北海道から着てきたキャメルのロングコートの裾が、砂利に触れている。十二月の東京は、地元のように雪も降らずまつ毛も凍らないけれど、それだけにむしろ陰険な寒さを感じた。誰も用のない境内の端、低い石垣に座ると少しだけ落ち着いた。追い立てられるように東京に来ても、わたしを歓迎してくれるものはないらしい。知ってはいたけれど。

 空港発のアクセス特急を上野で降りて、大きなスーツケースをひいて不動産屋に入った。すぐに入れる部屋を、と言うといぶかしがられ、「ご職業は……」と聞かれて黙ってしまった。不動産屋を出た途端、黒くて重たい感覚がすぐに身体の真ん中を占拠した。振り払うように早足で、改札を通る。見聞きした覚えのある「山手線」という文字が、無心のわたしを優しく誘導して、方面も知らずにそのまま乗りこんだ。車両に乗って一息つくと同時に、こんどは止めていた思考の逆襲がはじまる。じわりと蝕まれ、わたしは猫背になって黒いものを閉じこめようとしている。「杭州学院の中国語」「写真だけの結婚式」「吉岡形成外科」「ヒロドダンスアカデミー」「絵画造形教室」……とにかく車窓から見えるものを目で追って、頭に送り込んで。それでも皮膚は感じている。ほのかな諦めの気配、ノーアイデアの間抜けな顛末。ゼロにはなにをかけてもゼロのままで。
 「プレミアム」「サヴォイ」「ポプラ」……ラブホテルの名前は読みやすくて、重苦しい考えを逸らすような思考の隙を生みだしてはくれない。転がり落ちるように次の駅で降りた。

 六時をまわっていた。東京はずっと分厚い雲におおわれていて、いまのいままで夜が始まっていると教えてくれなかった。改札を出ると目の前にコンビニ。その前にはデリヘル嬢を待つ革ジャケットの男や、そんな感じの男を待つデリヘル嬢が並んでいて、だれも彼もスマホを顔に近づけてこちゃこちゃ指を動かしている。ガラガラガラ、ガラガラガラとスーツケースの音が小気味よく響くのが耐えられない。
 風俗店の玄関におそるおそる歩み寄っていく。「求人募集! 時給1,200円〜」とポップな書体で書かれていて倒れそうになる。カランコロンとドアが開く。一般住宅のような、黒い扉にシルバーで縦長のハンドル。出てきたのは客とおぼしき男で、一瞬固まったわたしになんらかの意味を持った視線を投げかけ、やがて立ち去った。わたしはもういちど貼り紙を見る。「正社員に昇格したら30万円超」「店長候補で月収100万円も!」「パワフルに働ける男性募集中」
 わたしも店員でいいのに。そんなことを思っても、きっとこの業界の構造がそうはさせないんだろう。女は商品、耐久消費財。風俗嬢になったら、所詮わたしもいつまで耐えられるのか考えながら生きつづけることになるのだ。
 なにも食べていないのに、いっこうに空腹がやってこない。胃も食道も、あるいは腸も、この真っ黒のどろどろに溶かされてしまったのかもしれない。地を這うようなスーツケースの音で、はじめて自分の胴に腕がつながっていることを知る。視界が波打つ。「目の前がまっくらになる」なんて、ほんとうにあるんだ…………



「寒いけど、飲まない?」
遠くから声をかけられて目を開けた。視界に膜。ああそうか、泣いていたんだった。
「寒いけど、飲まない? この先に劇場あるんだけど」
「劇場、ですか……?」の声はくちびるから先にうまく出ていかない。
「ここ、寒いよ。あったかいとこで、一緒に飲まない?」
コートで目をぬぐって、声のする方向を見た。自販機の安い光にも映える栗色の綺麗な髪。ピンクのコートからしゃらしゃら揺れるコンビニ袋。手を入れてロング缶を取り出すひと。かわいい。一歩、二歩、接近を許す。風俗嬢……のスレかたとは、ちょっと違うような気がする。
「おいで。食べたりしない。殺したりしないよ」
一瞬、凍りつくわたし。からかわれている。袋の中で仲良く揺れる、ロング缶二本。だれのための二本。
「行こう」
 かわいいひとに手を引かれ、やおら腰をあげる。いままで縮こまっていた足元に冬の風。わたしの手は冷たく、このひとの手はあたたかい。わたしのつけないような、主張強めな香水のにおい。やっぱり、ここらへんで仕事をしているひとだろうか。ふと気になって、わたしを引く指先を見る。そして横顔。わたしより七、八年くらい上にみえる。年相応の指先。その指はわたしをどこに連れていくの?
 鳥居を抜けて、ラブホテルと弁当屋のあいだの小路に入っていく。居酒屋にライブバー。室外機の横に高く積まれたビールケース。さっき通った道かもしれないけど、闇はいっそう深まって、いまやもうまったく知らない道だ。振り返ると、自分が座っていた神社が驚くような立地にあることに気づく。ラブホテルに挟まれた四角い敷地を長く使うように、斜めに参道がつくってある。一段の幅を狭くして、角度をつけた石段の上に本堂が建つ。避難所の狭い区画に体育座りで身体を無理やり押し込めているみたいだ。
「ここだよ」
前を向きなおると、雑居ビルの地下に向かう階段にさしかかっていた。
「もう、つながなくてもいっか。手」
かわいいひとは言うと、こんどはわたしの隣に立ち、背中に手をそえてくれた。見上げると、明かりの切れたネオンサイン。「根岸劇場」の文字があった。