朝、妻が死んだ。ベッドで起き上がった僕の横でくたばっていた。

 ……いつもならキッチンでフライパンから油が跳ねる音が聞こえているはずなのに、というのが最初に感じたことだ。それから今日はサボったのだろうと思って、「おはよう」と言ってそっと掛け布団を剥いでやると、そこで妻の死を知った。彼女の顔は、すっかり青白くて冷たくなっていた。

 これは、どういうことだろう? 

 これまで調和があったはずの何かが狂いだしている気がした。きっと、彼女を構成する要素が決定的に足りなかったせいだ。それでも、僕は彼女にいつもと変わらないようにキスをして、それから彼女が変わったことに咽び泣いた。もうかつての柔らかさや、潤いは二度と戻ることはないのだ。

 それを境に、僕は家に帰っていない。葬式や諸々を済ませると、もう家に住むことが嫌になっていた。ベッドの横にある髪留めや、玄関に脱ぎ散らされたハイヒールを見ると寂しくなるからかもしれない。あるいは、僕も変わったのだ。鞄と財布だけを持って、スーツを着てから出ていった。うるさい携帯電話は置いていった。

 出来るだけ、電車で遠くに行った。そして適当な安ホテルに泊まり、とにかく酒を飲んだ。欠けた一部を求めて適当な女の子ともたくさん寝た。だけど、妻の不完全さを完全にパフォーマンスしてくれる女の子は一人もいなかった。どんなに金を渡しても関係なかったのだ。それから朝になると、寝ている女の子に別れも告げず、全てがよれよれのまま、また長い距離を電車に揺られて会社に行った。

 そんな生活が一週間続いて、とうとう財布の中は小銭しか残ってなかった。どうやら、クレジットカードも家に忘れたらしく、帰りの駄賃も無さそうだ。僕は途中まで電車に乗って、それから歩いて家に向かった。それで財布は本当に空になったけど、別に金で買いたいものなど無いのだ。

 ベルを押して、少し待つ。十秒後、泣き叫びたい気分になった。開けてくれる妻はどこにもいないのに! しかし鍵をポケットから取り出したところで、息子がゆっくりとドアを開けてくれた。僕はこの瞬間まで、独り身の叔母が世話をしてくれているという根拠のない安心感のせいかもしれないが、息子をいない者として扱い、本当に頭から忘れかかっていたのだ。彼は麦わら帽子を被り、ひも付きのクーラーボックスを肩から下げて、釣竿を袋に入れて背負っていた。そして僕を見て、不思議なぐらい顔を驚かせていた。僕のために開けたわけではなく、たまたま時間が被っただけみたいに。げんなりするけど、これでも僕の息子なんだ。冗談じゃなくてさ。

 息子は開いた口を塞いで、それから、またゆっくりと開けてから言った。

 「……父さん? 」

 父さん、だってさ! 本当のところ、僕はこいつが嫌いだ。まるで凹凸のある鏡を見ているようで気持ち悪くなる。一重の瞼が僕と同じだし、固くて太い髪だってそうだ。いつか僕の父さんと同じように、あるいは数年後の僕と同じように剥げるのだろう。妻の子宮から生まれたはずなのに、まるで僕のカーボンコピーのような奴だった。

 息子は「父さん? 」と、もう一度言った。なんというか、惚けたガキだ。僕はそれを無視して、しばらく黙ってから適当な返事をした。一週間、家を出て行ったことを謝りたくなかったからだ。理由がなければ、会話だってしたくない。そもそも妻が子どもを欲しいと言わなかったら、こいつを息子だと認めてなかったのだ。妻のためなら、多くのものを手離せた。嘘じゃない。

 「僕、釣りに行くんだ」と息子は言った。

 そんなこと分かっている、と言い返したくなったが、なんとか堪えた。代わりに「勝手にしなよ」と吐き捨てた。本当、人をイラつかせるプロなんだよ、このガキはさ。

 「父さんも一緒に来る? どうかな? 」

 「行かないよ。お前と違って、暇じゃないんだ」

 僕は左手で息子を押しどけ、部屋の中に入った。喉が渇いているし、腹もぺこぺこだったのですぐに冷蔵庫を漁った。しかし、冷蔵庫には賞味期限切れの牛乳と、腐った白菜しか無かった。ビールもチーズもない。まるで病気にかかった牛の頭の中みたいだ。ろくなものがない。

 すぐに喫茶店にでも行って、もっとマシなものを食べたかった。僕はあらゆる箪笥や戸棚をしらべて、クレジットカードを置いた場所を探った。いったい、俺はどこに隠しちまったんだろう? いくら考えても思い出せない。すぐに見つけられるようにと簡単なところに隠したはずなんだけどなあ。しかし頭を使うほど、浮かび上がる映像は妻との思いでばかりになった。なんだか、どうでもよくなってくる。

 居間に戻ると、ソファに座った。もうこのまま眠ってしまおうかと思ったところで、テーブルの上にメモが置いてあることに気づいた。皺が一つもないB4の紙だった。僕はその完璧なまでに綺麗なメモを手に取ると、水が流れるように読んだ。差出人は叔母からだった。最初に、僕の妻がいなくなったことを悔やんで、そのために僕自身を心配するような言葉があった。それから僕が家を一週間も帰ってないことを悲しげに語りながらも、息子を放っておいたことは大人としての常識に欠けると怒り、それについて長々と荒っぽいニュアンスで非難した。その中には汚らしい言葉も使われており、責任が持てないなら性行為をするべきでなかったし、息子を中絶するべきだったとまで語られてあった。その方がお互いのためだったかもしれない、と。しかし、叔母は少しやりすぎてしまったことを悟ったのか、僕に同情するような一言を入れて、息子はしっかりと自分が世話していることを話した。息子は叔母が働いて家にいない昼以外、寝る時や、食事も彼女の家にいたらしい。最後に、もしこれを読んでくれたら連絡して欲しい、という内容の文で終わっていた。

 僕は頭をわしゃわしゃと掻くと、メモを四つ折にした。読まなければよかったと思った。正直、あんなに怒っている叔母は初めてだったし、もう何をするにもやる気が失せた。

 「なあ、金を貸して?」と僕はため息をついて息子に言った。「少しだけだからさ」

 「なに買うの? 」

 「そんなのお前は知らなくていいんだよ」

 「ビールなら、ここにあるよ」

 息子はクーラーボックスを側にある手でぽんぽんと叩いた。

 「飲んでるのか? その歳で? 」

 「たまにね。ねえ、一緒に釣り来る? 」

 僕は顎を擦って、少しだけ考えた。ビールを取り上げるべきか、否か。そうしたら、僕も飲めるのだ。しかし、こいつのために叱るのさえ億劫であることに気づくと、簡単に決断できた。そういうのって何よりも疲れる行為なんだ。

 それから、しばらく息子の後を歩いた。どこまで歩くのだとか、いつまで魚を釣るのかも分からない。海なのか、はたまた川なのか。あるいは湖かもしれない。ただ、僕にとってはどうでも良いことだった。どんな環境だって、プラスには働かないのだから。

 だから息子が草道に入って、石橋近くの川で釣糸を垂らしたけれど、特に何も感じなかった。頭の中は、空腹とビールのことで一杯にしていた。

 「釣れそうか? 」

 僕はそう言って、クーラーボックスから缶ビール取りだし、プルタブを爪で開ける。それから、なるだけ平らな岩を探して、腰を下ろした。

 「分からないよ」と息子は言った。

 「ああ、そうかい」

 「多分、釣れると思うよ」

 「じゃあ早く釣ってくれ。酒のつまみが欲しいんだ」

 そう投げやりに言って、缶ビールを一口で半分飲んだ。そのあと、盛大にげっぷをする。本当、退屈だ。正直、僕は釣りなんて嫌いなんだよ。こいつはどこで、こんな退屈なことを覚えたんだろうな。

 僕はぼう、と釣竿を小さく振る息子の背中を眺めていた。まったく、何が面白いんだろうな。

 「……ねえ、母さんがいなくなって寂しいね? 」と唐突に息子は言った。本当に気に障る奴だよ。

 「なぜ、そんな話をするんだ? 」

 「ごめん」

 「頼むから黙って釣りをしてろよ。なあ、分かるだろ? 」

 「ごめんね。本当にごめんなさい」

 息子は肩を震わせて、しゃっくり声で言った。そういうのって、うんざりしてしまう。これだからガキは嫌いなんだよ。まるで僕だけが悪者じゃないか。

 気まずくなって、僕は逃げるように視線を太陽に移した。うす葵い中に形の定まらない真っ赤な点が僕の瞳を照りつける。もう限界だ、というまで我慢して、それから足元に頭を一気に下げた。僕の髪の毛のような雑草が仄かに散らばっている。草と草の間からは黒い土がむき出しになっていた。こういうのって、あまり面白くない。

 息子の叫ぶ声が聞こえた。

 「父さん! きたよ! 」 

 僕は残りのビールを飲み干してから、「なにが? 」と返事をする。それから、またげっぷをした。

 「魚だよ。こいつは大きい! 」

 息子はグングンと曲がる釣竿を握りしめて、顔を赤く染めていた。釣糸はぴんと張り、そいつは右往左往に飛沫をあげて息子を翻弄している。もう、どちらが釣られているのか分からないな、と僕は心の中で笑った。まさに滑稽な光景。

 「父さん! 手伝って! 」

 「駄目だ」と僕は言って、手足を狂ったように振った。「酒を飲んで、うまく立ち上がれないんだ」

 「お願いだよ、父さん! 」

 「……だから、一人で釣りなよ」

 「 逃げちゃう、逃げちゃうよ! 」

 「ああ、もうわかったよ! うるさいなあ」

 僕は大きく立ち上がり、ゆっくりとした足取りで息子に近寄った。その間、息子は「早く、早く」と急かしていたから、余計に鈍く歩いてやった。なんだって、釣りなんかの手伝いをしなければならないんだ。本当にさ。僕は木から枯葉が落ちるくらい時間をかけて、息子の肩に軽く手を乗せた。それだけで、他に何かしてやろうとは思わなかった。

 「ちゃんと、支えてくれてる? 」と息子はうなり声で叫んだ。「頼むよ! 」

 「ああ、支えてるよ」

 「本当に!? 」

 「本当に」

 僕はげんなりとしながら、釣糸の先にいる白飛沫をあげて暴れ狂う何かを眺める。そいつは水面から飛び出すと、怪獣のような褐色の尻尾を披露した。あんな尻尾の生き物なんて水族館でも見たことなかったね。ぶったまげたよ。

 「あんなの初めて! 」と息子も身体を熱くさせて叫んだ。そして、鼻を膨らませながら続けた。「ねえ、ちゃんと支えていてね! 」

 僕は囲うように息子を後ろから抱いて、手を釣竿に移して一緒に持ち上げてやった。実を言うと、僕もあの尻尾の正体を知りたかったんだ。だけど、そいつは水面下で力強く嫌がっていた。だんだんと、釣竿を掴んでいる手が下がってゆく。僕って、本当に力がないんだ。悲しいぐらい。そして、とうとう息子の握っている拳の上まで下がってしまった。

 でも、そのとき僕は、釣竿を離したくないなと思っていた。僕の指が息子の小指に当たっていたからだ。それは僕の小指とは形が違い、また妻とも似ていなかった。僕はそれが何となく嬉しかった。

 「ねえ、支えてる? 」

 「……ああ、支えてるよ。大丈夫」

 「本当に? 」

 「本当に」

 僕は小さく頷いて、息子の小指に自分の小指を重ねた。それから息子が釣ろうとしている何かについて、想像してみた。きっと、胴体も尻尾と同じくらい大きいのだろう。当然、身も相対的にあるはずだ。ちゃんと二人分あったら良いな、と思った。そうしたら、僕も食べられるから。でも、三人分は必要ないんだ。多分、僕はそれでも満足だった。

 だけど、もう少しで獲物の姿を拝めそうなところで、息子が力みすぎて糸がぷつんと切れてしまった。獲物もこれが好機と捉えたのだろう。鮮やかに尻尾を水面に打ち付けると、そのまま颯爽と逃げた。しかし僕らはなにも語らず、呆然としていた。悲しみも、悔しさも何もない。それどころか何にも考えてさえなかった。ただ逃げた獲物の行く先を眺めているだけだ。後で、あいつを逃すべきではなかったと僕は後悔した。息子はわからない。あいつは案外気にしてないかもしれないし、そうじゃないかもしれない。とにかくそれについては何も話してくれないのだ。

 とはいえ、人生にはこういうことの方が多々あるはずだ。いつだって何かが欠けているし、ピースのように上手い具合に埋まったとしても、しょうもないことで同じ場所が崩れることもある。全てが後腐れなく終結するわけじゃない。

 とりあえず、過去のことはどうしようもないので、僕はまたビールを飲んで、息子も釣りを再開した。そして次の獲物を待ち受けながら、これからの成り行きがどうなるか考えた。……いったい、次はどうしようか。


sage