川崎楽前九日目。楽日は満員になり、出番も当然押す。それにフィナーレが終われば出演者での打ち上げもあるから、実質この日が最後のレッスンだ。
 スーツケースを持って京急線に乗るのも慣れた。麗香姐さんの明日の演目に使う衣装と小道具を詰めて、家から持っていく。男装用のスリーピースと帽子、そして紙袋にウィッグ。快速に特急、エアポート急行にエアポート快特。乗り継ぎもやっとわかるようになってきた。
 姐さんは膝の痛みをこらえながら八日間を乗りきっていた。気遣いのことばは要らない、という顔をしていた。
「これが原因で引退するんだから、痛いのはしょうがないよ。ってかむしろ、膝が壊れるまで踊って引退したいから」と笑っていた。「滑膜骨軟骨腫症」「外側半月板損傷」とスマホで調べると、どちらにも安易に「手術」の文字が確認できてぞっとした。このひとは命がけだ。
 この日も二回目のマーメイドをみて、それから雑用をこなす。四回目公演がはじまる前、姐さんたちが、このあとは私たちがやるから、と自主練の時間をくれた。いやいいですわたしやります、となんども断っていると、
「いいっつってんだろ。ひかりちゃんがいなかったらもともと私らがやるもんなんだからさ」と叱られた。

 わたしはスマートフォンの動画を再生しはじめた。お気に入りフォルダに入っている動画ふたつ。まずは私の「マーメイド」、そして麗香姐さんの「マーメイド」。違うところと同じところを探す。次に違っていいところと違ってはいけないところを探す。頭の中の絵コンテと樹形図。シーン1、シーン2……という時間軸に、同じところ/違うところ、違っていいところ/違っちゃいけないところ……と無数の下層項目がつくられて伸びていき、それらはもとの位置をはがれて絡まっていく。二重らせんが二重らせんと絡まりあってさらに二重のらせんを形作る。いつまでも続いていくらせんを登っているのはわたしのようだ。駆け上がっても駆け上がってもどこにも向かえる気配がない。わたしの脚は動いている。けれども本当に上がっているのだろうか。らせんは下に向かっていて、いくら走ってもわたしは同じ高さにとどまっているだけなのではないか。
 視界良好。見ているようで見ていない。思考だけがじわじわと根を広げて八方へと伸びていく。走っているわたしを見ているわたし。考えているわたしを見ているわたし。ランナーズハイかもしれない。てっぺんはまだ見えない。走っているわたしからも、三人称視点に立つわたしからも。それでも脚だけは回転をつづけて、潤滑油は効きすぎて、歯車が円に見えるほどの速さで回っている。快感が三歩先を走っている。
 妙な興奮のなか、自主練をはじめた。楽屋の隅で振りをひたすら再現する。これまでの雑用で、姐さんたちの動線はなんとなくわかるようになっていて、邪魔にならない場所を、邪魔にならない時間帯だけ借りて踊った。ふと、麗香姐さんがわたしを呼んだ。姐さんは客から預かった写真の裏にコメントとサインを書いている。
「名前、はやく決めろってさ。根岸のおじいちゃんから事務所宛てに電話入ってたって。あっしちょっと考えてみたんだけどさ、」
そう言うと、写真の隣にあったメモ帳に、サインペンでしゅるしゅると「雪野ひかり」と書いてくれた。
「安易だけど。みんな、そんなもんだから。AVから来た子なんかはそのままだったりするし」
どうかな、と上目づかいでこちらを見る。
 ひかり、か。思いがけず肉親の名前を借りることに、戸惑ってしまう。
「上の名前はホントそのままで申し訳ないんだけどさ。でも、下はちゃんと考えたんだよ。あっしが生まれた街も雪、降るからね。思い出したくないこともあるけどさ、思い出してみたの。夜の空に、電灯のあかりに照らされた粒のおっきなぼた雪が斜めにばーっと降ってる様子がいちばん先に出てきてね。周りは真っ暗なんだけど、なんだかそこだけほの温かいっていうのかな。
 どう? 鶯谷の神社で泣いてたあなたはまさにお先真っ暗って感じだったけどさ、いまはちょっとずつ光が差してきてるでしょ」
「ちょっとずつ……」思えば、道なき場所に道がつくられはじめている。
「まずはあなたが光らないことには、客だってノってこないんだから。葬式みたいな踊りしてる場合じゃないよ。ってことで、『ひかり』どうかな。嫌?」
「ひかり、ひかりがいい。わたし、雪野ひかりでいきます」