Neetel Inside ニートノベル
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 保健室の先生は、いつも俺を邪魔そうにしていた。今ならわかる、仕事の邪魔だったのだ。俺は最後の避難口として保健室を選んで逃げ込んでいた。授業がつらくてつらくて、人生がつらくてつらくて、そんなときは保健室に行くものだと思っていた。だが、保健室の先生は優しくなんてなかった。給料に不満を持ち、休日の少なさに不満を持ち、生徒の迂闊な怪我に不満を持ち、そして生徒のくだらない悩みにうんざりしている、三十路そこそこの女に過ぎなかった。
 だから俺は適当にあしらわれ、悩みも最後まで聞いてもらえず、いつもベッドに寝かされて天井を見上げていた。外では楽しそうな連中の声が響いていて、俺を笑っているようだった。
 みんな死んじまえ、と思った。
 願いは、少しだけ叶った。
 いま、保健室の先生は、首元を大きく噛みちぎられ傾いた頭で俺たちを青白い顔で見つめている。瞳は赤いが、それは魔力でもなんでもなくただの鬱血だ。俺の隣で梓が小さく悲鳴をあげてしゃがみこんだ。

「金代先生……どうして……」
「気をつけて。まだ先生を噛んだやつがいるかもしれない」

 俺だってゾンビに噛まれたらどうすることもできない。殺されるのはごめんだ。慎重に保健室の中を見て回ったが、部屋の中心に先生が棒立ちしているだけで、何もいなかった。薬品棚は手つかずで残っている。漁ったところで、うがい薬でどうなる?

「音を立てるのは気に入らないけど……」

 俺が銃を向けると梓が俺の腕に飛びついてきた。

「ま、待って。先生を撃つのは待って!」
「どうして?」
「どうして、って……先生は……先生は……」
「優しかった?」

 梓はこくんと頷いた。
 俺は笑い方を忘れていたことを思い出した。
 確か、こんなふうに頬を動かすんだ。

「でも、俺には優しくなかったよ」

 撃った。
 銃声と同時に釣り糸が切れたように先生の身体が回転してドサリとリノリウムの床に倒れ込む。
 死人のくせに、血は甘いほどに赤い。
 俺のはきっと、黒いんだろうなとぼんやり思った。

 ○

「落ち着いた?」
「…………。うん」

 梓をベッドに座らせて、保健室の扉と窓に部屋の中の椅子やカーテンレールでバリケードを作って立てこもった。即席のセーフハウスだ。だが、いずれ血の匂いにおびき寄せられて大量に押し寄せてくるだろう。その前に逃げなければ。

「ひとまず学校を脱出しよう。そこから先は……病院か警察署かな。国道に出てひたすら逃げるってのもいいかも。いずれにしても、夜を越さなきゃ話にならない」
「……ねぇ、藤堂」
「なに」

 梓が青い目で俺を見ていた。その瞳が涙で緩み、ときおり薄くぼやけている。

「あたしたちって、なんで一緒なんだっけ」
「…………」
「あたしたち、学校で、文化祭の準備をしてて……そしたらいきなり、悲鳴が聞こえて……」
「拳銃を渡された」
「渡された? そうだっけ?」
「そうだよ」俺は梓を睨みつけた。
「それで? 俺たちはどうしたんだっけ?」
「それで……それで……あ、あたしはテルくんと逃げようとして……でも、テルくんは……」
「死んだ。ゾンビだったから」
「そ、そう……え? 待って……待って……」
「待たない。あいつはゾンビだった。殺すしかなかった」
「ち、違う。テルくんは逃げてきた……みんなで引っ張り上げて……噛まれてないって喜んで……なのに……あれ? どうして藤堂が……藤堂、いつから一緒にいるの? あんたは文化祭の準備、いなかったよね?」
「いたよ」俺は保健室の窓から外をうかがう。午前中の明るい日差しが校庭と何人かの人影に降り注いでいる。
「最初から俺と一緒だったんだよ、梓は」
「ち、がう……ちがう、あんたは、テルくんを殺した……テルくんを殺した!」
「……………………」
「こ、殺した……あたしの大事なテルくんを……あんたが……あ、あんたが……!」

 梓は立ち上がり、よろよろと拳銃を俺に向けようとした。目から大粒の涙が溢れ、その瞳はもう気高い青ではなく薄汚い汚物色だった。ただの焦げ茶、焼けた色。

「藤堂ッ! あ、あんたあたしを……!」
「都合が悪いんだよな」

 俺は静かに立ち上がって、梓に近寄った。あまりにもゆっくりとしたその動きに梓が反応できず(覚悟もできず)硬直している間に手を伸ばし、銃口を払って梓の首に手を伸ばす。
 細い枝のような首に指を絡めて、
 締める。

「ぐっ……エッ……?」
「いつもそうだ。いつもそう。俺にとって都合が悪いことばかりだ。……どうして思い出す? 忘れておけばいいのによ。それのどこが不満なんだ、え? 忘れていれば、俺と二人、どこまでも逃げられるじゃないか。こんな死人だらけの地獄で一人で生きていく気概もないくせに、どうして錯乱したりするんだよ? 少しは頭使って動けよ」
「ガッ…………はっ……と、うど……ぉ……」
「あいつを殺したのは俺だよ。だから何? どうせ死んだだろ、あいつじゃ。俺の邪魔者はみんな死ねばいいんだよ」

 ぐっと最後に、さらに強く締める。

「みんな死ねばいいんだよ」




 ○



 ぐったりした梓を、保健室のベッドに寝かせる。瞼を指で開けてみると、瞳がうっすら青く染まっていくのがわかった。寝息は静かだ。首には俺が締めたアザがある。それをそっと撫でてから、転がっていたスチール椅子を持ち上げて腰掛ける。
 どっと疲れた。
 左手に握る拳銃の重みがやけに応える。暴力のあとに待っているのは疲労と虚脱と満足感。俺は悪党にはなれない。疲れやすすぎるからだ。最後までやれない。いつだって。
 割れた鏡に、俺のやつれた顔が映っている――その目もまた、充血ではありえない、青。

       

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