里山と彼女
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気がついたら布団の中にいた。
ぼんやりと天井を見上げる。どこかで見知った天井だ。あの染みを子供の頃からよく眺めていた。
僕はどこにいるんだろう? 身体を動かそうとすると痛みが走った。息も荒い。怪我をしているのだろうか?
記憶がぼんやりとしている。僕は何をしていたんだ?
「真二郎さん」
声の方に視線を向けると奏さんがいつもの優しい微笑みを浮かべて僕を見下ろしていた。
「奏さん……僕はいったいどうして……」
「ここまで逃げてこられたのですよ。よく頑張りましたね」
「ここまで……って……」
「ここは里山。あなたの故郷です。お忘れですか?」
「いや……でも記憶がはっきりしなくて」
「それも仕方ありませんね。とても大変な戦いだったようですから」
「戦い?」
「あなたは爆堂山と戦ったのです。そして勝利した」
「爆堂山……」
それは最強の魔物の名前だった。日本中を混乱と恐怖の渦に叩き落とした最低の幻魔。僕がそれを倒した?
「嘘だ……信じられない」
「それも無理はありませんね。じきにすべて思い出すでしょう。いまはゆっくりと心と身体をお休めなさって」
「奏さん……みんなは?」
「それが……散り散りになってしまったようで。ここまで戻ってこられたのは真二郎さんだけでした」
「そんな……」
「でも、大丈夫です。各地からみなさんのご無事を知らせる飛脚が達していますから。犠牲になった方はいませんよ」
「そっか……それはよかった……」
僕はぐったりした。みんなが無事だというだけでホッとした。
「長い……戦いだったね」
「そうですね。真二郎さんは八つの頃から戦っておられましたから、十年ですか……本当によくやってくれました。里のみなも喜んでいます。元気になったらお顔を見せてあげてください」
「うん……そうするよ」
起き上がろうとしたが、まだ無理だった。布団にべしゃりと沈んでしまう。
「駄目だ……まだ動けないや」
「ご無理なさらず。すごい怪我だったんですから」
「僕を治したのは誰?」
「医衆ですよ。その中の若い娘が」
「そう……」
僕は奏さんを見上げた。この十年以上も僕の面倒を見てくれているお姉さんを。
「東京は? 東京はどうなったの?」
「それは……」
奏さんは僕の目を見て答えた。
「東京は、壊滅しました」
「え……」
「もともと、爆堂山を受け容れすぎたのです、あの街は。いつ決壊してもおかしくなかった。それがみなさんの戦いで、とどめに……」
「そんな……」
「でも、気に病むことはありません。いずれ来る滅びだったのです。真二郎さんのせいじゃありません」
「でも、僕がもっと上手く戦っていれば……むぐっ」
目の前に奏さんの頬がある。僕は水を吸うように唇を奏さんに奪われていた。
「休みなさい、と言ったでしょう?」
「……ごめんなさい」
「あなたは激戦の果てにようやく、本当にようやくここまで帰り着いたのです。とても他人の心配をしている場合ではないのですよ。愛刀も折れてしまっていましたから」
「そう、なんだ」
僕は奏さんからのキスでふにゃふにゃになっていた。年上のお姉さんは恐ろしい。僕をどうすれば骨抜きにできるか知り尽くしている。
「みんなに……会いたいな」
「会えますよ。じきに。すぐによくなりますから。お薬をちゃんとお飲みになって」
そう言って奏さんが渡してきたカプセルに僕は見覚えがあった。
「これ……兄さんが飲んでた抗うつ剤じゃないか」
「ええ」
「僕はうつ病じゃないよ」
「いいえ、飲まなきゃいけません。医衆からのお達しです」
「どうして……? 僕は兄さんじゃないのに……」
「いいから。さあ」
お水のグラスを渡されて一息にカプセルを飲み込む。食後じゃなくていいんだろうか。
「僕はうつ病なの?」
「東京からここまで、とても遠かったんですよ、真二郎さん」
「答えになってないよ……」
「テレビでもつけますか? 時代劇しかやってないですけど」
「ニュースは……?」
「そんな刺激的なものは見せられませんよ、まだ」
刺激的……そんなに世界は混乱してしまったのだろうか。東京が壊滅……? それじゃ政府はいったい……
「じいは……じいは元気?」
「ええ。ご健啖ですよ。あとでお会いしたらよいでしょう」
「わかった……」
奏さんは答えてくれなくても、じいならなにか教えてくれるかもしれない。
あの戦いのあとに何があったのか……
爆堂山はどうなったのか……
そして……僕は……
考えているうちに眠くなってきてしまった。奏さんが電気を常夜灯にしてくれ、ふすまの向こうに消えた。歯が痛むので口の中に手を突っ込むと、奥歯が一本、ぐらぐらしていたので引き抜いた。神経が貼りついた血まみれの奥歯を僕は壁際に投げ捨てた。痛みはない。
さっきのカプセル剤、あれは本当に抗うつ剤だったんだろうか?