雪野ひかり(仮題)

 「百やったうちの五十もできないと思った方がいいよ。人生だってそうでしょ」

 雪野ひかりは舞台袖から、自分の前の出番を終えて戻ってくる姐さんの姿を待っている。麗香姐さんの言葉がふと浮かんで、瞬間怒りがわいたが、実際その通りだと思い至って、目もとが潤んだ。自分の人生、百のうちの五十、いや三十も何かを成し遂げられただろうか。

 早朝なにも食べずに家を出て、新幹線の中で二度吐いた。ストレートの紅茶を飲んでおいてよかったと心底思った。鼻にもどってくる乳臭には気が触れそうになるから。
 昨日の晩に何度も地図アプリで出発時刻を確認して、今朝また地図をひらいて、時間が経ちすぎて再起動した検索窓に昨日と同じように「周防ショウアップ劇場」と打ち込んだ。11時には到着するはず。荷物が到着したことも電話で確認済み。万事がうまくいくようにできている。できていないのはわたしの心と体だけ。
 新山口のホームから見える町は凶悪に呑気だった。全国の天気予報には表示されないくらいの地方都市。まあ、こんなもんか。どこかで見た空と同じねずみ色なだけ、まだよかった。はじめて見る空に迎えられていたら、わたしはきっと三たび吐いた。胃や食道や、のどの荒ればかり気にしていたけど、少しずつ思考が明晰に戻ってきたみたいだ。ホームの窓ごしに、十階建てかもう少し高いホテルが見える。空気が肌を舐める感触。海が近い。
 タクシーの運転手はなにを言うのも面倒だという顔で、わたしにとっては都合がよかった。行き先だけを告げると、ただ細く低く返事をしてアクセルを踏みはじめた。耳に大音量を流し込んでラジオの声を消す。ベースラインまでそらで歌える。テンポも再現できる。一拍ごとに脳内が踊る。連れて小さく手足が動く。劇場でも同じように、劇場で百を出すために。
 交差点に近づくと車体は不恰好に止まった。わたしが前方に体を浮かせるたび、運転手の後頭部の脂臭さに食べてもいないなにかがこみ上げてくる。帰れないくせして帰りたくなった。
 劇場に着くと、事務所のマネージャーからLINEがきていた。
「10日間よろしくね」
「手首切る前にLINEして。今度こそ仕事飛ぶ」
「よ」
最後の「よ」が彼のうすら寒いユーモアなのかつけ忘れた語尾なのか、考える前に洞窟のような入口に踏み込む。ポーチから、さらに押し戸があって、赤が剥げた丸い持ち手は錆のにおい。重いドアの隙間から染み込むようにロビーに入る。もぎりのじじいは札束を数えていてわたしに気がつかない。あるいは死んでいるのかもしれない。

 吹越ゆみか姐さんはうわべで優しくしてくれる。すでに人間はわかり合えないことをわかっている。すべてをあきらめたところからすべては始まる。
「当日乗りはひかりちゃんだけだから、他はもうリハ終わらせといたよ。好きに使って」
そう言って開場までの一時間をわたしのために使わせてくれた。
「もみまん、たべる?」
トップバッターの姐さんはわたしの楽屋の入口に小さなものを置いて舞台に走っていった。直後、劇場に細く低く、金魚のフンのような開演のアナウンスが流れ始めた。コンタクトを入れる前の絞りきれない視界でドアににじり寄る。こしあんの「もみじまんじゅう」がゆみか姐さんになり代わってこちらにお辞儀をしていた。丁重にゴミ箱にお連れした。
 替えの衣装をカゴに入れ、舞台袖に近づいていく。客とのポラロイド撮影が終わって、ゆみか姐さんはオープンショーに向かうところだった。わたしの出番は近い。

 アリガトウゴザイマシタ、とゆみか姐さんがお辞儀をした。最後にもう一度Y字バランス。Tシャツが上げた脚の股関節でひっかかり、だらしなく垂れる。ライトを浴びてふさふさと生えそろった陰毛。ぴんと地面に張った左脚。三方向から光が当たって、三つのYができている。普段乗っている劇場よりも、舞台までの距離が長い。拍動が身体全体を乗っ取りはじめた。息を吸って吐く、吸って吐く、意識をしなければ忘れてしまう。ゆみか姐さんがひたひたと戻ってくる。軽やかに湿った足取り。細くはないが、筋肉がわずかに浮き、女性美と肉体美の交差点を歩いてくる脚。ひざを曲げるたび裏側に筋が見える。踊り込んできた証拠だ。これまでの踊り子としての生活が、薄っぺらい優しさとひざの裏側で、ひっそりと、でもいくらか得意げに微笑みかけてくる。思考が拍動を振り落としにかかる。呼吸を忘れた身体が、何かを欲しがるように上下動を繰り返す。もみじまんじゅうは捨てた。戻すようなものは身体に入っていない。からっぽのわたしを見て。そして視線をそそぎ込んで。
 ト・ン、と背中を叩かれる。ゆみか姐さんが笑う。「息を吸いなさい」そう、忘れていた。視界に白く光る斑点が無数に広がりはじめて、低血糖におびえるわたし。息を吸って吐く、吸って吐く、腕が動く、手が動く、指が動いた。十六分間だけ動けばそれでいい。鼓動をおさえるためのゆっくりとした呼吸はいまやもう無意味。末端に血を送り込むために拍動と呼吸を無理やり合わせる。黙っているのに走り出している。追いつかないのは身体か、心かーー幕が閉まる。わたしはいそいで小道具の貝殻を舞台へ運ぶのだ。小脇に抱えて、かけ出す。
「はいそれでは…………二番目…………雪乃ひかりさんです…………な拍手でお迎え…………」
位置にちゃんとつけた記憶だけが、確かに残っている。暗転。