家に来て三日間、シグレは言葉を失ったように喋らなかった上、自分のことを語ろうともしなかった。窓際の椅子に座り、千寿の街並みを眺めていた。コバックスには妻はいたが、子はいなかった。どう接したらよいのか、そもそもなぜシグレを連れて帰ってきたのかも、今になって考えてみると分からなかった。
そんなある日、外にいるシグレに食事ができたことを告げに行ったとき、シグレは一本の木の棒を振っていた。シグレは、まっすぐコバックスを見つめてきた。
「強くなりたいのか? シグレ。」
シグレは頷くと、コバックスの目の前で棒を再び振り始めた。静かで鋭い、そして速い振りだった。とても、低学年の子のものと思えない。
「いい振りだ。」
コバックスは地面に転がっている棒を持つと、シグレと対角線上に立った。シグレは振りを止めると、その切っ先をコバックスの胸に向けて構えた。
シグレは左手の薬指と小指は持手の先端に置き、切っ先をゆらゆらと揺らしていた。左足は右足から一足分後方に置き、踵を異常なほど上げている。
まるで野生の獣だ、とコバックスは思った。構えはぶれている様に見えて、こちらの隙を伺い、急所を狙って突きを入れようとしている。
肉を斬られ、骨を断たれようと、相手の命を奪うことのみを考えているのかもしれない。一瞬一瞬がまるで一刻の長さに思える感覚だった。
一か月前、コーポスと呼ばれる髑髏の怪人と対峙した記憶が頭をよぎった。
あのときは棒ではなく、短槍を使った。奇襲の一撃を躱されたのち、短槍の切っ先をコーポスの喉に向けた。相手の指先、腕や脚の筋肉の僅かな動きに併せて、喉元に必殺の一撃を繰り出す。それが天晃流短槍術の奥義。
だが、コーポスは武器も持たず、半身に構えたまま、右手をゆらゆらと僅かに揺らしながら、少しずつ間合いを詰めてくる。コーポスの右手の揺れが、こちらの切っ先を無意識的にぶれさせていた。
手に汗が滲み、瞼が重い。時間が経つごとに、一秒が長く感じてくる。
コーポスが左足を引いたとき、コバックスは突きかかった。捉えた、そう思ったとき、コバックスの身体は宙を舞い、背中から地面に落ちた。上を見上げると、コーポスの左拳が喉元に突き付けられていた。
そのとき、銃声が鳴った。
二メートルほどの距離で、妻のリンが血しぶきを上げながら崩れ去るのが見えた。
コーポスが慌てたように銃を撃った者を怒鳴りつけたとき、コバックスはコーポスの左拳を斬りつけ、リンを脇に抱え全速力で駆けた。
後方で銃声が聞こえたが、走り続けた。
隠れ家に逃げ込んだとき、コバックスは荒い息をしながら、リンのヘルメットを外した。
妻のリンもまた、天晃流短槍術の使い手で、同業者だった。ワタリガラスを模した黒いヘルメットを被り、コバックスよりも機敏に動いて翻弄する術に長けた。
胸には銃弾の貫通した跡が残っており、衣服には大量の血痕が浸み込んでいた。頬に手を当てたとき、リンは、冷たかった。
リンの頬に手を当てたまま、半刻ほど経ったとき、コバックスの中に、様々な感情の波が一気に押し寄せたてきた。無様に敗れ、大切な妻を失い、おめおめと自分の命のみ持ち帰った己。
虚空を見上げ、押し寄せる感情を必死に押し殺しながら、コバックスの手は震えていた。出来ることなら、今にも自分の喉をかき斬りたくなる。
だが、戦いの中で死にたかった。生きるべくして生き、死ぬるべくして死にたかった。妻に殉じ死ぬことが、果たして自分の死に方に相応しいのだろうか。握りしめた手を緩め、窓の外の風景を見た。
遠くの空で、朝日が昇る。コバックスは立ち上がると、外に出た。妻を相応しい場所に葬らなければならない。朝早く、コバックスは千寿を発った。そして、騒乱が収まる頃に千寿へ帰ったとき、シグレと出会った。
コバックスは目の前で棒を構えているシグレをじっと見た。無機質な眼の奥には、燃え盛る灯が見えた。宿っているのは怒りか、復讐心か。コバックスはわざと剣先を下げると、右手の握りを緩めた。
その瞬間、シグレの左足は動いた。バネのように地面から跳ね上がると、コバックスの右肩を目掛けて棒を振り下ろした。
コバックスは振り下ろされる棒を掻い潜るように左前に踏み込み、身体を反転させた勢いでシグレの胴を打った。鈍い音と共に、シグレの身体が宙に舞い、地に叩き付けられた。
殺してしまったかもしれない。コバックスは棒を捨て慌てて駆け寄ると、目の前にはシグレの顔、そして眼があった。
はっと気づいたとき、シグレの棒はコバックスの喉を打ち抜いていた。尻餅を付いたとき、目の前には、切っ先を向け、勝ち誇ったように微笑むシグレの姿があった。
負けた。そして、自分がなぜシグレを連れ帰ったのかを感覚的に理解した。
コバックスは立ち上がると、シグレの肩に手を置いた。
「シグレ。お前が進もうとしているのは修羅の道だ。それでも、往くのか?」
シグレはこくん、と頷いた。
「もう、生に潤いは求められんぞ。」
シグレは、はにかむように微笑んだ。