窮屈な回り階段を降りていくと、突き当たりに女性の顔写真が六枚貼ってある。弥生カモメ、Moeko、橋詰凛、かなざわ優衣、楠葉うれい、早蕨麗香。どれも全体的に……ダサい。実物を見なくても昔の写真と明らかにわかる人、ステージが始まるすぐ前に撮影されたのか化粧のけばけばしい人、ピンボケな人、縦に横に引っ張りすぎて画素数のたりない人。意図的に不細工にしているとしか思えない。キャバクラとかで見る写真とは全然違う。
「写真、そんなに気になる?」
「はい」まともに返事をしたのは、これが初めてかもしれない。
「昔の写真だから、あんまり見ないで」
見ないで、ということは、この中にこのひとがいるのだろうか? 判別が難しい。目が奇怪に大きかったり、輪郭がごりごり削られている加工だったら実物は推しはかれるが、これらの写真はトレンドの逆をゆく。六枚とこのひととを行きつ戻りつ目を動かしていると、「あっしはねえ……これ」と子どものように指さした。「あっし」とは、かわいい。「あたし」が目いっぱい切り詰められた「あっし」。無邪気さが鼻につかない。ささやかな別の感動に心を持っていかれそうになるが、わりに短く切りそろえられた、つやのある爪の先に視線を向ける。早蕨麗香。いやいや。こんな写真。もう一度顔を見る。全然、違うよ。
「全然、違うでしょ」

 受付には完全に営業を終えたという体の、河川敷に一本立つススキのようなはかなさの老人。背を丸めて札束を数えている。
「あれ、なに。誰連れてきてんのさ」
「うん、ちょっとね。そこで話してもいいかな」
怪訝な顔の老人。
「いいけど。夢ちゃんがあとで練習しに来るってさ」老人がわたしをまじまじ見る。
 電気の半分だけついたロビーで、丸テーブルに向かい合う。ロング缶のロゴがたがいに挨拶を交わしている。その夜わたしはどこまで話したのだろう……というのは嘘で、わたしは悲しいくらい酒に強くて、どれだけ酔っても自分が話した内容は残らず覚えている。それでも完全に冷静な思考というものは持っていなくて、やっぱり何かしらのたがは外れる。暖かい空気に髪をなでられて、身体の内側から疲れていたけれど、すべてを話し切るまで眠くはならなかった。母と縁を切るつもりで東京に出てきたこと、住む場所も仕事もないこと、家を出る前に母に見せつけるためにつくった手首の傷のことも。
「何見ても怖がんないよ? ストリッパーなめてるでしょ」急に真顔になった。静かに言われると、酔っ払ってふわり浮いていたわたしは急に地べたに縛りつけられた。生きた心地がしなくなった。
「リスカの痕も、タバコ押し付けられて太腿にできたヤケドも、全身にタトゥーがっつり入った子もいるしね。でもなんでかみんな踊ってるんだよね。理由はわかんないし、そんなにそんなに稼げる訳でもないし、最悪辞めたきゃ辞められるけど、ってかすぐ逃げる子もいっぱいいるけど。とにかく毎週毎週休まずに取り憑かれたように踊ってる。って、ごめん。責めたみたいになっちゃったね。そんなつもりはないよ」
大男に首をつかまれて高く上げられたり、下げられたり、また上げられたりしているみたいに、麗香さんの言動でわたしは揺れている。こういうとき、なんて言えばいいんだろう。「ごめんなさい」? 「死にます」?
「それにしても、こんな寒い時期に、鶯谷の神社で泣いてる子なんて普通、いないよ?」
「ですよね……」

 過去は曖昧になっていく。わたしだけにひも付けられた過去がわたしのもとを消えゆくとき、その過去に対して、どこまで謙虚でいられるだろう。母を忘れ、地元を忘れ、バレエを忘れれば、それはそれとして生きていけるのかもしれない。それはそれで楽しいのかもしれない。でも、忘却の向こう側におびえながら、過去の後悔を過去の願望にすり替えて語っているのかもしれないと、常に自分自身を牽制しつづける厚顔な生き方を、わたしの軽くてもろい心は受け止めきれるだろうか。
 いま、わたしの目の前にもう一度、鏡があらわれた。それはとても大きな鏡。ユナちゃんの姿は見えない。映っているのは、わたしだけ。トウシューズで思い切り蹴飛ばせば、いまならきっと割れるだろう。それでも。立ち尽くすわたし。そのあいだにも視線は対象物の輪郭をあばきだし、絶え間ない自己批評につづくスタートアップに入る。逃れる。逃れない。左の手首に映る、数本の赤い線。あなたはそれを赦しますか、赦しませんか。法服をまとった裁判官に問われても、わたしはまごつくばかりで。



 明るさに気づく。何かが聞こえる。ゆっくりと、目覚める。布団に寝ている。髪と、肌が、脂っぽい。
「姐さん、起きたー」
「了解」とくぐもった声がする。周りにはコテで髪を巻く人、脚を開いて股関節を伸ばしている人、スマートフォンをのぞく人。どうやら「起きた」のはわたしらしい。
「ずいぶん寝たね。若いねえ」年に似つかわしくない、高い声だ。事態をのみこみかけてはいるが、どう返答するべきかに困る。
「あの……わたし、たぶん」
「起きたらまずは、おはようございます。ね」今度はちょっと鼻にかかる声。
「おはようございます。たぶんわたし、酔ってここで、寝てた」
「『寝てた』じゃないと思うなあ。麗香ちゃんがここまで運んで寝せてくれたんだと思うよ」
「あ。すみません」
起き抜けに発した言葉の揚げ足を取らないでほしい。そう思いながらも、昨夜の記憶の断片とあり得るすべての粗相に考えをめぐらせて、被害規模の相場を見積もっている。
「麗香ちゃん、洗浄終わったら出番だからさ」
ガシャ、とシャワーのドアが開いた。昨日の早蕨麗香が、素っ裸でそこに立っている。筋肉質で、胸もほどよく豊かで、なんだかローマとか、そういうところで大理石の像にでもなっていそうな身体だった。
「そうなのごめんね。あっしそろそろ出なきゃいけなくて。いろいろ、あとででも大丈夫?」
「出るって、舞台ですよね」
「そうだよ。ストリップ劇場で、ほかにどこに出ていくの」
「見ていっても、いいですか?」