Neetel Inside 文芸新都
表紙

要するに短い話なんだよ
暇潰しの残骸

見開き   最大化      

死人と彼女、縁側にて



 緩々とした時間の流れを感じる。
 小暑の日。せっかちなセミの鳴き声を聞きながら、縁側で一人、私は寝転がっている。目を瞑っても眩しく感じる夕陽、風も少し寒く感じて、梅雨が明けたばかりの湿った空気が肌を濡らす。通りすがりの人が見れば、さぞかし退屈に見えるだろうこの一時も、私にとってはひどく素晴らしい時間に感じる。
「やぁやぁ、お嬢さん。隣、よろしいですかな」
 通りに面したこの縁側。家としてはどうかと思う作りだけれど、こうして、お客さんがたまにやって来ることを考えると、べつにいいかな、とも思う。
「えぇ、どうぞ。おじいさんも涼みに来たんですか?」
「ちょっと歩くのに疲れてしまってね。年寄りにこの急な坂は堪え難いわい」
 明治の時代を思わせる洋風の格好をした老人は、頭に被った帽子を外すと、仰向けになっている私の隣に腰掛けた。夏だというのに茶色のロングコートを着ている老人は、暑い素振りを見せるわけでもなく、目を細めている。……夕陽が降りてゆく山の向こうに思いを馳せているのだろうか。寂しげな雰囲気を纏っている老人に、私は声をかけた。
「おじいさんは、何処へ行こうとしているんです? それとも、もう“お帰り”ですか?」
 しかし、私の問いに応えるのはセミの鳴き声だけで。――そもそも、老人は私のことが見えているのか。私は、老人が見えているのか。
「夕焼けが、綺麗ですね」
「……そうだなぁ」
 丸眼鏡のレンズ越しに見える瞳は何を想っているのだろう。飽くまで私は“部外者”であって、その真意を理解することは出来ない。けれど、私と彼が共有している“夕焼け”という情報は意思の疎通に耐えうるものだったらしい。呆けたような老人の返事を聞き、私は少しばかりの安堵と共に、少しばかりの“痛み”を感じた。
「おじいさん、名前はなんと言うの?」
 やはり、応えない。私は悲しいようで、同時にやはりと言った風に上半身を起こす。――自分の髪が、風に舞いながら視界にちらちらと映りこむ。艶のある黒地の長髪に、夕日の赤い光が反射している。それを傍目に、私は縁側――床に置かれた老人の手に自分の手を重ねた。

 老人の名は高田稔久。……未だ電気の箱が地上を蹂躙していない頃、蒸気を撒き散らす鉄の箱で、老人は“亡くなった”。最後に見たものは、自らの手に握られた妻の写真。自分の血糊が塗りたくられた写真は、以前病気で死んだ妻の写真。生涯でただ一人愛した、妻の写真。
 老人は旅に出ていた。今で言う傷心旅行。比較的裕福な暮らしをしていた老人だけれど、妻が死んだ今、使い道などあるわけもなく。あわよくば旅行先で首を吊ろうと思った矢先での出来事。……がたんごとんと汽車に揺られ、眠りへと誘う一定間隔の音に耳をすませば、ああ、それもまた人生。老人は個室に設けられた机に向かい、写真を見ていた。愛しい妻の写真。
 そして、死んだ。
 背中から下腹部にかけてずぶりと刺さっているのは、紛う方無き日本刀。下腹部から突き出た切っ先には、本来の芸術的な輝きなど見る影もなく。老人は、振り向く間もなく、写真の向こうで笑う妻を見ながら、死んだ。

 はたと我に還り、私は老人から手を離す。老人は私に目をくれることもなく、依然、夕陽が降りた後の紫に染まる空の向こうを見つめている。――老人は私を見ることはない。何故ならば私が見ているものと老人が見ているもの、それは全てが違うから。同じものは、夜空となった天に輝く月と、それに照らされるこの縁側だけ。
 さぁ、と。私は反動をつけて宙で当てもなくぶらついていた足を地へと着け、二の足で立つ。――老人は居ない。月の光で影を作るのは私だけ。視線を上空から正面へ、さらに体を後ろに捻り、和室の一角に。そこに浮かぶ漆黒を見つめる。大の字に見えるそれは和服。私の、作業着。じゃり、と地面を擦る音を鳴らし、草鞋を脱ぐ。そのまま縁側へと足を乗せ、明かりの無い和室へと向かう。
 今日もこれを着ることになる。それは一つの事を指していて。決して気分の良いものではないけれど、それが私の仕事。この家に住み、この着物を着るということは、そういう意味を持っているのだから。
「じゃあ、おじいさん、ちょっと待っていてくださいね」
 私が声をかける場所には誰もいない。でも、確かに居るはずなのだ。――黒い着物を翻しながら、私は歩く。意識はとうに縁側から離れ、いつの間にか周囲は白一色。それが次第に粒となり、冷たさを持ち、あぁ、雪だとわかる。

 ……今日も行こう、死人のために。













 どうにもこうにも、致し方ないと言いますか。
 宙に浮く俺はポリポリとやる気の無さそうに頭を掻き、下で慌しそうに動き回っている人々を見る。赤い光がくるくる回り、そう、あれは救急車だ。少し離れるけど、パトカーも向かってきている。……あぁ、間違いない。これは大騒ぎだ。昼下がりの住宅地とは思えないほどに賑わっている。そりゃあ少しばかりの都会と言いつつも、住宅地にもなれば犯罪も少ないだろうし、日々の井戸端の話題も尽きると言える。俺が話題を提供できるのならば、どうぞどうぞと渡そうじゃないか。
 ――しかしだな。俺はまたもポリポリと頭を掻きながら、下で繰り広げられる騒動を凝視する。早くもバリケードが張られた“事故現場”の中心には救急車からわらわらと出てきた救急隊員が、血だらけでぐちゃぐちゃで人としてどうかと思う形をした物体をご丁寧にも担架に乗せている。そこらかしかで白い骨と思われる突起物が気持ちよさそうに顔を出し、腹と思われる場所からはサナダムシの親玉のような長いモノがだらしなくぶら下がっていて、おお、大事な部分である頭はまるで狙ったかのように原形を留めていない。……しかし、俺はそれが誰だか知っている。ここらでは珍しい学ラン制服、これまた滅茶苦茶になっているが見覚えのある自転車、極めつけは、ほら、隊員が何かを話している。
「えー、損傷が酷く特定は困難かと思われましたが、所持品の内に生徒証がありまして、あ、はい。名前は尾賀四賢太郎、17歳。性別は男です」
 ……詰まるところ、たった今、ぐっちょんぐっちょんのまま救急車に乗せられた物体が俺であり、そう、俺の名前は尾賀四賢太郎。今をときめく高校生。――君の頭脳ならばあの有名校も夢ではない! もちろん君は運動の方も素晴らしいからな、その線で推薦を狙ってもいいかもしれんがな! わっはっは! なーんて先生に言われてしまうくらいに将来有望な俺は、なんてことはない。死んでしまったのだ。


「俺と彼女、縁側にて」


 時は遡って一時間前あたり。午後十二時を指した時計を見るが早く、俺は授業中なのを無視して教室から出て行った。後ろの方で友人やら先生やらの声が聞こえてきたが、そんなものは関係ない。……何故って、そりゃあ今日は七月七日。つまり、七夕の日でありポニーテールの日であり、俺の妹の誕生日でもあるのだ。……理由になってない? いやいやなっているんだこれが。それと言うのも妹は生まれた時から体が弱く、十四才となる今でも入院生活を余儀なくされている。で、七月七日午後十二時三十分とは妹が誕生した瞬間であり、俺は十三年間一度も欠かしたことがないんだ。十二時三十分に病室へ行き、妹にプレゼントを渡すという行為を。
「……こぉおぉおらぁぁぁあああ!!」
「げぇっ! アイツ、授業中だってのに大声を出しおってからに」
 どうしようもない。四階の教室から全速力で駆け下り、今まさに一階の下駄箱、自分の靴を取り出そうとしたところにアイツが追いついてきやがった。
 正直邪魔だろう、それは。と、言わせたくなるくらいに見事なツインテール、でもそっちは邪魔にならなさそうだな。と、言ってしまいそうになる貧乳具合。澤田辰美、いつもながらお節介を焼いてくるという、間違いなく王道的位置に存在する奴だ。
 はぁはぁと息を切らしながら、片手で下駄箱に寄りかかり、必死に息を整えている辰美。俺は天井に設けられた時計、そこに表示されている時間と相談しながら、この状況を如何に脱するかを考える。辰美の足の速さ、これはイレギュラー、計算外だった。……と、俺は時計を見ながら言い訳を考える。考え終わった。
「どうでもいいんだが、辰美よ。君もまだ授業中なのではないのかね。俺はともかく、曲がりなりにも学級委員長という立場にいる君が授業をボイコット等と、世間体的に厳しいものがあるんじゃないのかい」
「俺はともかく……じゃあ、ないでしょがぁぁ!!」
 ゴッスリと。辰美が顔を上げた瞬間、俺の頬に拳がめり込む。必死になって搾り出した俺の考えなんてどこ吹く風、屁理屈に塗れた俺の主張は辰美の拳、その一発で脆くも崩れ去った。あぁ、痛いんだよ。反論する勇気も粉々だ。悲鳴すら出やしねえ。
「まったく、アンタのことだからどうせ夢見ちゃん絡みのことだとは思うけど、けどね、さすがに授業中に何も言わず出て行くのはどうかと思うの」
「最初からそう言ってくれ。俺のもち肌はデリケートなんだ」
 俺は痛い痛いと頬をさする。
 腰に手を当てる女はヒステリックだとかそんな話を耳に挟んだ覚えがある。間違っちゃいないさ、俺の目の前にはそれを体現した存在がいるのだから。
「辰美の言う通り、俺は今から夢見の所へ行かなくてはならん。その為にも授業を抜け出すというのは絶対であり、今、お前に付き合っている暇は無いというわけだ。わかったならさっさと教室に戻りやがれ」
「そうまで開き直られると、私もなんで叫びながら教室を飛び出てアンタを追いかけたのか疑問に思えてくるわね。……わかったわよ、わかったからさっさと行ってやんなさい。今日だけは見逃してあげるわ」
「ありがたい。出来れば今日以降も見逃してくれると俺としては嬉しい限りなのだが、あぁ、拳を振り上げないでくれ。多分今年はもうしないから」
「はぁ。アンタは先生受けも良いんだし、もう少しそのマイペース過ぎるところを気をつければ完璧なのに」
 拳を下ろした辰美を傍目に、俺は下駄箱から靴を取り出し、内履きを脱ぎ、あまり内履きと変わりのないスニーカーに履き替える。その間にも辰美の小言が耳を通過しているが、それこそ右から左へといった具合に脳まで到達しない。辰美もそんな俺のことを諦めているのだろう、聞く耳持たない姿勢をとやかく言うわけでもなく、まるで独り言のように愚痴を吐き続けている。
「まぁまぁ、そんなわけで俺は行く。さっきも言ったが、さっさと教室に戻った方がいいぞ。俺はともかく、辰美は委員長のくせにお頭の方はお世辞にも良いとは言えないんだからな。頼むから俺の所為で、みたいな事にはしないでくれよ」
「しないわよ! 誰がそんなことっ!」
 む、時計を見れば既に十分経過している。まずいな、ここから自転車で急いでも二十分。……まぁ、死ぬ気で自転車のペダルを漕げば、十五分で行けるはず。意識を辰美から自転車置き場に置いてある愛機へと向けた俺は、何も言わずに走り始めた。後ろのほうでまたも叫び声が聞こえてくるが、それはもう無視するに限る。今度埋め合わせでもしよう。
 自転車置き場に着いた俺は、よし、と我が愛機のサドルに跨り、全身全霊を込めて足に力を入れる。それに応えるかのように――応えてもらわなくては困る――自転車は勢いよく走り始め、いざ病院へと向かい始めた。
 校門前の急な坂、路面電車の通る商店街、中心部から少し離れて住宅地。
 賑わっている街中ではそこ等に設けられているちんちくりんな形をした時計を確認できたが、住宅地に近付くにつれ、時間を確認する機会が減ってくる。ヒステリックな女に付き合っていた所為で、急いでも間に合うかどうかの瀬戸際。時間を確認出来ないと、焦燥感が募るばかり。必然的に俺は漕ぐ速さを上げて、そう、住宅地なんていうショートカットまで駆使しなければならない状況に追い込まれている。
 ――だからだろう。俺は左右確認はもちろん、周囲の音すらも満足に拾っていなかった。結果として、俺は10tトラックに物の見事と言わんばかりに刎ねられたのだ。

 時は戻って現在。
 俺の下では未だに騒ぎは収まっておらず、遠目からでも確認出来るほどの血を撒き散らした道路を傍目に、警察が状況の聞き込みをしている。
 いやはや、俺は死んだのか。……困るぞ、それは困る。出来ればそんな現実は願い下げしたいところなのだが、この状況、俺の体が宙に浮いている時点で俺の考えは真っ向から否定されているという。……くそっ、なんで住宅地に10tトラックなんて仰々しいものが走ってるんだよ。どう考えても道が狭すぎるだろう。そもそも、辰美が俺のことを呼び止めなければこんなに急ぐこともなかったのだ。そう、つまり、全ては辰美が悪いと。そういうことになるわけだな。
「……はぁ」
 一通り他人の所為にしたところで、自然と溜め息が漏れる。……どうしようもない。死んだら天国に行くだとか、そこには無しかないだとか、そんな話は聞いたことがあるけど、まさか幽体離脱のようにぽーんと空中に投げ出されるとは誰が想像しただろうか。こんなことになった時の対処法なんて、知るわけがない。
 あー、もう十二時三十分は確実に過ぎているだろう。夢見の落胆している顔が目に浮かぶ。――いや、俺が死んだのだから、もっと悲しい顔をするに違いない。それは心残りだ。
 ……母親は夢見を生んだ時に他界してしまったが、父親はちゃんとご存命である。入院費なんかはまだ心配しなくてもいいだろうけど、問題は“これ”だ。
「本当に俺は死んだのだろうか。もしや、漫画的なノリ、ショックで魂だけ抜け出してしまって、元の体に戻ればハッピーエンド、生き返るなんてことがあるのかもしれん」
 いや、それは無いな。見たはずだろう、あの悲惨な俺の体を。ありゃあ魂が戻ると仮定しても、戻った瞬間また死んでしまうに違いない。なんたってぐちゃぐちゃだったもんよ。……悲しい自分へのツッコミ。
 浮いていても何かが進展するわけじゃなし。俺は手を握ってみる。……感触がある。ちょっとオーバーな動きをしてみる。……ちゃんと動く。制服のズボンを脱いでみる。……パンツも一緒に脱いでしまったが、周りで反応してくれる生き物はいない。俺の息子もしょんぼりしている。
 ――と、今日何度目になるのか、頭をぽりぽりと掻いて、違和感を感じる。触って見ると、なにやら糸状のものが俺の頭から伸びている。自分の頭頂部など鏡でもない限り見れないのだが――今の状態で鏡に映るかってのも問題だが――、触ってみた感じ、糸としか表現できない。軽く引っ張って見ると、少しばかりの手応えを感じる。……試しに強く引っ張って見るが、何かに引っかかっているような感触があるだけ。
「うーむ。“蜘蛛の糸”じゃあるまいし、これを辿っていったら極楽に行ける、なーんてことはないだろう」
 頭の糸も気になるが、俺はそこで思考を切り替え、この体について考え始める。……詰まるところ、この体は霊体なのだろう。じゃなきゃ魂とか。ということは、壁をすり抜けたり誰にも気付かれずにあんな場所やこんな場所を覗き見、なんていう芸当が出来るかもしれない。それは青い男子の夢とも言える行為。もちろん俺もそれに当てはまるわけであり、死んでしまったのなら死んでしまったで、死んだなりの楽しみを見出したいと思うのもまた道理。もちろんやましい動機とかではなく、現世から離れざるを得ない俺が必死になって到った趣味道楽の一つだ。となれば、善は急げ。早速デパートの服売り場、更衣室でも覗きに行こう。……そう、行動するということはこの状況を理解することに繋がるのだ。
 ……いざ参らんと動こうと思ったが、俺はあることに気付く。そう、人間というのは元来空を飛ぶ生き物じゃないわけで、さぁ空を飛んでごらんと言われても、どう飛べばいいのかわからない。でも俺は浮いているわけで、じゃあ、移動するにはどうしたらいい。試しに普通に足を前に出し、歩く。……歩けた。
「なんだかなぁ」
 浮いてるのなら、飛びたいじゃん。でも、俺は飛び方を知らない。じゃあ歩けるのなら歩けって話になるのだが、それはひょっとしなくても間抜けな姿じゃないのか。もちろん俺の姿が見えるかどうかはまだ試してないのでわからんが、第三者の目から見て、空中で普通に歩いているという姿はどこかしかおかしいものに映るのだろう。……飛んでりゃ、頭のどこかで何かを納得するはずだ。
 仕方がない。こう、小指の第一間接だけを必死に曲げようとする感じで飛ぼう飛ぼうと頑張ってみたが、結局飛べなかったので、俺は仕方なく歩き始める。――目前に広がる町。普通では見れないだろう、町を見下ろすという視点は新鮮であり、俺は普段歩くよりも軽い足取りで歩いていたと思う。
「んがっ」
 だのに、俺は頭頂部に強い痛みを感じたが早く、元居た位置に戻されてしまった。……俺、本当に他の人にゃ見れないんだろうな。今の姿はまさに間抜けだった。
 じゃなくて。俺は頭を触り、依然そこから生えている糸を掴む。……これの所為か。あれだな、糸っていうよりはゴムだな。びよんびよんと糸を引っ張りながら、俺は一人納得する。なるほど、引っ張った時の変な突っ掛りはゴムっぽい材質だったからなのか。
 さぁ困ったぞ。持って生まれた前向きな性格を駆使して、この深く考えれば泣いてしまいそうな状況をなんとかしようとしたのに、この頭に繋がっている糸は俺をどこへも行かせないつもりらしい。どうしよう。また振り出しかよ。
 ……そりゃあね、俺は確かに学年と言わず校内一位くらいの成績を収めている優等生ですよ。もしかしたら先生よりも頭がいい。けど、さすがにそんな頭のいい俺でも死んだ後の動き方なんて知りっこない。霊体じみた俺の体、例になりそうな小説や漫画は何度か読んだことがある。しかしながら何処にも行けやしないなんて状況はお話的に成立しないわけで、然り、たとえ架空の話であっても、お手本になるような話は見たことも聞いたこともないわけだ。
 ……俺は目下に広がる町の景色を見ながら、軽く溜め息を漏らす。
 じゃあ考えろって話なんだが、考えるまでもない。何処にも行けず、人にも気付いてもらえず、というか死んじゃっている時点で、俺にはこの忌々しい糸をどうにかするという選択肢しか存在していないのだ。……ぐいぐいと糸を乱暴に引っ張るも、やはりさっきの様な変な手応えしか返ってこない。
 仕方がない――今日は仕方がないことばかりだ――、俺は最初に思いついた馬鹿げた案を、今になって採用することに決めた。
 ……“蜘蛛の糸”。地獄に垂れ下がってきた蜘蛛の糸、それを垂らしたのは極楽にいた釈迦であり、カンダタという罪人の小さな良心が起こした一つの奇跡だった。しかし、極楽までは長い道のり。蜘蛛の糸をつたって上っていたカンダタは、いつしか下で我先にと蜘蛛の糸で上ろうとしている罪人を見つけ、下りろ下りろと、この蜘蛛の糸は自分の物だと言う。その様子を見た釈迦は、カンダタの行いに落胆し、その瞬間、カンダタのぶら下がっていた所から蜘蛛の糸が切れてしまう。……現代の子に言わせてみれば、釈迦がよりにもよって蜘蛛の糸を垂らした時点で、所詮は罪人であるカンダタを信用していなかった、なんて言うだろう。――その点、今俺の頭につながっている糸は蜘蛛の糸なんかじゃなく、なにやらゴムっぽい質感の糸だ。捻くれた目で見れば、伸びる時点で上らせる気はさらさらないように感じる。しかし、同時に決して切れないと考えることも出来るわけだ。この糸がどんな意図で俺の頭に繋がっているかは全く以って謎としか言い様がないけど、俺にはもうこの糸を辿ることしか残されていない。……あぁ、このままじっとしているってのもあるが、そりゃ詰まらんから自分の案に却下という判決を下した。
「よし」
 俺は気付けに掌に唾を吐き付けると、しっかと糸を握る。――その瞬間、俺は理解の範疇を超えた状態になる。
「おおおおお、お? ……おわあぁああああ!!」
 “そんな”感覚なんて何も感じなかった。ただ、一瞬の内に起こった“それ”は、俺の思考を数秒間停止させて、うん、びっくりだ。……俺は今、天高くへと物凄い勢いで引っ張られている。近いもので例えると、縁日なんかでよく見る水風船のヨーヨー。水風船の部分が俺で、頭の糸がゴムの部分。――まずい、滅茶苦茶怖い。傍から見りゃ間抜けな格好だとか、気にしている余裕がない。
 このままだと大気圏を突破して宇宙空間へと放り出されるだとか、摩擦で燃え尽きるだとか、息が出来なくなって死ぬだとか。冷静に考えれば幽霊に近い体なのだから心配しなくてもいいことなのに、俺の頭の中はそんな心配事で埋め尽くされていた。
「今度はなんだ、なんなんだよ! もうお家に帰して!!」
 とうに雲など突っ切った頃、そろそろ僕達私達の故郷である地球が見えると思っていた矢先、急に目を開けないほどの光が視界を支配する。もちろん俺は目を瞑る。
 ――――次に目を開けばそこは宇宙なんかじゃあなく、どこか懐かしい感じのする、大きめの平屋が目の前に建っていた。





「あのー、すみませーん! 誰かいますかー!」
 突然の出来事。まるで脈絡のない夢を見ているような感覚は、まるで現実感を伴わない。しかし、現実に俺の目の前には田舎にありそうな普通の平屋が建っているのだ。……玄関のすぐ横に開けた縁側があるという間取りは正直どうかと思うが。
 何度も声を張り上げるが、返事はまったく返ってこない。まぁ、確かにこの場所は変としか言い様がない。平屋が建ってると言っても、その周りはまさに白一色。何もない。空気すら無いんじゃないかと思えるほどに、真っ白な空間が広がるのみ。なのに、俺の目の前には妙に現実味のある平屋が一軒。誰かがいると思っても不思議じゃないはずだ。
「だーれーかーいーなーいーんーでーすーかー!」
 半ば投げやり気味に叫ぶも、やはり声は返ってこない。……なんだろうなぁ、どうしようもないクソゲーをやっている気分になってきた。じゃあなんだ、ゲームで言うと、これはストーリー進行フラグが立っていないということなのか。他に何か選択肢があって、それを調べないと先に進めない、みたいな。……一昔前の総当りゲーじゃあるまいし、そんなことは無いと思うが。
 と、不意に縁側を見る。……なんだ? いや、確かにこのセンスの悪い間取りは怪しい意味に捉えれるが、そうじゃない。平屋というよりも、その縁側。そこを見ていると、今まで感じたことのない感覚を覚える。
 うーん、これは俗に言う第六感というものなんだろうか。見た感じでは何もないのに、“ある”ように感じてしまう。どうだろう、近づいてみたらわかるのかもしれない。俺は少し離れ気味に平屋を観察していたが、意を決して歩を進める。
 近付くごとに非現実感のある白い風景が現実味溢れる平屋に覆われていく。普通じゃこんな体験は出来ないだろう。そういう意味で言うと、俺は今になって初めて“死んだ場合の利点”を感じたのかもしれない。
 で、俺は真っ直ぐ玄関に向かわず、その横、縁側の前に立つ。やっぱり何もない。これがいわゆる気のせいってやつなのか。……でも、と。俺は頭を左右に振って思考が停止するような考えを振り払う。この“感”が本当なら、さっきの話ではないが、ストーリー進行フラグに近いものがここにあるはずなんだ。よく探そう。
 ……あぁ、それでも。やはりというか現実――ここが現実なら――は上手くいかないように出来ているらしい。依然、変な感覚に苛みながらも、俺はその原因を見つけられずにいる。果てには縁側の近くに生えている木の裏、縁側を乗り越えて和室に不法侵入なんてことをやりだす始末。それでも見つからない。……あと残っているとすれば、縁の下くらいか。猫じゃあるまいし、なんて笑いながら縁の下を覗く。
「ほれみろ。やっぱりなんも無い。――うおおっ!?」
 縁の下には何もないことを確認し、さぁ、顔を上げたところでびっくり。いつの間に居たのやら、縁側には洋風の格好をしたおじいさんが座っていた。今になって失礼だと反省するも、そんな、さっきまで居なかったところに人が現れたらびっくりして声も上げちゃうだろう。……そんな失礼な態度をとったのに、おじいさんは俺を咎めることなく、呆けた目で何かを見つめていた。
「その、すんません。急に現れたもんだから驚いてしまって……おじいさん?」
 返事がない。かと言って、別に死んでるとかそういうことでもない。……なにを、見てるんだ? 俺は目の前のおじいさんが見ている方向を見る。
「――あ」
 声が漏れてしまった。いや、でも……ありえない。さっきまで白一色だったはずの周りが、夜の帳が落ちている田舎の風景に変わっていた。頭上には月が輝いていて、鈴虫の鳴き声までも聞こえてくる。――おじいさんの視線を追えば、遠くの山。
「ど、どうなってんだよ」
「……おや、君もここに涼みに来たのかね?」
「うおっ!?」
 まだ頭が混乱している中で、急におじいさんが俺に視線を向け、話しかけてきた。……さっきから驚いてばかりだ。じゃなくて、今度こそちゃんと謝らなくては。
「あ、すみません。急に話しかけられたもんで、その、驚いてしまって」
「よいよい、気にせんでも。わしも君が急に現れたように見えたんだ。もちろん驚いたとも。お相子じゃよ」
 おじいさんは気にするなと言いながら笑うと、また視線を俺から遠くの山へと移す。……おじいさんも俺のことが見えていなかった? いや、目先の疑問よりも、やっと死んでから話せる人が居たのだから、まずは質問しなければ。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「む、なんだね?」
「実はあまりわかってないから、変なことを聞くかもしれないけど……ここは、天国なんでしょうか? それとも、地獄?」
 俺の言葉を聞いたおじいさんは、一瞬、きょとんとした顔で俺を見つめる。……丸眼鏡の奥に見える目は、最初見た時と同じでどこか虚ろな印象がする。だからだろう、俺は阿呆なことを口走ってしまったんじゃないかと思い、慌ててまくし立てる。
「ごめんなさい! 天国とか地獄とか、馬鹿みたいですよね。もしそうだったとしたら、おじいさんも死んでることになっちゃいますし」
「……はっはっは、君の言う通り、確かにここは天国でも地獄でもない。だがの、わしが死んどるというのは正解じゃ。そういう意味で言うと、君も死んでるというわけなんじゃがな」
「あ、あれ? ……じゃあやっぱり、俺、本当に死んでたんだ」
 笑いながら話しているおじいさんだけど、俺にとっては笑えない。多分、心のどこかで“死んだ”ってことを認めてなかったんだと思う。……だってそうだろう? 死んだ後のことなんて知りゃあしないが、さすがにこんな突拍子もない、夢みたいなことになってるのだから。俺は悪い夢でも見ていて、目が覚めたら病室でした、なんてことを考えても不思議じゃない。……でも、それこそがただの夢。現実に、俺は死んでいた、と。
「――ふむ、そう気を落とすでない、若者よ。“ここ”に来て、普通ならばありえないが、お互いを見ることが出来て、こうして話すことが出来たんじゃ。偶然だったとしても、わしは何かの縁を感じるわい」
「死んだのに縁、って言うのもなんだか変な話ですけどね」
「はっは。なんじゃ、死んだと理解した途端に毒が入ったのう。まあよい、わしの名は高田稔久じゃ。どうせ長いこと待つことになるんじゃ、お互い、自己紹介とでもいこうじゃあないか」
「はぁ。……俺は尾賀四賢太郎。それで、待つって言いましたけど、おじいさ……高田さんは何かを待っているんですか?」
「わしかね? わしは……ふむ、そうじゃのう。一つだけあった心残りを取り除いてもらおうとおもうてな」
 心残り。もう死んでるってことは、未練みたいなものだろうか? 通説じゃ、未練が残っている魂は地縛霊やら何やらになるとか言われているが……むう、死んだ立場から見ると面白い話だ。結論から言って、俺は現実とは程遠い場所にいる。これを地縛霊と呼ぶには無理がある。ウキウキ気分のカップルが写真を撮ったら偶然写りました、みたいな場所じゃあないな。完璧に隔離されていると考えてもいい。
 俺は高田さんの話に耳を傾ける。
「賢太郎君が“どの時代”に生まれたかは知らん。わしは生まれた時代が悪かったのかもしれん。……物騒といえば物騒。慶応生まれでな、わしは。天寿を終えようとしていた矢先に殺されてしまったんじゃよ」
「殺された……それが心残り、ということなんですか?」
「そういうことになるのう。なんせ、わしを刺し殺した者の顔を見ることが出来なかったんじゃ。呪おうにも呪えんわい」
 キリっとした洋風の姿はクールなダンディズムを醸し出しているというのに、高田さんはプルプルと体を震わしながら、「憎いんじゃ、憎いんじゃよ」と握り拳を作っている。俺は血圧が高くなられると困る――死んでからもう一度死ねるかは疑問だが――ので、慌てて高田さんのことをなだめる。
「高田さんがその相手を憎んでいるのはわかりましたから! わ、わかりましたから、ね!」
「ふぬ、ぐ、むう。そうじゃの、わしがここで熱くなっても仕方があるまい」
「そ、そうですよそうですよ」
 苦笑いしながら、俺は胸をなでおろす。……と、俺は一つ疑問に思ったことを聞く。
「高田さんの心残りはわかったんですけど、さっき“待ってる”って言ってましたよね? そういうのって、待ってれば無くなるもんなんですか?」
「人に頼んだんじゃよ。……他人と会話できない手前、向こうが善意でやってくれた、と言った方がいいかもしれんがな」
 ほれ、と。高田さんは先程まで見ていた山を――――あれ? ……俺は高田さんが指を指したので、その方向を見た。さっきまで山があった方向だ。なのに、その場所には山なんて無かった。在るのは、最初に来た時に見た真っ白い空間。“真っ白な空間”と表現は出来るけど、これは“何も無い”と言った方がいいのかもしれない。
「さっきまで山があったのに」
「そこが、ここの不便さよな。……ともかくじゃよ、わしは今頃“向こう”に着いているだろう子に頼んだんじゃ。この心残りを払拭してもらうためにの」
「――向こう、か」
 ……どうだろう、もうここには用が無い気がするのだが。おじいさんのことは気になるが、どれだけの時間がかかるか分からない中でおじいさんと談笑なんて、言っちゃあ悪いが詰まらない。
 俺は果てすら見えない白一色を見つめる。何も無い、本当に何も無いけれど、行けば何かが進むかもしれない。そう思い、俺は高田さんに背を向けて、足を踏み出す。
「おや、もしかして、賢太郎君も行くのかね? “向こう”へ」
「ええ。なんというか、ここに居ても“始まらない”と思うんで」
 俺は振り向かずにそう言うと、足を速めた。

 平屋の周りには地面があったけど、ここは本当に何もない。確かに歩いているのだけれど、踏んだ感触が無いのだから困る。つくづく、人間ってのは感覚に頼って生きているのだと実感してしまう。視界の端に映っていた自然も、いつの間にやら白に染まる。多分、振り返ってもあの平屋はもう見えないのだろう。
 ……思った。俺は今何かに突き動かされている、と確信して歩いている。しかしながら、それは見方を変えれば考えなしに動いているということにもなるんじゃないだろうか。……自分でなんだが、物凄く不安なんだよ。人のせいにして言わしてもらえば、おじいさんが思わせぶりに指を指したから俺は動いたわけで。まさかこのまま歩き続けて、何もないなんてことになったら、俺はおじいさんを憎んでしまいそうだ。眉毛を八の字に変え、俺は不安な気持ちを顔に出す。
 ――と。
 不意に俺は鼻の先に冷たさを感じた。なんだなんだと“それ”に触れてみると、濡れている。
「……雪、か?」
 俺がそう思った瞬間だった。
 今まで感触の無かった足元に何かが生まれ、視界が“色の有る白”に変わり、肌が風を捉えた。そして。
「うおっ! さむっ! なんだこれ、雪!? ブリザード!?」
 何も無かったはずの周りは、一気に雪景色へと変貌した。……いや、雪景色なんて風情を感じるようなもんじゃねえ。こりゃあ大自然すぎる。人間を殺す気満々だ。
 ビシビシと大粒の雪が顔に当たる度、俺のいかりのボルテージが上がってゆく。何に怒っているとかじゃなくてだな、あれだよ。人間、理解出来ないことが急に自分の身に降りかかってきたら怒っちゃうんだよ。もしくは泣いちゃう。小さい子供が転んだ時に泣くのも、大体は痛くて泣くわけじゃない――と、どっかの本で読んだ覚えがある。そう、だから、今俺が怒ることも当然と言える。
「やべえ、死ぬ。もう死んでるけど、死ぬ」
 本格的にまずい。
 寒いのはもうこの際置いておくとして、歩けない。強風と現在進行形で足に積もる雪。必死になって一歩を踏み出しても、今度は周りが見えない。かろうじて遠くの方で白く染まる山は見えているが、肝心の周りが見えない。……まずい、指先の感覚が無くなってきた。やっとこさ感覚が戻ったと思ったら、秒殺かよ。あー、無理に歩こうとしたら靴が脱げた。
 力が入らない。前のめりで倒れてしまったが、だめだ、起き上がる力どころか喋ることすら出来やしない。
 ……おかしいなあ。トラックに撥ねられた時は見なかったのに、今になって走馬灯が見えるぜ。美しき日々よ、今は遠き理想郷……そうだそうだ、夢見のことをすっかり忘れていた。うむ、我が愛する妹の為にも、こんなところで死んでたまるか!!
「ふん!!」
 最後の力を振り絞り、俺は埋まりかけていた体を起き上がらせる。……それを最後に、俺は気を失った。








「――兄さん、何を呆けているのです」
「それはな、妹よ。俺がこの状況を飲み込めていないからだ」
 おかしい。何かがおかしい。何がおかしいとはハッキリと言えないが、とにかくおかしい。何がおかしいって、あれだよ、そう、あぁ、そうなんだよ。何故かは全く以って理解できないが、目の前に広がる光景を簡単に言えば、僕達私達のユートピアが広がっていると表現するしかない。
「そんなことよりも兄さん、続きをしましょう」
 そう言って、夢見は俺に迫ってくる。セミロングの髪がはらりと肩から滑り落ちる。そこから覗くうなじ、肌は朱を帯びていて、艶やかに半月を描く唇。白魚の様に色白な指先が、ゆっくりと俺のズボンを下ろ、しっ、にかかかかかかああああったあああああああ!!
 待て待て、迫られても困る! 一糸纏わぬ姿で迫られても困る! ……あぁ、発育がよろしくて兄さん嬉しい。
「……はっ、ち、違う! そうじゃない! な、なななななんだその格好は、服を着ろ服を! お前の兄さんはここまで節操の無い男になった覚えはないぞ!!」
「兄さん、添え膳ですよ。男が廃るんです。黙って股間にブートキャンプです!」
「意味が分からん!」
 詰まるところ、俺は妹に襲われていた。どうしたんだ夢見……俺は、俺はお前がこんなにエッチな子だとは思わなかったぞ。と言うより、夢見の話を聞く限りじゃ、なんか俺から襲ったっぽく聞こえるから不思議。
 そうじゃない。
 俺は病室のベッドに縛り付けられているというこの状況をなんとかして脱しなければならない。馬乗りになる体制で俺を見る夢見は、歳に似つかわしくない妖艶な笑みを浮かべている。
 そりゃあ年上のお姉さんに無理矢理、なんてシチュエーションは正直願ったり叶ったりだが、好きは好きでも恋愛感情にはとても及ばない、そんな妹に対して股間をブートキャンプさせるほど、俺は性欲処理に困っちゃいない。……もちろん夜な夜な女の子をとっかえひっかえ、なんてわけはなく。言わなくても察して欲しいピュアな年頃。
「……もう! 兄さん、聞いてる? 早く股間をブートキャンプさせないと――」
 夢見が俺の両足に挟まれる形で俺を見上げている。おや、いつの間に馬乗りからこんな体制に。うーむ。
 なにやら理解できない場面変更が行われたことに対し、頭を捻る俺。……だからだろう。今、夢見が喋っていた言葉を最後まで聞き取ることが出来なかった。
「すまない、夢見。もう一度言ってくれるかい?」
「だからぁ! はやく股間をブートキャンプさせないと“殺しちゃうよ”」
「“転がしちゃうよ”の間違いだろ。まったく、最近の若い者は日本語を曲解する傾向があるな。だからこそ略称が罷り通ったり、面妖な外来語、造語が流行語になってしまうのだ」
 俺は冷や汗を流しながら、なるべく話が途切れないよう喋り続ける。まるで近所のファイティングゴッデスが乗り移ったが如く、俺はマシンガントークを展開し続けた。――そして、気付けば周りの光景は病室ではなく、おどろおどろしい雰囲気を放つ空間へと変わる。……血の海。俺はそこに腰まで浸かっている。どうしたことだ、病院はどこに吹っ飛んだ。いつの間にやら俺を拘束していた縄が解けているが、目の前には以前夢見が“立って”いる。俺も立っている。
 ……あぁ、と。俺は尚も途切れることのない蕎麦の様に喋り続けながら、今になって理解する。……これは“夢”だ。こんな不条理なことが現実に起こってたまるものか。
「――であるからして、兄と妹が一線を踏み越え子供でも授かってみろ。一度だけの過ちであったとしても、その“欠陥”は罪の無い後世にまで持ち越されてしまうのだ。多分だぞ。俺はどっかの本をパッと読んだだけだから自信はないぞ。どうした、返事をしてくれ。頼むから返事をしてくれ。俺は悲しいぞ! 夢見が俺を襲っちゃうなんて!! 兄さんはな、夢見にはもっと淑やかに育って欲しいと思っていたんだ。それが例えっつーか現実、俺だったとしても、まさか襲うなんて! 男を襲うなんて!」
 ええい、夢ならば早く覚めてくれ。なんで目が覚めないんだ。頼むからこの明らかな血の海っぽい所から出してくれ。夢が覚めなくてもいいから、せめてさっきの病室に戻して!
「そうよ兄さん、ここは夢。思ったことがその通りになるのよ」
「バクバクバクっ!? いや、それ答えになってない! モノローグに返事をしないで! 必死こいてる俺のマシンガントークに返事して!!」
 夢見は返事を返さない。……返事の代わりとしてか、その右手には包丁が握られていた。
「こんな夢になにマジになっちゃってんの」
「お前が一番マジだろうがよ! 頼むからその危ない刃物をしまおうな? な? 夢だけど、兄さん刺されたら多分痛いからやめて、いや、来ないでえええええええ」



『雪見列車殺人事件』



「……夢、か」
 俺はガタンゴトンという音と共に体を揺さぶられながらも、半身を起こして伸びをする。目一杯伸ばしきった時、小気味よい音が背骨から漏れる。そのまま首を回すと、窓にかかる洒落たカーテンが目に入る。どうやら今日は曇り……いや、雪のようで、窓の外は吹雪の所為で景色など見れたものじゃない。
 …………ガタンゴトン? 洒落たカーテン? 吹雪? えー、当たり前のような疑問、というより、常人に聞いたら非常に嫌な顔で病院を指されそうだが――ここは、家だろ? 俺の、部屋だろ? まだ、七月だろ?
 再度確かめる――と言うまでもなく、いつもと寝心地の違うベッドは揺れる。ご丁寧にもガタンゴトンと風情のある音まで聞こえてくる。窓の外を見れば、寒いことが容易に想像できるほどの吹雪。
「……夢、か」
 現実逃避。
 どうやら俺はまだ夢を見ているようだ。これじゃまるで、俺は電車で眠っていたと言わんばかりじゃないか。いくら俺が退屈な日常に嫌気がさしていたと言っても、目が覚めたら、ぶらりお気楽一人旅をしていたなんてことはありえない。だってそうだろう、俺は昨日、確かに自分の部屋で……。
「あれ、自分の部屋で……寝たよな?」
 ガタンゴトン。俺の空しい質問は、尚も鳴り続ける音で応えられる。……思い出そう。何故かは分からないが、俺は自分の部屋で寝た覚えがない。覚えがあるのは、そう。またも窓の外を見て、依然止むことはないだろう吹雪を見る。……俺は確か吹雪の中に居た。そこで気を失ったはず。何故? 必死になって記憶を掘り返す。
 ――死んだ。
「そ、そうだった。俺は死んだはずじゃないか。ちゃんと覚えている、覚えているぞ」
 だがしかし、俺は何故こんな場所に。記憶が正しいのならば、俺は吹雪の中で倒れたはず。……謎だ、謎過ぎる。誰でもいいから、雪の中から列車の中へ寝てる間に移動する方法を教えてくれ。
 と、寝起きでぼんやりとしていた頭も覚醒し、改めて、今自分が置かれている状況を見る。
 この微妙に感じる揺れ、車輪がレールの上を走る音。列車なのは間違いないと思うが、ベッドがある辺り夜行列車だろうか。……それにしては、やけに豪華だ。夜行列車に乗ったことがないから、細かい部分はわからんが……個室ってのは珍しいんじゃないのか。
 ――コンコン。色々なことを思案している最中、不意にノックの音がこの部屋に響いた。
「あ、はい?」
「……失礼致します」
 そう言って入ってきたのは、割烹着に身を包んだ女性。俺と同じか、少し年上か。
 何故女の人が、というかここは何処。瞬時に増えた情報と疑問は、俺を混乱させる。そんな俺を見てか、目の前の女性は黒髪を垂らしながら顔を傾げる。
「あの、気分が優れないようでしたら、ここを出て左の突き当たりに厠が御座いますが……」
「そういうわけじゃないんだが……その、ここって列車の中ですよね?」
「はい?」
 よほど突拍子もない質問だったのか、女性は疑問を交えた声でまたも首を傾げる。
 いや、確かにここは列車の中だ。さっき自分でも確認したばかりじゃないか。……しかしながら、ふむ。これはどう動くか考える必要があるな。
「あの、本当に気分が優れないようでしたら」
「いえいえいえ、気にしなくてもいいですよ! なんだか、目が覚めたばかりで寝惚けていたようです! はっはっは」
「そう……ですか。では、朝食の用意が整っておりますので、食堂の方へお越しください」
「食堂? この列車には朝食なんて出るのか?」
「……? はい、件の事は券をお買いになられた時に説明されるはずですが……」
 いよいよもっておかしくなってきた。もちろん俺は券を買った覚えなどないし、それ以前にどうやってこの列車に乗ったのかも把握出来ていない状況だ。
 ベッドから降りることなく腕組みをしながら唸り始めた俺を、女性は怪訝な表情で見つめている。冷静に現在の状況を頭で反復している場合じゃないな。なんとかしてこの場を取り繕わなければ。
「あー、説明をよく聞いてなかったみたいだなあ。よかったら、食堂まで案内してくれると嬉しいんだけど、いいですか?」
「はぁ。よろしいですけれど」
 まだ女性は何かを疑うような顔をしているが、どうやらなんとかなったようだ。
 それにしても、本当にどうなっているんだ? 俺は確かに死んでしまった、これは間違いない。で、全ての人に試したわけではないが、俺の姿は見えないはずだ。だのに、今、俺は普通に人との会話をしている。……ベッドから這い出て大きな伸びをする俺を、部屋を軽く掃除している女性がちらちらと見てくる。現にこうやって人に見られる辺り、俺は生き返った? ……ありえないな。
 じゃあ、この状況をどう説明する。
「はあ、どうしようもないな」
「何か?」
「あ、いや、なんでもないです。それじゃあ、食堂まで案内してもらってもいいですかね」
「はい、かしこまりました。こちらへどうぞ」


 女性に連れられて、俺は列車内を歩く。そういえば、この人の名前を聞きそびれていたな。……いや、見た目からして家政婦っぽいし、そもそも飛行機で言うスチュワーデスさんの名前を聞くってのはおかしいよな。でも、かと言ってお世話になっているのに“女性”ってのも変な話だし……うーむ、難しいところだ。
 俺が乗ったことのある列車とは違い、少し揺れの大きいこの列車。音も心なしか大きいようだし、なんだろう、古い型なのだろうか。こういう時、クラスに居る鉄っちゃんが居れば、すぐに答えてくれそうなんだが。
「――賢太郎様は大学に通っておられるのですか?」
「え、なんで俺の名前を?」
 と、言ってから気付く。部屋の掃除や客への応対を任されている人なのだから、俺のことを知っていても不思議じゃない。案の定、女性は怪訝な顔――これで何度目だろうか――をこちらに向けている。俺は慌てて“変なことを言ってしまった、まだ寝ぼけている”という節を伝えると、改めて女性の問いへ思考を切り替える。
「俺が大学、ですか」
 この女性は俺の何を以って大学生だと思ったのだろうか。……今更だが、俺は学ランのまま今まで行動していたようで。それが尚のこと、俺を混乱させる。学ランと言えば中学生、いって高校生だろう、常識的に考えて。今の世に制服の指定がある大学などあるのだろうか。確かに士官学校だったら制服もありそうだが……それだと俺の格好じゃ結びつかない。
 俺が混乱していることを悟ったのか、女性は付け加えるように口を開いた。
「いえ、話に聞いたところの東京帝国大学が、その様な制服を採用されたと聞いたもので……」
「東京帝国大学って、東大? いや、俺はそんな大それたところに通っているどころか、まだ高校生ですよ」
「えっ?」
 そう応えた瞬間、女性は素っ頓狂な声を上げると同時に、今までとは違った……探るような目付きでこちらを窺ってくる。何か変なことを言っただろうか? むしろ、この女性の方が変だ。学ラン姿をどう見たら東大と結びつけることが出来るのか。
 そうは思うも俺は不安になってしまい、自信の伴わない声で話す。
「また何か変なこと、言っちゃいましたかね?」
「い、いえ……そういうわけじゃ、ないのですが。――あ、どうぞ。こちらが食堂です」
 気付けば、俺は女性の言う食堂とやらの前に来ていたようで。その女性は俺に軽い会釈を済まし、何処かへ行ってしまった。……結局、最後まで名前がわからなかったな。何やら気まずい雰囲気だったし、まぁ、仕方がない。
 俺は既に視界から消えてしまった女性から、目の前の豪華に装飾された扉へ思考を切り替える。
 


続きは絶賛書いてない。

       

表紙
Tweet

Neetsha