「行くな、と言うのか?」
見渡す限り続く山々を見ながら、シグレが呟いた。
ケンジに、次の日の朝に発てばよい、と諭されたが、シグレは断った。
陽の下を通るのは避けたかったし、何より屋敷に留まり続ける事が嫌だった。
月灯に照らされた木々の影が、風と共に揺れ動いたとき、シグレの周囲にぽつん、と一つの闇が現れ出でた。
その闇は一か所に収束し、やがて一人の影となり、シグレの背後に立った。
「行けば、大難に遭うでしょう。」
「私が請け負った依頼だ。余計な事を言うな、イザヤ。」
「北端には白き凶星が幾々万と瞬いております。やがて銀狼が吼え狂い、哀れな道化が舞い踊り、朱に染められた大地は凍り付き、黒鉄の分割線を失った人々は、天を仰ぎ見る事でしょう。」
畏まる様子もなく、まるで音を奏でるように詠った男は、シグレの従者だった。
名をイザヤといい、不老の肉体を持ち、神出鬼没に現れては詩を詠う。
かつて若き日のゴンゾウに関心を抱き、影から力を貸していたが決別し、彼の元から去り、やがて千寿に舞い戻ったシグレと主従の関係を結んでいた。
「それほど騒がしくなるのであれば、早々に用事を済ませて帰って来れば良い。」
「黒糸の因果は貴女を縛り、牙を剥きます。」
「お前がそこまで言うのは珍しいな。だが、運命は私自身が決める。全ての神々にすら、変えはさせない。」
「かつて、貴女のお父上も同じ事を言われました。」
シグレは舌打ちを一度鳴らすと、満月の浮かぶ夜空を見上げた。
「イザヤ、私は何者だ?」
「貴女は命を刈り取りつつ、血しぶきの中を歩む修羅。世に蔓延る闇に血の代償を支払わせて、光を齎すのです。」
「そして、私もまた闇だ。ワタリ・ゴンゾウの様に、光となる事は出来ない。いずれ虚偽に覆われた世界で、私の実在は消え失せるだろう。最期の審判が訪れる、その日まで。」
イザヤは何も喋らなかった。ただ、シグレの背をじっと見つめるのみだった。
「私は、如何なる因果にも、妄執にも惑わされない。その為に何を成すかは、私自身が決める。」
「貴女はお父上に似てこられました。」
シグレの背後に立つ影は、逃げる様に霧散した。
月明かりに照らされたワタリガラスは、北の彼方に輝く星に向かって羽搏いた。
【雨夜の章 完】