手首の味

 姉が手首を切った。
病院からそう連絡があって、僕はまたかと思いながらタオルハンカチをジーンズのポケットに突っ込み、鍵束の収まったポーチを持ち、腕時計を巻き付けようとしてトイレに行きたいことに気がついた。
 これまでの装備を全部逆の順番で解いていく。頭の中で一工程ごとにctrl+zが押されていく。zを押しても手応えが無くなったことを確認して居間を出て、四歩半で便座に腰掛ける。身体から何かを排出することはctrl+zなのだろうか。手首から血液を出すことは。自分の人生を無に帰する行ないは。
 スマートフォンを手にしてブラウザを起動する。「ゆ」とだけ表示された検索窓。何を探そうとしていたのか、何をしようとしていたのかを思い出せない。指が無をなでて見知らぬページへ飛びかける。慌てて戻るアイコンを押す。また「ゆ」に戻る。どうしたものトントントン、ツーツーツー、トントントン……トントントン、ツーツーツー、トントントン……トントントン、ツーツーツと振動して、着信が割り込んでくる。病院からかもしれない。カード会社かもしれない。切ってしまえば関係はない。
 苛立ちは着信をやり過ごしたあとも続いた。スライドすれば着信を拒否することもできた。ただそのために指を動かすことさえおっくうだった。誰かに必要とされている孤独。マイナス方向へのパス。電話に出ることは被告人として出廷することに似ている。
 画面がゆっくり白んで「ゆ」の検索窓に戻った。僕は「ゆ」の文字を消し、avw.comと打ち込んで直接そのページへと飛んでいく。「痴女作品30%OFFセール」「電子書籍500円クーポン」「見放題ch 3000本以上7日間無料」「常にセール 最大60%」流れてくるバナー広告を眺めるともなく眺める。頭が思考を緩めはじめた。親指とペニスがいま検索すべき言葉を必死に探している。付けっ放しにしてある居間のコンパクトラジオから聞いたことのある洋楽が流れている。音楽検索アプリを起動しようと思ったが、音源から離れすぎている。一度探しあてたのだから、そう間を置かずにまた遭遇するに違いない。目を手もとに戻す。動画のページに飛び、セール中のAVを見繕う。親指だけが忙しなく動く。暇を持て余す身体。いついたずらに着信が遮ってくるかもわからない。緊張感の薄い膜がどうにも邪魔だ。
 かわいい顔の女優が映るジャケットの作品に突き当たって指が止まる。画像を拡大してみて、姉の名前に似ていることがわかり、縮小。ふたたび指を動かす。姉は美しい。美しいのに心が弱い。世の中には、見た目が美しいから心が弱いひとと、見た目が美しいのに心が弱いひとの二通りがいる。美しいことと心が弱いことに相関は無い。はやく誰かにこのずたぼろな理屈を論破して欲しい。そもそも自殺をくわだてることと心が弱いことすらもう僕の中ではイコールで結びつかない。姉は目を覚ましただろうか。
 ようやく好みの女優を、とはいえ、こんな混沌とした気分のなかで意識が好んだ顔なんて、そのほかのどんな場面の自分にも理解されない魅力なのかもしれない。リニアな人生から一瞬待避線に逃れたひとときを、実は大切に抱きしめていたい自分。ジャケット画像に指を強く押しつけて画像を保存した。一生残れ。押しつけた指が心なしか湿っている。脇にいやな冷たさを感じる。ひそかに汗をかいている。親指がジャケットに大写しになった女性器に触れている。普段の自分が見たら思いきり軽蔑するようなやり方で指をなめる。マスキュリンな自分と、人間である自分と、何者でもない自分が殺し合いを始めている。僕は彼らのために焚き木をくべつづける。
 射精は思っていたより満足感のある幸せなものだった。射精の本来性に立ち返ったみたいで、思わず自分が原理主義者になれた気がしてたまらなく叫びたくなった。雑念が入らずに射精に最短距離で向かえたのが良かったのかもしれない。しかし待望の原理主義者になれたといっても射精の原理主義者ではあまりにも空虚。姉と心中でもしなけりゃ立つ瀬がない。ペニスから精液をしごき出して便座から立ちあがり、流して手を洗って、ctrl+z。射出することも水の流れもすべて不可逆だ。無理矢理にctrl+zを押し続けて、いま僕が手を洗っているような狭い風呂場で、今日も姉は手首を切ったのだろう。姉が愛おしい。姉は美しい。今はストリッパーをやっていると言っていた。親は聞いていないふりをしている。知っていて知らないことを貫こうとしている。それは一種の美しさで、完遂すればこそ美しく、彼らが生きているうちには終わりがない。終わりのないことすらも美しいことなのかもしれない。しかし彼らは見え透いた、書き割りの無知であろうとする。愚かしくて美しい。なるほど同じ血が、姉にも流れているのだろう。さっきから出しっぱなしの風呂の水。僕の手に触れた君たちは汚い。それだけは間違いがない。申し訳ないけれど。
 風呂場を出て、机の上のタオルハンカチをジーンズのポケットに突っ込み、鍵束の収まったポーチを持ち、腕時計を巻き付け、靴下を履く。足を上げると腹筋に力が入って、残っていた精子が下着に滲む。気にせず上着を羽織って靴を履いて、固いドアを思いきり引いて外気にあたった。なぜかアホほど晴れている。すりガラスに斜めに刺さった陽光。あくびが出る。
 太陽からの光線が刺さっているところだけがあたたかい。昼と夜の長さはほぼ等しい頃のはずだ。できるだけ陰にならないところを歩く。心臓の鼓動とかかとの接地が同期すると息苦しくなる。お互いをずらしながら、妙な緊迫感に揉まれて石畳を歩く。クリーニング屋の鏡が僕の間抜け面を照らし出す。どことなく姉に似ている。男でいるべきではなかったのだろうか、僕は。そして姉は。

 何年かにいちど、この駅で降りる。前は姉が手首を切ったときだった。その前は姉が手首を切ったときだった。毎度同じ病院に世話になっていいんだろうか、そう思っても推定死人に口はない。駅の出口もひとつしか知らない。反対側の改札を出たら味気ないブックオフが出迎えてきて、僕はこの町を以来ずっと嫌いになってしまう可能性だってある。すぐ左に折れる出口も、その先を見たことがない。僕の育った札幌の街の、どこか郊外の地下鉄の駅の出口に似ている。ここから出たらあるいは雪が降っているかもしれない。姉の芸名は雪野ひかりだと聞いたことがある。大学を出て東京に来てからは、手首を切ったときにしか僕は姉に会わない。姉の出ているストリップ劇場にも行ったことがないし行くつもりもない。僕は姉が好きだ。親類として好きだ。人間として好きだ。異性としては手に余る。

 病室の姉はひどく意識が混濁しているようだった。僕が「姉ちゃん」と声をかけても、「え、あんた誰」と吐息にかすかに音の混じったような声で、あとは「シュ、シュ、シュシュ、シュ……」と息をもらしていた。九割がた目をつぶりながら、口もとで笑っていた。
「ちょうどいま意識が戻ったところで」
看護師が言いかけた瞬間に姉が何事かを叫び始めた。テレビゲームが発する効果音のようにも聞こえた。ほどなく姉は麻酔で眠らされた。
「起きたの」
外は日が暮れかかっていた。
「あ、光(ひかり)……」
姉は自分の芸名でもある弟の名前を口に出して、目尻から耳のほうに大きな涙の粒を流した。前に姉を見たときとはあまり変わらない。
「まだ踊ってんの」
「知らない。もう踊らないかもしれない」
「あ、そう」
「うそ。踊る」
「踊りたいの」
「踊りたい」
「踊りたいのに、死にたいの」
僕がきくと、姉はしばらく考えはじめた。
「そう。踊りたいのに、死にたくなるの」
そう言うと「スッ、スッ、スッ、スッ」と息を吐いて、また泣いていた。
リニアな人生の中にある待避線。つかの間の安らぎは死に似ているのかもしれない。姉の踊る姿を見たいとは思わない。ただ、想像は常にしている。いかれた客もいるだろう。土から涌いて出たみたいな爺さんもいるだろう。そんな男や女や第三極がこぞって姉の女性器をのぞいているし、姉もそれを見せつけているのだろう。姉の理屈も客の理屈もねじ曲がっているのかもしれない。だけど、そこには見せつけることとそれを見ることという現象だけが生きている。そして姉は、その現象の中で生きることを決めたのだ。たとえ何度か自殺したくなったとしても。姉のいる世界では、ctrl+zはいつも失敗に終わる。そのたびに姉は手首に傷をつくる。浅い傷は季節が変われば治るが、深い傷はこの先ずっと残っていくだろう。女性器をさらすことと、手首の傷をさらすことはどちらが恥ずかしいのだろう?

 姉が泣き止むまで病室の外に出て、そんなことをつらつらつらと考えている。エレベーター近くの透明な間仕切りの中で、スマートフォンを取り出してロックを外す。まぐわった状態で一時停止する男女の映るタブを閉じる。「雪野ひかり」と打ちこんで、検索をかけてみる。プログレスバーがゆっくり右にのびる。右端に到達する少し前で時間が止まる。僕はそこで戻るアイコンを押してスマートフォンをしまいこんだ。
 姉の病室に戻る。眠ってしまったらしい。僕は姉の手首のガーゼをゆっくりはがして、傷跡をそっとなめてみた。姉はいまも美しい。