでもいい。それに、報酬は全部お前にやる。その代わり、情報が欲しい。」



 シグレはシダー片に火をつけると葉巻の先端に点火した。普通のライターを使うと、葉巻本来の香りをオイルの匂いで邪魔してしまうことがあるからだった。



「ライゾウ。コーポスの居場所を教えろ。お前にとっても、奴は邪魔だろう。」

「確かに鬱陶しいが、奴は千寿のカス共を掃除している。そのお陰で、こちらとしても商売がし易くなっている面もある。それに、奴の居場所なら俺よりイザヤに聞いた方が早いだろう。」



「イザヤの予言は当たるが、外れる。予言を聞いた私が現場に向かっても、悉く奴とは行き違いになる。前に一度は出会えたが、仕損じた。」



 ライゾウは少し噴き出したように顔を綻ばせた。

「お前がこれほどの時間を掛けても仕留め損なっている。相当に悪運の強い奴のようだな。」



 シグレはむっとした表情で、再度シガー片に火をつけた。

 葉巻は吸っている途中、何度か火が消えるが、それは最適な温度と湿度で管理されている証拠でもある。だが、シグレは殺しに関して手間を惜しむことはないが、葉巻のこうしたところは好きになれなかった。



「そうカッカするな、シグレ。そういえば、いい葉が入った。試してみないか。」

「私はヤクをやらん。ほんの少し吸っただけで吐き気はするし、腹を下す。アレは殺しには向かないシロモノだ。」



「いや、あれは良い葉だ。だが残念ながら、それを卸していた龍門会の倉庫からくすねた命知らずのガキ共がいる。」



 シグレは顔を上げると、口から煙をふぅっと吹いた。



「キムの依頼か。」

「ああ。ご指名だぞ、シグレ。」



「いいだろう。だが、報酬はコーポスに関する情報だ。それ以外は認めない。」

「キムに伝えておこう。だが、期待はしないことだ。前のコーポスが、今のコーポスと同じ人物である保証はないしな。」



 ライゾウはにやっと笑うと、持っていた葉巻を皿に置いた。



 それでも、シグレはコーポスのどんな情報でも欲しかった。シグレはこのところ毎晩、コーポスの髑髏の仮面を剥ぎ取り、喉をかき斬る夢を見ては、イザヤに茶化されている。



 コーポスは父を陥れ、自分を地の底に堕とした。



 シグレは父が嫌いだった。母の死にも涙せず、自分にも無関心で、いつも仕事のことばかり考えている父だった。だが、コーポスによって父が逮捕され、自分は独りぼっちで生きざるを得なくなった。



 それからは教育も受けず、覚えたのは殺しの技だけ。青臭い正義感は、ときに人を不幸にする。



「ライゾウ。キムに伝えろ。報酬に見合わない情報だったなら、次は貴様の喉をかき斬る、とな。」

 シグレは葉巻を皿に擦り付けると、部屋をあとにした。

       

表紙
Tweet

Neetsha