目覚めてからずっと視界がぼやけていた。

 窓から差し込む日差しを浴び、ウツミは何度も目をこすりながら、パジャマ姿のまま台所に立った。

 念入りに手を洗ったあと、冷蔵庫から卵を取り出し、銀のボウルに三個続けて割る。泡立たせないように白身を切るようにして混ぜる。砂糖と醤油と塩を加え、中火で熱したフライパンに、サラダ油を入れて、卵液を数回に分けながら流し込み、折りたたむ。毎朝の卵焼き作りは、彼の日課だった。出来立ての卵焼きを二つの弁当箱に詰め、茹でたウインナーを蛸の形に器用に切っていく。

「おはよう。パパ。」
 背中の声に振り向くと、紺色のブレザーに身を包んだ娘のアリスがいた。

「おはよう。アリス。ごめんよ。今、お弁当を詰めているから少し待っていなさい。」

「それはいいの、パパ。それより、大事なことがあるでしょう。」

 ウツミは包丁の動きを止めた。
「アリス。十八回目の誕生日おめでとう。パパは今夜、必ず早く帰ってくる。今年こそ、一緒にお誕生会をしよう。寂しい思いはもうさせない。ママも、きっと天国から、」

「違うでしょ。」
 ウツミは急に、背中越しに感じるアリスの目線が鋭く、刺すような感じがした。

「違うでしょ。お金。あと五十分で次のシフトなの。早くして。」

 頬は熱を持ち、後頭部が疼いた。鼓動は早くなり、うまく喋れなくなる。ウツミは包丁をまな板の上に置くと、弁当箱の隣にある白い封筒をアリスに渡した。受け取った封筒の中身を確認し始めたアリスを見つめていると、不思議と視界は明瞭となり、紙幣の枚数を数える際の動く指の先までよく見えた。

 「ピッタリね。ありがとう。そういえば次、違う子が来るから。私この仕事さ、今週一杯で辞めるの。」
 アリスは封筒をグレーの鞄に入れると、ドアに向かって足早に駆けていく。

「いってらっしゃい、アリス。お弁当は。」

「いらない。じゃあね。変態さん。」
 ドアはゆっくりと閉まった。

 ウツミは無表情のまま立ち尽くしていた。なぜ、どうして。疑問だけが頭の中でグルグルと回っている。昨晩のアリスを思い返しても、特に変わったことはなかったように思えた。

 アリスはいつもの表情だった。ぬぐい切れない悲しみを冷徹さで隠す顔。

 彼女に親族はいない。中学を卒業してから上京し、自分と会うまでの一年間何をしていたのか、いつ、何が今の彼女を作ったのかウツミは知らない。だが、彼女の中で何か大きな失望や、挫折を味わったのではないか、とウツミは思っていた。

 切りかけのウインナーはそのままに、ウツミはリビングに向かうと椅子に腰を下ろした。

「アリス。何故だ。」

 昨晩は千寿駅の改札前で待ち合わせ、共に食事をし、そして共に夜を過ごした。

 寝台に横たわり、乳房を掴み、唾を混ぜ合わせ、精を放った。アリスの氷のような美貌が、艶めかしさを帯びて溶け出す一瞬がウツミは好きだった。

 今に思えば、昨晩の彼女はいつもに比べて扇情的だったとウツミは思った。

 昨晩、精を放ったあと、アリスが体液で濡れたところを舌で舐めとっていたことを思い出したとき、ウツミは気付いた。アリスが自分の躰に覆いかぶさっていた際、上を見ると彼女の表情があった。あのとき、アリスの顔から自分の躰に垂れたのは、自分の放った精でも、彼女の淫水でもない。涙だった。

 あのとき、アリスは泣いていた。

 どうして今頃になって思い出したのか。ウツミは椅子から勢いよく立ち上がるが、床に足を滑らせ、危うく前のめりに倒れそうになった。
「アリス!」

 ドアに向かって叫んだ。が、返事はなかった。ウツミは台所も放ったまま、着替え支度を始めた。

 今年になってから風俗店絡みの犯罪は以前の五倍以上にも増加している。法外な金を渡し、倫理に反した行為をさせる、という話も聞いていた。昨日も、売春婦が二人殺された。
「アリスが、危ない。」

 私が守らねば。会って伝えなければ。命を狙われている、と