ストレッチをしていた人に誘導され、階段を三段上がって小さな扉を開けると、昨日のロビーに出た。振り返ると急かすように右手をぶんぶん振っている。「右、右にずーっと行きなさい」という口のかたち。少し低くなった出口に気をつけて足を置き、こそこそと大きな扉に近づいていく。後ろから「誰よ」と耳打ちする低い声が聞こえる。オレンジの革がところどころはがれ、ガムテープでつぎはぎされている両開きの扉。一度引いても開かない。もう一度思いきり引くと、ごっ、という大きな音を出して強く手前に開いた。真っ暗な中からいくつかの目が光る。立ち見の客がこちらを見て不思議そうな顔をしている。見ない顔、若い女ひとり。番外地に来てしまった。周囲の視線につられて、扉の前にいたおじさんがこちらを向く。
「なに、若い子。ああ前に行きなさい、前に行きなさい。ひとつ空いてんでしょ。せっかくだから、前に座ってきな」
前に、前に、という声に背中を押されて、しぶしぶ歩いていく。どの席も、ひざのすぐ前に背もたれがある。脚を組むのにも難儀するおじさん。通路も狭く、隣の客にも近い。圧迫感。それは昨夜のアルコールの混じった胃液の予感。
 不意に蛍光灯が消える。舞台袖からちらちら漏れる光と、後方の小部屋の電気だけをたよりに、せり出した丸い舞台の最前列、端の端にちいさく座った。後ろを見る勇気はないけれど、ほとんど満員だということはわかる。

 「はいそれでは本日一回目のトリを飾りますのは早蕨麗香嬢です。開演の際はみなさま盛大な拍手でお迎えください」
静寂。幕の後ろ側から足音がきこえて、やがてそれも止まる。
 ギターの音。一瞬遅れてカッ、と照明が頬を斬りつける。貝殻からおもむろに出てきた麗香さんは水色のビキニを着て、腰から下はそれより少し濃いブルーのパレオをまとっている。あらわになったデコルテがキラキラと照らされ、そこからのびる右腕はしなやかだけど、よく見ると肩や上腕の筋肉がしっかりとついていて健やか。
 ヒールのままで左から右へ、右から左へとツカツカ動きまわる。ピルエットもばっちり決まっている。すごい。ヒール履いてるのに。たまにくいと軽くしゃがむとき、パレオのスリットから腿の上、大きくつるりとした生のお尻が見えてくる。そのお尻を支える膝にふくらはぎ。皮膚の薄い膜の下に過不足なく骨と筋が張っていて、人工的な建築物を見たような気持ちになる。たくましいが、太くはない。ヒールで伸ばされて、太ももとすねと足の指先までが一直線になる。バレエを踊るひとの脚……。
 ライトの青で少し渋みがかった茶髪を、口もとまで運んで甘噛みする麗香さんと目が合った。わたしが見えているのだろうか。少し頬をあげ、目線を残しながらくるりと後ろを向く。
 曲が終わると、斜め上方に顔を向けて何かを見つめていた麗香さんは、水色の残像だけを舞台に残して走り去っていった。
 再びの静寂。息が荒くなっている。皮が破れ、スポンジの飛び出たピンクの椅子に打ち付けられていたように座っていたのに。ただただ綺麗だった。そして、わたしも踊っていたーー心の中で密かに踊る自分を、否定せずにいられたことは今までにあっただろうか。いや、麗香さんの踊りにはそんなことを考えさせる暇すらなかった。ともすればうるさいほどの光。くらくらしそうになる大音量。この場においては、そのどれもが彼女を美しく、神聖にみせるためだけにあった。すべすべの腕をライトのもとに晒して、思い切り指先まで伸ばす彼女を見て、わたしは脇にじんわりと汗をかいていた。手足が熱かった。

 短いつなぎの曲がかかる間に、麗香さんは急いで袖から楽屋にはけていき、逆の袖から戻ってきた。また曲が替わって女性の歌声になる。きわどい下着に衣装替えした麗香さんが、舞台の出っぱりまで歩み寄る。乳白色だった丸い舞台がうすい桃色に発光して彼女の身体を照らす。息をのむ。快感にまみれる。脳から身体のすみずみまでサイダーが流れこむように鳥肌が立った。息づかいと汗とが生き物の証で、それ以外はやっぱりミロのヴィーナスみたいな彫像に思えた。それでも腰からお尻、太腿のまわりを眼で触れてみると、確かに柔らかい。
 ぶいーん、低い音が鳴りはじめて、丸い舞台がせり上がった。回転する舞台の上で、下着をじりじり脱いでいった麗香さんは、脚を交互に上げ下げしはじめた。ちらりちらりとみえる下腹部に目がいってしまう…………毛がない。剃っているのかな。
 曲がサビにさしかかると、片脚を後ろに大きく曲げて手をいっぱいに広げた。場内すべてからの大きな拍手。思わずわたしも拍手。まもなく止んで、今度は脚を自分の胸につけるように高く引き上げる。すべてみえてしまって、最前列のわたしは思わず顔がこわばってしまう。拍手。残響。ブリッジの姿勢。拍手。ブリッジのままゆっくりと立ち上がり、また拍手。背中の筋肉のかたち。頬の熱さ。目の奥に溜まった感動が逃げ場を求めている。
 脚をクロスさせるように、ゆっくり一歩ずつ舞台奥へと進んでいき、曲が終わると同時にこちらを振り返って、自分の胸を抱くようにして右に傾いだ。スポットライトが小さくなって消えて、そしてわたしはどっと疲れた。

 「やわらか乱れ髪、魚になる、泣き叫び目を閉じて」
ぶつぶつ唱えながら劇場のドアを出て、茶色い三人がけの椅子に腰かけてスマホを取り出す。電池はほとんど残っていない。祈るように歌詞を検索窓に打ち込んで、声におぼえのあるアーティスト名と一緒に検索をかける。出てきた曲をちょっとだけ聴いて、使っていた曲の名前をメモ帳アプリに書き出して、苦しいのは呼吸を忘れているからだと気づいて、大きく息を吸った。
 長いハンドルに手をかけて再びドアを開けると、ステージの端のほうからドアの前まで、ずっと人が並んでいる。列の先頭では禿げたおじさんが、麗香さんと写真を撮ってもらっている。
 蛍光灯の光に照らされ、痛がゆい気持ちでもといた席に戻る。客と二言、三言会話をかわして、デジタルカメラで写真を撮っている。彼女のM字開脚をあおるように撮ったり、並んでポーズをとったりしている。異様な空間だと思った。でも、この奇妙な地下劇場のなかのコードに従えば、いまはわたしが全くの異物。
「それではオープンショーの方をお楽しみください」
ボソボソとアナウンスが入って、イントロが流れだすとともに再び麗香さんが出てくる。舞台上は今日いちばんの明るさになって、みんなが手拍子を始める。客席のうねりはらせんを描くように舞台にまで押し寄せる。袖ではタンバリンを叩き始める小太りのおじさんまで出てきた。
 麗香さんは最前列の客の手を取り、後転するようにごろりと倒れる。客は手を引っ張られて前のめりになり、その勢いでまんこを数秒間凝視して手を振って別れて、彼女は少しずれて次の人の手を握る。ステージの左から順にきている。あと三人でわたしの番がくる。
 作法がわからない。帰りたい。でもどこに。高鳴る心臓が身体全体を揺らしはじめる。サビに合わせて周囲がこぶしを上げる。隣の人は緑のペンライトを持っている。振り上げるシャツの袖が少し臭う。わたしは麗香さんに手を握られる。

 ごろん。
 あ…………好き、です。
 すき? ほんと? ……あたしも。どう、一緒に踊る?

 麗香さんの毛のないそれは綺麗だった。というか、そこまでもが綺麗だったという感想が正しいのだろう。
 奥の客にも丁寧に、ひとりひとり投げチューをしているうちに曲が終わり、アナウンスに急かされるように「ありがとうございましたー」と一礼して袖に消えていった。

 これが早蕨麗香、麗香姐さんとの最初の出会いだった。