十年ぶりにゴンゾウと出会ったとき、ワタリ・キョウコは微かな違和感を覚えた。



 刑務官に見送られ、門から出てきたゴンゾウはいささか太った様に思えたが、遠目に見たときはまぎれもなくその人だった。



 だが、間近で見たとき、その他者を威圧する気は最後に会ったときとは比べ物にならないほど強くなっていた。全てを拒絶するような圧倒的な威圧感。キョウコと目を合わせても尚、その気が鎮まることはなかった。



 今晩遅くに六文組の事務所から帰って来たゴンゾウは椅子に座り、静かに目を閉じている。この時間のみ彼の気が休まる瞬間であり、十年前と同じだった。



「キョウコ。シャンベルタンを。」

「仮釈放の夜以来ですね。今日は何かよろしい事があったんですの?」



「今夜、空を見上げたとき、他の群星から遠く離れた場所に星が瞬いた。その星は北の赤き凶星や、西の白い星よりも更に天近くに輝いた。イザヤの言う通りだった。」

「それはきっと貴方の星。吉兆の徴ですわ。」



 キョウコはワインセラーを開けると、一本のワインを取り出した。



 シャンベルタン。ナポレオンも愛したとされる王の酒。



 豊かな芳香と気品。ビロードのような口当たり。男性的な力強い味わい。



 ゴンゾウはワインを好むが、シャンベルタンに対しては何か特別な想い入れがあるようにキョウコは思えた。



 ゴンゾウに抱かれたときに感じる彼の孤独感や子供にも似た純粋な一面。外に滲み出る剥き出しのゴンゾウに、シャンベルタンがまるで装束を着せるように包み込み、ゴンゾウをゴンゾウ足らしめている、キョウコはそんな気がしていた。



「イザヤはまだ怒っているのですの?」

「イザヤは新しい主人を見つけたようだ。もう戻っては来ぬ。」



「またお会いしたいですわ。彼の星占いは当たるんですもの。」



 グラスにワインを注ぎながら、キョウコはゴンゾウの横顔を見た。



 ゴンゾウは六十五歳となった。だが、少しも衰えた様子はなく、十年前の容貌とほぼ変わらない。



 反対に自分は四十二歳となっていた。ゴンゾウを待ち、日々を過ごす内に肌に張りが無くなり、皺は増えていった。ゴンゾウを失望させ、捨てられてしまうのではないか、と不安になることもあった。だが、彼はそんな自分を受け入れてくれた。



「キョウコ。今宵はポッペアの戴冠を頼めるか?」

「いいですわ。昔のように歌えるか分かりませんけれど。」



 ポッペアの戴冠はゴンゾウと出会うきっかけとなった歌劇だった。



 天上界で、運命の神フォルトゥナと美徳の神ヴィルトゥが貶しあう。そのとき、愛の神アモーレが現れて愛が最高の力を持っていると訴えると、運命の神も美徳の神もその主張を認める。そうしてある日、帝政ローマの時代に皇帝のネロは浮気相手のポッペアと結婚しようと考える。そこで邪魔の存在だった哲学者のセネカを自殺させ、妻オッターヴィアを国外に追放する。ポッペアもそれに加担し、最後は皇后の座を奪い取る。



 キョウコがオペラ歌手としてステージの上に立っていたとき、ゴンゾウはその姿に魅了された。ゴンゾウが言い寄った当初、キョウコはマフィアのドンであるゴンゾウを恐れつつ接していた。だが、身体を合わせていく内に、キョウコもまた彼の二面性に惹かれていった。



 ゴンゾウはポッペアの戴冠をいたく気に入っていた。



 勧善懲悪とかけ離れたこの物語を、作曲者のモンテヴェルディは、その本質を音楽によってリアルに、官能性豊かに描いた。現代に生きる人々の享楽も、求める美徳も、一瞬にして吹き飛ばしてしまう不条理な愛のドラマに、ゴンゾウは夢中になった。



 一年の交際の末結ばれたのち、キョウコはネロとゴンゾウを重ねて舞台に立った。



 ネロは暴君とされているが、当時富と権力を持っていた元老院議員たちから財産を取り上げ、それを市民に分け与えた。ネロを悪とする話は、元老院の記録が主なものであった。



 そしてゴンゾウもまた、ポッペアをキョウコに重ねて、その姿に魅入られていった。



「お前は今でも魅力的だ、キョウコ。我一人の為に、歌ってくれ。」



「ええ、喜んで。」



 二人の間には音曲が奏でられ、ポッペアの歌声が響いた。





                                                    【漆壁の章 完】