ウンノ・ソウジ。それが自身の名だった。
いつから名があったのか覚えがなく、親の顔すら覚えていなければ興味すら持った事がない。
「退屈。」
ソウジは足を崩すと胡坐のまま床を跳ねた。
面白そうに思えたから六文組に入ったにも関わらず、出番がなかった。気分が高揚したのは龍門会へ殴り込みを掛けた時だったが、大物は全て呂角が斬り殺し、自分は露払いをしたのみだった。
「斬りたい。可哀そうな人を、沢山斬りたい。」
ソウジは寝転がると、床をごろごろと転がった。壁の方を見ると、怪訝そうな表情を浮かべた六文組の組員達が見えた。
「いっそ君らを斬って、あっちに寝返ろうかな。」
ソウジが微笑むと、表情を変えた組員達は一斉に胸元に手を入れた。
「冗談だよ。報酬は貰っているんだから、その分の仕事はするよ。」
冗談ではなかった。退屈は自分が一番嫌いな事だった。今思い返すと、ワタリ・ゴンゾウや呂角は特に斬り甲斐のありそうな人間に思える。
ソウジは起き上がると大きな生欠伸をした。
初めて人を斬ったのは九歳の頃だった。千寿の片隅で溝鼠同然に過ごしていたとき、自分を嘲笑した大人をナイフで滅多刺しにした。嘲笑された事に怒ったわけではない。ただ斬る理由が欲しかった。顔に血が飛び散ったとき、何とも言えない高揚感に包まれた。特に、立派な身なりの男性を斬ったときの興奮は忘れられない。顔に飛んだ赤い血で化粧をし、こと切れ、血の泡を吹いた男性に口づけをした。男の血のまじった唾液を舐め取り、舌を絡めていると、今までに味わった事のない幸福感を得た。
ソウジは身体を震わせると、壁に立てかけてある愛刀を取った。刀身三尺の大太刀で名を虎眼丸という。ある古びた寺に祀られた妖刀で、古の鬼が使っていたとされ、その刃は虎の眼の様に狂猛な輝きを放っている。
「何か、血の匂いがするね。」
白化粧の中に浮かぶ血走った目を見開きながら、ソウジは六文組の組員を見渡した。
「アタシの鼻はね、十里離れても血の匂いが分かるのさ。二人、既に死んだね。」
ソウジの言葉に、六文組の組員達がざわついた。
「大したもんじゃないか。自分から網に掛かってくるなんかさ。可哀そうに。」
「ソウジ様、敵の数は如何ほど。」
「一人だね、可哀そうに。でも、孤独に死ぬ事はないよ。」
組員の一人が瞬きをしたとき、その首は毬の様に床に転がった。
「最初から、こうしておけば良かった。」
虎眼丸が生き物の様に動くごとに、その場にいた組員達の首が宙を舞った。
室内は瞬く間に血に染まり、まるで血の暴風雨が起きたかの様だった。
ソウジは身体がぞくぞくと泡立つ感覚を覚えた。もっと早くこうしていればよかった。
血に濡れた虎眼丸を振ると、壁一面に血雫が飛び散った。
「おいで、其処にいるんだろう?」
ソウジが部屋の外に話しかけると、ゆっくりと扉が開いた。
部屋に入って来たのは、黒い忍装束の女だった。腰には二本の刀を差し、何か奇怪なものを見る様にソウジを見詰めていた。
「お前は呂角ではないな。そして、六文組でもない。」
「アタシはウンノ・ソウジ。アンタみたいな子を待っていたんだよ、ずっと。」
「私の名はスイレン。呂角の代わりに、お前の首を貰う。」
スイレンは抜刀すると、二刀を上段に構えた。
二天豹爪流の技だった。敵が長い太刀であれば、重さに任せた敵の一撃を一刀で躱し、足を深く踏み込み、上段から振り下ろしたもう一刀とで、十字で打太刀の太刀を押さえ込む。
押さえられた大太刀は下がるしか出来ず、これに間合いを離さないように前進し動きを封じ込む。仮に下がって刀を抜き、突きで顔を狙ってきた時は、それを一刀で受けて即座にもう一刀で払うように打ち落とす、攻防一体の奥義。
しかし、ソウジは構えるどころか、抜刀すらしなかった。
「ソウジ、なぜ構えない。私を舐めているのか。」
「はやくおいで。嬲り甲斐があるか、見せてもらうから。」
スイレンはソウジを睨みつけると、右に、左に、流れる柳の様に身体を動かしながら一歩、二歩と間合いを詰めていく。
「その油断が、お前の命取りだ。」
必殺の間合いに入ったとき、スイレンの左つま先が動いた。右足を大きく踏み込み、左の一刀を振り下ろした。それは、まるで獲物を狩る豹の様だった。刃はソウジの頭部目掛けて吸い込まれていく。そのとき、ソウジもまた大太刀を抜き放った。瞬く間に、二人の身体が交錯した。
刀を振り下ろしたスイレンが背後を振り返ると、床にソウジが纏う白装束の切れ端が落ちていた。刃はソウジの肩を掠めたのみだった。初手の一撃は避けられたが、まだ次の手段は残っている。
「その大太刀で居合を使うのか。だが、次はないぞ。」
振り下ろした左腕を再び上段に構えようとしたとき、スイレンは何か違和感を覚えた。
左腕に力が入らない。
二の腕から指先まで力が入らず、まるで鉛の様に重い。
「斬られたのが分からなかった?」
ソウジは裂けんばかりに口角を吊り上げながら、にっと笑うと、虎眼丸を軽く振った。スイレンの顔には血の滴が飛び散り、それが自分の血である事を咄嗟に理解した。
「剣士にとって腕を斬られる事はどういう結末を迎えるか、分かるよね?」
まだ右腕が残っている。
スイレンがもう一方の刀を持ち上げようとしたとき、ソウジの虎眼丸が一閃した。
刀を握ったままの右手首が血しぶきと共に宙を舞い、がちゃり、と音を立てて床に落ちた。
「可哀そうな子。まだ若いのに、罠にはまって斬られるなんて。」
ソウジは身震いすると、まるで小枝で遊ぶ子供の様に虎眼丸を振った。一度振るごとに、スイレンの肌は裂け、血の斑点が部屋の壁に飛び散っていく。
自分を甚振る事で楽しんでいる。
スイレンは薄れゆく意識の中、ソウジの歪な笑顔を見てそう思った。
どうせ斬られるのであれば、呂角が良かった。
目の前の男を楽しませる為に、自分は過酷な修練を行ってきた訳ではない。
日々剣を磨きつつ、あるときは隠密の術を必死に覚えこみ、あるときは拷問に耐える訓練をし、あるときは面倒な書物を読んで殺しに必要な知識を得た。そして、満を持して、名を上げる機会を与えられた。
このまま、自分は死ぬのか。
誰にも覚えられないまま、ただの間抜けな半人前の殺し屋として一生を終えるのか。
死にたくない。せめて目の前の男を殺してから死にたい。
スイレンは鉛の様な重さとなった左腕を持ち上げようとしたが、気付いた時には、既に肘から先が失われていた。
「アタシは慈悲をかけない主義でね。苦しみながら、あの世に逝きな。」
スイレンは身体全体がずしりと沈む感覚に襲われ、自然と床に膝をついていた。
目の前の床に伸びる細長い贓物を手繰り寄せようとするも、それを巻く腕がない。
床一面に広がる黒く淀んだ自分の血を眺めていると、失われた腕の断面から頭の頂点にかけて凍える様な冷たさが上ってきた。
目が眩み、頭が霞む。
俯せに沈んでいく感覚と共に、スイレンの意識は途絶えた。
【静蓮の章 完】