Neetel Inside ニートノベル
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 本当は殺してしまいたいほど、ウツミは憤っていた。

 アリスを傷つけた彼らを許したのは彼女の為でもあり、自分の為だった。

 柏松公園のベンチの上で、横向きに眠っているアリスの寝顔を見るたび、ウツミの頭の中で彼らへの怒りが沸々と湧き上がってくる。

 だが、自分は人を殺さない。クライムファイターになる以前から誓っていた決め事であり、失った者たちとの約束だった。

 右手に持っていたマスクをベンチに置くと、そっと彼女の髪を撫でた。時折、ウツミは心を奪われたようにアリスを見つめてしまうことがあった。

 出された食事を見てほんの少し微笑んだときの表情。精を出した瞬間の一瞬の表情。そして今、月明かりに照らされるその横顔に。

 寒空の下、冷たい風が顔に当たる。遠くを走る車の音。木が、草が揺れている音。

 ここは普段から人の気が少ない場所だった。柏松公園は住宅街のはずれにある。空き地を利用して作られた公園で、昔は子供たちの人気の遊び場だったらしい。今ではすっかり子供の姿も消え、遊具の塗膜は剥がされて赤黒い錆が露出したままになっている。

 そして、今宵は一層の静けさだった。アリスは薬の影響か、疲れ果てたのか、ウツミのコートに包まったままぐっすり眠っている。この寒さの中で長くはいられない。このまま目が覚めなければ、家まで背負って歩いてゆこう、とウツミは思った。

 そのとき、ウツミは何者かが遠くからこちらを伺う、微かな視線を感じた。

 その者は、少しずつ距離を詰めて来ている。まるで獲物を狙う鷹のような静かで冷たい殺気。手練れだ。ウツミはとっさにマスクを付けると、眠るアリスも守るように立ち塞がった。相手は存在を気付かれたと感じたのか、東の方角から猛烈に早いスピードで近づいてくる。

 木が大きく揺れた。近づいてきた影は跳躍し、ウツミの喉元を突くように拳を突き出してくる。ウツミはとっさに上体を右に軽く傾けると、左手でそれを醸した。だが、相手の拳と触れた瞬間、左手の甲と人差し指に焼けるような熱と痛みを感じた。

 手に付けている革製のグローブは、手の甲の部分から一直線上に切り取られた。相手はそのまま後方に跳躍すると、ウツミから十メートルほど距離を取った。

 月明かりの下で、相手の姿がはっきりと見えた。顔にはカラスにも似たフルフェイスのマスク、黒のロングコートに黒のスキーニングパンツのいで立ちだった。

 握りしめた拳の指の間から十五センチほどの槍が出ている。体型は華奢に見えるが、動きの俊敏さから相当の訓練を積んだ相手のようにウツミには思えた。

「アリスを取り戻しに来たのか?」
「違う。それに、あの場所にいた連中は私が始末した。」

 女の声だった。

「あそこには、この子の母親もいたんだぞ。まさか、殺したのか?」
「殺した。一人残らず。貴様がその子を連れ出してからすぐに。私は以前からずっと、ずっとお前を追っていた。」

「私を追っていただと。まさか昨晩、千寿で男の目を潰して殺した犯人も、お前なのか?」
「そうだ。お前が奴を放してやった後、目を潰して殺した。」

 ウツミは頭に血が上ってくるのを感じた。握りしめた左の拳から、血が流れだしている。ふと左手を見ると、手の甲の皮が薄く剥がれ落ちていた。

 ウツミは息をすぅっと吐くと相手に問いかけた。
「お前の名前は?」
「私の名はシグレだ。哀れなコーポスよ。」 

 シグレは一歩ずつ近づいてくる。その姿はまるで、屍を冥界へと導くカロンの様だった。
「シグレ。お前は間違っている。たとえお前が自分を抑えきれずに犯罪者を殺し回ったとしても、誰一人憎しみや悲しみが消えることは決してない。」
「犯罪者への復讐にかられることは私にとって、いや、私たちにとっては必要な事だ。なぜなら、その復讐心は強い生命力となるからだ。私には本当の貴様が見える。己のナルシズム、攻撃性、逃避性を偽る為に、マスクをかぶり自己犠牲を演じている。」
「お前はただの危険な快楽主義者だ。」

 シグレは指の間に挟んだ槍を、再びウツミへと標準を合わせる。ウツミは半身に構えるが、内心はシグレの攻撃に対して考えあぐねていた。恐らくシグレは、自分のいずれかの急所を正確に打ち抜いてくるだろう。

 だが、左手は痺れて使い物にならない。それに万が一、シグレがアリスを人質にした場合は手を出せないばかりか、アリスまでも傷つけかねない。

 シグレが足を止めた。もうまもなく突いてくるだろう、とウツミは思った。

 もとより、最初の一撃を受けてからはシグレの間合いだった。いつでも自分を殺せる間合いに入られてしまっていたのだ。ウツミの左手からは血の雫がポタポタと垂れていた。

「シグレ、戦う前に誓わないか?私は殺されても構わない。だが、アリスの命だけは助けてくれ。お前は母親を殺した。娘までは殺さなくてもよいだろう。」

 ウツミには殺される覚悟があった訳ではない。死にたくない。自分はいったい何を言っている。このままゆけば、アリスを人質にしそうなのは自分なのではないか。

シグレは構えをとったまま頷いた。
「解った。誓おう。」

 ウツミはマスクの中で目をつむっていた。恐怖による震えを抑えるのに精一杯だった。少しでも目を開ければ、あの切っ先が自分の心臓目掛けて向かってくる気がした。死にたくない。ウツミは頭が真っ白になりながらも、状況を打破する一手を絞り出そうとしていた。

 そのときだった。マスクの上から、唇に何かが当たった感触がした。

 ウツミが目を開けると、目の前にはアリスの顔があった。ウツミには初めて見る表情だった。

 氷の美貌を持つ彼女とは思えない、子供のような、あどけなさの残る表情にも見えた。しかし、それも一瞬だった。アリスはウツミの腰に手を回すと、刺すような視線のままにシグレを睨みつけた。
「ほら、殺してみなさいよ。今、私を殺さないと誓ったわよね。それに、貴女の心は見え透いているわ。貴女は他の犯罪者と同じ、残忍な殺人鬼よ!」

 ウツミはアリスにしがみ付かれたまま動けなかった。目も、口も、動かせなかった。
「命拾いしたな、コーポス。」
 ウツミがやっとの思いで正面を見たとき、シグレの姿はなかった。

 アリスの表情は変わらない、いつもの表情だった。初めて会ったときと同じ、思わず見とれてしまう氷の美貌だった。ウツミは何かを話そうにも、言葉が出てこない。
「今朝はごめんなさい、パパ。今夜、家に泊まらせてくれる?」

「ああ。家に帰ろう。」
 ウツミは声を絞り出した。

 二人は寒空の下、歩き出した。空には雪がちらつき始めた。

                        

                                                        【祭炎の章 完】

       

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