信じていれば恐れを知らず 一人歩けると知った

 四小節の短い間奏から、すぐに二番がはじまる。わたしは乱れた呼吸を整えながら、仰向けになり、顔の前でそっと手を組む。手のひらにはじんわりと汗がたまっている。動いたから、というよりもっと生理的な発汗。くちびるに触れた人差し指の腹はつくりもののように冷たく生気がない。大きなミラーボールの釣ってある天井が視界に入る。根岸劇場の天井は、ここの半分もない。

 デビュー週の初日、その根岸のせり上がる盆のうえで、いまと同じ孤独を味わっていた。無機質な機械音をたてて上昇する手術台。初物を捌こうと構えるいくつもの視線。そして麗香姐さんの不在。ほぼ一睡もできないまま姐さんの家で泣いていると、カーテンの向こうがはっきりと明るくなったころにLINEが届いた。
「麗香のことでつらいとは思うけど、きょうから一緒にがんばろうね」
うれい姐さんだった。根岸、川崎と麗香姐さんのほぼ同期として、ラスト二週を「友情出演」の扱いで乗っていた。きょうからまた根岸に戻って三連投になる。「ありがとうございます」と返信して、泣きながらシャワーを浴びる。
 楽屋に着いてから、割り当てられた座布団の上でずっと正座をしていた。めいっぱい息を吐いたはずなのに、まだ胸の中に吐かなければいけないものが残っている。むくむくと膨らんで、わたしの呼吸を蝕む。
「お互い、心配でしょうがないと思うけど、あたしたちにはあたしたちの公演があるからね」
そう言いながらも、うれい姐さんは公演の合間を見つけてはどこかに電話をかけていた。わたしは、出番前になると欠かさず吐いた。呼吸が乱れ、指先が震えるなか、「そろそろストレッチしとかないと、身体動かないよ」という言葉で慌てて楽屋の広いところに場所をとり、身体を伸ばしはじめる。息を吸って、吐いていたら、すぐに自分を紹介するアナウンスが流れはじめる。
「だいじょうぶ。麗香もきっとわかってる」
猫背になって小さくたたずむわたしを、うれい姐さんが後ろから抱きしめてくれた。わたしが出番前につけたーー麗香姐さんの使っていた、ツンとするビビッドな香水とはちがう、ほのかに甘くて柔らかい匂いがわたしを包んだ。「いってこい」と耳元でささやいて、わたしをつつむ細い腕が一瞬強く締まった。ぱっと腕は離れ、その反動でふわりと袖から踏み出した。真っ暗ななか、蓄光テープの細い光を頼りに貝殻にたどり着く。

 あの頃よりずっと広い舞台に寝ていても、思うことは変わらない。圧迫感も開放感も、すべてが不安に還元されていく。ただ、手首の傷を触ると、すこしだけ安心できた。わたしのなかの、わたし以上に傷めつけられている場所の存在を感じて、やっと感情の均衡を取り戻す。

 デビュー週の「マーメイド」を、わたしはなにかの「試練」だと思っていた。やり遂げればなにかが、麗香さんが、踊るたびにわたしに絡みつく不安が、すべてよい方向へ帰結するとでも思っていたのかもしれない。腹筋の筋肉痛も、背中の張りも、達成感に変わりつつあった。
 楽日の三回目公演だった。トップステージを終えて、ポラロイドショーの時間がくる。踊り終えた開放感と快い体の重み。客とも、どうにかまともに話せるようになってきた。
「デビュー週とは思えないよ。頑張ってね」
ありがとう。ありがとう。毎回の言葉が、泣けちゃうくらいに嬉しいのに、笑顔だけが上手につくれない。眉根が上がり、「大丈夫? 緊張しているの?」と毎日きかれる。どうしようもなくて、「本当にありがとうございます」の言葉と強めの握手でその場をとりなすわたしへの苛立ち。
 デビュー週の踊り子を観るファンはいろいろな思惑を抱えている。多くはすでに別の踊り子のファンで、わたしをその対象に含めるかどうか品定めしている人たちだ。あとは「最初のファン」になりたい人。目を見ればわかった。だけど、どう好きになってくれようと、その場でその口から発してくれる言葉だけがホンモノだった。その言葉でわたしの吐き気はしばしおさまり、胸の奥の紐は強く引かれ、鐘が鳴りひびいた。
「次回香盤決まってるの」
「一週お休みをいただいて、渋谷MS劇場になるかもです」
「あ、ほんと。もし確定になったら行くからさ」
伝える術はなくとも、いまはネットで各劇場の香盤表が出るから追いかけに来てくれる。
「ありがとうございます」
握手をして、へんな眉のまま少しだけ頭を下げる。すぐに次の客が近づいてくる。列は彼で終わりだ。
「あの」
強い口調だった。短い白髪に口の周りを覆うひげ。うつむきがちな顔に上目づかい。どこかで見たことがある。
「レイちゃんの演目ですよね」
レイちゃん、という呼び方にはっとした。川崎で、まだ見習いだったわたしを後ろから呼び止めた人。わたしを麗香姐さんの付き人だと言った、あの人。
「そうです。姐さんから、いただいて」突きつけるように差し出された、写真代の千円を受け取る。
「麗香はまだ死んでいません」
はい、そうですけど。わたしは必死に麗香姐さんを思い出したり抹殺したりしながら、この十日踊りつづけてきたんです。言葉にならない、言葉にしないけど。
「デビュー週でマーメイドなんかやるっていうのは、麗香に対する冒涜です」
客がざわつき始める。この人から罵られることと、この場を何事もなく収めることと、どっちがわたしを救うだろう。なぜ、どうして。
「麗香の演目をどうしてあなたがやっているんですか。あなたには、まだ、十年早い」
 心無い客の不誠実な感想とわかってはいたけれど、わたしを奈落に突き落とすには十分な言葉だった。踵を返して重たいドアを開け出ていく男。あまりにも突然の出来事に、誰もなにも、なすべき手立てがなかった。水を打ったようにしんとなる客席。
「ほかにお写真ご希望のかたはいらっしゃいませんか」よかった。誰もいなかった。
 オープンショーのあと、雪崩れるように楽屋に戻り、トイレで泣いた。握っていた千円札を破いて流した。心を殺す心を殺す心を殺す、なんども唱えて最終回のステージに上がった。貝殻を出て、ライトの当たっていない乳白色の盆を見た。盆は弱々しいわたしを映し返しているようだった。客の手に評価をゆだね、鏡のもとに素肌の自分と向かい合う。手は震え、腹筋が攣った。笑顔は引きつっていたはずだ。麗香姐さん。ストリップって、命がけでした。そして、わたしは……。
 その日、打ち上げを断って麗香姐さんの家に戻ったわたしを、不審に思って訪れたうれい姐さんが見つけてくれて一命をとりとめた。風呂場で手首を切って、倒れていたという。