午後二時三〇分。アリスは柏松駅の南口から歩いて二十分の喫茶店にいた。

 柏松駅は千寿駅から二駅ほど離れており、北口は繁華街だが、南口は閑静な住宅街である。

 店内の最も奥の席に座りながら、今頃職場ではどうなっているか、とアリスは考えていた。今の職に就いて一年と一カ月、一度も欠勤や遅刻はなかったし、無断で休むと厳しいペナルティもあった。

 昨日、アリスは最期の仕事に向かう前に辞職届を提出した。今すぐには答えられない、と店長には言われたが、アリスは今すぐにでも辞める気ではあったし、ウツミと別れてからはスマートフォンの電源も切ってある。

 ただ、自分が勝手に辞めたところで何も変わりはしない、とも思っていた。自分の代わりの子は何人もいる。今大事な事は、この町から出ることだった。

 だが、その前に会わなければならない人がいる。母だ。出来れば二度と会いたくはなかった。自分が小さい頃に、父親と共に妙な宗教に入って以来おかしくなってしまった。それでも会わなくてはならない。

 注文したレモンティーを飲みながら、ふとウツミの事を思い返していた。

 変な客だと思った。子供のように乳房を吸うときもあれば、髪や頬を撫でるときは恋人のように自分を慈しんでくれた。朝起きたときの表情は本当の父親のそれに見えたこともある。

 一年近く続いた彼との家族ごっこは嫌いではなかったし、本当に愛してくれていると思うときがあった。ただ時折、彼にとっての自分が、どんな存在なのかを気にしてしまい、自己嫌悪に陥ったこともある。

 私と彼は従業員と客、それ以上の関係ではないと自分に言い聞かせていた。きっと今後も、彼は新しく来た子を同じように愛するに違いない。

 だって、彼は優しい人だから、そうアリスは思ったが、どこか心が軋むような感じがした。

 ふと見上げると、店内の時計が鳴った。午後三時。指定された時間だった。

 同時に、店の入り口がすぅっと開き、母ともう一人、知らない男が入ってきた。

 男は二十台後半から三十代前半、サラリーマン風の容貌だった。

 二人は自分の顔を確認すると、気持ちの悪い笑みを浮かべて名前を呼び、向かいの席に座った。
「サキちゃん! 久しぶりね。もう二度と会えないかと思ったのよ。」

「もうその名前は呼ばないで。それに、縁を切ったのはそっちでしょ。私は二度と会いたくなかったのだけれど。」

 サキ、とは自分の本名だった。冷たく突き放す言い方をしたつもりだったが、母はまったく動じていないようだった。
「あの時は本当にごめんなさい。お父さんも私も、冷静じゃなかった。けど、あれから沢山、沢山後悔したわ。貴女のこと、もっと考えるべきだったって。」

「私のこと付け回してよく言うわね。職場にも電話するなんて。」

「仕方がなかったの。貴女が無事かどうか確かめるために。貴女がいなくなって二年間、無事を祈ってずっと探していたわ。タガワさんのところ、カケガワさんのところ、それに、ニイミさんのところも。」

「ちょっと待って。ニイミのところにも行ったの?」
「行ったわ。貴女に会えると思ったから。」

一瞬絶句したアリスは、すぐに母を氷のような視線で睨みつけた。
「信じられない。どうしてそんなことをするの。」

「貴女のためよ。それと、どうしても貴女に会わせたい人を連れてきたの。」
 母は隣の男を指して言った。男はアリスを見ると、丁寧に会釈をした。
「ナガノといいます。教会では司祭の職に就いています。」

 司祭、という言葉を聞いて、アリスは眩暈に似た感覚に陥った。やはり何も変わっていない。アリスそう思うと、鞄を手によろめきつつ席を立った。
「いい? 私がここに来たのは、二度と私に関わらないで、って言いたかったの。でも、これじゃまるで犯罪よ。私、警察に行ってくるから。」

 アリスが扉の前に行こうとすると、それまで店員と客だった人々が、一斉にアリスの周りを囲んだ。五人以上はいた。

 皆、目に宿る色が母と同じに思えた。すぐに口を押えられ、腕を掴まれて動けなくなる。手を剥がそうと必死にもがいていると、段々と意識が朦朧としてきた。

 飲み物に何か入れられていたのかもしれない。アリスは薄れゆく意識の中で母の声を聞いた。
「貴女の為なのよ。サキちゃん。」
 目の前は光に包まれたように白くなり、意識は遠のいていった。