十四歳の雪野ひかりーーその頃まだ、雪野ひかりという名前もなかった少女は、舞台袖から、自分の前の出番を終えて戻ってくる年少の子たちの姿を待っている。群舞はまだ始まったばかり。震える体を無理やりに動かして身体を温めておく。深く息を吸い込むと背筋が伸びる。ひらけた視界の隅から、ジャンパーを着込んだユナちゃんと松葉杖。
「そりすと、がんばってね」
「え、ソリスト? うん……がんばる」
いつもの口調より熱量が低いのは、広すぎるホールの、肌を突く冷たさのせいだけではない。本当ならソリストは彼女。管内のバレエ教室がいくつか集まっておこなう合同発表会の、映えある大トリを務めるはずだった。いや、あの頃の母の息巻いた様子を察するに、この発表会は明らかに通過点だった。
「先生が、ううん、のんちゃんのママがね、言ってたよ」
「うん」
「のんちゃんは賢すぎるんだって。もっとバカに生まれてくれてたら、わたしよりバレエ上手だったかもしれないって。自分のことも、ひとのことも、考えすぎて感じすぎて分かった気になりすぎて、バレエなんかやらせなきゃもっといい子に育ってたかもしれないんだって。」
 笑いもしなかった。気味が悪かった。
 賢すぎる? 違う。自分を見ることに深い恐れを抱いているだけだ。わかっている。だから、まず他人を見てしまう。誰かの出方を、これ以上ないほど慎重にうかがう。そして自らの劣りを確信してから、ゲームを始めるのがわたしだ。永遠に負けつづける後出しじゃんけんの場に、「負けられる」というアイデンティティが背中を押す。いや、正確にはそれだけが押してくれると言うべきなのだろう。だからわたしは吐きながら、こうして舞台にのぞむ。

 群舞の子たちが反対の袖へとはけていった。アナウンスが名前と演目を読みあげて、わたしは舞台へと歩みを進める。ユナちゃんとは違う、認められなかったわたしはトウをつくことなくーーバレエシューズで、足指の腹でぺたぺた歩くドゥミ・ポアント。
 でも、ステージに立ったとき、確かに感じたのは間違いじゃない。鏡のない、広い大きな舞台。確かにわたしはいま、ここに立っている。空気がわたしを中心に動いて、ライトが照らす見えるか見えないかの細かな塵すらきらめいている。自分の粗を探し続けることをしなくてもいい。ただ目の前の人たちを楽しませることができるのであれば、そのためにきょう、踊る意味はあるはずなんだ。祈りにも似た感覚だった。
 ハープが低く拍子を刻みはじめた。「スワニルダ」第一幕のヴァリエーション。右手を柔らかく折り、目の高さに置く。アン・バー、アン・ナヴァン、ア・ラ・スゴンド。教えられたポジションの残像を追いかける。そして流れ出す旋律。視界良好。鏡がわたしを映すことはない。

 バレエの美は自己制御の美だ。意識が脚をある高さまであげようとし、身体が要請どおりにその高さまであがる、その一致、その統率の美。いまにして確かに理解できる。十年あまり遅かった。でも、十年分の生活がなければ、きっと一生気がつかなかった。
 あのときとは違ったやり方で、わたしは脚をあげる。でも気持ちはあのとき、ユナちゃんに代わってステージにあがったときと、なにも変わっていないような気がする。この踊りを母が見たなら。いままで一度も考えたことなどなかった疑問がふと頭をよぎる。冷笑するだろうか。目を背けるだろうか。
「ストリップはさ、ピンク映画に似てるの。決まった形式をはさめば、あとは自由。って、ひかりちゃんピンク映画とか観たことないよね……わかる?」麗香姐さんの熱っぽい表情を思い出す。
 そう、いまのわたしはあのときよりも強かだ。きっと椅子の背から背へ、ドゥミ・ポアントで歩いていって、壁際に立つ母の目の前で思い切り脚をあげるだろう。教えられてきた抑制を突きやぶったこの脚が、母のはるか頭上の壁に突き刺さる。そのとき母は、片手に持ったぼろのランドセルを捨ててくれるだろうか。ほころびかけた毛布に、火を放ってくれるだろうか。

 十四歳の、いなかまちの、まさしく純朴な村娘のスワニルダだったわたしは、はじめての鏡の向こうの世界を相手に、馬鹿らしいほど綺麗に、伸びやかに踊っていた。コッペリアをほんとうの人間であるかのように、懸命に踊りに誘った。まさにその点が、母の癪に障っていたのだとも知らずに。
 舞台上で大きな円を描くように16回転のピケ・トゥールを回って、そしてわたしはバレエを辞めた……いや、形のうえで辞めた、と言うべきか。



  悩める胸にあなたが触れて 雨は終わると想った
  だけど誓いはあまりに強く いつか張り詰めるばかり

 鏡を背にして、音楽はよどみなく流れる。わたしは脚を曲げてのばして、自転車を漕ぐように柔らかに動く。まわる盆の上。
「音をしっかり聞いて」麗香姐さんの言葉を、いま一度思い出す。ギターが忠実にリズムを刻んだあと、にわかに調子を変える。スネアの強い音が絡みはじめる。姿勢を戻し、強く息を吸って、吐く。

  永遠を願うなら 一度だけ抱きしめて その手から離せばいい

 右の脚を強く体側にひきつける。いつもより勢いをつけすぎて、一瞬横っ腹がつりそうになる。息を細かく吸って、腹筋を少しだけ緩めた。五感を縛っていたものが一緒に緩みはじめて、拍手が聞こえてくる。伸ばしかけた手を、足先にぴったりと添える。苦しさが出ているかもしれないと、あわてて表情に意識を移す。すべてにおいて考えている暇がない。ここからは感覚勝負。歌詞を口ずさみ、次のポーズのモーションに入る。百も五十も関係ない。ごめんね麗香姐さん。いまのわたしには、いまのわたししか、見せられない。右手と右脚を、高くあげる。

  わたしさえいなければ その夢を守れるわ 溢れ出る憎しみを織りあげ
  わたしを奏でればいい

 この人のように、三次元を超えたい。はじめて劇場で麗香姐さんを観てそう思った。姐さんが、ちょうどいまと同じポーズを切っているときだった。