Neetel Inside 文芸新都
表紙

要するに短い話なんだよ
それ・あれ・ここ

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それ・あれ・ここ
《この作品はフィクションです。致死量に近い抽象的な表現が含まれておりますのでご注意ください。また、環境保護のため改行を減らしております》



 人はそれを見て何を思う。
 綺麗、じゃない。醜い、でもない。じゃあ普通、全然違う。彼女の問いの尽くを否定しつくした私は、自分も答えを知らないことに気付いた。
 そんな私に彼女も気付いたのか、ロダンの考える人の様なポーズを止め、それについて語り始める。私はそれのことなんて全てと言っていいほど知り尽くしているため、その内容は左から右へ、右からどこかへ、霧散していくわけである。
 それというのは詰まるところの、それなのだ。有象無象を指すそれでもなく、私の目の前に置いてあるコーヒーカップを指すそれでもない。そのようなそれを彼女は、これでもかと熱のこもった口調で話し続けている。私は呆れながらも彼女の肩に手を置き、落ち着くように論す。君はそれというものを全く以って理解していない。いや、理解しようとしている。故のそれであるわけで、君は、なんとも痴れたことを話し続けているのだ。彼女は呆けた顔をしながら、じゃあ、それというものはなんですか、と聞いてくる。
 その言葉を聞いた私は急に尻の居所が悪くなり、ソファーから立ち上がる。……では逆に問うが、君はそれというものがなんのそれなのか、どのそれなのか、あるいはそれではないのか、理解したいそれを理解しているのかね。君の問うたそれというものは世界に存在するそれなのか。もちろん彼女の顔は如何にもそれらしく、私の言うそれの少しも理解していないのだろう。
 段々と彼女は不機嫌そうな顔になり、乱暴に手に持っていたコーヒーカップ、その中身を飲み干す。
 私は続けて、彼女に言葉を発し続ける。それというものは君であり、このテーブルを照らしている日差しであり、私の指でもある。まさしくパスカルの言う考える葦こそがそれとも言えるが、親鸞が南無阿弥陀仏も一概に間違いとは言い切れない。フロイトに限っては、それそのものをそれと言う。……私の言っていることもそれであり、それを理解するには残りの二十万年、太陽系がブラックホールに吸い込まれる直前になった時ですら難しい。それの理解とは即ち、それの理を解すること。ここまで言えばわかっただろう。
 先程まで不機嫌“そう”だった彼女の顔は、見ればそれの如く形相をしており、あぁ、わかりましたとも、と、居場所を無くしていたコーヒーカップを机に叩き付けながら言った。つまり、先生は私のことをからかっておいでなのです。私は先生の言うそれに魅了され続けていましたが、今、それというものがはっきりわかりましたとも。鈍い音を立てながらソファーから立ち上がると、彼女は傍にあった自身の鞄を手に取り、出口の扉に向かう。それは凄い、君はそれというものをはっきりとわかったのか。是非とも、私にそれというそれの答えを教えて欲しい。嬉々としながら私は彼女にそう言うと、返ってきたのは扉が勢いよく閉まる音と、その直前に聞こえたそれですよ、という言葉。
 なるほど、と私は一人納得する。彼女は私と違い、それはそれ、という考えに到ったのだ。それもあながち間違いではなく、私は今しがた手に入れた一つのそれ、それはそれと言いながら、机に残っていたそれを片付け始めた。



 あれなのだ。唐突に口を開いた私を、あれな瞳で見る彼女。そうだとも、あれなのだ。君もあれなのだろう、この前に言ったそれをあれだと言いたかったのだね。彼女は唖然としながらも、そうです、それのあれがが言いたかったのです、と応える。そうかそうか、あれならばそれも仕方がない。――では問うが、あれとはなんだ。彼女は再び不機嫌そうな顔になる。
 あれとはつまりあれなのでしょう、それとはまた違ったあれであり、それと凄く似ているあれ。少しばかりの自信が含まれたその言葉を、私は全然違う、という言葉と共に一蹴した。あれというのもだ、君はあれとそれを似ている、同属に見ているようだが、あれは全く違う。チンパンジーとオランウータンが同じだと言ってしまうレベルだ、君の言うあれというのは。君は以前言ったではないか、それはそれ、と。ならばこそあれはあれであり、それはそれなのだ。乾いた唇を濡らすように、私はコーヒーカップの中身を口に含む。
 彼女は尚も不機嫌の一途を辿っているようであり、私はその様子を右から左へ、左から右へ、あれという彼女の言葉を無視して霧散させる。なんだ、言いたいことがあるのならば言ってみたまえ。私がそう言うと彼女は、じゃあ遠慮無しに言わせてもらいますが、先生はあれの否定ばかりをし、それと言いながら曖昧模糊なあれをそれと違うと言い張っておられる。あれはあれと仰られましたけど、そう言うからにはあれというものがあれであるということを、どこかで理解しておられるのですよね。そんな彼女に対し、私は別段違う素振りを見せるわけでもなく、もちろん理解しておる、と応える。それがそれである所以はそれであり、全宇宙をも内包するそれなのだ。正しくそれである必要性などなく、塵一つに到るまでそれと成る。ならばあれとはなんなのか。君は理解に固執しているようだが、それの時も言った通り、理解することは不可能に近い。無論、私は全ての疑問には答えが在るという考えだが、この場であれを理解することは出来ない。なんとも言えない風に顔を歪めた彼女は、じゃあやっぱり先生も理解しておられないんじゃないですか、と半ば投げやり気味に言う。私は満足そうに頷くと、コーヒーカップに残った液体を全て飲み干す。
 理解出来ないということを理解することもまた真理、あれとはなんなのかを延々と悩み続けるのも真理。偶然答えが見つかるかもしれないあれというものは、まさに暇つぶしには最適だと思わんかね。その言葉を聞いた彼女は口をあんぐりと開け、すぐさまいつも通りの不機嫌な顔に戻ると、いつか見た動きと同じように傍に置いてあった鞄を手に取り、出口に向かう。おや、どうしたのかね、あれを理解するのではないのかね。彼女の背中に向かって言うが、そんなこと知ったことではないといった風に、彼女は扉の取っ手を掴む。そして開ける直前に彼女は、暇つぶしと仰りましたが、じゃあ先生はあれと言っておきながらも結局、私も含めて暇潰しの道具にしていらしたのですね、と。捨て台詞を残して、扉の向こうに姿を消した。
 なんともいやはや、私は彼女に痛い所を突かれたと、机の上に置いてあるあれを見ながら思う。やはりあれとはあれであり、それとは違う。私はあれを手に取ると、先程までやっていた作業の続きにとりかかった。



 そもそもの話だ、我々はここに存在してしまっている。こことは何処か。宇宙、地球、地面、町、家、部屋、椅子の上。どれも正解であり、また不正解とも言える。何故か、それはどれを以って正解とするかによって違ってくるからであり、また、全てを内包する答えが存在しないからである。おかしいとは思わないかね、全てを内包する問いが在るのに対し、答えは存在していないのだ。私の言葉に疑問を持ったのだろう、今しがたこの部屋に入ってきた彼女は、眉間にしわを寄せながら答えた。答えが存在しないのなら、それは問いではないのでしょう? 先生の仰るここという場所は無限に存在していて、それを内包する言葉がここである、でもそれに対する言葉は無いと。なら、考えるだけ無駄じゃありませんか。彼女はそう言うと、部屋の中心に置かれたソファーに座る。それに合わせるように私は、椅子を180度回転させ、彼女に向き直る。
 そうは言ってもだ、この世に存在する有象無象には全て答えがなければいけない。何故ならば、答えこそがそのモノの存在であり、答えが存在しないということは知覚出来ないということだからだ。例えば、私の右手には一つのコーヒーカップが握られている。その、握られているという答えが無かった場合、私の手にはコーヒーカップが握られていないということになってしまう。だからこそ、ここという答えも存在していなければならない。全てのここを確立するためにはな。私はそのままコーヒーカップの中身を飲む。コトリ、とテーブルの上に置いた。彼女も釣られるようにコーヒーカップを手に取り、なにやら考え事をしている。私は続けて、ここを話す。ここという場所が存在しているということは、なにがしかの答えが在るということだ。しかし、私はその答えを知らない。だからこそ思案するわけであり、君に手伝って欲しいとも思っているわけだよ。その言葉を聞き、彼女はコーヒーカップをテーブルに戻す。そしてこちらを向き、口を開いた。私だって知りませんよ、そんなこと。先生が言うにはここという場所は存在していて、それ故に答えが在ると。計算式だけ存在していて、その回答はあるのだけれど、その過程が分からないということじゃないですか。それで、その計算式は誰にもわからない言語で書かれていて、と、どうしようもありませんよ。彼女は再度コーヒーカップを手に取り、その中身を口に含む。
 だから先程から言っているだろう、それを解読しよう、と。それにはここがここである所以、ここという言葉が生まれた所以、ここという言葉が持つ意味を全て理解しなければならないだろうがな。元より答えありきで作られるものが言葉だ、過程なんぞ考えてもいなかったのだろう。……まぁ、そのお陰で私はここについて考えることが出来、答えがあるからこそここに存在できているのだがな。私の言葉を聞き終わり、次は自分の番だと言わんばかりに彼女が話し始める。私はここという存在のことをよく知っていますよ。生まれた時から最も近くに在るだろう言葉ですもの。それこそ、ここという場所は過去でもあり、現在で、思いを馳せる先、未来でもあるのではないのでしょうか。ここという表現と共に一個の空間をその場で生み出し、過去へ移動したとしてもここが色褪せることはない。ここという場所は時間であり空間である、というのが答えではないでしょうか。彼女は満足そうに言い終わると、まるで帰ると言わんばかりにソファーから立ち上がる。
 おいおい、もう帰ってしまうのかい。確かに君の言うここは一つの答えだと私も思うが、言葉を発しているが故に、それもまた結果ありきの答えだと思うのだが。私の言葉を聞いた彼女は、まるでわかっていないと私に向き直る。先生、貴方はまたも、私をからかっておいでなのでしょうか? そんなものはどうでもいいんです。私にとってのそれやあれやここはこの場所ではありません。今すぐにでも家に帰り、熱いシャワーを浴びて寝たいんです。貴方のこことはここかもしれませんが、私のここは家なんですよ。
 結果、私は一人ここに取り残された。ここにあるのはそれとあれしかなく、また、私もそれやあれに含まれるのかと宇宙に思いを馳せる。ああ、私のこことは宇宙か。夜も更けた午前の頃、私は一人机に向かい、それやあれを片付けるのであった。



       

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