Neetel Inside ニートノベル
表紙

くろうさぎの自由帳
誰がための四冊

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「日記は、どこにあるでしょうか」
 尋ねられた祥太郎が最初に思い当たったのは、アンネ・フランクが残した日記をもとにした『アンネの日記』だ。ユダヤ系ドイツ人の少女が隠れ家で生活した二年間を記録したもので、後に出版されて二五〇〇万部を超えるベストセラーになった。
 惜しくも祥太郎は履修していないが、隠れ家の生活はさぞかし苦しいものだったに違いない。アンネの苦痛を考えて表情に悲哀をにじませる――かのように午後四時の眠気を堪え、ぴっと指で示した。
「文庫本なら、あっち」
「ありがとうございます!」
 女子生徒はぺこりとお辞儀をして数歩進むと、固まった。巻き戻るようにてとてとと後退してから、眼鏡の奥の困った表情を祥太郎に向ける。大きくあくびをしたのを見られたかもしれず、祥太郎は少し気恥ずかしくなったが、女子生徒は歯牙にもかけない。
「……文庫本では、ないと思います」
「なら、ハードカバー?」
「ああいえ、そうではなくてですね……」
 女子生徒は顎に手を当てた。
 グレーのカーディガンを羽織ったセーラー服には「Ⅰ」を象った徽章が留められている。同じ入学したての一年生なので、本の場所がわからないのはいいとして、探している本の名前くらいは把握しておいてほしいところだった。
 図書委員は司書ではない。したがって、各書架の大まかな区分けは把握していても、少ない情報から目当ての本を推測するほどの技量は持ち合わせていない。なので尋ね返す。
「本のタイトルは? 教えてもらえれば、調べるけど」
「えっと、わかりません」
 手の打ちようがなかった。文字通り頭を抱える。
「……何を探しに?」
「なんて言うんでしょう。記録みたいなものです。築葉市の記録を知りたくて」
「なるほど、郷土史が近いかな……ちょっと待ってくれ」
 県立茜山高校の図書室は「室」ということもあり、さほど立派な品揃ではないが、学校が所在する都市の歴史をつづった書籍程度ならば間違いなくあるだろう。祥太郎は席を立ち、郷土史料の棚から何冊か見繕ってカウンターに置いた。
「『築葉 一〇〇万都市を目指して』とか『図説 築葉の歴史』みたいなものでよければ、いくつか見つけたけど、これでいいか?」
「ありがとうございます! 確認させていただきます」
 女子生徒はさっそく手に取り、その場でページをめくりはじめた。どこか席に座ればと勧めたくなったが、他にさして生徒がいるわけでもなし。ずっと立ち読みするわけでもないだろう。祥太郎は図書委員の仕事を再開した。といっても、返却箱に入れられた本を返却処理するぐらいしかできることはない。
 返却箱はカウンター側から開けられるようになっているので、開いて積まれた本を取り出す。祥太郎は火曜日の昼休みと金曜日の放課後に図書当番を担当しているが、今日は美術関連の図集が多い。借りた人物を見ると二年生ばかりだったので、選択授業の美術で使用したのだろうと考えた。もしくは世界史か。
 返却処理をする前に、本の現状を確認する。汚れがないか、ページが破れていないか、落書きがないか、付録は揃っているか……。問題があれば台帳に書名と生徒の氏名を記録する。問題なければバーコードを読み取って、借りていた生徒の氏名をチェックし、ステータスを「貸出可能」に変更する。貸出中リストに未返却の本があるなら告知の準備。予約待ちのアラートが出ていれば連絡表へ記入。一通り返却処理が終わったら、予約済以外の本を書架に戻す。やることはそれなりにある。今日は積み残しがあまりないので、ある程度消化したら下校時間の少し前にまとめて作業を始めても問題なさそうだった。
 黙々と作業を進める。三つ目に通した図集の借り主は、その一つ前に借りていたはずの文庫本をまだ返していない。少し前に入荷した人気作家の最新作だった。貸し出し期限は明日まで。こういった本は予約が立て込むので、可能であれば早く読み終えてほしいところだ。
「あの」
 集中していたところへ、声をかけられる。件の女子生徒だった。はて、名前は何だっただろうかと祥太郎は思い出す。同じクラスだったはずだ。思い出しながら、受け答える。
「まだ何か?」
「こういう本って、どれくらい詳しく書いているものなんでしょう」
「どれくらい?……」
 要領を得なかった。郷土史料がどれだけ仔細に記されているかなんて、歴史オタクでも知っているか怪しい。祥太郎は気になったことを聞いてみる。ついでに名前も思い出した。
「そもそも、何が知りたいのかを教えてくれないと答えようがないな。桜坂さくらざかさん」
「むむむ! どうして私の名前を?」
 知らないほうが失礼だろう、と言いかけて飲み込んだ。
「入学初日に自己紹介したし、それくらいは、まあ」
「はわ! 同じクラスの方でしたか、失礼しました」
 資料を置き、女子生徒はペンダントのように首にかけているメモ帳をパラパラとめくる。新書サイズのそれは年季が入っているようで、あちこち擦り切れている。フォトグラファーが一眼レフを携帯するのは理解できるが、学生身分がメモ帳を携帯する理由は今ひとつ思いつかなかった。気になったことはメモしたくなる気質なのかもしれない。深く考えないことにした。
「えっと、目つきが少し鋭くて、ちょっとツンツンヘアー……」
「目つきが少し鋭くて、ちょっとツンツンヘアーで悪かったな。生まれつきなんだ」
「ごめんなさい、覚えるのが少し苦手なので……」
 途端、ページをめくる手が止まり、女子生徒――桜坂芽以の表情が晴れやかになった。メモ帳と祥太郎の顔を交互に見る。
「藤崎! 藤崎祥太郎さんですよね!? 記録と合致します!」
「記録? いったい何を書いてるんだ?」
 メモを見せてもらう。似ているのかやや微妙な似顔絵の隣に、祥太郎のフルネームと生年月日、続いて走り書きと思しきメモがずらずらと続いている。祥太郎は露骨に眉をひそめた。
「ちょっと眠そう、黒髪、目つきが怖いかもしれない、ちょっとツンツンヘアー、目つきは怖いけど失礼なのでできるだけ言わないようにする……十分言ってたけどな」
「ごめんなさい、まだ整理ができてなくて……」
 芽以は恥ずかしそうに頬をかくと、今度は誇らしげに胸を張った。
「でも、藤崎さんのお名前とお顔、しっかり覚えました。もうなくしません」
「はあ……」
 よくわからないやつに絡まれた、と祥太郎は溜め息を吐く。
 が、桜坂芽以。印象には残った。長い茶髪を一本のおさげにして右胸に垂らし、ややオーバーサイズの黒縁眼鏡――つるがモノクロの市松模様で洒落ている――をかけていて、それなりに覚えやすい。様子を見るに、メモ帳は常に持参しているのだろう。髪型を変えてコンタクトにしても見分けがつきそうだと感じた。
 閑話休題。
「結局、何が知りたくて築葉市の歴史なんか調べようと思ったんだ?」
「あ、それはですね……」
 芽以が口にしかけた、そのときだった。
「あの!」
 少し大きな声に、祥太郎は入り口のほうを向いた。女子生徒がハードカバーの本をを抱きしめるようにして立っている。徽章は一年生だ。祥太郎の視線に気付くと一瞬だけ肩を震わせたが、やがてずんずんと歩を進めて、
「お、お願いします!」
「? どうも……」
 返却箱に突っ込んでおけばいいものを、直接手渡して、そそくさと退散していった。嵐のような出来事に、祥太郎と芽以はぽかんとなる。
「なんだ、急いでたのか?」
 祥太郎は首を傾げたが、それ以上気にせず返却処理を進めることにした。
 時間帯は放課後。バイトやら部活やらで、急いで本を返さなければいけない事情はあるだろう。祥太郎の覚えた違和感は、本当に些細なものだった。この程度の些事に気を取られていては図書委員は務まらない。いや、それは言いすぎかもしれないが、とにかく興味を引かれないことは確かだった。
 芽以は、様子が違った。

「……おかしいです」
 そう、ぼそりと呟いたのは、作業用のパソコンに繋いだリーダーでバーコードを読み取ろうとしたときのことだった。
 祥太郎はつい、手を止める。
「おかしいって、何が」
「きっと、急いでたわけではありません」
 ふむ、と祥太郎は唸った。
「なぜそう言えるんだ」
 問いかけに、芽以は両目を切れ長に細めて答える。
「あの方、私がここに来たときにはもう、入り口のそばに立っていましたから」

     

「あの方。ええと……」
 芽以はまたメモ帳をめくりはじめる。何をしようとしているのか察して、祥太郎は助け舟を出してやる。
「吉田理沙(よしだりさ)、だな」
「そう! 吉田さんです。合致します。むむ、なぜご存知なんでしょう。幼なじみ?」
「いや、今返却処理してるから。それに同じ図書委員だったはずだから、知らないほうが失礼だろう」
 図書室で貸し出している本は、専用の画面でバーコードを読み取れば借りていた生徒の氏名が表示される。吉田理沙。同じ一年生で、隣のD組所属。見覚えのある名前だなと祥太郎が感じるのも当然で、まだ四月だというのに既に四度本を借りていた。今日返却したのは『すばらしき新世界』という新しめの翻訳小説。海外作家が好きなのかもしれない。あるいはディストピアが。
「それで、吉田が入り口に立っていたのは本当なのか」
「はい。何をしてるんだろうと思って挨拶したら、とても驚かれていたので、こちらも驚きました。私は図書室の場所がここで合っているのかわからないのかと思ってましたが」
「四回も借りてるからそれはないだろうな。繰り返すが吉田も図書委員だ」
「むむむ、ですよね」
 芽以はいっそう眉根を寄せた。
「藤崎さんは、どうしてだと思いますか?」
「どうして俺に答えを求めるんだ」
「事件の目撃者だからです。藤崎さんは重要参考人です」
「参考人……」
 探偵劇でも始めるつもりだろうか、と祥太郎は肩をすくめた。どのみち今日は暇になると予想していた。金曜の放課後、明日からの休みに浮かれる学生諸君が、貴重な時間を割いてまで図書室に本を返しに来るとは考え難い。返却期限が今日中ならわからなくもないが、現状の人の少なさが答えでいいだろう。断る理由もなし、祥太郎は少し考えてみることにした。
「吉田は委員会でもあまり発言しないやつだったから……なんとなく返すのが億劫か、恥ずかしかったんじゃないか。貸し借りに限らず、誰にでもそういう経験はあるだろう」
「……たとえば?」
「大人が児童向けの本を借りるとか。逆でもいい。子どもが大人向けの本を借りるとか」
「大人向け!」
 芽以は顔を赤らめて、返却処理の終わった『すばらしき新世界』を手に取る。大人向け、という表現は少しセンシティブだったかもしれない。案の定、芽以は生真面目な顔で本を見つめている。
「こ、これは、大人向けなんですか」
「桜坂の想像する『大人向け』ではないと思うがな。未来のディストピアを描いたSFみたいだが、少なくとも俺はこれを返すときに恥じらいを感じることはない。SFを返すのが恥ずかしいなんてやつを探すほうが難しい。だけど対人関係が苦手なタイプは珍しくないだろう。吉田がその部類かと聞かれると納得できる。週末だから本を返そうと思ったけど、人と話すのは緊張する。だから少し躊躇ってしまった。これが俺の答えだ」
「なるほど……あれ? でも」
 芽以はメモ帳を読み込んでから、顔を上げる。
「吉田さんって、同じ図書委員なんですよね。図書委員であれば、自分が当番のときに返却処理をすれば、緊張せずに済むんじゃないでしょうか」
「む……」
 上手い返しが思いつかなかった。その通りだった。そもそも人と話すのが苦手なら、何も言わずに返却箱へ入れてしまえばいい。しかし吉田はわざわざ手渡しで返却した。祥太郎は自らの結論が崩れていくのを感じて、少し気持ち悪くなった。同時に、かすかな興味が芽生える。
「確かに、桜坂の言う通りだな。急いでいたわけでもなく、別に恥ずかしかったわけでもないのなら、吉田はなぜわざわざ今日、本を返しに来たんだ」
「事件の匂いがしますよ、藤崎さん」
 芽以は口元をにやりと吊り上げていた。
「私の見立てでは、この事件は『吉田さんからのメッセージ』だと紐解けます」

 空気がこもっていたので、少し窓を開けた。吹奏楽の合奏の音と野球部のノックのかけ声がより鮮明に聞こえる。少し騒がしいくらいが考え事はやりやすかった。人が来ないのをいいことに祥太郎はカウンターを出て、閲覧用の席に腰掛ける。芽以もテーブルを挟んで向かいに座った。
「吉田からのメッセージ、か。誰に宛てた?」
「もちろん、藤崎さんです。吉田さんが本を渡したのは、藤崎さんですから」
「それはどうだろう」
 祥太郎は指折り数える。
「茜山高校一年生、男性、C組、図書委員会、帰宅部……俺が持っているパラメータは名前だけじゃない。たとえばC組の男子に伝えたいことがあって、やり玉になったのが俺という可能性もあるだろう。もしかしたら図書委員会で流行っている伝言ゲームなのかもしれない。俺に渡したから俺に対するメッセージだと決めつけるのは、やや性急だ」
「むむ、確かにそうですが。ではどうすれば……」
「難しい話じゃない。こんなときに役立つのが5W1Hだ。たとえば『一年C組』の誰かに伝えたいメッセージがあるのなら、なにも放課後に実行する必然性はないだろう。そう考えたとき、まず合致するパラメータといえば」
 芽以は膝を打った。
「図書委員、ですね」
「吉田はメッセージを伝える場所に図書室を選んだ。相手は図書委員の藤崎祥太郎。方法は『すばらしき新世界』を返却すること」
「つまり吉田さんは、図書委員の誰かなら読み解けるメッセージを持っていて、その相手に藤崎さんを選んだだけかもしれない、ということですね」
 いつの間にかメッセージであることが前提になってしまっていたが、気にしないことにした。どうしても解決できないなら、その前提を捨ててしまえばいい話だ。
「問題はメッセージの中身だな。『すばらしき新世界』というタイトルのSF小説を渡して、吉田はいったい何を伝えようとしたのか」
「……今の世界が生きづらい、とかでしょうか」
「そいつはさすがにお門違いだ。まだ職員室をアテにしたほうがいい。ただ、図書委員の誰かなら意味がわかるかもしれないといっても、図書委員しか持っていない情報なんてたかが知れている。せいぜい、どの生徒がどんな本を借りていたか調べることができるくらいだ。そうだな、たとえばこの『すばらしき新世界』を前回借りた人物に関連したメッセージかもしれないが……」
 書名で検索をかけ、データベースを参照する。結果は0件だった。
「誰も借りていないな。同じ作者の書籍も置いてなさそうだ」
「もしかしたら、藤崎さんにオススメしたい本だったのかもしれません。でなければ、わざわざ手渡しする必要はありませんから」
「そうだよな。俺も気になっている点だった」
 茜山高校の図書室には返却箱がある。ここに投函しておけば、わざわざ図書委員に声をかけなくても勝手に回収されて返却処理が行われる。そうか、と祥太郎は納得して頷いた。
「図書委員に伝えたいことがあるなら、返却箱でもいいはずだ。でも吉田は俺に直接渡してきた」
「ということは、やはり藤崎さん個人に宛てたメッセージになりますね。私の勝ちです!」
「なんの勝負だよ」
 祥太郎は『すばらしき新世界』をパラパラとめくる。小説を読む趣味は多少あるが、SFに関しては門外漢だった。吉田理沙に対してSFを読んでみたいと公言したことはない。そもそも話したことがあったかどうか。確か、委員会のときに少し話したような気がしたが……なんのことを話したかまではさすがに意識していなかった。いつかは思い出せるだろうが、目の前に座る芽以はそれを良しとしないだろう。解決するまで帰らないと言わんばかりの気合の入り方だった。
「しかし、俺へのメッセージね。心当たりがないなあ。吉田と仲が良かったわけではなし、問答を出していたわけでもなし。まったくもって思いつかない」
 沈黙。ややあってふと思い立ち、カウンターに戻って『すばらしき新世界』の返却履歴を眺めてみる。面白いデータが載っているわけではないが、もし祥太郎へのメッセージだとして、図書当番のときにわざわざ本を返却することで伝えたいことがあったのなら、この返却履歴にヒントがあるのではないか――と考えた。
 芽以も同じ考えだったのか、後ろについてカウンターへ入ってくる。図書委員ではないからと追い出そうとしたが、はいすみませんと言うことを聞いてくれるとは思えず、そのままにしておいた。芽以の気配を間近に感じ、こそばゆくなる。
 返却日、生徒氏名、書名、ISBN……これのどこにメッセージがと思える情報ばかりだったが、不意に芽以が画面を指差した。
「ここ」
 示していたのは、貸出日。
「借りたのが、今日の昼休みになっています」

     

 祥太郎は図書委員の当番スケジュールを確認する。
「吉田の当番は、月曜の放課後と金曜日の昼休み。つまり自分が当番のときにこの『すばらしき新世界』を借りて、そのわずか数時間後の放課後に返しに来た、ということになる」
「『すばらしき新世界』はそれなりにボリュームのある小説ですから、一朝一夕で読んでしまえるとは思えません。吉田さんはこの本をただ読むために借りたわけではなさそうですね」
「趣向が合わなかった可能性もあるが……図書当番なら中身のチェックをする余裕もあるだろうから、桜坂の考えた通り、やはり何かしらの意味が込められていると推理して良さそうだ」
「えっへん」
 えっへんと声に出して胸を張る人間を、祥太郎は初めて見た。
「だが進捗はないな。結局、メッセージの詳細がわからないことに解決の糸口は見いだせない」
「そもそも、吉田さんってどんな方なんでしょう? 友達思いの方でしたら、もしかしたら友人に頼まれて渡しに来た……ということも」
「俺は否定的だな。代理で来ただけなら、渡すのに恥ずかしがったり躊躇ったりするのは辻褄が合わない。俺が一〇〇年に一度の美男子なら話は別だが、そうだとは思わない」
 自分で言って、少し悲しくなる。
「……やはり、吉田自身の事情があって、メッセージを伝えに来たと考えるのが適切だろう」
「そういえば、吉田さんはなぜ『返却する本を渡す』ことでメッセージとしたんでしょう。何か伝えたいことがあるのなら、口頭でも良さそうなものです。もしも恥ずかしいのなら手紙にしたためてしまうのもアリです」
「吉田に言ってくれ。が、着眼点はそこしかないよな。ただ本を渡すだけではなく、本を返却するだけでもなく、俺に直接返却することで成立するもの……」
 返却、返却と反芻したのち、祥太郎は改めてパソコンに向き直る。
「やっぱり、これか」
 返却履歴。返却された本を受け取った祥太郎だけが見る可能性があるのは、返却処理の画面だ。
「吉田も図書委員だから、返却の流れは知っている。それを理解した上で俺に直接返却したってことは、それを棚に戻すまでのどこかに答えが眠っているはずだ」
「吉田さんって、高校に入ってもう四回も本を借りられてるんですね。まだ四月なのに。さぞかし本がお好きなんですね」
「ふむ……何を借りていたか、見てみるか」
 返却履歴には過去の貸出回数しか記載されていない。祥太郎は貸出者検索に『吉田理沙』と入力してみる。このとき同姓同名の生徒がいれば学年とクラスを入力しなければならないが、幸いこの学校に通っている『吉田理沙』は一人だけだった。検索結果のリストには、四冊のタイトルが並ぶ。祥太郎はかすかな違和感を覚えた。

『スリランカを歩く ~旅人手帳シリーズ32~』
『キリンの生態』
『デーモンズ・マニュアル ―悪魔学を初歩から学ぶ―』
『すばらしき新世界』

「なんというか、随分と個性的な顔ぶれだな」
「そ、そんなことはないですよ! きっと吉田さんは旅行が好きで、動物園ではキリンを楽しみにしていて、あくま……がく? を学びたいと思っていて、その結果この世界は素晴らしいということに気づかれたんです!」
「吉田がそんな熱意を秘めていたら、それはそれで怖い」
 祥太郎はもう一度タイトルの羅列を眺めた。四冊の本には驚くほどに関連性がない。スリランカに興味のある女子生徒が、唐突に「キリン大好き!」となることはないだろう。もちろん、テレビで見て気になったことを調べただけという可能性もあるが……そこで悪魔学が登場するのは俄に考え難い。関連性がないのなら、吉田はなぜこの四冊の本を借りたのか。リストに並んである返却日に目をやる。
「『スリランカ』は先週の火曜、『キリン』は先週の金曜……ん?」
 祥太郎は違和感に気がついた。
「『悪魔学』が今週の火曜で、『新世界』は今日。つまり金曜日。この四冊、すべて俺が図書当番をしたときに返却されているな。道理で見覚えがあると思うわけだ」
「藤崎さんへのメッセージ説は、これで確実なものになりましたね。『キリン』も先週の昼休みに借りて、放課後にすぐ返していたようです」
「それだけじゃない。『スリランカ』は月曜の放課後、つまり金曜の二冊と同じように自分の当番時に借りて、翌日の火曜日昼休みにすぐ返している。『悪魔学』も同じだ。……ここまで機械的に貸し借りを行っているのは、いかにも怪しいな」
「関連性はまるでないですが、それでもこの四冊には意味がありそうですね」
 芽以はそれぞれのタイトルをメモ帳に書き終えたところだった。ボールペンを握ったまま手を口元にあて、思索にふけっている。祥太郎はもパイプ椅子にもたれかかって考える素振りをしたが、これといって解は思いつかなかった。四冊の本に意味があることは導き出せたが、そこから先のアイデアを閃かない。頭を使うことは苦手ではなかったが、方向性が定まっていない問題を解決することには慣れていない。
 数分、十数分。どれほどの時間が流れたか。入口の扉を引く音で、祥太郎は我に返る。褪せた浅葱色の作業着を着た用務員が、にっこりと笑っていた。胸元には「渡辺《わたなべ》」の名札。放課後当番は下校時間までだから、最後は用務員の渡辺に鍵を閉めてもらうのが通例だった。しかし今日は時間がいくらか早い。
「渡辺さん、早いですね。どうかされましたか?」
「司書の戸村(とむら)先生から言付かっているよ。戸村先生、今日は体調が悪くてもう帰られるそうだから、図書室は早めに閉めるそうだ。いつも通り、鍵は私がかけておくから、君たちも早く帰るといい」
 なるほど、と祥太郎は頷いた。そういった事情があるのなら無理に残ることはできない。頭のなかで紐が絡まったままなのを感じながら、パソコンの電源を落とし、カバンを持つ。
「春はすぐに暗くなるから、気をつけてね」
 先週も聞いた渡辺の気遣いにひらひらと手を振りながら、祥太郎は図書室を辞去した。まだ外は明るいが、春の夕日は意外な程に早く落ちる。ゴールデンウィークになればもう少しマシにはなるだろう。昇降口で靴を取り出していると、ずっと後ろをついてきていた芽以から尋ねられた。
「藤崎さん、どうするんですか」
「どうするって、何を。吉田のメッセージのことか?」
「当然です。吉田さんが何かしらのメッセージを伝えたかったのであれば、然るべき対応を取る必要があると思います。もしかしたら、イジメなどのSOSかもしれませんし……」
 芽以はメモ帳をギュッと握りしめる。言いたいことはわからなくもない。ただ、今急いでメッセージを読み解いたところで、今日は金曜日。吉田に伝えることがあったとして、連絡先がわからない――連絡網はあるが、そこまでするかというのはある――以上、アクションができるのは月曜日以降だ。事を急ぐ必要があるわけではない。
「もちろん、無視なんてしないさ。謎が解けた暁には俺からもメッセージを返す。だけど時間がかかるのは事実だ。そうだな、ビクトリア・サンドイッチでも食べながらゆっくり……」
 その刹那。
 芽以の小さな顔が、靴を履こうとしゃがんだ祥太郎のすぐ近くにまで迫っていた。突然詰め寄られて、祥太郎はわずかにたじろいだ。
「ビクトリア・サンドイッチ。英国のお菓子ですね。記録と合致します」
「あ、ああ。そんなことを言っていた気がする」
「美味しいビクトリア・サンドイッチがあるところを、知っているんですか」
「知らない……ことはない」
 芽以の瞳が、メッセージの推理をしているときよりも、さらにきらきらと光っているように見える。祥太郎は心の奥で、墓穴を掘った――と頭を抱えた。
「……藤崎さん。そういえば私、ちゃんと自己紹介をしていませんでしたね」
 真剣な表情に興奮をにじませながら、芽以は我慢しきれず、頬を緩ませた。
「桜坂芽以は、三度のご飯より――――いえ、一〇〇度のご飯より、甘いお菓子が大大大大っ好きなんです!」
 次ぐ言葉は、もう聞くまでもなかった。

       

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Neetsha