エメラルドと人間に、傷の無いものは存在しない。



 育つ過程において、過酷な段階を経なければならない。そして、それ故に結晶の中には無数の傷が内包されている。



 父は高潔な人間だった。



 叩き伏せられ、傷を負ってもなお、輝きを失わない。



 そんな父は、自分の誇りだった。



 十歳の頃、学校で数人の金持ちの子に痛めつけられた。

「くたばれ、職工の子。」



 吐き捨てるように投げかけられたその言葉に、自分は激しく傷ついた。



 泣いて帰ったとき、父にその言葉を伝えた。



 父は悲しそうな顔を浮かべつつ、慰めるように肩に手を置いた。

「いいか、ゴン。私も子供の頃に父の事で苛められた。だが、いつしかその傷は私の糧となった。自分を不幸とも思わなくていい。恥じることはない。どう生まれたかじゃない。どう生きるかが重要なんだ。」



 当時の自分は、父の考えを理解できなかった。ただ、父を侮辱された悔しさの念はより一層強くなった。受けた傷の痛みと、心の底から湧き上がる怒りに耐え続けた。



 父はあるとき、居間に母のチエと自分を呼んだ。



「チエ、ゴン、よく聞いてくれ。私は十二歳の頃、職人の父を激しく侮辱された。私だけではない。千寿に住んでいる貧乏な家の者たちは皆、金持ち連中から足蹴にされ、地べたを這うような辛酸を舐めてきた。私はそれを変えたい。そして今、その見込みが立った。」



 父はこれまでになく真剣な顔つきだった。



 母も自分も、父の一言一句を聞き漏らさないように聞いた。



「私は今回の市長選に立候補することに決めた。父を侮辱された日から、私はこのときの為に生きてきた。一人でも多く友人を増やし、借金をしながら資金を集め、ときには力のある者に媚びる真似もした。」



 一か月前、千寿の前市長は殺害された。汚職を発端としたマフィアとの諍いが原因だった。帰路につく途中を誘拐され壮絶な拷問を受けた挙句、翌日にはランドマークタワーの前で鉄棒に串刺しにされた状態で発見された。妻子もまた、そう遠くない場所で首を切り取られた状態の遺体が見つかった。



「当選する可能性は低い。だが、誰かが行動を始めなければならない。誰かが其の礎にならなくてはいけない。たとえ捨て石となろうとも、私はそれを成し遂げたい。だが、お前たちを巻き込む訳にはいかない。故に、お前たちとは縁を絶つことに決めた。」



 縁を絶つ。その言葉を聞いて、自分は目が回るほどのショックを受けたが、母のチエは終始落ち着いた様子だった。



「貴方、私達は常に一緒です。たとえ縁を切ったとて、貴方が殺されてしまったら何もなりません。それに私は今まで、貴方が其の志の為にどれほど苦労をなさったかも知っています。最期の時まで、お手伝いさせてください。」

 母の言葉に父は俯いた。静寂な時間の中で、自分は肩を震わす父の姿を見ていた。



「父さん。俺も協力する。」

 言葉を発するつもりはなかった。頭の中は混乱していた上、その只ならぬ雰囲気に戸惑っていた。だが、内在する想いが父の意志と同期したかのように、口が思わず動いていた。父は驚いた顔で私の瞳を見た。



「ゴン。チエも、お前たちは俺の誇りだ。明日から一緒に頑張ろう。」

 父は短くそう言うと、足早に奥の部屋へ去っていった。