今夜、千寿の二丁目の路地で、シグレは男の目を潰した。

 三十代後半、サラリーマン風の男だった。聖夜に売春婦を殺し、犯した。

 シグレの怒りは執拗だった。シグレを女と見て襲い掛かった男の眉間を突いたあと、急所を打ち続け、目を潰した。

 この町はイカレてる、とシグレは思っていた。通りではマフィアやヤクザが薬と売春、児童ポルノの話をしている。一歩路地へ入ろうものなら、そこは完全なアンダーグラウンドだ。法律も何もない。人が一人消えたって誰も気にはしない。多くの警察官は賄賂で生計を立て、行政機関の上層部までもマフィアとの癒着で成り立っている

 シグレは、やや苛立った様子で靴音を鳴らした。
「いい加減、姿を見せたらどうだ。イザヤ。」

 姿は見えない。だが、この狭い路地の片隅に、いつも彼はいる。
「私の面相など、お目汚しになるだけかと。」

 シグレは一呼吸置くと、黒のロングコートの裏からタバコを取り出し、火をつけた。

「イザヤ。あの男も違った。お前の予言は当たった試しがない」

「ですが、貴方が出会うべき男でもありました。」

「どうかな。私にはそうは思えないが。」

「ですが、貴方は私の予言を信じて下さる。故に、貴方の従者となったのです。」

「従者のお前の予言を信じて、私は痛い目を見たこともある。」

「ええ。存じております。ただ、予言とは転ばぬ杖ではなく、道を指し示すものです。」 

 シグレは、従順なようで物怖じせず言葉を発するこの男を嫌いではなかった。

 付き合いはそれほど長くない。半年ほど前、腐臭が漂う浮浪者同然だったこの男にパンを渡し、いくつか言葉を聞いただけだった。

 だが、時折気付かされることを言ったり、妙な「予言」に振り回されたりもする。それでも、良くも悪くも正直なこの男は嫌いではなかった。

 シグレは腰を下ろし、白い息を吐いた。
「イザヤ。お前の前のご主人はどんな奴だった」

「前の主人などおりません。私の予言を初めて信じてくださった、貴方が、私の初めての主人です。」

「私がお前の予言を信じなくなったら、お前はここから立ち去るのか」

 イザヤは何も話さなかった。シグレはコートの裏から金ボタンとシルバーの腕時計を取り出すと路地の片隅に放った。
「お前の取り分だ。あと、何か面白い話をしろ。」

「では、エサウとヤコブの話を」

「それはもう聞いた。」

「わかりました。では」

 イザヤは静かな口調で話し始めた。




 むかしむかし、ある国の偉大な王が、荒廃した聖地を治めていた時代。

 とある予言者の子が神々の召令を受けました。その子は玉座に座る主を見ました。

 主の衣の裾は長く、床一面に広がっていました。玉座の近くには六つの翼を持つセラフィム達が、それぞれ二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、残る二つの翼を羽ばたかせて飛び交っていました。

 セラフィム達は歌いました
「聖なる神よ。万軍の神よ。地に満ちたその栄光よ。」

 歌声に神殿は揺れ、煙が満ちた。子は畏れて言いました。
「これは天罰に違いない。汚れた私が、この眼で主を見てしまったから。」

 するとセラフィムが一人近づき、祭壇の火皿からとった焚いた炭を、子の唇に触れさせ、言いました。
「罪は贖われた。」

 そのとき、子は神の声を聴いたのです。神は言いました。
「誰を送ればよいだろう。誰が我々に代わり行ってくれるだろう。」

 子は答えました。
「私がおります。私を遣わせてください。」

 神は言いました。
「行くがいい。そしてお前はそこの民に言うことになる。聞いても聞いても解ろうとはしない。その眼を見てもなお、悟ろうとはしないと。」

「それはいつまで。」
 神は嘆息して言いました。
「街が崩れ、人が消え、砂漠となって果てるまで。」




 話を終えると、イザヤの気配は無かった。

 いつものことだった。話を終えたときには勝手に煙のように消えてしまう。シグレが予言に振り回されているように感じる理由の一つだった。

 シグレはもう一本タバコに火をつけた。
「この前の予言の意味、聞きそびれたな。」

 シグレは煙を吐くと、路地裏の奥に向かって歩き出した。