「百やったうちの五十もできないと思った方がいいよ。人生だってそうでしょ」

 雪野ひかりは舞台袖から、自分の前の出番を終えて戻ってくる姐さんの姿を待っている。麗香姐さんの言葉がふと浮かんで、瞬間怒りがわいたが、実際その通りだと思い至って、目もとが潤んだ。自分の人生、百のうちの五十、いや三十も何かを成し遂げられただろうか。

 早朝なにも食べずに家を出て、新幹線の中で二度吐いた。ストレートの紅茶を飲んでおいてよかったと心底思った。鼻にもどってくる乳臭には気が触れそうになるから。
 昨日の晩に何度も地図アプリで出発時刻を確認して、今朝また地図をひらいて、時間が経ちすぎて再起動した検索窓に昨日と同じように「周防ショウアップ劇場」と打ち込んだ。11時には到着するはず。荷物が到着したことも電話で確認済み。万事がうまくいくようにできている。できていないのはわたしの心と体だけ。
 新山口のホームから見える町は凶悪に呑気だった。全国の天気予報には表示されないくらいの地方都市。まあ、こんなもんか。どこかで見た空と同じねずみ色なだけ、まだよかった。はじめて見る空に迎えられていたら、わたしはきっと三たび吐いた。胃や食道や、のどの荒ればかり気にしていたけど、少しずつ思考が明晰に戻ってきたみたいだ。ホームの窓ごしに、十階建てかもう少し高いホテルが見える。空気が肌を舐める感触。海が近い。
 タクシーの運転手はなにを言うのも面倒だという顔で、わたしにとっては都合がよかった。行き先だけを告げると、ただ細く低く返事をしてアクセルを踏みはじめた。耳に大音量を流し込んでラジオの声を消す。ベースラインまでそらで歌える。テンポも再現できる。一拍ごとに脳内が踊る。連れて小さく手足が動く。劇場でも同じように、劇場で百を出すために。
 交差点に近づくと車体は不恰好に止まった。わたしが前方に体を浮かせるたび、運転手の後頭部の脂臭さに食べてもいないなにかがこみ上げてくる。帰れないくせして帰りたくなった。
 劇場に着くと、事務所のマネージャーからLINEがきていた。
「10日間よろしくね」
「手首切る前にLINEして。今度こそ仕事飛ぶ」
「よ」
最後の「よ」が彼のうすら寒いユーモアなのかつけ忘れた語尾なのか、考える前に洞窟のような入口に踏み込む。ポーチから、さらに押し戸があって、赤が剥げた丸い持ち手は錆のにおい。重いドアの隙間から染み込むようにロビーに入る。もぎりのじじいは札束を数えていてわたしに気がつかない。あるいは死んでいるのかもしれない。

 吹越ゆみか姐さんはうわべで優しくしてくれる。すでに人間はわかり合えないことをわかっている。すべてをあきらめたところからすべては始まる。
「当日乗りはひかりちゃんだけだから、他はもうリハ終わらせといたよ。好きに使って」
そう言って開場までの一時間をわたしのために使わせてくれた。
「もみまん、たべる?」
トップバッターの姐さんはわたしの楽屋の入口に小さなものを置いて舞台に走っていった。直後、劇場に細く低く、金魚のフンのような開演のアナウンスが流れ始めた。コンタクトを入れる前の絞りきれない視界でドアににじり寄る。こしあんの「もみじまんじゅう」がゆみか姐さんになり代わってこちらにお辞儀をしていた。丁重にゴミ箱にお連れした。
 替えの衣装をカゴに入れ、舞台袖に近づいていく。客とのポラロイド撮影が終わって、ゆみか姐さんはオープンショーに向かうところだった。わたしの出番は近い。

 アリガトウゴザイマシタ、とゆみか姐さんがお辞儀をした。最後にもう一度Y字バランス。Tシャツが上げた脚の股関節でひっかかり、だらしなく垂れる。ライトを浴びてふさふさと生えそろった陰毛。ぴんと地面に張った左脚。三方向から光が当たって、三つのYができている。普段乗っている劇場よりも、舞台までの距離が長い。拍動が身体全体を乗っ取りはじめた。息を吸って吐く、吸って吐く、意識をしなければ忘れてしまう。ゆみか姐さんがひたひたと戻ってくる。軽やかに湿った足取り。細くはないが、筋肉がわずかに浮き、女性美と肉体美の交差点を歩いてくる脚。ひざを曲げるたび裏側に筋が見える。踊り込んできた証拠だ。これまでの踊り子としての生活が、薄っぺらい優しさとひざの裏側で、ひっそりと、でもいくらか得意げに微笑みかけてくる。思考が拍動を振り落としにかかる。呼吸を忘れた身体が、何かを欲しがるように上下動を繰り返す。もみじまんじゅうは捨てた。戻すようなものは身体に入っていない。からっぽのわたしを見て。そして視線をそそぎ込んで。
 ト・ン、と背中を叩かれる。ゆみか姐さんが笑う。「息を吸いなさい」そう、忘れていた。視界に白く光る斑点が無数に広がりはじめて、低血糖におびえるわたし。息を吸って吐く、吸って吐く、腕が動く、手が動く、指が動いた。十六分間だけ動けばそれでいい。鼓動をおさえるためのゆっくりとした呼吸はいまやもう無意味。末端に血を送り込むために拍動と呼吸を無理やり合わせる。黙っているのに走り出している。追いつかないのは身体か、心かーー幕が閉まる。わたしはいそいで小道具の貝殻を舞台へ運ぶのだ。小脇に抱えて、かけ出す。
「はいそれでは…………二番目…………雪乃ひかりさんです…………な拍手でお迎え…………」
位置にちゃんとつけた記憶だけが、確かに残っている。暗転。
 巧妙に計算しつくされた作為と自然とのあいだには、いったい何があるのだろう。わたしにはわからない。優しさ? だったら、なおのこと。作為と自然の境目をぼかす闇色のファンデーション。カクテルライトとピンスポットと、それを受けて鈍く輝き返す無数の目だけがわたしを照らす空間。

 ギターの音が響いて、フレーズの終わりの「ジャーン!」でライトが点く。仰々しさはグループ・サウンズのにおいすら起こさせる。水色のスポットライトが、わたしの入った大きな真珠の貝殻を照らしているはずだ。かぶり席で観ている老人たちには誰の曲かもわからない。興味もない。トップでなく、トリでもトリ前でもない二番手のわたしに求めているのは、正真正銘ナマの女性器だけだ。安心しな、あとでまんこで窒息死させてやる。匿名の存在に噛みついても空いばりに終わる。客席なんて見えない。見えるようで見えない。深くて、遠い。
 太い弦がイントロを弾きはじめたタイミング。わたしは貝殻の中から立ち上がる。拍手も聞こえない。耳が狂えばバランスが取れなくなる。一歩目を踏み出すまでの長い助走。
「音をしっかり聞いて」
麗香姐さんの声。客席の後ろで腕を組んでいるような気がする。とにかく、十六分間、わたしを受け入れてください。

  空が太陽を抱き まどろむ君は僕に
  しつこいほどディープな キスをせがみ

貝殻から脚を出す。かぶりの席の視線は生ぬるい。轟音を浴びてなお、三時の方向の爺さんは船を漕いでいる。お盆の端から足を出せば蹴れそうだ。まず右腕を胸のまえに、それからゆっくり伸ばす。指先を確認する。皮膚がつっぱる感覚。手のひらの汗が引かない。
「どうして伸ばせない?」
これは麗香姐さんではない。わたしが長く拒んできた声。胸の奥、かさぶたが自然と割れる音。
 デビュー週にかけて以来、踊ってこなかった演目。引っ張りだしてきた水色のブラは背中がすこし突っぱって、振り起こしの初日に着けていたら肩に擦り傷ができていた。三年でこんなにも肩まわりが大きくなったことに、今更ながら気づく。同じものはもうネットには売ってないから、ユザワヤで肩ひもだけ作りかえた。麗香姐さんに教えてもらったミシンの使い方、上から布をおさえてくれた柔らかな手。
 ヒールが床を噛む感覚が、いつもの劇場と全然違う。お盆に布が張ってあって、ステップを踏むたびわずかに滑る。こらえたときにひざの裏がぴくりと動く。ゆみか姐さんのような健やかな脚が欲しい。縮こまって、伸びる。まわりに空気がないみたいに、踊りに手応えが感じられず、いっぱいに伸びようと力むと腱を傷めそうでこわい。
 後ろを向くと、いつもより長く伸びる影。
「シルエットがエロいかどうか、よく見て踊りなさい。シルエットがエロくなかったら、しょせん生身の踊りにも大した魅力は出てないと思って」
麗香姐さん。いま、わたし、独りきりです。

 東京の劇場で踊るときの二倍はあろうかというわたしの影。大きくても、決してたくましくはないそのかたち。綺麗な曲線のイメージを必死に追いかけるマリオネットになる。
「ストリップはいつも曲線。手の届く距離にあるものをいかに時間をかけて掴むことができるか。そこに命かけなさい」
「そう、もっと沈んで。最長距離で。つま先をさわるくらい腰を折っていいよ。お尻に丸み出るからね。あとでビデオ見たらわかるから…………はい、そこで髪さわって」

  やわらか乱れ髪に 指をからめて
  泳いでく 誘惑の海に

外側から胸のほうへ、湿った手を微かに髪の毛に触れさせてゆるく円を描く。指を追いかけていた目線を、ひと思いに前へ。客の顔……なんて、見えるはずがない。印象派の絵画のようにゆるくつながる色彩。わたしの眼球が溶けだしたことに気づいていないだけ、かもしれない。

  まぶしい身体に この胸を焦がして
  溺れてくどこまでも 時を止めたまま

右を向いて光をつかむ。最長距離で左下へ手をやる。そのあいだにも曲線。今だけでも踊るために生まれてきたのだと信じたい。今、ここにいるみんなに、見られるために生まれてきたのだと。
「お前は、歪んでいるよ」
かたく目をつぶって、その声を拒む。あの頃あなたが期待していたわたしは、山の向こうにすべて置いてきたから。皮のよじれたランドセルや、黄ばんだ毛布を愛して、一生を終えて欲しい。わたしはもう、風俗街のはずれにある、歪んだ円形劇場の上にしか存在しない。
「違う。どこへ行っても、お前はお前だよ。今だってほら、買ってやらなかったトウシューズの代わりに、ずいぶん高いヒールで踊ってる。ポアントのつもりかい」
汗をかいた背中が震えるほど冷たい。踊りが小さくならないか、それだけを必死に探る暗闇。あえぐように仰向くと、青い光を投げかけている投光さんの顔、そして不釣り合いに太った体。もっと闇がほしい。わたしのおぞましさを、みんなには見せないように。
 ポアントーーつま先立ちという言葉を聞いたのは何年ぶりだろう。それも自分の内から出てきたことに、驚きを通り越した戦慄をおぼえる。

 わたしは、ほんとうにあの頃から何も変わっていないの?
 曲が変わる。心地よいギターの揺れに流されて、再び舞台に戻ってくる。暗転のあいだに袖の奥のほうにしまい込んだ貝殻が、まだごろごろと硬質な音をあげている。
 曲調に合わせて右に一歩、左に一歩、お盆のほうへ進んでいく。

  コンクリートにしみ込む 冷たい陽とさまよう
  ふるえる肩を抱いて 二度と戻らない

 儚げなアウトロとともに、シュルシュルシュル……とかすかな音。いちだんと照明が暗くなって、ミラーボールの光がちらちら、壁の鏡に映ってちらちら。いくたびもの反射を繰り返してきた、細く、弱まった光に背中を射抜かれる感覚で気がつく。舞台奥の幕が開いたのだ。リハーサルで見て驚いた、一面の鏡張りの壁。
 わたしの乗ったお盆が、静かに回り始めた。天井を見上げて横たわった姿勢から、ゆっくりと脚を上げ、下着に手をかける。右腰のひもをほどいて左腰に二重に結んでやると、短い三曲目が終わって、ベッドショーの曲がはじまる。慌ててブラを外し、舞台奥の方へ軽く投げる。
 脚をひらひら上げては下げる。腹筋をつかって同時に上体を揺らして、水の中でわたしは浮かぶ。目の前の客が、わたしの脚の、そしてまんこの動きに合わせて柔らかくうなずいているのがわかる。そのあいだにも神経は指先に。背骨のくぼみを降りていく汗が、腹筋の震えでその流れを早めている。お盆は回りつづけ、わたしは何回転目かではじめてまともに鏡をみる。古ぼけた劇場の暗がりに並ぶ鏡は、わたしがいつの日か見ていた、憎むべき鏡によく似ていた。



 ユナちゃんの豊かな太腿部が見える。自分と体格はさほど変わらない。腕の細さや足の長さも。バーレッスンのグランプリエのときに、大きくかがみ込みながらバーを挟んで踊るユナちゃんを盗み見る。スカートを履いてはいるが、腰の落ちはじめる位置や曲げきった膝から、大体の体つきを推し測る。やっぱりほとんど変わらない。でも、そうだとしたら……。
 あごを引いて鏡を見る。胸の前で手を開くような動きを何度も繰り返すユナちゃん。凛とした背中。鏡に映る顔が、蛍光灯を背負っていて薄暗い。彼女もまた、自分の嫌いなしぐさと向き合っているのだろうか。だとしたら、そのユナちゃんにどうしたら追いつけるのか考えているわたしは、もう一段低い。
 自分の何もかもが嫌いになり始めていた。きれいに伸びてくれない脚。その脚を意識しすぎておろそかになる腕の位置。流れるようにひらいてくれない指先。そして何より、なんだか釣り合いの悪い顔。こうして寝転がっていると、そんなすべてから意識だけ切り離されているみたいで気が楽だった。リノリウムの冷たさのせいだろうか。
「いつまで残ってんの。もう閉めますよ」ドアの向こうは電灯がついて明るかった。母の声だった。

 往時のにぎわいもすっかり消えた山あいの炭鉱町で、母はバレエに殉じるかのように指導に熱をあげていた。というか、わたしの知っている母はバレエにのみ殉じた、と言うべきかもしれない。
「お前は、歪んでいるよ」
 毎日のように、母はわたしに言った。言われるたび鏡の前に立った。あるいは立たされていたのが無意識のうち習慣になったのか、思い出せない。教室の一面に貼られた鏡のなか、真正面に立つわたしはどこがおかしいのだろう。ユガンデイルことは、美しくないこと。それだけが母とわたしの解釈の一致。毎日毎日、自分を美しく見せることだけに全霊をささげ、階段を降りて自室に向かうとくたくたになった。
「のんちゃん、じゃあね、またすいようび」
元気な声に少しだけドアを開けると、土間で彼女がトウシューズを履き替えている。同学年のユナちゃんは、母の「お気に入り」だった。

 いま、劇場の鏡が、自分を見るためではなく、自分を見せるためにあるものでよかったと、わたしは思う。視界は光によって与えられるものなのに、鏡に映った自分を見るときだけはその受動性をかたくなに拒む。鏡の向こうの不格好さが途切れない思考を促す。脳の血流が増えるような、わかりやすい切迫感。わたしがもう一度鏡と向き合うことができたのは、ストリップをはじめたあとだった。
 鏡を見るたび泣いていたあの頃のわたしを、母はどういう思いで見つめていたのだろう。みずからの一挙手一投足に絶え間ない批評を迫られる緊張に、早くも耐えられなくなった娘の姿を。あのいなかまちの鏡の向こうでは、わたしはせめて一番でなくてはならなかった。唐草を模した枝からこじゃれた看板のぶら下がる、町に一軒のバレエ教室の娘として。
 十四歳の雪野ひかりーーその頃まだ、雪野ひかりという名前もなかった少女は、舞台袖から、自分の前の出番を終えて戻ってくる年少の子たちの姿を待っている。群舞はまだ始まったばかり。震える体を無理やりに動かして身体を温めておく。深く息を吸い込むと背筋が伸びる。ひらけた視界の隅から、ジャンパーを着込んだユナちゃんと松葉杖。
「そりすと、がんばってね」
「え、ソリスト? うん……がんばる」
いつもの口調より熱量が低いのは、広すぎるホールの、肌を突く冷たさのせいだけではない。本当ならソリストは彼女。管内のバレエ教室がいくつか集まっておこなう合同発表会の、映えある大トリを務めるはずだった。いや、あの頃の母の息巻いた様子を察するに、この発表会は明らかに通過点だった。
「先生が、ううん、のんちゃんのママがね、言ってたよ」
「うん」
「のんちゃんは賢すぎるんだって。もっとバカに生まれてくれてたら、わたしよりバレエ上手だったかもしれないって。自分のことも、ひとのことも、考えすぎて感じすぎて分かった気になりすぎて、バレエなんかやらせなきゃもっといい子に育ってたかもしれないんだって。」
 笑いもしなかった。気味が悪かった。
 賢すぎる? 違う。自分を見ることに深い恐れを抱いているだけだ。わかっている。だから、まず他人を見てしまう。誰かの出方を、これ以上ないほど慎重にうかがう。そして自らの劣りを確信してから、ゲームを始めるのがわたしだ。永遠に負けつづける後出しじゃんけんの場に、「負けられる」というアイデンティティが背中を押す。いや、正確にはそれだけが押してくれると言うべきなのだろう。だからわたしは吐きながら、こうして舞台にのぞむ。

 群舞の子たちが反対の袖へとはけていった。アナウンスが名前と演目を読みあげて、わたしは舞台へと歩みを進める。ユナちゃんとは違う、認められなかったわたしはトウをつくことなくーーバレエシューズで、足指の腹でぺたぺた歩くドゥミ・ポアント。
 でも、ステージに立ったとき、確かに感じたのは間違いじゃない。鏡のない、広い大きな舞台。確かにわたしはいま、ここに立っている。空気がわたしを中心に動いて、ライトが照らす見えるか見えないかの細かな塵すらきらめいている。自分の粗を探し続けることをしなくてもいい。ただ目の前の人たちを楽しませることができるのであれば、そのためにきょう、踊る意味はあるはずなんだ。祈りにも似た感覚だった。
 ハープが低く拍子を刻みはじめた。「スワニルダ」第一幕のヴァリエーション。右手を柔らかく折り、目の高さに置く。アン・バー、アン・ナヴァン、ア・ラ・スゴンド。教えられたポジションの残像を追いかける。そして流れ出す旋律。視界良好。鏡がわたしを映すことはない。

 バレエの美は自己制御の美だ。意識が脚をある高さまであげようとし、身体が要請どおりにその高さまであがる、その一致、その統率の美。いまにして確かに理解できる。十年あまり遅かった。でも、十年分の生活がなければ、きっと一生気がつかなかった。
 あのときとは違ったやり方で、わたしは脚をあげる。でも気持ちはあのとき、ユナちゃんに代わってステージにあがったときと、なにも変わっていないような気がする。この踊りを母が見たなら。いままで一度も考えたことなどなかった疑問がふと頭をよぎる。冷笑するだろうか。目を背けるだろうか。
「ストリップはさ、ピンク映画に似てるの。決まった形式をはさめば、あとは自由。って、ひかりちゃんピンク映画とか観たことないよね……わかる?」麗香姐さんの熱っぽい表情を思い出す。
 そう、いまのわたしはあのときよりも強かだ。きっと椅子の背から背へ、ドゥミ・ポアントで歩いていって、壁際に立つ母の目の前で思い切り脚をあげるだろう。教えられてきた抑制を突きやぶったこの脚が、母のはるか頭上の壁に突き刺さる。そのとき母は、片手に持ったぼろのランドセルを捨ててくれるだろうか。ほころびかけた毛布に、火を放ってくれるだろうか。

 十四歳の、いなかまちの、まさしく純朴な村娘のスワニルダだったわたしは、はじめての鏡の向こうの世界を相手に、馬鹿らしいほど綺麗に、伸びやかに踊っていた。コッペリアをほんとうの人間であるかのように、懸命に踊りに誘った。まさにその点が、母の癪に障っていたのだとも知らずに。
 舞台上で大きな円を描くように16回転のピケ・トゥールを回って、そしてわたしはバレエを辞めた……いや、形のうえで辞めた、と言うべきか。



  悩める胸にあなたが触れて 雨は終わると想った
  だけど誓いはあまりに強く いつか張り詰めるばかり

 鏡を背にして、音楽はよどみなく流れる。わたしは脚を曲げてのばして、自転車を漕ぐように柔らかに動く。まわる盆の上。
「音をしっかり聞いて」麗香姐さんの言葉を、いま一度思い出す。ギターが忠実にリズムを刻んだあと、にわかに調子を変える。スネアの強い音が絡みはじめる。姿勢を戻し、強く息を吸って、吐く。

  永遠を願うなら 一度だけ抱きしめて その手から離せばいい

 右の脚を強く体側にひきつける。いつもより勢いをつけすぎて、一瞬横っ腹がつりそうになる。息を細かく吸って、腹筋を少しだけ緩めた。五感を縛っていたものが一緒に緩みはじめて、拍手が聞こえてくる。伸ばしかけた手を、足先にぴったりと添える。苦しさが出ているかもしれないと、あわてて表情に意識を移す。すべてにおいて考えている暇がない。ここからは感覚勝負。歌詞を口ずさみ、次のポーズのモーションに入る。百も五十も関係ない。ごめんね麗香姐さん。いまのわたしには、いまのわたししか、見せられない。右手と右脚を、高くあげる。

  わたしさえいなければ その夢を守れるわ 溢れ出る憎しみを織りあげ
  わたしを奏でればいい

 この人のように、三次元を超えたい。はじめて劇場で麗香姐さんを観てそう思った。姐さんが、ちょうどいまと同じポーズを切っているときだった。
 北海道から着てきたキャメルのロングコートの裾が、砂利に触れている。十二月の東京は、地元のように雪も降らずまつ毛も凍らないけれど、それだけにむしろ陰険な寒さを感じた。誰も用のない境内の端、低い石垣に座ると少しだけ落ち着いた。追い立てられるように東京に来ても、わたしを歓迎してくれるものはないらしい。知ってはいたけれど。

 空港発のアクセス特急を上野で降りて、大きなスーツケースをひいて不動産屋に入った。すぐに入れる部屋を、と言うといぶかしがられ、「ご職業は……」と聞かれて黙ってしまった。不動産屋を出た途端、黒くて重たい感覚がすぐに身体の真ん中を占拠した。振り払うように早足で、改札を通る。見聞きした覚えのある「山手線」という文字が、無心のわたしを優しく誘導して、方面も知らずにそのまま乗りこんだ。車両に乗って一息つくと同時に、こんどは止めていた思考の逆襲がはじまる。じわりと蝕まれ、わたしは猫背になって黒いものを閉じこめようとしている。「杭州学院の中国語」「写真だけの結婚式」「吉岡形成外科」「ヒロドダンスアカデミー」「絵画造形教室」……とにかく車窓から見えるものを目で追って、頭に送り込んで。それでも皮膚は感じている。ほのかな諦めの気配、ノーアイデアの間抜けな顛末。ゼロにはなにをかけてもゼロのままで。
 「プレミアム」「サヴォイ」「ポプラ」……ラブホテルの名前は読みやすくて、重苦しい考えを逸らすような思考の隙を生みだしてはくれない。転がり落ちるように次の駅で降りた。

 六時をまわっていた。東京はずっと分厚い雲におおわれていて、いまのいままで夜が始まっていると教えてくれなかった。改札を出ると目の前にコンビニ。その前にはデリヘル嬢を待つ革ジャケットの男や、そんな感じの男を待つデリヘル嬢が並んでいて、だれも彼もスマホを顔に近づけてこちゃこちゃ指を動かしている。ガラガラガラ、ガラガラガラとスーツケースの音が小気味よく響くのが耐えられない。
 風俗店の玄関におそるおそる歩み寄っていく。「求人募集! 時給1,200円〜」とポップな書体で書かれていて倒れそうになる。カランコロンとドアが開く。一般住宅のような、黒い扉にシルバーで縦長のハンドル。出てきたのは客とおぼしき男で、一瞬固まったわたしになんらかの意味を持った視線を投げかけ、やがて立ち去った。わたしはもういちど貼り紙を見る。「正社員に昇格したら30万円超」「店長候補で月収100万円も!」「パワフルに働ける男性募集中」
 わたしも店員でいいのに。そんなことを思っても、きっとこの業界の構造がそうはさせないんだろう。女は商品、耐久消費財。風俗嬢になったら、所詮わたしもいつまで耐えられるのか考えながら生きつづけることになるのだ。
 なにも食べていないのに、いっこうに空腹がやってこない。胃も食道も、あるいは腸も、この真っ黒のどろどろに溶かされてしまったのかもしれない。地を這うようなスーツケースの音で、はじめて自分の胴に腕がつながっていることを知る。視界が波打つ。「目の前がまっくらになる」なんて、ほんとうにあるんだ…………



「寒いけど、飲まない?」
遠くから声をかけられて目を開けた。視界に膜。ああそうか、泣いていたんだった。
「寒いけど、飲まない? この先に劇場あるんだけど」
「劇場、ですか……?」の声はくちびるから先にうまく出ていかない。
「ここ、寒いよ。あったかいとこで、一緒に飲まない?」
コートで目をぬぐって、声のする方向を見た。自販機の安い光にも映える栗色の綺麗な髪。ピンクのコートからしゃらしゃら揺れるコンビニ袋。手を入れてロング缶を取り出すひと。かわいい。一歩、二歩、接近を許す。風俗嬢……のスレかたとは、ちょっと違うような気がする。
「おいで。食べたりしない。殺したりしないよ」
一瞬、凍りつくわたし。からかわれている。袋の中で仲良く揺れる、ロング缶二本。だれのための二本。
「行こう」
 かわいいひとに手を引かれ、やおら腰をあげる。いままで縮こまっていた足元に冬の風。わたしの手は冷たく、このひとの手はあたたかい。わたしのつけないような、主張強めな香水のにおい。やっぱり、ここらへんで仕事をしているひとだろうか。ふと気になって、わたしを引く指先を見る。そして横顔。わたしより七、八年くらい上にみえる。年相応の指先。その指はわたしをどこに連れていくの?
 鳥居を抜けて、ラブホテルと弁当屋のあいだの小路に入っていく。居酒屋にライブバー。室外機の横に高く積まれたビールケース。さっき通った道かもしれないけど、闇はいっそう深まって、いまやもうまったく知らない道だ。振り返ると、自分が座っていた神社が驚くような立地にあることに気づく。ラブホテルに挟まれた四角い敷地を長く使うように、斜めに参道がつくってある。一段の幅を狭くして、角度をつけた石段の上に本堂が建つ。避難所の狭い区画に体育座りで身体を無理やり押し込めているみたいだ。
「ここだよ」
前を向きなおると、雑居ビルの地下に向かう階段にさしかかっていた。
「もう、つながなくてもいっか。手」
かわいいひとは言うと、こんどはわたしの隣に立ち、背中に手をそえてくれた。見上げると、明かりの切れたネオンサイン。「根岸劇場」の文字があった。
 窮屈な回り階段を降りていくと、突き当たりに女性の顔写真が六枚貼ってある。弥生カモメ、Moeko、橋詰凛、かなざわ優衣、楠葉うれい、早蕨麗香。どれも全体的に……ダサい。実物を見なくても昔の写真と明らかにわかる人、ステージが始まるすぐ前に撮影されたのか化粧のけばけばしい人、ピンボケな人、縦に横に引っ張りすぎて画素数のたりない人。意図的に不細工にしているとしか思えない。キャバクラとかで見る写真とは全然違う。
「写真、そんなに気になる?」
「はい」まともに返事をしたのは、これが初めてかもしれない。
「昔の写真だから、あんまり見ないで」
見ないで、ということは、この中にこのひとがいるのだろうか? 判別が難しい。目が奇怪に大きかったり、輪郭がごりごり削られている加工だったら実物は推しはかれるが、これらの写真はトレンドの逆をゆく。六枚とこのひととを行きつ戻りつ目を動かしていると、「あっしはねえ……これ」と子どものように指さした。「あっし」とは、かわいい。「あたし」が目いっぱい切り詰められた「あっし」。無邪気さが鼻につかない。ささやかな別の感動に心を持っていかれそうになるが、わりに短く切りそろえられた、つやのある爪の先に視線を向ける。早蕨麗香。いやいや。こんな写真。もう一度顔を見る。全然、違うよ。
「全然、違うでしょ」

 受付には完全に営業を終えたという体の、河川敷に一本立つススキのようなはかなさの老人。背を丸めて札束を数えている。
「あれ、なに。誰連れてきてんのさ」
「うん、ちょっとね。そこで話してもいいかな」
怪訝な顔の老人。
「いいけど。夢ちゃんがあとで練習しに来るってさ」老人がわたしをまじまじ見る。
 電気の半分だけついたロビーで、丸テーブルに向かい合う。ロング缶のロゴがたがいに挨拶を交わしている。その夜わたしはどこまで話したのだろう……というのは嘘で、わたしは悲しいくらい酒に強くて、どれだけ酔っても自分が話した内容は残らず覚えている。それでも完全に冷静な思考というものは持っていなくて、やっぱり何かしらのたがは外れる。暖かい空気に髪をなでられて、身体の内側から疲れていたけれど、すべてを話し切るまで眠くはならなかった。母と縁を切るつもりで東京に出てきたこと、住む場所も仕事もないこと、家を出る前に母に見せつけるためにつくった手首の傷のことも。
「何見ても怖がんないよ? ストリッパーなめてるでしょ」急に真顔になった。静かに言われると、酔っ払ってふわり浮いていたわたしは急に地べたに縛りつけられた。生きた心地がしなくなった。
「リスカの痕も、タバコ押し付けられて太腿にできたヤケドも、全身にタトゥーがっつり入った子もいるしね。でもなんでかみんな踊ってるんだよね。理由はわかんないし、そんなにそんなに稼げる訳でもないし、最悪辞めたきゃ辞められるけど、ってかすぐ逃げる子もいっぱいいるけど。とにかく毎週毎週休まずに取り憑かれたように踊ってる。って、ごめん。責めたみたいになっちゃったね。そんなつもりはないよ」
大男に首をつかまれて高く上げられたり、下げられたり、また上げられたりしているみたいに、麗香さんの言動でわたしは揺れている。こういうとき、なんて言えばいいんだろう。「ごめんなさい」? 「死にます」?
「それにしても、こんな寒い時期に、鶯谷の神社で泣いてる子なんて普通、いないよ?」
「ですよね……」

 過去は曖昧になっていく。わたしだけにひも付けられた過去がわたしのもとを消えゆくとき、その過去に対して、どこまで謙虚でいられるだろう。母を忘れ、地元を忘れ、バレエを忘れれば、それはそれとして生きていけるのかもしれない。それはそれで楽しいのかもしれない。でも、忘却の向こう側におびえながら、過去の後悔を過去の願望にすり替えて語っているのかもしれないと、常に自分自身を牽制しつづける厚顔な生き方を、わたしの軽くてもろい心は受け止めきれるだろうか。
 いま、わたしの目の前にもう一度、鏡があらわれた。それはとても大きな鏡。ユナちゃんの姿は見えない。映っているのは、わたしだけ。トウシューズで思い切り蹴飛ばせば、いまならきっと割れるだろう。それでも。立ち尽くすわたし。そのあいだにも視線は対象物の輪郭をあばきだし、絶え間ない自己批評につづくスタートアップに入る。逃れる。逃れない。左の手首に映る、数本の赤い線。あなたはそれを赦しますか、赦しませんか。法服をまとった裁判官に問われても、わたしはまごつくばかりで。



 明るさに気づく。何かが聞こえる。ゆっくりと、目覚める。布団に寝ている。髪と、肌が、脂っぽい。
「姐さん、起きたー」
「了解」とくぐもった声がする。周りにはコテで髪を巻く人、脚を開いて股関節を伸ばしている人、スマートフォンをのぞく人。どうやら「起きた」のはわたしらしい。
「ずいぶん寝たね。若いねえ」年に似つかわしくない、高い声だ。事態をのみこみかけてはいるが、どう返答するべきかに困る。
「あの……わたし、たぶん」
「起きたらまずは、おはようございます。ね」今度はちょっと鼻にかかる声。
「おはようございます。たぶんわたし、酔ってここで、寝てた」
「『寝てた』じゃないと思うなあ。麗香ちゃんがここまで運んで寝せてくれたんだと思うよ」
「あ。すみません」
起き抜けに発した言葉の揚げ足を取らないでほしい。そう思いながらも、昨夜の記憶の断片とあり得るすべての粗相に考えをめぐらせて、被害規模の相場を見積もっている。
「麗香ちゃん、洗浄終わったら出番だからさ」
ガシャ、とシャワーのドアが開いた。昨日の早蕨麗香が、素っ裸でそこに立っている。筋肉質で、胸もほどよく豊かで、なんだかローマとか、そういうところで大理石の像にでもなっていそうな身体だった。
「そうなのごめんね。あっしそろそろ出なきゃいけなくて。いろいろ、あとででも大丈夫?」
「出るって、舞台ですよね」
「そうだよ。ストリップ劇場で、ほかにどこに出ていくの」
「見ていっても、いいですか?」
 ストレッチをしていた人に誘導され、階段を三段上がって小さな扉を開けると、昨日のロビーに出た。振り返ると急かすように右手をぶんぶん振っている。「右、右にずーっと行きなさい」という口のかたち。少し低くなった出口に気をつけて足を置き、こそこそと大きな扉に近づいていく。後ろから「誰よ」と耳打ちする低い声が聞こえる。オレンジの革がところどころはがれ、ガムテープでつぎはぎされている両開きの扉。一度引いても開かない。もう一度思いきり引くと、ごっ、という大きな音を出して強く手前に開いた。真っ暗な中からいくつかの目が光る。立ち見の客がこちらを見て不思議そうな顔をしている。見ない顔、若い女ひとり。番外地に来てしまった。周囲の視線につられて、扉の前にいたおじさんがこちらを向く。
「なに、若い子。ああ前に行きなさい、前に行きなさい。ひとつ空いてんでしょ。せっかくだから、前に座ってきな」
前に、前に、という声に背中を押されて、しぶしぶ歩いていく。どの席も、ひざのすぐ前に背もたれがある。脚を組むのにも難儀するおじさん。通路も狭く、隣の客にも近い。圧迫感。それは昨夜のアルコールの混じった胃液の予感。
 不意に蛍光灯が消える。舞台袖からちらちら漏れる光と、後方の小部屋の電気だけをたよりに、せり出した丸い舞台の最前列、端の端にちいさく座った。後ろを見る勇気はないけれど、ほとんど満員だということはわかる。

 「はいそれでは本日一回目のトリを飾りますのは早蕨麗香嬢です。開演の際はみなさま盛大な拍手でお迎えください」
静寂。幕の後ろ側から足音がきこえて、やがてそれも止まる。
 ギターの音。一瞬遅れてカッ、と照明が頬を斬りつける。貝殻からおもむろに出てきた麗香さんは水色のビキニを着て、腰から下はそれより少し濃いブルーのパレオをまとっている。あらわになったデコルテがキラキラと照らされ、そこからのびる右腕はしなやかだけど、よく見ると肩や上腕の筋肉がしっかりとついていて健やか。
 ヒールのままで左から右へ、右から左へとツカツカ動きまわる。ピルエットもばっちり決まっている。すごい。ヒール履いてるのに。たまにくいと軽くしゃがむとき、パレオのスリットから腿の上、大きくつるりとした生のお尻が見えてくる。そのお尻を支える膝にふくらはぎ。皮膚の薄い膜の下に過不足なく骨と筋が張っていて、人工的な建築物を見たような気持ちになる。たくましいが、太くはない。ヒールで伸ばされて、太ももとすねと足の指先までが一直線になる。バレエを踊るひとの脚……。
 ライトの青で少し渋みがかった茶髪を、口もとまで運んで甘噛みする麗香さんと目が合った。わたしが見えているのだろうか。少し頬をあげ、目線を残しながらくるりと後ろを向く。
 曲が終わると、斜め上方に顔を向けて何かを見つめていた麗香さんは、水色の残像だけを舞台に残して走り去っていった。
 再びの静寂。息が荒くなっている。皮が破れ、スポンジの飛び出たピンクの椅子に打ち付けられていたように座っていたのに。ただただ綺麗だった。そして、わたしも踊っていたーー心の中で密かに踊る自分を、否定せずにいられたことは今までにあっただろうか。いや、麗香さんの踊りにはそんなことを考えさせる暇すらなかった。ともすればうるさいほどの光。くらくらしそうになる大音量。この場においては、そのどれもが彼女を美しく、神聖にみせるためだけにあった。すべすべの腕をライトのもとに晒して、思い切り指先まで伸ばす彼女を見て、わたしは脇にじんわりと汗をかいていた。手足が熱かった。

 短いつなぎの曲がかかる間に、麗香さんは急いで袖から楽屋にはけていき、逆の袖から戻ってきた。また曲が替わって女性の歌声になる。きわどい下着に衣装替えした麗香さんが、舞台の出っぱりまで歩み寄る。乳白色だった丸い舞台がうすい桃色に発光して彼女の身体を照らす。息をのむ。快感にまみれる。脳から身体のすみずみまでサイダーが流れこむように鳥肌が立った。息づかいと汗とが生き物の証で、それ以外はやっぱりミロのヴィーナスみたいな彫像に思えた。それでも腰からお尻、太腿のまわりを眼で触れてみると、確かに柔らかい。
 ぶいーん、低い音が鳴りはじめて、丸い舞台がせり上がった。回転する舞台の上で、下着をじりじり脱いでいった麗香さんは、脚を交互に上げ下げしはじめた。ちらりちらりとみえる下腹部に目がいってしまう…………毛がない。剃っているのかな。
 曲がサビにさしかかると、片脚を後ろに大きく曲げて手をいっぱいに広げた。場内すべてからの大きな拍手。思わずわたしも拍手。まもなく止んで、今度は脚を自分の胸につけるように高く引き上げる。すべてみえてしまって、最前列のわたしは思わず顔がこわばってしまう。拍手。残響。ブリッジの姿勢。拍手。ブリッジのままゆっくりと立ち上がり、また拍手。背中の筋肉のかたち。頬の熱さ。目の奥に溜まった感動が逃げ場を求めている。
 脚をクロスさせるように、ゆっくり一歩ずつ舞台奥へと進んでいき、曲が終わると同時にこちらを振り返って、自分の胸を抱くようにして右に傾いだ。スポットライトが小さくなって消えて、そしてわたしはどっと疲れた。

 「やわらか乱れ髪、魚になる、泣き叫び目を閉じて」
ぶつぶつ唱えながら劇場のドアを出て、茶色い三人がけの椅子に腰かけてスマホを取り出す。電池はほとんど残っていない。祈るように歌詞を検索窓に打ち込んで、声におぼえのあるアーティスト名と一緒に検索をかける。出てきた曲をちょっとだけ聴いて、使っていた曲の名前をメモ帳アプリに書き出して、苦しいのは呼吸を忘れているからだと気づいて、大きく息を吸った。
 長いハンドルに手をかけて再びドアを開けると、ステージの端のほうからドアの前まで、ずっと人が並んでいる。列の先頭では禿げたおじさんが、麗香さんと写真を撮ってもらっている。
 蛍光灯の光に照らされ、痛がゆい気持ちでもといた席に戻る。客と二言、三言会話をかわして、デジタルカメラで写真を撮っている。彼女のM字開脚をあおるように撮ったり、並んでポーズをとったりしている。異様な空間だと思った。でも、この奇妙な地下劇場のなかのコードに従えば、いまはわたしが全くの異物。
「それではオープンショーの方をお楽しみください」
ボソボソとアナウンスが入って、イントロが流れだすとともに再び麗香さんが出てくる。舞台上は今日いちばんの明るさになって、みんなが手拍子を始める。客席のうねりはらせんを描くように舞台にまで押し寄せる。袖ではタンバリンを叩き始める小太りのおじさんまで出てきた。
 麗香さんは最前列の客の手を取り、後転するようにごろりと倒れる。客は手を引っ張られて前のめりになり、その勢いでまんこを数秒間凝視して手を振って別れて、彼女は少しずれて次の人の手を握る。ステージの左から順にきている。あと三人でわたしの番がくる。
 作法がわからない。帰りたい。でもどこに。高鳴る心臓が身体全体を揺らしはじめる。サビに合わせて周囲がこぶしを上げる。隣の人は緑のペンライトを持っている。振り上げるシャツの袖が少し臭う。わたしは麗香さんに手を握られる。

 ごろん。
 あ…………好き、です。
 すき? ほんと? ……あたしも。どう、一緒に踊る?

 麗香さんの毛のないそれは綺麗だった。というか、そこまでもが綺麗だったという感想が正しいのだろう。
 奥の客にも丁寧に、ひとりひとり投げチューをしているうちに曲が終わり、アナウンスに急かされるように「ありがとうございましたー」と一礼して袖に消えていった。

 これが早蕨麗香、麗香姐さんとの最初の出会いだった。
 「麗香さんのような、ストリッパーになりたいです」

 楽屋に戻って、シャワーから出てきた麗香さんに頼みこんだ。
「あっしは止めないけど、いい?」
予期せぬ言葉。快諾でも、拒絶でも、またわたしに対して熟慮を求めるでもなかった。わたしの目をしっかりと見て言った。この目を逸らしてはいけない。
「とりあえず、服、着てもいいかな」
楽屋の真ん中で、白い容器からボディクリームを取り、腕、肩まわりとおそらく決められた順序で塗っていく。五百円玉くらいの大きさのクリームをくるくると手で伸ばし、その手を軽く曲げた脚へもっていく。あの淡いピンク色に染められた脚。懐かしい子守唄のように大事に抱きかかえている三十分前の記憶。音も光も衣装もメイクも、すべてが踊り子を美しく、かわいく見せるためだけにあったあの時間。踊り子の身体と精神と創意工夫とが、そのままなんの検閲も受けずに舞台に上げられていく世界。そうか、誰も止めてくれないんだ。
「さ、どうする?」
ボアフリースの長いワンピースを着て、鏡の前でドライヤーをあてている。わたしが近づいていくと、隣の座布団をぽんぽんと触った。正座で麗香さんのほうを向くと、ドライヤーの風が止んだ。
「やりたい……です」
「こっち向いて言おうか」
くるりとわたしの座布団の向きを直した。隣にならんで、鏡を介して目を合わせる。
「言ってごらん」鏡に映った麗香さんは言う。やっぱりなんど見たって、鏡は嫌いだ。いや、鏡に映った、わたしが嫌いだ。だけど少しだけ安心感があるのはなぜだろう。隣には麗香さんがいる。この鏡は、過去ではなく未来を映している。
「ストリップがやりたいです」
麗香さんは小さく二度、うなずいた。
「お金もなくて、家も仕事もなくて鶯谷の神社で泣いてたんだから、おあつらえ向きだとは思ってたけど。でも、過程が大事だったと思うよ。自分からすすんで宣言したあなたに、自信、持ちなさい」
 その日から、彼女のことを「麗香姐さん」と呼んでいる。



 麗香姐さんのとりなしで、早々にデビューが決まった。わたしのデビューは一週間ーーこの世界でいう十日後の、同じ根岸劇場となった。
「デビュー演目、どんなのが踊りたいの」
「わたし、あの『マーメイド』が踊りたいです」と言うと、楽屋にいた全員が笑った。
「いちおう、まだ麗香姐さんの持ち演目だし……」
「あたしのときはド素人だったから、『好きなCD持って来い』って言われてデスメタル持ってったらスミレ姐さんに呆れられたなあ」
「あなた、なんかダンスやってた?」
「中学まで、少しだけバレエを」
「お、素養あるじゃーん! じゃあ、バレエを軸にしたやりやすい演目にするといいよ」
「いや」麗香姐さんが口を開いた。
「『マーメイド』、あげるよ。あっし、来週で引退するから」

 次の日から、昼は麗香姐さんの家で部屋の掃除や食器の後片付けなど、いわゆる居候として過ごし、夕方に姐さんが乗っている川崎ライブシアターへと向かう日々がはじまった。ホームの劇場での引退興行とあって、毎日わたしが着く頃には椅子席がほとんど埋まっている。姐さんは根岸劇場のラストステージと同じ「マーメイド」を偶数回目の演目にして、奇数回目をほぼ日替わりで出している。新作も過去作も定期的にいろんなところで出してるから大丈夫だと言うが、周りの姐さんたちは「技のデパート」「鬼のような複数出し」と笑いながらも心配している。
「でもね、どの先輩を見てても、引退週は無理してでもやり切るもんなのよ」
わたしは比較的客の少ない二回目公演のマーメイドをみて勉強し、その後は楽屋に入って四回目が終わるまで雑用係になる。SNSに上げる写真を撮ったり、ゴミを捨てたり、弁当やタバコや栄養ドリンクの買い出しに行ったり、とにかく言われたことをなんでもやった。川崎は終演が二三時と少し早い。そこから舞台を借りて自主練をして、身支度をととのえた麗香姐さんがやってきたらレッスン開始。「引退週だからいまはお金持ちだけどさ、出世払いだからね」と毎日姐さんがもらってくるチップでタクシーに同乗し、帰宅と同時にふたりはぐうぐう眠った。
「あっしのだけじゃなくて、全員の踊りをちゃんと通しで見たほうがいいよ。とくに二番目の小泉ルミカちゃんの踊りと、あっしの前に出てくる楠葉うれいちゃん、よく見てきて」
「ルミカちゃんは人に見られているってことをまだ意識しきれてない。まあ芸歴が浅いからしょうがないんだけどね。で、うれいちゃんはそこをわかってる。どの角度にあなたが立つか、じゃなくて、どの角度に立てば客席からどう見えるか、それを考えてから舞台に立ちなさい。舞台だけじゃなくて普段から考える癖がつくくらい」

 ふと、いつかのバレエの記憶、唯一楽しかったバレエの記憶がよみがえった。客席のユナちゃんは、わたしのことを羨んでくれたのだろうか。そして母は……客席から観ていたんだったっけ? いまとなっては忘れてしまったし、そんなことを考えている時間がない。あの日楽屋で小さな鏡に、自ら飛び込んだ。もう、元の世界には戻ってこれないのだから。
 川崎楽前九日目。楽日は満員になり、出番も当然押す。それにフィナーレが終われば出演者での打ち上げもあるから、実質この日が最後のレッスンだ。
 スーツケースを持って京急線に乗るのも慣れた。麗香姐さんの明日の演目に使う衣装と小道具を詰めて、家から持っていく。男装用のスリーピースと帽子、そして紙袋にウィッグ。快速に特急、エアポート急行にエアポート快特。乗り継ぎもやっとわかるようになってきた。
 姐さんは膝の痛みをこらえながら八日間を乗りきっていた。気遣いのことばは要らない、という顔をしていた。
「これが原因で引退するんだから、痛いのはしょうがないよ。ってかむしろ、膝が壊れるまで踊って引退したいから」と笑っていた。「滑膜骨軟骨腫症」「外側半月板損傷」とスマホで調べると、どちらにも安易に「手術」の文字が確認できてぞっとした。このひとは命がけだ。
 この日も二回目のマーメイドをみて、それから雑用をこなす。四回目公演がはじまる前、姐さんたちが、このあとは私たちがやるから、と自主練の時間をくれた。いやいいですわたしやります、となんども断っていると、
「いいっつってんだろ。ひかりちゃんがいなかったらもともと私らがやるもんなんだからさ」と叱られた。

 わたしはスマートフォンの動画を再生しはじめた。お気に入りフォルダに入っている動画ふたつ。まずは私の「マーメイド」、そして麗香姐さんの「マーメイド」。違うところと同じところを探す。次に違っていいところと違ってはいけないところを探す。頭の中の絵コンテと樹形図。シーン1、シーン2……という時間軸に、同じところ/違うところ、違っていいところ/違っちゃいけないところ……と無数の下層項目がつくられて伸びていき、それらはもとの位置をはがれて絡まっていく。二重らせんが二重らせんと絡まりあってさらに二重のらせんを形作る。いつまでも続いていくらせんを登っているのはわたしのようだ。駆け上がっても駆け上がってもどこにも向かえる気配がない。わたしの脚は動いている。けれども本当に上がっているのだろうか。らせんは下に向かっていて、いくら走ってもわたしは同じ高さにとどまっているだけなのではないか。
 視界良好。見ているようで見ていない。思考だけがじわじわと根を広げて八方へと伸びていく。走っているわたしを見ているわたし。考えているわたしを見ているわたし。ランナーズハイかもしれない。てっぺんはまだ見えない。走っているわたしからも、三人称視点に立つわたしからも。それでも脚だけは回転をつづけて、潤滑油は効きすぎて、歯車が円に見えるほどの速さで回っている。快感が三歩先を走っている。
 妙な興奮のなか、自主練をはじめた。楽屋の隅で振りをひたすら再現する。これまでの雑用で、姐さんたちの動線はなんとなくわかるようになっていて、邪魔にならない場所を、邪魔にならない時間帯だけ借りて踊った。ふと、麗香姐さんがわたしを呼んだ。姐さんは客から預かった写真の裏にコメントとサインを書いている。
「名前、はやく決めろってさ。根岸のおじいちゃんから事務所宛てに電話入ってたって。あっしちょっと考えてみたんだけどさ、」
そう言うと、写真の隣にあったメモ帳に、サインペンでしゅるしゅると「雪野ひかり」と書いてくれた。
「安易だけど。みんな、そんなもんだから。AVから来た子なんかはそのままだったりするし」
どうかな、と上目づかいでこちらを見る。
 ひかり、か。思いがけず肉親の名前を借りることに、戸惑ってしまう。
「上の名前はホントそのままで申し訳ないんだけどさ。でも、下はちゃんと考えたんだよ。あっしが生まれた街も雪、降るからね。思い出したくないこともあるけどさ、思い出してみたの。夜の空に、電灯のあかりに照らされた粒のおっきなぼた雪が斜めにばーっと降ってる様子がいちばん先に出てきてね。周りは真っ暗なんだけど、なんだかそこだけほの温かいっていうのかな。
 どう? 鶯谷の神社で泣いてたあなたはまさにお先真っ暗って感じだったけどさ、いまはちょっとずつ光が差してきてるでしょ」
「ちょっとずつ……」思えば、道なき場所に道がつくられはじめている。
「まずはあなたが光らないことには、客だってノってこないんだから。葬式みたいな踊りしてる場合じゃないよ。ってことで、『ひかり』どうかな。嫌?」
「ひかり、ひかりがいい。わたし、雪野ひかりでいきます」
 最後のレッスンは川崎の支配人や投光さんの厚意でゲネプロの形式になった。
きょうが終わればもう本番しかない、そう思うと体が震える。「ちょっと待ってください」となんとか言い終えると、楽屋のトイレに駆け込んで少し吐いた。口をゆすいで、パレオをなびかせ走って戻る。
 いつ蛍光灯が消えるだろう。貝殻の中から目を見開いて待っている。
「ひかりちゃん、呼吸してる?」麗香姐さんから声がかかった。「死ぬよ?」と言うと、麗香さんの横で見ている支配人が笑った。
「呼吸してる?」なんて、どういうアドバイスなんだろう。そして、姐さんにそんなアドバイスをさせたわたしって、なんだそりゃ。笑えてしまう。大丈夫でーす、返事をする。客電が消える。
「はいそれでは華のトップステージを飾りますのは本日のゲスト雪野ひかり嬢です。ひかり嬢は呼吸を忘れないように、お客様が呼吸を忘れるようなステージをお願いいたします」
投光さんのアナウンスが、観客のふたりしかいない場内に響いた。「ひゅーひゅー」とおどけて投光さんの気の利いた言葉に反応する麗香姐さん。ひとりで大きな拍手をしてくれる支配人。

 思い出せ、麗香姐さんの言葉を。そう言い聞かせるようにつぶやいて、手持ちノートに書き込んだ言葉を反芻する。一曲目がはじまる。貝殻をゆっくりひらいて、ゆっくり立ちあがって、ゆっくり一歩目を踏み出す。
「音をしっかり聞いて」「貝殻開いたら拍手もらえるから、しっかり待って。イントロの間はゆっくり見せる。立ち姿と歩き姿で間をもたせて」
脳内に響く言葉と、いま姐さんからかけられている言葉とが交錯する。
「考えすぎると身体動かなくなるんだから」言葉を言葉のまま、脳内においておく。「あなた賢いんだから、聞いた言葉はちゃんと自分の中で消化できてるはずだよ」
 客席に背を向ける。青い光の途切れた、自分の影をみる。そこに曲線はあるか。わたしは、エロいか。
「ストリップの客は『脱ぐからエロい』なんて目で見たりしないからね。ここじゃ全員脱ぐんだから」
出っ尻が悪目立ちしないように。いちばん気をつかう振りだ。動画で見ると、よくわかる。不自然に、無意味に尻を突き出しているように見える。姐さんのように、一連の動きのなかで身体を折り、結果的にお尻が出るようなニュアンスを出す。
 ヒールの音を響かせながら、左右にステップ。根岸劇場はここまで広くない。気持ち小さめに幅をとる。同じだけ返ってきて、中央でピルエット。靴底の擦れる鋭い音。

 曲が替わって、テンポが落ちつく。
「二曲目からは手拍子もらえない曲だから、ビビらないでやんなよ」
そう言われ、にわかに観客の目を感じた。そうだった。この人たちにどう見えるのか、考えなければ。
 身体の柔軟性は残っていたから、ベッドショーのポーズはレッスンでも苦にならなかった。
「まずはポーズ切るのにみんな苦戦するんだけどね。そこはよくできてる。問題はそのあと。ポーズに入ってから、決めにいくタイミングが大事だから」
四つんばいから手脚を上げる。七分くらいまで上げたところで、ほんの少しスピードをゆるめる。そして、伸びきる瞬間にもう一度勢いをつける。
「タメて、ノビる」
頭で考えるのと同じタイミングで麗香姐さんの声が聞こえる。
「このタイミングはお客さんの反応見てみないと実感できないと思うけど、意識しておくと役に立つから」
ノートに小さい文字で、言われるまま補足したことを思い出す。
 最後のポーズを切る。まだ筋肉がないわたしは、ブリッジから立ち上がることができない。支配人の拍手が途切れたのを聞いて、代わりにブリッジを一回くずしてから立ち上がり、バレエ風の礼をいれて帰っていく。
「オープンショーの練習もしようか。ひかりちゃん、そっちのほうが苦手そうだから」
と言われ、かぶりの席に座った支配人と麗香姐さんにまんこを見せた。麗香姐さんの前で、わたしは笑顔をひきつらせながらひらいた。姐さんは、なにを思ったのか「うわあ……」とかまととぶって、色っぽく口もとに手を当てた。

 「よし、おいで」
麗香姐さんのひとことで支配人が後ろに下がっていった。わたしは袖から舞台に戻った。
「きょうのこのゲネプロ、忘れちゃダメだよ」
「はい」
「あのノート、字ちっちゃ過ぎて読みづらいよ」
「勝手に読んだんですか」
「でも困ったときはアレに立ち返るようにすれば、ひかりちゃんもきっと大丈夫だから。いつかふたりで踊ろ」
「ふたりでですか」姐さんの目を見る。
「ふたりだよ? 膝治ったら、また戻ってくる気でいるから。そのときは川崎でお祭りだよ。ちょうどこれくらいの時期にしようね。雪野ひかり周年週アンド早蕨麗香復帰週って」
「まずは、まずはわたしがちゃんとデビューするところからですよね」
「そうね……でもねえ、本番は大変だよ?」
姐さんは二、三回うなずいて、真面目な顔になって続けた。
「百やったうちの五十もできないと思った方がいいよ。人生だってそうでしょ」
そう早口で言うと、わたしの脇腹を小突いてきた。わたしは、言葉を返せないでいた。
 スイカを改札機にかざし、せき立てられるようにゲートを通ると、左側から強い日差しを感じた。屋根のあるぎりぎりまで行くと、道路を挟んだ映画館のビルの上から太陽が照りつけている。北海道ではまずみられないような真冬の光。
 あまりの明るさに、劇場に向かう足を止めた。「川崎地下街アゼリア方面」と矢印が出ているのを見つけ、階段を降りる。まっすぐ進んで突き当たりを左に曲がれば、劇場最寄りの出口に着くはずだ。パン、寿司、居酒屋、定食、と店の並ぶなかを歩く。きのうの客が持ってきたバケツいっぱいのチキンはここで買ってきたのか。目移りはしても、劇場に一歩近づくたびに感じるかすかな震えは続いている。目に見える震えじゃない、胸の奥の震源の存在だけを確かに感じている。演者ぶんだけ差し入れされて、麗香姐さんから半分食べさせてもらったとんかつ弁当のにおい。
 角のカフェを過ぎて左に曲がる。二股にわかれた出口の右側をあがっていく。県道をそれて、路地を右、左、右、左、右。夜になっても同じ顔でだんまりとしてたたずむ、「Live Strip Theater」と書かれた電気のつかない大きなネオンに迎えられる。入口前には数人がたまっていて、貼りだされた演者の写真をスマホで撮ったり、同じ踊り子のファンどうしで話したりしている。何人か見知った顔がある。さすがに毎日決まった時間にあらわれて、スタッフのように立ち働いているのだから、「なに、新しい従業員さん? あなたも踊らないの」などときかれることもあり、来週から根岸でデビューする新人だと認知されはじめていた。
「まあ、紹介はほどほどにしておいてね。あんまりみんなに知れたら面倒っちゃ面倒だからさ。孫を愛でるような目線のなかに、ふと性欲がみえたりしてね。中途半端ないまが一番面倒くさい」と麗香姐さんに釘を刺されている。

 支配人に挨拶をすませて、いったん外をまわって楽屋に入る。
「おはようございます」
ちらほらと返事がある。楠葉うれい姐さんの姿がない。つまりは麗香姐さんの出番がもう近い。
「きょう、人すんごいでしょ」
「中はまだ見てないですけど」それでも、劇場の扉が開いたときの音の漏れかた、タバコを吸う客の多さ、入口前のたむろで十分すぎるほど様子は知れていた。
「まあ、嬉しいことだけどねえ」麗香姐さんは差し入れのお菓子をつまんだ。
「ポラロイドショーが長引いて、曲がカットされたら嫌だな。引退興行だから、さすがにそれはないだろうけど」
「ステージ押してるんですか」
「どうにか許容範囲でまわしてくれてるかな。ポラロイドショーをダブルとかトリプルで、っていうのは、二人とか三人まとめてやっちゃって、なんとか時間おさめてる感じ」
「もう行ったほうがいいですかね」普段なら麗香姐さんの二回目演目が終わるくらいの時間だ。
「見られるかなあ。ひかりちゃんの背じゃ、厳しいかもよ」

 ところどころ錆びついた階段を降りると、プレハブの物置の影で、五十代くらいの男性客が泣いていた。扱いかねると思って通り過ぎると、
「おねえちゃん、レイちゃんの付き人? それともあれかい、恋人かなにか」と後ろから声をかけられた。
「あ、いえ、あの」なにを返してもきな臭いことになりそうで、いちばん傷の浅い答えを探す。
「まあ、そうです。付き人というか、近くデビューするので」
「あ、そう。毎日レイちゃんの荷物運んで、大変だ」本当はなにを言いたいのか、いまひとつ掴みきれない。
「ありがとうございます。でもこれがいまのわたしの仕事なので」
一息でずらっと言い切って、足早に劇場に向かった。
 スーツケースをひいて劇場まで来ているだけなのに、わたしが麗香姐さんに付いていることを知っているのは、もしかしたら恐ろしいことなのかもしれない。なぜ姐さんのスーツケースだとわかったのだろう。朝、姐さんの劇場入りから待機している客だろうか。なんにせよ、振り返る気は起こらない。
 ロビーに定着しきった煙の白が、許容量をはるかに超えて開け放した扉の先まで侵入してきている。煙霧のカーテンをくぐりながら、窓口で券を売る支配人にぱっと目を合わせ、喫煙所を通って劇場の扉を引くと、内側から寄りかかっていた小太りの男性が足をもつれさせた。
 わたしの背じゃ難しい。言っている意味がよくわかった。座席はすべて埋まっている。いつもなら荷物だけがおいてある席がいくつかあるものだが、きょうに限ってはすべての背もたれから頭が生えていて、光合成を忘れた密林じみていた。高木から垂れる葉をかき分けて前に進もうとしても、押しやった体が体を呼び、いっこうに道は開かない。遠くから、聴き慣れた曲と強い光を感じて、仕方がなくわたしは引き返すことにした。めり込んでくる体の侵入を許してできた隙間を縫って、なんとか外へ出た。喫煙所の客が場内に雪崩れるように入っていって、灰皿にはまだ火種の残る吸殻がいくつか混じっている。「だめでした」と支配人に言って、楽屋にもどる。階段近くで泣いてた客は、もういない。
 手が空いた楽屋のみんなで麗香姐さんのポラロイドショーの写真にシールを貼っていると、姐さんが鏡の前に座った。セミロングの髪を手際よくまとめてピンで留め、ネットで小さくまとめる。手つきがこなれている。傍らに置かれた、耳に少しかかる長さのウィッグを手に取ろうとして、わたしの視線に気づいた。
「明日、デビューでしょ。いま、どんな気持ち」
改めてそんなことを言われると、返事に窮してしまう。
「恐ろしいような、嬉しいような、でも、昨日『本番は大変だ』って言われて……」本当に引っかかっているのはそこではない。百やったうちの五十もできない。無力なわたしを想像して、胸が、肋骨が、ゆっくりと強く自分を自分の中に閉じ込めていくような息苦しさをおぼえる。
「そう。本番は大変。いままで見てきて、よくわかったでしょ。でも、そのぶん、舞台は自由。あの場所を自由で楽しいと思えたら、きっとひかりちゃんは踊り子を続けられるから」
 「ありがとうございましたー」
高く朗らかな声のあとで、長いのれんをかき分けてうれい姐さんが戻ってきた。すでにほかの姐さんと済ませたハイタッチを、最後にうれい姐さんとかわして、麗香姐さんは闇のなかへ歩きだす。早蕨麗香の楽日四回目。最後の舞台。最後のマーメイド。これまでのいつにも増して大きかった客席のざわめきが、投光さんのアナウンスで一瞬のうちに止んだ。楽屋のうちにいて、初めて人が息をのむ瞬間を知る。
「見たい?」
袖から目を離せないでいると、後ろからうれい姐さんが話しかけてきた。いえ大丈夫です、と小刻みに首を横にふる。
「これ、現像しにいってもらってもいいかな」
デジタルカメラを渡され、わたしは「いってきます」と楽屋を出る。従業員室に持って行き、ステージで客と撮った写真を印刷してもらうのだ。階段を降りる。すっかり陽の落ちた川崎の夜。昼間の激しい日差しを思い出す。月が出ていても、年の瀬にしてはあたたかい。

 ロビーには、支配人以外もう誰もいなかった。カウンターにサッポロのロング缶が置いてあった。
「ちょっと、まだ終演前ですよ。飲んじゃっていいんですか」そう言い終えたときだった。
 視界の下のほうで、なにかが動く。目を向けると、くるぶしくらいの高さから小さな炎があがっている。ぱち、ぱちと音がして、受付とロビーを仕切る暗幕から白い紙がはがれた。みるみる黒くなっていく紙片の端に、かろうじてコンビニの名前が読める。
「……火、です、燃えてます、火事」
慌てて出てきた言葉を叫んだ。従業員室の奥からゆらゆらと出てきた支配人が、視線を下げて見たこともない驚いた顔をした。
「うわ、うわ、」
足をばたつかせて燃えていない片側からロビーへ転がり出る。
「消火器、そこ、そこ」
それらしきものは見当たらないが、とりあえず指さす先に向かう。
「俺はトイレの水、持ってくるから」
支配人は近くにあった雨漏り用のバケツを持ち、ロビーの奥へと消えていった。向き直って消火器を探す。公衆電話の台の下、今週の香盤表に来月までのフライヤーが置かれた机。いや、ない。マジでない。
「どこ」と叫んでも返事すらない。とにかく意味も考えず眼球を動かす。外に出る扉に近づいていく。ファンから麗香姐さんに贈られた、いっぱいの花が並んでいる。その脚の重なる向こうに、赤く光った消火器を見つける。
 さっきまでロビーは人でいっぱいだったのだろう。扉は午前中からずっと開け放たれているから、風が吹きこんできて暗幕の炎はどんどん勢いをつけて燃えていく。あたりの空気を鈍く引き裂いていくような燃焼音と、赤黒くのびていく火柱。遠くで水をバケツに流し込む音が聞こえても、所詮無駄なことなんじゃないかと眼前の光景に説き伏せられる。燃えひろがりはしないだろうか。ピンを抜いてレバーを握る。ノズルを持つ手が追いつかなくて、粉のような泡のようなものがわたしの手もとから垂れながら、勢いよく暗幕まで伸びていった。風で戻ってくるピンクの煙と、炎の熱さを全身に浴びて、これ以上は無理だと感じる。暗幕を視界に残しつつ、わたしはトイレに近づく。
「まだですか、水」
「もうちょっとで満杯になるから」
「もうやばいです、消火とかしてる場合じゃないです」
暗幕の燃える音が大きくなって、ふたりとも叫びあっているのに、聞こえ方はいつもの会話のようにも思えた。脳内にバグが発生しているのかもしれない。わたしはもう一度、こんどは姿勢を低くして炎に向かう。うしろから支配人が足音を立てて歩いてくる。
「もう駄目だ」
そう叫ぶのが聞こえると同時に、異変を感知した客がドアを開けて出てきた。炎がにわかに勢いを増した。溶け落ちていく焦げついた暗幕。飴を溶かしたような、いやらしく甘いにおいが微かにたちこめている。天井にぶつかっていく煙から、植物の胞子のように煤がふわり、ふわりと舞って、わたしの服に黒い斑点を残していた。
「火事です! 劇場から出てください」
叫ぶ支配人に向かって「楽屋に伝えてきます」と言うと、わたしは外から楽屋へ走りだした。

 階段に何度も足をぶつけながらのぼっていく。握った手すりから階段が焼け落ちていくところを想像して、手が震えた。ゴンガンゴンズッガンゴンガッゴッ、不恰好なリズムを奏でて楽屋の扉を開けて叫ぶ、「火事です!」
「はっ」「えっ」「ちょっと」「本当?」「衣装!」などと言葉が生まれ、外郭を形成し、やがてふんわりと丸みを帯びた危機感がわたしたちを包んだ。
「いまどんなかんじ」
「ロビーの暗幕が燃えてます」
「こっちに燃え移ってくる?」
「まだでしたけど、いつ火がくるか」
そう言いながら、それぞれの姐さんが貴重品とブランド物のカバンを持って逃げる準備をしている。鏡の前に並べられた化粧品を腕でポーチに押し流していく。裸の姐さんは羽織るものを見つけて袖を暴れさせながらこちらに向かってくる。楠葉うれい姐さんが、「はい」とスマホを投げてきた。
「これ、麗香の貴重品」
カバンや楽屋着を受け取りながら、あることに思い至って、わたしは楽屋の奥へ進む。
「麗香姐さんは?」
「麗香はまだ舞台乗ってるけど」……まずい。
「これお願いします」と楽屋着を強引に返した。
「麗香には伝わってるんだよね?」
伝わっていなくとも、客席の異変は感じているはずだ。それでもわたしは麗香姐さんのことが気になる。
 楽屋から急いで舞台袖に向かう。音楽はまだ鳴りつづけている。四曲目、ベッドショーの曲だ。間奏から大サビに入るあたり、本当なら最後の連続ポーズを切る前に、柔らかく呼吸を整えているころ。階段を降りきっても勢いが止まらず、ぶれた軸のまま強引に、右に左にハンドルを切りながら前進する。投光さんはもう逃げたのだろう、舞台後方からは水色の光だけがずっと、切り替わることなく盆に向かって当てられている。舞台まであと数歩というところで、やっとわたしは走る勢いをゆるめた。逆側の袖近くから、空間を切り裂くように流れる真っ白なリボンが見える。常連客がリボンを投げている、姐さんはまだ踊っているんだ。
 麗香姐さん、と声をかけようとした瞬間、半開きになっていたドアが燃え落ち、煙と炎が場内に入ってきた。上手側の壁にかかっていた暗幕に火が燃えうつり、大きな火柱が立つ。地を這うような炎の音と、天井から降りそそぐ音と光のあいだで、麗香さんは踊っていた。盆はかろうじてまだ回っていた。炎は暗幕から壁ぎわの椅子の背に燃え移ろうとしている。それでも姐さんはポーズを切っている。

  永遠を願うなら 一度だけ抱きしめて その手から離せばいい
  わたしさえいなければ その夢を守れるわ 溢れ出る憎しみを織りあげ
  わたしを奏でればいい

 しなやかに伸びる指先。その上を舞うリボン。わたしが「逃げて」と叫んでも、あふれる音にかき消されて届かない。もしかすると、麗香姐さんの踊りの美しさに、わたしは声を失っていたのかもしれない。いまとなっては、何もわからない。
「何してんの! 早くはやく!」
うれい姐さんに腕を引かれて、後ずさるようにして階段を登って楽屋に戻り、楽屋横の階段から外に出た。階段を降りてすぐ、消防隊員がわたしを抱えるように道路の真ん中まで連れていった。
 わたしは燃え落ちていく劇場を見ていた。体じゅうの力が抜けていく。まぶたを閉じる力さえなくて、半分開いた目で明るい夜空を見ている。これから、どうするんだろう。これから、どうなっていくんだろう。漠然としたことしか考えられなくなっている。とにかく、目をつぶろうとした。いつのことだったか、夜の色と、まぶたの裏の闇とが重なっていった。

 目を覚ますと、わたしは毛布にくるまっていた。
「気づいた、大丈夫?」
うれい姐さんが声をかけてくれた。炎はまだあがっていたが、劇場の大部分は焼け落ちて、火は勢いを弱めている。
「みんな無事なんですよね」周囲を見わたすと、支配人や投光さん、それに姐さんたちの姿がひととおりあって、わたしは大きく息を吐いた。
「それがさあ、麗香が」
いま聞いてはいけない言葉だと思った。後頭部を殴られたようだった。
「何が、あったんですか」死んでしまったのか……なんて聞けなかった。
「麗香、消えちゃったの。遺体らしきものは見つかってないみたいだけど、どこにもいないって」

 川崎ライブシアター十二月中週楽日、早蕨麗香姐さんは自身の引退興行を完遂し、自宅からも、劇場からも、跡形もなくわたしの前から消え去ってしまった。
  信じていれば恐れを知らず 一人歩けると知った

 四小節の短い間奏から、すぐに二番がはじまる。わたしは乱れた呼吸を整えながら、仰向けになり、顔の前でそっと手を組む。手のひらにはじんわりと汗がたまっている。動いたから、というよりもっと生理的な発汗。くちびるに触れた人差し指の腹はつくりもののように冷たく生気がない。大きなミラーボールの釣ってある天井が視界に入る。根岸劇場の天井は、ここの半分もない。

 デビュー週の初日、その根岸のせり上がる盆のうえで、いまと同じ孤独を味わっていた。無機質な機械音をたてて上昇する手術台。初物を捌こうと構えるいくつもの視線。そして麗香姐さんの不在。ほぼ一睡もできないまま姐さんの家で泣いていると、カーテンの向こうがはっきりと明るくなったころにLINEが届いた。
「麗香のことでつらいとは思うけど、きょうから一緒にがんばろうね」
うれい姐さんだった。根岸、川崎と麗香姐さんのほぼ同期として、ラスト二週を「友情出演」の扱いで乗っていた。きょうからまた根岸に戻って三連投になる。「ありがとうございます」と返信して、泣きながらシャワーを浴びる。
 楽屋に着いてから、割り当てられた座布団の上でずっと正座をしていた。めいっぱい息を吐いたはずなのに、まだ胸の中に吐かなければいけないものが残っている。むくむくと膨らんで、わたしの呼吸を蝕む。
「お互い、心配でしょうがないと思うけど、あたしたちにはあたしたちの公演があるからね」
そう言いながらも、うれい姐さんは公演の合間を見つけてはどこかに電話をかけていた。わたしは、出番前になると欠かさず吐いた。呼吸が乱れ、指先が震えるなか、「そろそろストレッチしとかないと、身体動かないよ」という言葉で慌てて楽屋の広いところに場所をとり、身体を伸ばしはじめる。息を吸って、吐いていたら、すぐに自分を紹介するアナウンスが流れはじめる。
「だいじょうぶ。麗香もきっとわかってる」
猫背になって小さくたたずむわたしを、うれい姐さんが後ろから抱きしめてくれた。わたしが出番前につけたーー麗香姐さんの使っていた、ツンとするビビッドな香水とはちがう、ほのかに甘くて柔らかい匂いがわたしを包んだ。「いってこい」と耳元でささやいて、わたしをつつむ細い腕が一瞬強く締まった。ぱっと腕は離れ、その反動でふわりと袖から踏み出した。真っ暗ななか、蓄光テープの細い光を頼りに貝殻にたどり着く。

 あの頃よりずっと広い舞台に寝ていても、思うことは変わらない。圧迫感も開放感も、すべてが不安に還元されていく。ただ、手首の傷を触ると、すこしだけ安心できた。わたしのなかの、わたし以上に傷めつけられている場所の存在を感じて、やっと感情の均衡を取り戻す。

 デビュー週の「マーメイド」を、わたしはなにかの「試練」だと思っていた。やり遂げればなにかが、麗香さんが、踊るたびにわたしに絡みつく不安が、すべてよい方向へ帰結するとでも思っていたのかもしれない。腹筋の筋肉痛も、背中の張りも、達成感に変わりつつあった。
 楽日の三回目公演だった。トップステージを終えて、ポラロイドショーの時間がくる。踊り終えた開放感と快い体の重み。客とも、どうにかまともに話せるようになってきた。
「デビュー週とは思えないよ。頑張ってね」
ありがとう。ありがとう。毎回の言葉が、泣けちゃうくらいに嬉しいのに、笑顔だけが上手につくれない。眉根が上がり、「大丈夫? 緊張しているの?」と毎日きかれる。どうしようもなくて、「本当にありがとうございます」の言葉と強めの握手でその場をとりなすわたしへの苛立ち。
 デビュー週の踊り子を観るファンはいろいろな思惑を抱えている。多くはすでに別の踊り子のファンで、わたしをその対象に含めるかどうか品定めしている人たちだ。あとは「最初のファン」になりたい人。目を見ればわかった。だけど、どう好きになってくれようと、その場でその口から発してくれる言葉だけがホンモノだった。その言葉でわたしの吐き気はしばしおさまり、胸の奥の紐は強く引かれ、鐘が鳴りひびいた。
「次回香盤決まってるの」
「一週お休みをいただいて、渋谷MS劇場になるかもです」
「あ、ほんと。もし確定になったら行くからさ」
伝える術はなくとも、いまはネットで各劇場の香盤表が出るから追いかけに来てくれる。
「ありがとうございます」
握手をして、へんな眉のまま少しだけ頭を下げる。すぐに次の客が近づいてくる。列は彼で終わりだ。
「あの」
強い口調だった。短い白髪に口の周りを覆うひげ。うつむきがちな顔に上目づかい。どこかで見たことがある。
「レイちゃんの演目ですよね」
レイちゃん、という呼び方にはっとした。川崎で、まだ見習いだったわたしを後ろから呼び止めた人。わたしを麗香姐さんの付き人だと言った、あの人。
「そうです。姐さんから、いただいて」突きつけるように差し出された、写真代の千円を受け取る。
「麗香はまだ死んでいません」
はい、そうですけど。わたしは必死に麗香姐さんを思い出したり抹殺したりしながら、この十日踊りつづけてきたんです。言葉にならない、言葉にしないけど。
「デビュー週でマーメイドなんかやるっていうのは、麗香に対する冒涜です」
客がざわつき始める。この人から罵られることと、この場を何事もなく収めることと、どっちがわたしを救うだろう。なぜ、どうして。
「麗香の演目をどうしてあなたがやっているんですか。あなたには、まだ、十年早い」
 心無い客の不誠実な感想とわかってはいたけれど、わたしを奈落に突き落とすには十分な言葉だった。踵を返して重たいドアを開け出ていく男。あまりにも突然の出来事に、誰もなにも、なすべき手立てがなかった。水を打ったようにしんとなる客席。
「ほかにお写真ご希望のかたはいらっしゃいませんか」よかった。誰もいなかった。
 オープンショーのあと、雪崩れるように楽屋に戻り、トイレで泣いた。握っていた千円札を破いて流した。心を殺す心を殺す心を殺す、なんども唱えて最終回のステージに上がった。貝殻を出て、ライトの当たっていない乳白色の盆を見た。盆は弱々しいわたしを映し返しているようだった。客の手に評価をゆだね、鏡のもとに素肌の自分と向かい合う。手は震え、腹筋が攣った。笑顔は引きつっていたはずだ。麗香姐さん。ストリップって、命がけでした。そして、わたしは……。
 その日、打ち上げを断って麗香姐さんの家に戻ったわたしを、不審に思って訪れたうれい姐さんが見つけてくれて一命をとりとめた。風呂場で手首を切って、倒れていたという。
 うれい姐さんは初日を休んで、わたしの入院の手はずを整えてくれた。麗香の一番弟子だから、あたしが面倒見ないと、と言葉にして伝えてくれる。心根の清くてやさしい人なのだろう。公演に穴を空けるわけにはいかないから、うれい姐さん以外が見舞いに来ることはほぼなかった。
「仕事、辞めたくなった?」
「いや……そうじゃなくて」
黙っていたら、姐さんが立ちあがった。
「ちょっとごめんね」そう言って靴を脱ぎ、ベッドに入りこんできた。スタンドに吊るされた血液と点滴が揺れる。
「本当はね、楽屋でこうしてあげてればよかったんだよね」手をつないでくれる。
「あなた、すみっこで正座しかしてなかったでしょ。あと袖のゴミ箱かトイレで吐くか。デビューしたときのあたしを見てるみたいだったよ。楽屋にあった強いお酒あおって出たことあったもん。自分をおかしくしないと出ていけない舞台なんて、狂ってるよね」
「狂ってます、ね」同意してもいいのだろうか。
「いや、あたしは今でもそう思うよ。でもね、」姐さんを見る。ぼんやりとした表情で、それでも目だけは強く、天井を刺すように見つめている。あの日、抱きしめられた背中から香ったのと同じ、ミルクの匂いの混じった香水。
「十六分間、あなたの世界を自由に表現していいですよってあんな舞台与えられたら、あたし狂ってでも出ていかないとって気持ちになるんだよね。だからまだストリップやってる」
 うれい姐さんの手は温かい。丸いもの、細長いもの、無数の穴ぼこの空いた天井を見ながら、初ステージの前に抱きしめてくれた、あの日の体温とこの手を接続させようと試みる。何が嘘で、何が本当だったろう。あの老人の言葉は、聞き間違いではない。でもそれと同時に、姐さんの言うとおり、わたしは十六分の自由を与えられた。ストリップは自由ーー麗香姐さんにも、なんども言われた言葉だ。あの、舞台に乗ったときの震えや鳥肌は、はたして恐れや緊張だけが生んだものだっただろうか。その背後でちらちらと光る、涼やかな原石にわたしは触れた。あれは都合のいい記憶の捏造だったろうか。
「気持ちが落ち着いたら、連絡ちょうだい。もう一回だけ、劇場においでよ」
そう言い残してうれい姐さんが帰った。

 退院したあと、事務所と劇場に謝罪に行った。
「ちょっと、踊ってよ」うれい姐さんに言われて、誰もいない根岸の舞台に立った。投光さんの席に座った姐さんが、マイクを通して「じゃ、はじめるよ」と言うと、青い光と何度も聴いてきた音が劇場を包んだ。下手から焚かれるスモークと、劇場全体に染みていくにおい。身体が振りをおぼえている。踊りだすと、手拍子が聞こえはじめた。盆に近づくと、客の温度すら感じられた。かぶりの席で、涙をひとすじ流してこっちを見ているのは、キャメルのロングコートをひざ掛けにしたあの日のわたしだった。顔を真っ赤にしたわたしに、話しかけてみる。
「ねえ、踊ってるわたしって、どう?」

 あ…………好き、です。
 すき? ほんと? ……あたしも。どう、一緒に踊る?

熱狂していた小さな劇場を思い出して身体が震えた。わたしは次の週から、また踊りはじめた。



 二番のサビが終わって、長い間奏に入る。ベースソロの跳ねるような音に身を委ねる。サビで思い切りポーズを切るための、長い助走のようなもの。麗香姐さんは舞台に出しながら作っていると言っていた。わたしはコンテンポラリーダンスの振り付けを観ながら、動きのストックをつくり、そこからいくつかのパターンを編み出していく。抑制の効いた身体も、ベッドショーの構成要素には大切なのだ。いまならそう断言できる。そして、その身体あってのポーズ。最後のサビがくる。きょうしか出せない気持ちを、ぜんぶ身体から放っていくように。
 わたしには、ストリップと、生と、死さえももはや同義だ。あの真っ暗な劇場や、タバコ臭いロビーや、ごちゃごちゃした楽屋をはなれて「まともな生活」が存在するのなら、わたしはまともじゃなくていい。

  優しく殺めるように

 最後のフレーズが終わって、伴奏のなかでわたしはレヴェランスをする。右、左の順に羽のように手を広げて、ゆっくりと身体ごと沈みこむ。バレエ風のお辞儀に拍手をもらう。一秒前のことをおぼえていない。踵をかえして、広い舞台の奥までゆったり歩き、振り返り、光に手を伸ばす。照明が、落ちる。ふっ、と息をつきかけて、あわててお腹に力を入れる。
「ありがとうございました」
「お衣装で撮られるかたはもういませんか」「大丈夫ですか」
ポラ着と呼ばれる撮影用の衣装を脱ごうとしたときだった。ヌードポラを待っている人のたまる中をかきわけ、オリーブ色のパーカーを着た若い男の子が歩いてきた。うっそうとした森の中を、ひゅうっと風が吹き抜けてきたようだった。
「はじめまして」
踊り子の性でそう言ったが、身体は初めてではないことをさとっていた。わたしと顔がよく似ている、五、六歳くらい……いや、はっきり知っている。五歳はなれている。
「どんな体勢で撮りたい?」覗き込みかげんに表情をうかがう。前髪は長くないはずなのに、その奥の目もとは翳っていて気持ちがいまひとつ読み切れない。「おまんこどうする?」とは、さすがにきけない。
「……いちばん、かわいい表情で」
男の子はそれだけ小さく答えて、慣れない手つきでポラロイドカメラを構える。両足がぴたりと閉じている。劇場の中では明らかに異様で、カメラを構えるにはあまりにも不格好で、わたしからすればこの上なくかわいらしい存在。両親と縁を絶ったいま、たったひとりの。血を分けた。
「あれ、あれあれ」
ファインダーの位置は合っているのに、何度も顔をカメラに近づけ遠ざけしてぶつぶつ言っている。そうそう、インスタックスのファインダーなんてのぞいたことないだろうからね。わかんないよね。
「ファインダーそこで合ってますよ。目が近すぎるかも」
「あ……あ、いけました。大丈夫です」
「はーい」と言ってポージングをはじめる。胸を張って、キラキラのビジューをカメラに向けて、首はわずかに斜に。目に力を入れる。
 きょう、はじめてしぜんに笑えた気がする。生まれてはじめてしぜんに笑えたみたいな気持ちで。目もとに添えたピースサインの指先を見るように視線を流したのも完璧。そっか、こうやって笑うんだったね。
 どうかな、病室で会うわたしより、100万倍かわいくないーー?

 パシリ、と光って、ブイーンと情けなく写真が出てくる。わたしさ、姉と弟の最短距離を、あえて迂回して、迂回して生きてきたのかな。なんでだろうね。でもわたし、もうこうやってしか生きられないからさ。
「ありがとうございました」普段の調子で言えた。ありがとう。これで今週もなんとかやっていけそうだよ。握手をしようと右手を差し出す。目の前の顔が、ふっとほころんだ。
「見にきて良かった。……カッコ、よかったね」
最後の「ね」はなにか間延びして聞こえた。「ねえちゃん」と言ったのかもしれない。さすがに高望みし過ぎだろうか。いや、言ってくれていたならいいな。
 わたしはよそゆきの笑顔に戻して、すこしだけ手を振って、男の子の後ろ姿を見送る。太ったおじさんと脂ぎったおじさんと、すっかり乾いてしわしわのおじいさんの話すその間を、小さくなってすり抜けていく。姉ちゃん、いま決めたよ。十日間の初乗り、頑張ってみる。きっと。

 「渚のはいから人魚」が流れ、わたしはもう一度舞台に向かう。客席のみんなにまんこが見えるように、脚をひらいてポーズをとる。かぶりの客に向かってはM字開脚を、奥のほうの客にはL字のポーズを。穴の中がよく見えるように指であけてやる。この劇場ではどこを見て笑おうか。初乗りの劇場の初回はいつも、そんなことを考えている間にオープンショーが終わる。だけど今日は違う。みんなの顔がしっかり見えた。最前列のひとは四十の後半くらいだろうか。まんこをみていかにも嬉しそうだ。三時方向のじいさんはまだ眠っている。軽くデコピンをしてやると、間抜けづらを見せたあと、すぐに眼前の光景に食いつく。立ち上がって前屈の姿勢になり、両脚のあいだから手を振る。ふしぎと身体がよく動く。戻って正面を向いて、最後にY字。その場で一周しながら、最後列の客を見まわす。

  渚のはいから人魚 キュートなヒップにズキンドキン
  渚のはいから人魚 まぶしい素足にズキンドキン

「ズキンドキン」に合わせて、わたしと同じタイミングで腰まわりを指さして踊る客がいる。デビュー週のわたしの出番をおぼえていてくれたのだろうか。東京の劇場では何度か見たことのある顔。そしてその隣で、行儀良さそうに拍手しているのが、まぎれもなく、わたしの弟。



 その晩、雪野ひかりは4回公演を終えた疲れかぐっすりと眠った。傍らにはサインとメッセージを書いている途中のポラロイド写真が数枚と、袋だけになったこしあんの「もみじまんじゅう」、そしてスマートフォン。スリープを待つだけの薄暗い画面のなかに、下書きのままの「今日はありがとう」というショートメッセージ。ヘッダには送信相手の「光」の文字。ひかりの指はスマホを離れ、いまは小さな楽屋の小さな布団のなか。

 劇場の廊下の電気が消えた。呼応するように、スマホの画面が、ふっと消えた。【終】
sage