祭炎の章

胎児の頃より夢を見ていた。

 倒すべき悪も、無意識に。

 夢の中でみていた悪を、私は自分に塗った。

 仏像に金色を塗って荘厳さを増すように、悪にも装束が必要だった。悪である必要があったのだ。

 夢の中で、微睡のように母がいたことを感じた。私を腹に孕んでいた母ではない。もっと大きな、カラスの舞う谷の奥深くに、母はいた。

 母は私に言った。太陽を見るな、と。
 私は闇の中で答えた。太陽なんてない、何もかもが見えない。
 その後、母は言った、陽の光を信じてはいけない。貴方の見えるものは全てまやかしよ、と。

 だが、私は太陽を見た。黒く光る灼熱の陽は、私の目を焼き、皮膚を焼いた。

 陽は驚くほどのスピードで私を包み込み、やがて私と一つになった。太陽が私になったのではない。私が太陽になった。谷の奥深くから飛び立つとき、私は火を放った。

 目の前に広がる紅蓮の炎。かつて千年の栄華を誇った都だった。焔は広がり、全てを消し去る。
 「燃えろ。天を焼け。」

 開戦の祝い火に相応しい、豪奢な焔だった。
今夜、千寿の二丁目の路地で、シグレは男の目を潰した。

 三十代後半、サラリーマン風の男だった。聖夜に売春婦を殺し、犯した。

 シグレの怒りは執拗だった。シグレを女と見て襲い掛かった男の眉間を突いたあと、急所を打ち続け、目を潰した。

 この町はイカレてる、とシグレは思っていた。通りではマフィアやヤクザが薬と売春、児童ポルノの話をしている。一歩路地へ入ろうものなら、そこは完全なアンダーグラウンドだ。法律も何もない。人が一人消えたって誰も気にはしない。多くの警察官は賄賂で生計を立て、行政機関の上層部までもマフィアとの癒着で成り立っている

 シグレは、やや苛立った様子で靴音を鳴らした。
「いい加減、姿を見せたらどうだ。イザヤ。」

 姿は見えない。だが、この狭い路地の片隅に、いつも彼はいる。
「私の面相など、お目汚しになるだけかと。」

 シグレは一呼吸置くと、黒のロングコートの裏からタバコを取り出し、火をつけた。

「イザヤ。あの男も違った。お前の予言は当たった試しがない」

「ですが、貴方が出会うべき男でもありました。」

「どうかな。私にはそうは思えないが。」

「ですが、貴方は私の予言を信じて下さる。故に、貴方の従者となったのです。」

「従者のお前の予言を信じて、私は痛い目を見たこともある。」

「ええ。存じております。ただ、予言とは転ばぬ杖ではなく、道を指し示すものです。」 

 シグレは、従順なようで物怖じせず言葉を発するこの男を嫌いではなかった。

 付き合いはそれほど長くない。半年ほど前、腐臭が漂う浮浪者同然だったこの男にパンを渡し、いくつか言葉を聞いただけだった。

 だが、時折気付かされることを言ったり、妙な「予言」に振り回されたりもする。それでも、良くも悪くも正直なこの男は嫌いではなかった。

 シグレは腰を下ろし、白い息を吐いた。
「イザヤ。お前の前のご主人はどんな奴だった」

「前の主人などおりません。私の予言を初めて信じてくださった、貴方が、私の初めての主人です。」

「私がお前の予言を信じなくなったら、お前はここから立ち去るのか」

 イザヤは何も話さなかった。シグレはコートの裏から金ボタンとシルバーの腕時計を取り出すと路地の片隅に放った。
「お前の取り分だ。あと、何か面白い話をしろ。」

「では、エサウとヤコブの話を」

「それはもう聞いた。」

「わかりました。では」

 イザヤは静かな口調で話し始めた。




 むかしむかし、ある国の偉大な王が、荒廃した聖地を治めていた時代。

 とある予言者の子が神々の召令を受けました。その子は玉座に座る主を見ました。

 主の衣の裾は長く、床一面に広がっていました。玉座の近くには六つの翼を持つセラフィム達が、それぞれ二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、残る二つの翼を羽ばたかせて飛び交っていました。

 セラフィム達は歌いました
「聖なる神よ。万軍の神よ。地に満ちたその栄光よ。」

 歌声に神殿は揺れ、煙が満ちた。子は畏れて言いました。
「これは天罰に違いない。汚れた私が、この眼で主を見てしまったから。」

 するとセラフィムが一人近づき、祭壇の火皿からとった焚いた炭を、子の唇に触れさせ、言いました。
「罪は贖われた。」

 そのとき、子は神の声を聴いたのです。神は言いました。
「誰を送ればよいだろう。誰が我々に代わり行ってくれるだろう。」

 子は答えました。
「私がおります。私を遣わせてください。」

 神は言いました。
「行くがいい。そしてお前はそこの民に言うことになる。聞いても聞いても解ろうとはしない。その眼を見てもなお、悟ろうとはしないと。」

「それはいつまで。」
 神は嘆息して言いました。
「街が崩れ、人が消え、砂漠となって果てるまで。」




 話を終えると、イザヤの気配は無かった。

 いつものことだった。話を終えたときには勝手に煙のように消えてしまう。シグレが予言に振り回されているように感じる理由の一つだった。

 シグレはもう一本タバコに火をつけた。
「この前の予言の意味、聞きそびれたな。」

 シグレは煙を吐くと、路地裏の奥に向かって歩き出した。
 目覚めてからずっと視界がぼやけていた。

 窓から差し込む日差しを浴び、ウツミは何度も目をこすりながら、パジャマ姿のまま台所に立った。

 念入りに手を洗ったあと、冷蔵庫から卵を取り出し、銀のボウルに三個続けて割る。泡立たせないように白身を切るようにして混ぜる。砂糖と醤油と塩を加え、中火で熱したフライパンに、サラダ油を入れて、卵液を数回に分けながら流し込み、折りたたむ。毎朝の卵焼き作りは、彼の日課だった。出来立ての卵焼きを二つの弁当箱に詰め、茹でたウインナーを蛸の形に器用に切っていく。

「おはよう。パパ。」
 背中の声に振り向くと、紺色のブレザーに身を包んだ娘のアリスがいた。

「おはよう。アリス。ごめんよ。今、お弁当を詰めているから少し待っていなさい。」

「それはいいの、パパ。それより、大事なことがあるでしょう。」

 ウツミは包丁の動きを止めた。
「アリス。十八回目の誕生日おめでとう。パパは今夜、必ず早く帰ってくる。今年こそ、一緒にお誕生会をしよう。寂しい思いはもうさせない。ママも、きっと天国から、」

「違うでしょ。」
 ウツミは急に、背中越しに感じるアリスの目線が鋭く、刺すような感じがした。

「違うでしょ。お金。あと五十分で次のシフトなの。早くして。」

 頬は熱を持ち、後頭部が疼いた。鼓動は早くなり、うまく喋れなくなる。ウツミは包丁をまな板の上に置くと、弁当箱の隣にある白い封筒をアリスに渡した。受け取った封筒の中身を確認し始めたアリスを見つめていると、不思議と視界は明瞭となり、紙幣の枚数を数える際の動く指の先までよく見えた。

 「ピッタリね。ありがとう。そういえば次、違う子が来るから。私この仕事さ、今週一杯で辞めるの。」
 アリスは封筒をグレーの鞄に入れると、ドアに向かって足早に駆けていく。

「いってらっしゃい、アリス。お弁当は。」

「いらない。じゃあね。変態さん。」
 ドアはゆっくりと閉まった。

 ウツミは無表情のまま立ち尽くしていた。なぜ、どうして。疑問だけが頭の中でグルグルと回っている。昨晩のアリスを思い返しても、特に変わったことはなかったように思えた。

 アリスはいつもの表情だった。ぬぐい切れない悲しみを冷徹さで隠す顔。

 彼女に親族はいない。中学を卒業してから上京し、自分と会うまでの一年間何をしていたのか、いつ、何が今の彼女を作ったのかウツミは知らない。だが、彼女の中で何か大きな失望や、挫折を味わったのではないか、とウツミは思っていた。

 切りかけのウインナーはそのままに、ウツミはリビングに向かうと椅子に腰を下ろした。

「アリス。何故だ。」

 昨晩は千寿駅の改札前で待ち合わせ、共に食事をし、そして共に夜を過ごした。

 寝台に横たわり、乳房を掴み、唾を混ぜ合わせ、精を放った。アリスの氷のような美貌が、艶めかしさを帯びて溶け出す一瞬がウツミは好きだった。

 今に思えば、昨晩の彼女はいつもに比べて扇情的だったとウツミは思った。

 昨晩、精を放ったあと、アリスが体液で濡れたところを舌で舐めとっていたことを思い出したとき、ウツミは気付いた。アリスが自分の躰に覆いかぶさっていた際、上を見ると彼女の表情があった。あのとき、アリスの顔から自分の躰に垂れたのは、自分の放った精でも、彼女の淫水でもない。涙だった。

 あのとき、アリスは泣いていた。

 どうして今頃になって思い出したのか。ウツミは椅子から勢いよく立ち上がるが、床に足を滑らせ、危うく前のめりに倒れそうになった。
「アリス!」

 ドアに向かって叫んだ。が、返事はなかった。ウツミは台所も放ったまま、着替え支度を始めた。

 今年になってから風俗店絡みの犯罪は以前の五倍以上にも増加している。法外な金を渡し、倫理に反した行為をさせる、という話も聞いていた。昨日も、売春婦が二人殺された。
「アリスが、危ない。」

 私が守らねば。会って伝えなければ。命を狙われている、と
 午後二時三〇分。アリスは柏松駅の南口から歩いて二十分の喫茶店にいた。

 柏松駅は千寿駅から二駅ほど離れており、北口は繁華街だが、南口は閑静な住宅街である。

 店内の最も奥の席に座りながら、今頃職場ではどうなっているか、とアリスは考えていた。今の職に就いて一年と一カ月、一度も欠勤や遅刻はなかったし、無断で休むと厳しいペナルティもあった。

 昨日、アリスは最期の仕事に向かう前に辞職届を提出した。今すぐには答えられない、と店長には言われたが、アリスは今すぐにでも辞める気ではあったし、ウツミと別れてからはスマートフォンの電源も切ってある。

 ただ、自分が勝手に辞めたところで何も変わりはしない、とも思っていた。自分の代わりの子は何人もいる。今大事な事は、この町から出ることだった。

 だが、その前に会わなければならない人がいる。母だ。出来れば二度と会いたくはなかった。自分が小さい頃に、父親と共に妙な宗教に入って以来おかしくなってしまった。それでも会わなくてはならない。

 注文したレモンティーを飲みながら、ふとウツミの事を思い返していた。

 変な客だと思った。子供のように乳房を吸うときもあれば、髪や頬を撫でるときは恋人のように自分を慈しんでくれた。朝起きたときの表情は本当の父親のそれに見えたこともある。

 一年近く続いた彼との家族ごっこは嫌いではなかったし、本当に愛してくれていると思うときがあった。ただ時折、彼にとっての自分が、どんな存在なのかを気にしてしまい、自己嫌悪に陥ったこともある。

 私と彼は従業員と客、それ以上の関係ではないと自分に言い聞かせていた。きっと今後も、彼は新しく来た子を同じように愛するに違いない。

 だって、彼は優しい人だから、そうアリスは思ったが、どこか心が軋むような感じがした。

 ふと見上げると、店内の時計が鳴った。午後三時。指定された時間だった。

 同時に、店の入り口がすぅっと開き、母ともう一人、知らない男が入ってきた。

 男は二十台後半から三十代前半、サラリーマン風の容貌だった。

 二人は自分の顔を確認すると、気持ちの悪い笑みを浮かべて名前を呼び、向かいの席に座った。
「サキちゃん! 久しぶりね。もう二度と会えないかと思ったのよ。」

「もうその名前は呼ばないで。それに、縁を切ったのはそっちでしょ。私は二度と会いたくなかったのだけれど。」

 サキ、とは自分の本名だった。冷たく突き放す言い方をしたつもりだったが、母はまったく動じていないようだった。
「あの時は本当にごめんなさい。お父さんも私も、冷静じゃなかった。けど、あれから沢山、沢山後悔したわ。貴女のこと、もっと考えるべきだったって。」

「私のこと付け回してよく言うわね。職場にも電話するなんて。」

「仕方がなかったの。貴女が無事かどうか確かめるために。貴女がいなくなって二年間、無事を祈ってずっと探していたわ。タガワさんのところ、カケガワさんのところ、それに、ニイミさんのところも。」

「ちょっと待って。ニイミのところにも行ったの?」
「行ったわ。貴女に会えると思ったから。」

一瞬絶句したアリスは、すぐに母を氷のような視線で睨みつけた。
「信じられない。どうしてそんなことをするの。」

「貴女のためよ。それと、どうしても貴女に会わせたい人を連れてきたの。」
 母は隣の男を指して言った。男はアリスを見ると、丁寧に会釈をした。
「ナガノといいます。教会では司祭の職に就いています。」

 司祭、という言葉を聞いて、アリスは眩暈に似た感覚に陥った。やはり何も変わっていない。アリスそう思うと、鞄を手によろめきつつ席を立った。
「いい? 私がここに来たのは、二度と私に関わらないで、って言いたかったの。でも、これじゃまるで犯罪よ。私、警察に行ってくるから。」

 アリスが扉の前に行こうとすると、それまで店員と客だった人々が、一斉にアリスの周りを囲んだ。五人以上はいた。

 皆、目に宿る色が母と同じに思えた。すぐに口を押えられ、腕を掴まれて動けなくなる。手を剥がそうと必死にもがいていると、段々と意識が朦朧としてきた。

 飲み物に何か入れられていたのかもしれない。アリスは薄れゆく意識の中で母の声を聞いた。
「貴女の為なのよ。サキちゃん。」
 目の前は光に包まれたように白くなり、意識は遠のいていった。
 イザヤはいつも通り饒舌だった。

 まるでツァラトゥストラのように、時に自問自答し、時に詩を歌い、予言とも虚妄ともつかない言葉を情熱的に話し続けている。

 午後二時頃にシグレがイザヤの元に訪れてから、既に四時間が経っていた。

 辺りはすでに暗くなり、昼に買ったハンバーガーもすっかり冷えてしまっていた。自分は世界一の聞き上手とも言われてもよいとシグレは思った。

「よいですか。自分の宿命に敏感な者は、その宿命をどう表現するかに関心を持っています。死活を賭けた選択問題が自分において発生するように、自分の生を追い込んでいくのです。」
「まるで、自然に死ぬことを嫌がっているみたいだな。」

「その通りです。自然な死の一本道に入ってしまったとき、既にそれは死といえるのです」
「ふむ。少し話を戻すが、その宿命を自覚するときはいつだ。」

「一つは自分の精神の展開力が限界を迎えたときです。その際に、自分の精神は軌跡を辿った末に終わらざるを得ないと了解したという意味で宿命を自覚します。二つ目は肉体が死に直面する場合です。どういう形態の死を選び取るかという決断の中に宿命を自覚するのです。」
「死の選択が宿命を形容している、ということだな。」

 シグレは、紙袋から冷えきったハンバーガーを取り出すと、イザヤに向けて放った。
「イザヤ、まだまだ話足りなさそうだが、そろそろ時間だ。」

 相変わらずイザヤの姿は見えないが、受け取ったハンバーガーにすごい勢いでかぶりついている様子だった。
「今日もまた、売春婦が消えた。それも未成年だ。所在が知りたい。」
「承りました。」

 イザヤはごくん、と喉を鳴らした。

「拒否され、ざらついた言葉の真実に直面させられ、赤い屍は彼女にはないものを贈るでしょう。鳥像の近く、青々とした風蝶木の蕾の壁で。」

「柏松公園か。だが、彼女は生きているのか、それとも死んでいるのか。」

「貴方のご判断次第でしょう。」

「解った。急ぎ向かうことにする。」

 消えた少女は、まだ未成年だったらしい。

 十五歳のときに両親と絶縁して仙台から上京し、「職場」で寝泊まりをしていたと聞いた。

 自分にはどうでもよかった。被害者を救うことなんて微塵も考えていない。だが、シグレには会いたい男がいた。彼はそういった現場に来る。

「いってくる。イザヤ。」
 イザヤは、もういなかった。
 目が覚めたとき、アリスは寝台の上にいた。

 上体を起こそうとするも、身体は鉛のように重く力が入らない。

 目で周りを見回すと、天井には裸の電球が一つぶら下がり、打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた二間四方の部屋だった。カビのような、果物が腐ったような匂いがする。一方に鉄格子がなされ、奥には人らしき影が見える。

 アリスは、自分が置かれている状況を反芻した。自分は喫茶店にいた。そして眠らせられて此処にいる。もう一度部屋を見回して、助け出された訳ではないことはすぐに理解した。

 声をあげようにも、奥にいる人々は母の「友人たち」であるだろうし、自分が目覚めたと知れば何か、おぞましい事をしてくるようにアリスは思えた。

 今は寝ているフリをして逃げるチャンスを待とう、と思ったとき、鉄格子に近づいてくる足音が聞こえた。

 アリスはほんの少しだけ目を開けると、鉄格子の前には、金色の牛の面を被り、男根を露出した男が剣を持って立っていた。アリスの身体は思わず本能的に動いてしまっていた。

 このあとに、自分に降りかかる最悪の事態が頭をよぎった。

「おはよう。サキちゃん。」
 母の声がした。よく見ると、牛の男の後ろに母らしき影が浮かんでいる。薄目で見ると母ではない、何か異形の者に見えた。

「これは何?この男が私をレイプして、一体何になるというの?」
「あなたの為なのよ、サキちゃん。そして私たちの為でもある。みんなで、いつまでも幸せに暮らすには、これが一番良い方法なの。」

 アリスは鉛のように重い身体を引きずるように後ずさるも、身体が思うように動かない。牛の男が鉄格子に手を掛けると、勢いよく開け放った。そして、アリスを黒い瞳で見詰めた。
「どうか怖がらないでください。私も彼女も、貴女と共に生きたいだけなのです。」

 牛の男から発せられたのは司祭の声だった。牛の男は剣を床に置くと穏やかな口調で語り始めた。

「私は二カ月ほど前、貴女の夢を見ました。光の届かない荒れ果てた大地、いずこから聞こえてくる叫びは、嵐の日に逆風に叩かれて海が発する轟きに似ていました。地獄の颷風は、小止みなく亡霊の群を無理強いに駆り立て、こづき、ゆさぶり、痛めつけていました。私はその群のから離れた場所に、貴女を見つけました。貴女は血みどろの屍に支配され、自由を失い、時に内蔵を食い破られ、時に皮をはぎ取られ、そして、時に局所を愛撫され、噴き出した淫水を身体が干からびるまで吸い尽くされていました。私は感じました。貴女は性と暴力が支配する心の牢獄にいる、と。夥しい屍達が、自らの情欲の為に貴女を牢獄の中に入れたのです。」

 狂っている、とアリスは思った。

「愛するとは、若く美しい者を好んで手に入れたがったり、自分の影響下に置こうとするものではありません。愛するとはまた、自分と似たような者を探したり、嗅ぎ分けたりすることではないし、自分を好む者を好んで受け入れることでもない。愛するとは自分とは全く正反対に生きている者を、その状態のままに喜ぶことです。自分とは逆の感性を持っている人をも、その感性のまま喜ぶことであり、目の前の人間を、一人の人格として受け容れることです。故に、」

 牛の男はアリスの前に膝を付いた。

「私は貴女を、貴女一人の人格を愛します。決して肉体的な形状にではありません。貴女だけを、貴女その人を愛します。」

 牛の男の行動にあっけにとられていたアリスだったが、すぐさま鋭い目線を牛の男の黒い瞳へ向けた。アリスの眼には、氷の様な冷たさがあった。
「嫌だ。私は牛のお面を付けた変態さんに求婚される覚えはないわ。それに、女性の口説き方くらい、少しは勉強した方がいいと思うよ。」

 牛の男もじっとアリスを見詰めた。睨み合ったまま沈黙が流れた。

 アリスにとっては長い長い沈黙だった。仮に襲いかかってきたときは、身体は動かずとも、たとえ殺されても、目の前の男根を食いちぎってやる、とばかりに睨み付けた。そのときだった。


「誰だ!」
 鉄格子の外から男の声がした。直後、男の短い悲鳴と共に肉がひしゃげる音がした。

 アリスが外に目を向けると、一つの影は右へ。もう一つの影は左へ。鉄格子の外に見えていた影は、人形のように次々と弾き飛ばされていく。アリスの母とみられる影も既になかった。  

 そして、一人の影が闇の中から現れ出でた。
「現れたか。残虐なコーポスめ。」

 牛の男は床に置いた剣を拾うと、闇から出でた者に剣先を向けた。
「彼女を迎えに来た。」

 アリスには聞き覚えのある声だった。影が牛男に迫るたびに、徐々に光に照らされてその姿が見えてきた。

 それは、角の生えた赤い髑髏の頭だった。首から下は白いレザージャケットを羽織り、灰色のレザーパンツのいで立ちだった。

 牛の男はその場で剣を振りかぶった。剣の長さはやや短く、室内で取り廻すには使い勝手のよさそうな剣だった。そして、男までの距離をじりじりと詰めていく。

「すまないアリス、遅くなったね。迎えに来たよ。」 

 一瞬だった。牛の男が剣を振り下ろすと同時に、髑髏の男は左足で地面を蹴り一気に距離を詰めると、牛の男の鳩尾に右の拳を突き入れた。

 にぶい音と共に牛の男の背中がぴくっと痙攣した。髑髏の男が拳を引き抜くと、牛の男は剣を落とし、よろよろと前のめりに倒れていた。

「アリス。」
 髑髏の男に見つめられたアリスはただ茫然としていた。

 喫茶店で眠らされてから現在までの記憶を、頭の中で何度も反芻していたが、現実ではない、悪い夢を見ている気分になっていた。それに、目の前に立つ髑髏の男は本当に自分が知る『彼』なのか。

 考えが頭の中でぐるぐると回り始め、強烈な眩暈と共に頭の奥からズキズキと疼くような痛みに襲われた。 身体は今も鉛のように重く、ただ髑髏の男の真っ黒な目を見つめ返すしかなかった。

「おそらく薬を飲まされたのだろう。大丈夫。少し目を閉じていなさい。」
 髑髏の男は手を伸ばすとアリスの瞼をゆっくりと下ろした。

 意識は段々と遠のいていく。横に抱き上げられる感覚と共に、アリスは再び夢の中に落ちていった。
「常に酔っていなければならない。

それこそは一切、それこそ唯一の問題である。

汝の両肩を圧し砕き、汝を地面の方へと圧し屈める。

怖るべき時間の主に感じまいとならば

絶えず汝を酔わしめてあれ。

さらば何によってか?

酒に酔って、詩によって、はた徳によって、

そは汝の好むがままに。

もし時として、

宮殿の石階の上に、濠端の緑草の上に、或いは室内の陰鬱なる孤独の中に、

汝が目覚め、既にして陶酔の去って消えゆく時、

かのすべて過ぎゆくもの、嘆息するもの、流転するもの、歌うもの、語るもの、

風に、浪に、星に、鳥に、大時計に、問え、

今は何時であるかと。

その時、風と浪と星と鳥と大時計とは汝に答えるであろう。

今こそ酔うべき時なれ!

虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちらざるために、

酒に酔って、はた徳によって、

そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ。」


 数えきれない星の下で、イザヤは詩っていた。

 薄汚く狭い路地の奥、影の間の影にイザヤはいる。

 北の空に赤く光る凶星が、南へ一直線に流れていくのが見える。

「酒に対しては当に歌うべし、とあるが、酔うほど楽しいことでもあったか?」

 旧友の男が話しかけてきた。イザヤは酒瓶を地に置くと、闇の中から現れ出でた。男は以前より太っているように見えた。

「酔わずにはいられない。そして、貴方もまた美酒に酔っている。」

「イザヤよ。我は昨夜星を見た。すると、北に赤き凶星は瞬き、銀の虹が掛かっている。西に白き星が生まれ、東の碧き星は死んだ。我にとって、これは吉となるかを知りたい。」
「貴方にとっては関わりのないことでしょう。それに、貴方の星は、他の群星と群がらない。貴方は貴方自身の手で天に輝く。」

「ああ、お陰で安心した。」
 男はふふっと笑うと、胸から純金製のネクタイピンを外し、イザヤに向けて放った。

「また、来てもよいか?」
「来ないで戴きたい。私には新しい主人がおりますから。」

「我はお前を捨てた訳ではない。あれはほんの行き違いだ。我には、お前が必要だ。」
「帰ってください。今の主人に見られては、私は仕置きを受けてしまいます。」

 男は微笑んだようだった。そして背を向けると、言った。
「聞け、イザヤ。お前が言った通り、我は我自身の手で事を成し遂げるつもりだ。そして、光を照らし、闇を消し去る。我が望む世界はお前のような者の類が生きられぬ世界だ。」

 旧友は去った。イザヤは酒瓶を片手に詩いだした。


「ご覧、その時が来る。
茎を震わせて香炉の中で花たちは芳香に変化する。

音と薫りが夕暮れの空気の中で回る憂鬱なワルツと憔悴の眩暈となって。

香炉の中で花たちは芳香に変化する。

ビオロンは苦しむ心のように震える。

憂鬱なワルツと憔悴の眩暈となって。

空は巨大祭壇のように悲しく美しい。

ビオロンは苦しむ心のように震える。

柔らかな心は広大な虚無と夜を嫌い、空は巨大祭壇のように悲しく美しい。

そして太陽は血の中に溺れて固まる。

柔らかな心は広大な虚無と夜を嫌い、まばゆい過去が全ての足跡を集める

そして太陽は血の中に溺れて固まる。

僕の中の君の記憶は聖体の皿のよう。」
 本当は殺してしまいたいほど、ウツミは憤っていた。

 アリスを傷つけた彼らを許したのは彼女の為でもあり、自分の為だった。

 柏松公園のベンチの上で、横向きに眠っているアリスの寝顔を見るたび、ウツミの頭の中で彼らへの怒りが沸々と湧き上がってくる。

 だが、自分は人を殺さない。クライムファイターになる以前から誓っていた決め事であり、失った者たちとの約束だった。

 右手に持っていたマスクをベンチに置くと、そっと彼女の髪を撫でた。時折、ウツミは心を奪われたようにアリスを見つめてしまうことがあった。

 出された食事を見てほんの少し微笑んだときの表情。精を出した瞬間の一瞬の表情。そして今、月明かりに照らされるその横顔に。

 寒空の下、冷たい風が顔に当たる。遠くを走る車の音。木が、草が揺れている音。

 ここは普段から人の気が少ない場所だった。柏松公園は住宅街のはずれにある。空き地を利用して作られた公園で、昔は子供たちの人気の遊び場だったらしい。今ではすっかり子供の姿も消え、遊具の塗膜は剥がされて赤黒い錆が露出したままになっている。

 そして、今宵は一層の静けさだった。アリスは薬の影響か、疲れ果てたのか、ウツミのコートに包まったままぐっすり眠っている。この寒さの中で長くはいられない。このまま目が覚めなければ、家まで背負って歩いてゆこう、とウツミは思った。

 そのとき、ウツミは何者かが遠くからこちらを伺う、微かな視線を感じた。

 その者は、少しずつ距離を詰めて来ている。まるで獲物を狙う鷹のような静かで冷たい殺気。手練れだ。ウツミはとっさにマスクを付けると、眠るアリスも守るように立ち塞がった。相手は存在を気付かれたと感じたのか、東の方角から猛烈に早いスピードで近づいてくる。

 木が大きく揺れた。近づいてきた影は跳躍し、ウツミの喉元を突くように拳を突き出してくる。ウツミはとっさに上体を右に軽く傾けると、左手でそれを醸した。だが、相手の拳と触れた瞬間、左手の甲と人差し指に焼けるような熱と痛みを感じた。

 手に付けている革製のグローブは、手の甲の部分から一直線上に切り取られた。相手はそのまま後方に跳躍すると、ウツミから十メートルほど距離を取った。

 月明かりの下で、相手の姿がはっきりと見えた。顔にはカラスにも似たフルフェイスのマスク、黒のロングコートに黒のスキーニングパンツのいで立ちだった。

 握りしめた拳の指の間から十五センチほどの槍が出ている。体型は華奢に見えるが、動きの俊敏さから相当の訓練を積んだ相手のようにウツミには思えた。

「アリスを取り戻しに来たのか?」
「違う。それに、あの場所にいた連中は私が始末した。」

 女の声だった。

「あそこには、この子の母親もいたんだぞ。まさか、殺したのか?」
「殺した。一人残らず。貴様がその子を連れ出してからすぐに。私は以前からずっと、ずっとお前を追っていた。」

「私を追っていただと。まさか昨晩、千寿で男の目を潰して殺した犯人も、お前なのか?」
「そうだ。お前が奴を放してやった後、目を潰して殺した。」

 ウツミは頭に血が上ってくるのを感じた。握りしめた左の拳から、血が流れだしている。ふと左手を見ると、手の甲の皮が薄く剥がれ落ちていた。

 ウツミは息をすぅっと吐くと相手に問いかけた。
「お前の名前は?」
「私の名はシグレだ。哀れなコーポスよ。」 

 シグレは一歩ずつ近づいてくる。その姿はまるで、屍を冥界へと導くカロンの様だった。
「シグレ。お前は間違っている。たとえお前が自分を抑えきれずに犯罪者を殺し回ったとしても、誰一人憎しみや悲しみが消えることは決してない。」
「犯罪者への復讐にかられることは私にとって、いや、私たちにとっては必要な事だ。なぜなら、その復讐心は強い生命力となるからだ。私には本当の貴様が見える。己のナルシズム、攻撃性、逃避性を偽る為に、マスクをかぶり自己犠牲を演じている。」
「お前はただの危険な快楽主義者だ。」

 シグレは指の間に挟んだ槍を、再びウツミへと標準を合わせる。ウツミは半身に構えるが、内心はシグレの攻撃に対して考えあぐねていた。恐らくシグレは、自分のいずれかの急所を正確に打ち抜いてくるだろう。

 だが、左手は痺れて使い物にならない。それに万が一、シグレがアリスを人質にした場合は手を出せないばかりか、アリスまでも傷つけかねない。

 シグレが足を止めた。もうまもなく突いてくるだろう、とウツミは思った。

 もとより、最初の一撃を受けてからはシグレの間合いだった。いつでも自分を殺せる間合いに入られてしまっていたのだ。ウツミの左手からは血の雫がポタポタと垂れていた。

「シグレ、戦う前に誓わないか?私は殺されても構わない。だが、アリスの命だけは助けてくれ。お前は母親を殺した。娘までは殺さなくてもよいだろう。」

 ウツミには殺される覚悟があった訳ではない。死にたくない。自分はいったい何を言っている。このままゆけば、アリスを人質にしそうなのは自分なのではないか。

シグレは構えをとったまま頷いた。
「解った。誓おう。」

 ウツミはマスクの中で目をつむっていた。恐怖による震えを抑えるのに精一杯だった。少しでも目を開ければ、あの切っ先が自分の心臓目掛けて向かってくる気がした。死にたくない。ウツミは頭が真っ白になりながらも、状況を打破する一手を絞り出そうとしていた。

 そのときだった。マスクの上から、唇に何かが当たった感触がした。

 ウツミが目を開けると、目の前にはアリスの顔があった。ウツミには初めて見る表情だった。

 氷の美貌を持つ彼女とは思えない、子供のような、あどけなさの残る表情にも見えた。しかし、それも一瞬だった。アリスはウツミの腰に手を回すと、刺すような視線のままにシグレを睨みつけた。
「ほら、殺してみなさいよ。今、私を殺さないと誓ったわよね。それに、貴女の心は見え透いているわ。貴女は他の犯罪者と同じ、残忍な殺人鬼よ!」

 ウツミはアリスにしがみ付かれたまま動けなかった。目も、口も、動かせなかった。
「命拾いしたな、コーポス。」
 ウツミがやっとの思いで正面を見たとき、シグレの姿はなかった。

 アリスの表情は変わらない、いつもの表情だった。初めて会ったときと同じ、思わず見とれてしまう氷の美貌だった。ウツミは何かを話そうにも、言葉が出てこない。
「今朝はごめんなさい、パパ。今夜、家に泊まらせてくれる?」

「ああ。家に帰ろう。」
 ウツミは声を絞り出した。

 二人は寒空の下、歩き出した。空には雪がちらつき始めた。

                        

                                                        【祭炎の章 完】
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