「ありがとうございましたー」
高く朗らかな声のあとで、長いのれんをかき分けてうれい姐さんが戻ってきた。すでにほかの姐さんと済ませたハイタッチを、最後にうれい姐さんとかわして、麗香姐さんは闇のなかへ歩きだす。早蕨麗香の楽日四回目。最後の舞台。最後のマーメイド。これまでのいつにも増して大きかった客席のざわめきが、投光さんのアナウンスで一瞬のうちに止んだ。楽屋のうちにいて、初めて人が息をのむ瞬間を知る。
「見たい?」
袖から目を離せないでいると、後ろからうれい姐さんが話しかけてきた。いえ大丈夫です、と小刻みに首を横にふる。
「これ、現像しにいってもらってもいいかな」
デジタルカメラを渡され、わたしは「いってきます」と楽屋を出る。従業員室に持って行き、ステージで客と撮った写真を印刷してもらうのだ。階段を降りる。すっかり陽の落ちた川崎の夜。昼間の激しい日差しを思い出す。月が出ていても、年の瀬にしてはあたたかい。

 ロビーには、支配人以外もう誰もいなかった。カウンターにサッポロのロング缶が置いてあった。
「ちょっと、まだ終演前ですよ。飲んじゃっていいんですか」そう言い終えたときだった。
 視界の下のほうで、なにかが動く。目を向けると、くるぶしくらいの高さから小さな炎があがっている。ぱち、ぱちと音がして、受付とロビーを仕切る暗幕から白い紙がはがれた。みるみる黒くなっていく紙片の端に、かろうじてコンビニの名前が読める。
「……火、です、燃えてます、火事」
慌てて出てきた言葉を叫んだ。従業員室の奥からゆらゆらと出てきた支配人が、視線を下げて見たこともない驚いた顔をした。
「うわ、うわ、」
足をばたつかせて燃えていない片側からロビーへ転がり出る。
「消火器、そこ、そこ」
それらしきものは見当たらないが、とりあえず指さす先に向かう。
「俺はトイレの水、持ってくるから」
支配人は近くにあった雨漏り用のバケツを持ち、ロビーの奥へと消えていった。向き直って消火器を探す。公衆電話の台の下、今週の香盤表に来月までのフライヤーが置かれた机。いや、ない。マジでない。
「どこ」と叫んでも返事すらない。とにかく意味も考えず眼球を動かす。外に出る扉に近づいていく。ファンから麗香姐さんに贈られた、いっぱいの花が並んでいる。その脚の重なる向こうに、赤く光った消火器を見つける。
 さっきまでロビーは人でいっぱいだったのだろう。扉は午前中からずっと開け放たれているから、風が吹きこんできて暗幕の炎はどんどん勢いをつけて燃えていく。あたりの空気を鈍く引き裂いていくような燃焼音と、赤黒くのびていく火柱。遠くで水をバケツに流し込む音が聞こえても、所詮無駄なことなんじゃないかと眼前の光景に説き伏せられる。燃えひろがりはしないだろうか。ピンを抜いてレバーを握る。ノズルを持つ手が追いつかなくて、粉のような泡のようなものがわたしの手もとから垂れながら、勢いよく暗幕まで伸びていった。風で戻ってくるピンクの煙と、炎の熱さを全身に浴びて、これ以上は無理だと感じる。暗幕を視界に残しつつ、わたしはトイレに近づく。
「まだですか、水」
「もうちょっとで満杯になるから」
「もうやばいです、消火とかしてる場合じゃないです」
暗幕の燃える音が大きくなって、ふたりとも叫びあっているのに、聞こえ方はいつもの会話のようにも思えた。脳内にバグが発生しているのかもしれない。わたしはもう一度、こんどは姿勢を低くして炎に向かう。うしろから支配人が足音を立てて歩いてくる。
「もう駄目だ」
そう叫ぶのが聞こえると同時に、異変を感知した客がドアを開けて出てきた。炎がにわかに勢いを増した。溶け落ちていく焦げついた暗幕。飴を溶かしたような、いやらしく甘いにおいが微かにたちこめている。天井にぶつかっていく煙から、植物の胞子のように煤がふわり、ふわりと舞って、わたしの服に黒い斑点を残していた。
「火事です! 劇場から出てください」
叫ぶ支配人に向かって「楽屋に伝えてきます」と言うと、わたしは外から楽屋へ走りだした。

 階段に何度も足をぶつけながらのぼっていく。握った手すりから階段が焼け落ちていくところを想像して、手が震えた。ゴンガンゴンズッガンゴンガッゴッ、不恰好なリズムを奏でて楽屋の扉を開けて叫ぶ、「火事です!」
「はっ」「えっ」「ちょっと」「本当?」「衣装!」などと言葉が生まれ、外郭を形成し、やがてふんわりと丸みを帯びた危機感がわたしたちを包んだ。
「いまどんなかんじ」
「ロビーの暗幕が燃えてます」
「こっちに燃え移ってくる?」
「まだでしたけど、いつ火がくるか」
そう言いながら、それぞれの姐さんが貴重品とブランド物のカバンを持って逃げる準備をしている。鏡の前に並べられた化粧品を腕でポーチに押し流していく。裸の姐さんは羽織るものを見つけて袖を暴れさせながらこちらに向かってくる。楠葉うれい姐さんが、「はい」とスマホを投げてきた。
「これ、麗香の貴重品」
カバンや楽屋着を受け取りながら、あることに思い至って、わたしは楽屋の奥へ進む。
「麗香姐さんは?」
「麗香はまだ舞台乗ってるけど」……まずい。
「これお願いします」と楽屋着を強引に返した。
「麗香には伝わってるんだよね?」
伝わっていなくとも、客席の異変は感じているはずだ。それでもわたしは麗香姐さんのことが気になる。
 楽屋から急いで舞台袖に向かう。音楽はまだ鳴りつづけている。四曲目、ベッドショーの曲だ。間奏から大サビに入るあたり、本当なら最後の連続ポーズを切る前に、柔らかく呼吸を整えているころ。階段を降りきっても勢いが止まらず、ぶれた軸のまま強引に、右に左にハンドルを切りながら前進する。投光さんはもう逃げたのだろう、舞台後方からは水色の光だけがずっと、切り替わることなく盆に向かって当てられている。舞台まであと数歩というところで、やっとわたしは走る勢いをゆるめた。逆側の袖近くから、空間を切り裂くように流れる真っ白なリボンが見える。常連客がリボンを投げている、姐さんはまだ踊っているんだ。
 麗香姐さん、と声をかけようとした瞬間、半開きになっていたドアが燃え落ち、煙と炎が場内に入ってきた。上手側の壁にかかっていた暗幕に火が燃えうつり、大きな火柱が立つ。地を這うような炎の音と、天井から降りそそぐ音と光のあいだで、麗香さんは踊っていた。盆はかろうじてまだ回っていた。炎は暗幕から壁ぎわの椅子の背に燃え移ろうとしている。それでも姐さんはポーズを切っている。

  永遠を願うなら 一度だけ抱きしめて その手から離せばいい
  わたしさえいなければ その夢を守れるわ 溢れ出る憎しみを織りあげ
  わたしを奏でればいい

 しなやかに伸びる指先。その上を舞うリボン。わたしが「逃げて」と叫んでも、あふれる音にかき消されて届かない。もしかすると、麗香姐さんの踊りの美しさに、わたしは声を失っていたのかもしれない。いまとなっては、何もわからない。
「何してんの! 早くはやく!」
うれい姐さんに腕を引かれて、後ずさるようにして階段を登って楽屋に戻り、楽屋横の階段から外に出た。階段を降りてすぐ、消防隊員がわたしを抱えるように道路の真ん中まで連れていった。
 わたしは燃え落ちていく劇場を見ていた。体じゅうの力が抜けていく。まぶたを閉じる力さえなくて、半分開いた目で明るい夜空を見ている。これから、どうするんだろう。これから、どうなっていくんだろう。漠然としたことしか考えられなくなっている。とにかく、目をつぶろうとした。いつのことだったか、夜の色と、まぶたの裏の闇とが重なっていった。

 目を覚ますと、わたしは毛布にくるまっていた。
「気づいた、大丈夫?」
うれい姐さんが声をかけてくれた。炎はまだあがっていたが、劇場の大部分は焼け落ちて、火は勢いを弱めている。
「みんな無事なんですよね」周囲を見わたすと、支配人や投光さん、それに姐さんたちの姿がひととおりあって、わたしは大きく息を吐いた。
「それがさあ、麗香が」
いま聞いてはいけない言葉だと思った。後頭部を殴られたようだった。
「何が、あったんですか」死んでしまったのか……なんて聞けなかった。
「麗香、消えちゃったの。遺体らしきものは見つかってないみたいだけど、どこにもいないって」

 川崎ライブシアター十二月中週楽日、早蕨麗香姐さんは自身の引退興行を完遂し、自宅からも、劇場からも、跡形もなくわたしの前から消え去ってしまった。