ニイミ邸内には、開けてはいけない一室がある。
其処には禁断が満ち溢れ、屋敷の主であるケンジに許された者以外、入る事も、知る事も許されない。
朝陽が昇る前、シグレはアカリを連れてきた。
アカリは白布一枚を羽織り、その目は、まるで遠くを見ている様だった。
報せを聞きつけたケンジは大いに喜び、表情を失くしたアカリの手を取ると、真っすぐ其の部屋に入っていった。
一度気に入ると、何処までも執着する事はケンジの悪癖だった。
以前は十二歳の義理の弟にまで情欲の対象とし、日々、その部屋で苛烈な責めを加えた。
ある時、不憫に思ったコバックスが密かに救い出したとき、その姿を見て、思わず息を呑んだ。
肩まで伸びたベージュの髪、マリアのような目顔の形。ビーナスのような瞳。可憐さを帯び、その佇まいは男をひきつける所があった。白肌の至る所に付いた汚れや痣は、より扇情的な美しさを増した。
コバックスは屋敷内のクローゼットから、その少年のサイズに合った服装を見繕うと、食料と水を渡して、外へ連れ出そうとした。
だが少年は首を横に振った。
何処に潜んでいようと兄は草の根を分けて必ず探し出す、と少年は言った。
知恵を絞った結果、コバックスは本国北端の地へ行く様に行く事を勧めた。其処には独立都市があり、決して市民を引き渡さないという。
やがて、その美しい少年は北へ向かった。無事に辿り着けたかは分からないが、強き天命の元に生まれている事を祈るしかない。
コバックスはソファーに座ると、煎れ立ての紅茶に口を付けた。そして、招かれたシグレが目の前のソファーに腰を下ろしたとき、室内でケンジの咳払いが鳴った。
「昨晩はご苦労だったな、シグレ。アカリが生きたまま手に入るとは思わなかったぞ。」
「彼女が選んだ事だ。それに請け負った以上、報酬分の働きはするつもりでいる。」
「それにしても素晴らしい仕事ぶりだ。お前に匹敵する殺し屋などいるまい。」
コバックスは苦笑いを浮かべた。ケンジは他人に何かを頼むとき、必ず相手を褒めて機嫌をとる。然も、その程度が大きいほど依頼は過酷になる。
「その気なら、もう一つ依頼を請け負ってくれないか? 報酬は前回の二倍を払う。」
「私はもう発つぞ。ここに居る気はない。」
シグレは仏頂面のまま、紅茶に口を付けた。ワタリガラスは決して一つの場所に留まる事はない。各地を巡り、季節の変わり目を人々に伝える。
「勿論、君が場所に縛られる事が嫌いなのは知っている。それ故に、この依頼を請け負って欲しい。」
「どんな依頼だ?」
ケンジは襟元を正すと、机に両肘を立てて寄りかかり、両手を口元に寄せた。
「私の腹違いの弟、ニイミ・ユウを探して欲しい。年齢は十三歳。ベージュの髪色に、男とは思えない美貌を持っている。彼は北端の都市、幌舞にいるらしい。」
「場所が分かっているなら、自分で探しに行けばいい。」
「そうはいかない。幌舞は塀に囲まれた独立都市だ。更に、何があろうとも、市民を引き渡さない。」
「塀に囲まれた都市か。まるで監獄だ。」
「世界一安全な監獄と言っても良いだろう。かつては開拓民によって拓かれた平地で、自然豊かな土地だったらしい。だが、都市の発展と共に周辺の森林を伐採し続けた結果、人々は山から現れる獣達からの危機にさらされた。それらを防ぐべく都市の周囲に防壁などの広大なバリケードを建てたが、それが元で閉鎖された都市となった。」
「幌舞には政府があるのか?」
「現在は、地元の盟主であったツユキ家が支配している。都市内は高水準の秩序が保たれているという。逃亡者にとっては、まさに楽園といっても良い。」
シグレは腕を組むと同時に俯いた。やがて考え込む様に動かなくなった。
「報酬次第だな、ケンジ。弟が死んでいれば、私は無駄足を踏む事になる。」
「その時は死んだ証拠を持ってきてくれ。例えば髪の毛とかが良い。ユウの髪は間違えようがないからね。生きて連れて帰れば、十倍の報酬を支払う。」
「なら、依頼を受けよう。期待せずに待つ事だ。」
「君ならそう言ってくれると信じていた。気長に待っているよ。」
手を叩いて喜ぶケンジを横目に、シグレは席を立った。そして、黒いコートを棚引かせ、誰にも目を合わせる事なく部屋を出ていった。