深夜の嵐の中、屋敷中の灯は全て消えていた。

 蝋燭の火を頼りに、見回りの者が必死に屋敷内を往復しているが、電力の復旧には時間が掛かりそうだった。

 その暗闇の中、赤いカーペットが敷かれた長廊下を、足音を忍ばせながら歩く男がいた。

 男はこの屋敷の若き主だった。年齢は三十路の半ばを過ぎた頃で、上背がある。だが、バスローブ姿のまま、夜目を頼りに進んでいく彼は、高貴な身分に似合わず、どこか妖しげな雰囲気を醸し出していた。

 そして、ある部屋の前で立ち止まると、扉をゆっくりと開けた。

 室内は薄暗く、机の上にある一本の蝋燭が、微かに火を灯しているのみだった。

 男は息を潜めながら室内に入ると、部屋奥の寝台から聞こえてくる息遣いを頼りに、ゆっくりと歩み出した。

 一歩ずつ近づいていくごとに、聞こえてくる息遣いは甘美さを増し、彼の心を高ぶらせた。

 そして、寝台の側にたどり着くと、その端に腰を下ろした。

「なんと、美しい。」

 寝台に横たわっているのは、白いランジェリーを着た、長い黒髪の女性だった。年齢は二十歳を超えているものの、その透き通る白い肌は、あどけない少女を思わせる。

 彼女とは、その日の昼間に出会ったばかりだった。数日間、部屋を貸して欲しい、という頼みだった。彼女はきりっと整った目鼻立ちに、何者をも寄せ付けない気の強さを感じさせる瞳を持った女性で、会ってすぐに、屋敷の主である男の心を射抜いた。

 黒髪をそっと撫でると、彼女の身体がぴくりと動いた。

「本当は起きているのだろう?」

 男は彼女の首筋に手を当てた。

 白い肌の下に流れる血の温かさが、指を通して伝わってくる。

「私が来るのを待っていたのだろう? 厭らしい子だ。さあ、もっと私に、その姿を見せておくれ。」

 指先をそっと、首筋から鎖骨の窪みまで滑らせいくと、少しずつ彼女の吐息は熱を帯びたものになっていった。

「君は美しい。昼間に君と出会ったとき、私は目の前に、愛の神アフロディーテが現れたのかと思った。それは一瞬、神々が私を幻惑しているのかと錯覚する位に。しかし、君は違った。神を恐れず、運命に惑わされないその眼。その瞳が私を魅了したとき、これは運命だと感じた。神々が私と君を引き合わせたのだ。さあ、共に愛を享受しよう。」

 やがて指先が胸元近くに伸びたとき、男は突然、鳩尾に重い衝撃が加わる感覚を覚えた。

 まるで重い鉄棒を突き入れられた様な、内臓が激しく軋む感触。

 あまりに突然の痛みに、思わず膝をついた。

 次の瞬間、顎に猛烈な衝撃と、焼ける様な痛みが加わり、男の身体は宙に舞っていた。

 宙で一回転した男の身体は、部屋の壁に思い切りよく叩きつけられ、音を立ててその場に崩れ落ちた。

「いい加減、鬱陶しいぞ! この助平野郎!」

 痛む鳩尾と顎を押さえながら男が顔を上げると、目の前には蝋燭の火に照らされた彼女がいた。まるで塵を見る様な眼で見降ろされ、男は肌が泡立つ感覚と共に、一種の高揚感を覚えた。

「痛いぞ。だが偶には、こういった類も良いものだ」

「まったく。地元の名士と聞いて来てみたら、とんだ色魔だな。」

 男が身体を起こそうとしたとき、視界の端から、白髪交じりの初老の男がぬっと顔を出した。

「だから言っただろう? ケンジ。その娘に手を出したら痛い目にあうと。」

「聞いたさ、コバックス。だが、余りに美しい娘だったから。」

 コバックスと呼ばれた男は呆れた様に笑った。

 白いランジェリー姿の女性とコバックスは旧知の仲だった。

 今から十五年ほど前、本国東南の大都市である千寿で、コバックスは幼い彼女と出会った。

 女の名はシグレと言い、糞尿塗れの襤褸を被って彷徨っていたところを拾い、殺しの技術を叩きこんだ。やがて、コバックスはシグレの元から去ったが、二年前に千寿を訪れた際に、一流の殺し屋となっていた彼女と再会を果たした。

 その後、千寿全体を巻き込んだ抗争の末、シグレは行方不明となっていたが、今日の昼間に、雨を避ける為に来た彼女と再び出会った。

 シグレは露骨に嫌な顔をしていたが、コバックスにとって再会は嬉しい出来事だった。

「許してやれ、シグレ。この男は見ての通り好色でな。気に入った相手にはとことん執着する悪癖がある。」

「師よ、なぜこんな男に雇われている。」

「金払いが良いからな。それに、ニイミ家の飯は美味い。」

 コバックスはここ一年ほど、名家であるニイミ家に雇われていた。当主のニイミ・ケンジは紳士の面を付けたサディストで、よく妾に逃げられるばかりか、その強欲さが災いして他所から恨みを買われている事が多かった。

「しかし、シグレにまで手を出すとは恐れ入ったぞ。この娘が本気なら、今頃お前の首に穴が空いている。」

「分かっている。それを今、身を以て感じているところだ。」

 ケンジは真っ赤に腫れた顎を擦りながら起き上がった。

「どうだ、シグレ。此処にいる間、私の依頼を聞いて貰えないだろうか?」

「情交の依頼なら断る。それ以外であれば、報酬次第だな。」

「勿論、金は弾む。最近、この近辺のヤクザとトラブルになってね。問題を解決して欲しい。」

「悪くない依頼だ。情報を教えろ。」

 ケンジはこほん、と咳払いをすると、窓際の椅子に腰を下ろした。

「相手は両豪組といって、組員数は三十人前後。人身売買、地上げや密輸なんかを行っている、何でもありの日系ヤクザだ。ニシダという名の組長がいるのだが、その妾にうっかり手を出してしまってね。脅迫の電話や手紙が鬱陶しくて堪らない。」

「まさかと思うが、その妾まで拾ってこい、などと言わないだろうな?」

「察しがいいね。名前はアカリだ。無事に連れて帰れば、報酬は倍の額を支払う。」

 シグレは苦笑いを浮かべると、寝台へ仰向けに飛び乗った。

「依頼を受けよう。明日の夜から、枕を高くして眠らせてやる。」

「心強い言葉だ。頼りにしているよ。」

 ケンジは腰を上げると、コバックスと共に、足早に扉の外へ出ていった。

 部屋の中には、窓に打ち付ける雨音が木霊していた。