Neetel Inside ニートノベル
表紙

幻覚、見えるようになりました
第五話

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 次の日もまた次の日も、星野光は俺の部屋にいた。
 当初は疎ましいとさえ思っていた星野光の存在だったが、今では孤独な執筆生活を支える唯一無二の存在になっていた。
「先生、執筆作業はどうですかー? 進んでますかー?」
 コーヒーを淹れて持ってきてくれたらしい。マグカップを机の上の邪魔にならない場所に置いてくれた。
「ああ……ちょっとまた行き詰ってしまったんだ。ここから先の展開がどうにも思いつかなくて」
「なるほどー……」
 星野光はパソコンの画面に映し出されているテキストエディタに視線を移した。
「へー、次のお話はそーいうことであーいうことになって、最終的にはこーういうことになっちゃうんですねー。お話の流れは大体わかりました。っていうか先生、ひとついいですか? 先生、昨日もスランプになったって言ってましたよね? 一昨日もそのまた前の日もずーっと……。 先生、それってスランプじゃなくって、そもそもの執筆能力が低いだけだと思うんですけど」
 グサりと効くような一言を言われた。スランプではなく元々執筆能力が低いだけ。言わないでくれ……。薄々は自覚していたのだ。
「あれれー? 先生、図星ですかー? まあそんなことはどうでもいいんですけどねー。それじゃあ、今日も執筆がんばってくださいね! 執筆の邪魔になるといけないので、私はこれでおいとましますー。それではー」
 そう言って星野光は出払ってしまった。出払うといっても、もちろん家の中での話である。ワンルームの狭い部屋で行く宛てなどない。気が散らないように静かにするという星野光なりの配慮なのだ。しかし今日ばかりはあまりにもスランプがひどいでので、星野光とお喋りをして気を紛らせたかったところなのではあるが、流石にそういうところまでは察してくれないらしい。
 星野光は漫画を読みながら呆けた顔をしていた。
 この様子だと眠りこけてしまうのではないかと思って観察していると、案の定数分後に眠りに落ちた。しょうがないので布団をかけてやると、しばらくするとすやすやと寝息が聞こえてきた。
 パソコンの前に座って執筆活動を再開する。
 いつものように星野光が後ろに立ってあれやこれやと意見してくることはなかった。そのせいで書きやすくなった反面、一抹の寂しさがあった。


 誰からも読まれない小説など、一体何の価値があるのだろう。
 それに、そもそもの話として、俺はどうして小説を書いているのだろう。
 自分の中から沸々とわいて出てきたこの問いに対し、納得できるような回答を見つけることはできなかった。
 俺は苦悶した。寝っ転がりながら何度も天井を仰いだ。なぜ小説を書いているのかと繰り返し自問自答した。しかし、それでも答えは見つからなかった。
 とはいえ、そのようなことは執筆時以外に悩めばいいのであって、書くべき小説を書いている時に悩むべきことではないだろう。今の俺に課されている使命は、この小説を書き終わることなのだ。


 そんなことを考えながら、苦悶しながら小説を書き進めていると、ふとあることに気が付いた。
 そのことに気付くと、何だか視界が滲んでいった。


 面白い小説を書いて、有名になりたい。大金持ちになりたい。尊敬されるような人になりたい。それらが己の内に端を発する欲望であることは間違いないが、まずそれらの大前提として――俺は小説を書くのが好きなのだ。
 そのことに気付くと、ぽつりぽつりと涙が頬を伝っていることに気が付いた。


 そして、星野光に対して特別な感情を抱いていることにあらためて気づいた。すると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
 あらためて言おう。
 星野光に対して抱いている感情。それは劣情ではなく、ましてやそれを伴う好意ではなく、海よりも深い情愛だったのだ。


 だから俺は小説を書いているのだった。こいつらと、いや星野光と戯れたいのだ。物語を紡ぎたいのだ。そして、できることならば登場する全ての人物をなるべく幸せな方向に導いてあげたいのだ。だから俺は小説を書いているのだ。


 そうと決まればやることは一つ。
 今俺がやるべきこと――それは、小説を書くことだ。
 俺は再びパソコンの前に座った。それから数時間、小説を一文字も書けない状態が続いた。
 さらにしばらく経つと、数百字ほど書けたはいいものの、あまりに稚拙な文章だったので推敲する間もなく書いた部分をまるごとそのまま消してしまった。どんな内容を書いたかすらもろくに覚えていない。ただ確かなことは、ひどくつまらない内容だったということだけだ。
 俺は苦悶した。布団を着てすやすやと眠っている星野光に助言をもらおうと思ったが、あいにく星野光は深い眠りに就いていた。
 自室のワンルームは孤独な空気で満たされていた。物語の今後の展開が全く思いつかないという焦燥感、果たしてこれは本当に面白い物語だったのかという疑念、そして考えれば考えるほどそれらに押しつぶされそうになっている自分がいた。
 しまいにはパソコンの画面に映るテキストエディタを見ることさえ億劫になってしまっていた。


 今日はもう書くのをやめよう。そう思って席を立とうとした瞬間、後ろに星野光が立っていることに気付いた。どうやらようやく眠りから覚めたらしい。
「先生、今書こうとしているそのシーン……、確かに書くのはかなり難しいですよねー。もういっそのこと、そのシーンは簡単な描写で済ましちゃってもいいんじゃないでしょうか。先生、そのシーンで一時間ほど悩んでますよ」
 慣れ親しんだいつもの声だった。もっぱらいつもの声だといっても星野光は俺の作り出した幻覚で、星野光のこの声もあくまで俺の作りだした幻想に過ぎないのだが。
「そうだよな……。ちょっとこのシーンで悩みすぎだよな。ははっ……」
 星野光は、俺の小説を読んでくれている。その事実を想うと、途端に目頭が熱くなった。
「先生、何泣いてるんですか。もしかしてスランプの連続でついに頭がおかしくなったんですが」
「いいや、そうじゃないよ……。星野さん、俺の書いた小説を読んでくれてありがとう」
「……どういたしまして」
 星野光は優しい目で俺を見つめていた。


 その日の晩は奮発して出前の寿司を取った。
 醤油をつける取り皿は俺と星野光の二人分必要だったのだが、俺が用意したのは一人分の取り皿だった。
 それにも関わらず、星野光は一緒に寿司を食べようと笑みを浮かべたままで、自分の分の取り皿が用意されていないことに対して一向に抗議しようとしない。


 俺は結局、星野光の目の前に醤油の取り皿を置かなかった。
 星野光は何度も寿司を口に運ぶ素振りを見せており、確かに星野光に目を向けていた時は寿司が消えていたのだが、次の瞬間目をやると、星野光が食べていたはずの寿司が目の前に存在しているのであった。
 その時はじめて、俺の中で星野光の存在が消えかかっていることに気付いた。
 視界が滲んでいく。情けないうめき声が出た。
「どうしたんですか……先生。泣かないでくださいよ。こっちまで泣きたくなってくるじゃないですか」
 星野光の声は震えていた。
「なぁ星野さん、君はやっぱり俺が作りだした幻想なんだね。そして君は……、いつか消えてしまう……そうだよね?」
 星野光は何も答えなかった。
 しばらくの間、沈黙が続いた。しかしその沈黙はそもそも沈黙ではなく、いつも部屋に一人でいるときの生活そのものであるような、そんな気がした。


       

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