Neetel Inside ニートノベル
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 風が吹き始めていた。



 頭上の雲は流れ、その狭間から月がぼんやりと夜を照らした。



 シグレはワタリガラスの意匠が施されたフルフェイスのヘルメットを被り、工場近くの物陰にアカメと共に立っていた。



 遠くから工場を眺めていると、アカメに渡された図面よりもやや大きく見える。



 周辺はコンクリートブロックを高く重ねた塀に囲まれ、その上には有刺鉄線が複数本引いている。



 外から見るのみでは内部の構造は一切知れない。まるで防御に特化した城と言ってもいい。



「シグレ。流石のお前でも侵入は難しいか? 場合によっては私が騒ぎを起こそう。」



「不可能ではない。門衛を殺し、正面より一気に突破する。お前は退路を確保して欲しい。」



「相変わらず無茶をする。必ず仕留めろよ。」



 シグレは無言で頷くと、物陰から飛び出した。



 ツツジの治療のお陰か、身体が妙に軽かった。



 必ず生きて帰る。なぜツツジにそう言ったのか、今になっても分からなかった。



 妖しげな荒療治にはうんざりするが、ツツジには命を救われた恩を感じている。だが、もっと他の、今まで味わったことのない感情を抱いた気がした。



 それが何なのか、生きて帰って再びツツジと出会えば分かるのかもしれない。



 シグレは飛翔した。まるで闇夜に同化し、獲物を襲う夜烏のように右手から短槍を伸ばすと、門衛の背後に降り立ち、喉を掻き斬った。



 斬られた傷口から血しぶきが勢いよく吹き出し、すぐに辺り一面に血だまりが出来た。



 シグレは門を軽々と飛び越え、敷地内に降り立つと、本来の入り口に向かわず、建物の壁に沿って走り出した。



 アカメに渡された工場の図面を小一時間ほど見つめていると、工場内に数十ある部屋の中からゴンゾウの居場所が少しずつ掴めてきた。そして現場に到着したとき、その考えが正しいことを確信した。



 ゴンゾウは千寿を最も見渡せる部屋にいることに間違いない。



 たとえ他より目立つ部屋であろうと、ゴンゾウはそうした場所を選ぶ。



 これは殺し屋としての勘だった。大きなリスクを目の前にしたとき、助けとなるのは武器ではなく、己のインスピレーションを働かせること。かつてコバックスに教わったことだった。



 千寿を最も見渡せる部屋は工場の北側の二階、室内から数えて左から三番目の部屋。



 シグレは地面を蹴ると、垂直の壁を足早に駆けあがった。



 間違いなく此処にいる。



 壁を駆けあがる一歩ごとに、それは更なる確信を帯びてきた。



 壁の向こうから伝わるゴンゾウの発する気。十年前と同じだった。



 チグサを失いながら、少しも悲しみの表情を浮かべなかったあの時と同じ。



 二階の高さまで駆け上がったシグレがその窓を破ったとき、目の前には大方天戟を振りかぶる呂角の姿があった。



 神速の勢いで振り下ろされた大方天戟の一撃を、シグレは身を翻して避けた。



「借りを返すぞ、呂角。」



 シグレの突き出した短槍の一撃は、呂角の右脇腹を浅く斬り裂いたのみだった。



 呂角はすぐに二、三歩と退くと、繰り出された喉に対する二撃目を紙一重で避け、大方天戟を構えなおした。



 シグレが正面を向きなおすと、呂角の背後に月明かりに照らされたゴンゾウが見えた。



「良き手前だな、我が娘よ。」



「貴様に娘呼ばわりされる筋合いはない。」



「いいや。我はお前が来ることを知っていた。そして、お前は我が此処に居ることを知っていた。何者にも離れがたい物がある。」



 目の前には実の父、ワタリ・ゴンゾウが佇んでいた。



 その表情はまるで花を慈しむ者のように穏やかだった。



 母のチグサが抗争に巻き込まれ射殺されながらも、顔色一つ変えなかった父。



 別の女性と恋に落ち、自分を無き者として扱い、声すら掛けなかった父。



 幼かった頃の記憶が、走馬灯のようにシグレの脳内を駆け巡った。



「貴様に父に対する様な情念が湧くと思うか? 貴様には此処で死んで貰う。」



「呂角、ゆけい。」



 呂角は大きく踏み込むと九尺の大方天戟を真一文字に振った。



「その手は見切ったぞ、呂角。」



 シグレはそれを大きく飛び越えると、背後のゴンゾウ目掛けて短槍を突き出した。



 全身を使い、勢いを付けた会心の一撃だった。短槍がゴンゾウの喉元に吸い込まれるように伸びていく。



 だが、その槍身はゴンゾウの右肩に突き刺さった。



 目測を見誤った訳ではない。



 槍の先端が届くまでは確実にその喉元を捉えていた。



「天晃流短槍術か。だが、その技を知るのはお前だけではないぞ。」



 ゴンゾウは刺さった槍身をぐっと掴むと、力任せにシグレの頭部を殴りつけた。



 短槍は折れ、勢いよくごろごろと床に転げたシグレを見下ろしながら、ゴンゾウは右肩の折れた槍身を引き抜いた。



「コバックスは我の旧友だ。その技はとうの昔より知っている。それに、奴にコーポスを殺すよう依頼したのも我だ。」



 床に転がったシグレが立ち上がろうとしたとき、大方天戟の三日月刃が喉元に突き付けられていた。



「シグレよ、再び親子の縁を結ばぬか? 殺すには惜しい。」



「殺せ。貴様に情を掛けられる位なら死を選ぶ。」



 シグレはマスク越しに目の前の二人を睨みつけた。



 何か手があるはずだ。シグレは静かな間の中、打開する方策に考えを巡らせた。



 必ず生きて帰る、自分はツツジにそう約束した。それを諦める訳にはいかない。



 シグレが瞬時に二本目の短槍を取り出そうとしたとき、右横から強烈な風圧を感じた。



「何者だ。」



 呂角が声を上げた瞬間、その身体は金属音と共に後方に吹き飛ばされた。



 シグレが見上げると、三日月刃の片方は折られ、天井に勢いよく突き刺さっていた。



「やはり、この技をもう一度教えておくべきだったな。」



 シグレが声の方向を向くと、其処には袖から短槍を突き出したコバックスがいた。



「師よ、どうして。」



「ライゾウに今回の依頼を聞いたのさ。しかし、一人娘が気がかりになってな。」



 コバックスは冗談っぽく微笑んだ。



「コバックスよ。此度は敵となるか。」



「お前との契約はとうの昔に終わっているのだ、ゴンゾウ。それに、十年ぶりに再会した娘をぶん殴る奴は気に食わん。」



 シグレの目の前には、かつて父と呼んだ二人の男が向かい合っていた。



 だが、どちらもかつて自分を捨てた。



 そして今頃になって、自分を娘と呼ぶ。



 シグレは大きく混乱し、動揺していた。



 母が死に、二人の父に捨てられ、孤独に生きざるを得なかった。



 各地を巡り、殺しの術を学び、非情に生きてきた。



 ツツジと出会って、自分の中で何かが変わった。



 そして今、二人の父から身内の情を受けている。



 何もかもが分からない。だが、今すぐツツジに会いたい。



「シグレ、悪いが今回の依頼は中止だ。下では護衛が殺到して来ている。俺もこんな所で死にたくないからな。」



 シグレは立てなかった。頭の中が真っ白になり、考えが追い付かない。



 腕と足が震え、マスクの中では雫が落ちていた。



「一つ貸しだ。」



 コバックスはシグレを肩に背負うと、窓の外へと飛び出した。



 シグレは揺れ動く肩の上から、窓際に立つゴンゾウを見た。



 やがて目は雫に曇り、その姿は徐々に遠のいていった。







                                                    【荒風の章 完】

       

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