Neetel Inside 文芸新都
表紙

ヘンプロって何のプロ?
#1

#1

「羽生整形外科でございます」
「……間違えました」
「くりはし三浦整形外科です」
「間違えました」
「久喜しらおか整形外科です」
「間違えました」
 おれは何も間違っていない。むしろ、今まさに仕事をこなしている。それなのにこの罪悪感はなんだろう。「間違えました」という声は受話器を通じて相手に、そして自分自身の神経に届いている。
「杉戸高野台整形外科です」
「間違えました」
「お前は間違っている」
――へ?
「お前は間違ってるよ」
――何が? どこが?
「北埼玉病院でございます」
「間違えました」
「お前は間違ってる」
――だから、何が?
「間違ってるんだよ」
「ふるはし整形外科です」
――何がだよ?
「間違えました」
受話器を置いて、右手の人差し指を七ミリほど下へ垂直にずらすと、もうセルがなかった。もう、間違えなくてもいいんだ。そう思った。間違い電話をかけ続けるという正しい手続きの不条理さについて、おれは笑わない。だってそれは不条理レベル1だから。ミクロな語義とマクロな文脈との矛盾をついばんで生きる小鳥には、おれはならない。

「終わりました」
「かかんないところ、あった?」
「いや、なかったと思います」
「思います?」
「あ、いや、なかったです」
「本当に?」
「はい」――この「はい」についてはほとんど正しいと言って差し支えない。たしかに作業は無意識に片っ端から電話をかけ、つながったところで「間違えました」と答えて受話器を下ろすだけのゲームになり下がっていたが、むしろ単調なゲームと化したことでバグの発見はしやすくなっていたはずだ。「ツーツーツー」という入力に対して「間違えました」という出力をおこなうほど人間を辞めてはいなかったはずだ。
「そう。じゃあこのページの中で辞めたり番号変えたりした病院はないね。このまま増刷に回せそうかな。修正原本の確認はオーケーだから、これ、棚に戻してきて」
事務所の奥の本棚までの九歩を十三歩であるけば、普段とは違う景色が立ち現れてくる。「マムシソーダ」を売っている屋台、その店先にサンプルとして置かれたドドメ色した「マムシソーダ」、反対側には一面の麦畑。アヒルが生命保険会社の名前を叫びながら無心に麦をむしり取っている。下を見ると石畳。なるほど、「初天神」の世界を歩いているのだな、と謎の合点。それにしちゃおれは父親だろうか子だろうか、やはり最初に子がせがむのは「マムシソーダ」の屋台だろうか。
――ねえねえお父ちゃん。
――何だい?
――お父ちゃんおいら境内来るまでずっといい子にしてたよね?
――ああ、そうだな。お前にしちゃあ珍しく、「あれ買って」「これ買って」なんて言わずに、ここまでずうっといい子にしてやがんじゃねえか。いいか、この調子で、今日はずうっといい子にしてやがんだぜ。頼むよ。
――うん、わかった。おいらこのままずうっといい子にしてるからさ、頼みがあるんだよ父ちゃん。
――んあ? 頼み? ……何だよ。
――うん、おいら今日は帰るまでずっといい子にしてるからさ、いい子にしてるからさ、「マムシソーダ」買ってよ。
 鳥居の真ん中は神様の通り道だというから、この本棚たちを連結する梁のような鉄塊のわたる、通路のちょうど真ん中を歩くおれは本の神様、さながらミネルヴァかその肩に乗るフクロウといったところか。彼女らのギャラは折半なんだろうか。だとするとフクロウでいることは損か、それとも得であるか。「プァー」、コンバインのクラクションが思考を遮る。なるほど、麦畑ももう収穫の季節か。コンバインの外面(そとづら)のフランクさは小型特殊自動車などと呼ぶにはいささか似合わないようにも思える。きっと腹の中で相当に悪いことを考えているに違いない。中学の頃のモリオ君を思い出した。野球部だったが、小狡くて、メガネで、体育の成績は野球部並みにそこそこ良くて、インテリだったおれをどことなく侮蔑していた。ポジションは確かピッチャー、いやキャッチャー……サードにしては身長はおれより小さかったから、セカンドかショートかファーストか外野かそれ以外のどこかだろう。むろん、ベンチウォーマーということもあり得る。うむ、「初天神」で父ちゃんをやりこめた小僧はモリオ君だったに違いない。小僧が小僧だった時分にはそこそこかわいく思えていたものだが、小僧の正体がモリオ君だとわかると、俄然この小僧はロクな死に方はしないだろうという気持ちが湧いてきた。
 駄目だ、腹がたつ。麦畑から小麦を二、三本ぷちんとちぎって、いまだテレビでしか見たことのない小麦を――見たことがあるのは麦畑と小麦粉だけで、その間のコムギが具体的にどういうものなのかイメージすらわかないが――そのコムギとやらを生のまま穂先から噛んでみる。なるほど、意識に上ってこない味はもはや味ですらないのか。認識の枠を超えた対象をも想像の範疇に抱き込んでしまおうとするみずからの強欲さに、そして結局失敗しているこの低能さに、なおさら腹立たしさが募った。

「会社、辞めさせてください」

 怒りに任せて出た言葉を、ほんとうの言葉として大事に抱きしめてあげよう。ノリと勢いがミクロな人生を決め、そのミクロの選択がやがて奔流となり大河を形作ると、偉い人も言っていたはずだ。もし言っていなかったら、あなたの想像しているその人はそんなに偉くない。

「あさって時間を取るので、その時に考えましょう」

 怒りに任せて出た言葉を、怒りで打ち返さない人こそ大人だ。その意味で、イシグロさんは上司とは呼びたくないが大人とは呼ばざるを得なかった。おれがたまたま放った147km/hを、イシグロさんはホームセンターで売ってるやわらかバットでセンター前に運んだ。そうか、彼が新時代の福浦か。幕張の安打製造機と、死んだら墓誌に書いたげよう。

 やんごとなき話し合いはティーハウスでおこなわれた。おれはそこで生まれて初めてフレンチプレスを使って、紅茶をこぼした。少し飲んだ。ガラス容器に白い文字で書かれたハリオの文字に、中学時代の理科室を思い出した。試薬たちのにおいが懐かしい。心地よい記憶なので、もうそこにモリオ君は出てこない。断言しよう、彼はこの文章でこれ以降出てくることはありません。こう書いておけば、意志だって固まるし、もしうっかり出てきてしまったときには、いいネタフリになるだろう。モリオ君のいない理科室は静かで、おれは教科担任のイシイ先生の目を盗んで同じ班のハシモトさんとイチャイチャすることを是としていた。ハシモトさんがガスバーナーの調整をやっつけで済ませてしまったものだから、おれがマッチを擦った瞬間にボウっと炎が広がって、ふたりは「ワッ」「キャッ」と声をあげたものだ。通りかかったイシイ先生は「お前ら何してんの」と冷たく言い放って教卓へ去っていったのが、昨日のことのように思い出せる。

「もう少し頑張れば、君はいい編集者になれたかもしれないな、とは思う」とイシグロさんは切り出した。
「そうですか」とだけ言った記憶はあるのだが、もしかしたらもう少し負け惜しみじみたことをボソボソ言っていたかもしれない。思い出はいつも綺麗だけど、それだけじゃお腹がすくわ。
「まあ、しょうがないね。転職活動は、まだしちゃ駄目だよ」
「あ、はい、わかりました」
“いい編集者になれる”の意味がてんでわからなかった。社長のヒヒジジイとは反りが合わなかったし、同郷のお局社員テラニシさんとは、いつだったか一度か二度反抗的な態度をとったのが原因で、あることないこと噂を撒き散らされた。ヒヒジジイとテラニシさんは昵懇の仲だったから、どちらの評点が低くても社内での居心地は悪くなるのに、どちらの評点も最悪という始末だった。イシグロさんには毎日怒られていた。それの、どこが“いい編集者になれる”ってさ。



「へえ。そんで、会社辞めちゃったんだ」
「うーん、正確には、今日辞めることを決めた」
「ああ」
「正式な退社は来月末だからさ」
「そうか、そうか。そーなんだ」
神保町という街には、バーの顔をした喫茶店があり、喫茶店の服を着たバーがある。そのバーの隅の方で見知らぬ人とそんな話をするのもまあ、いいだろう。
「それでさ」
「うん」
「その『ヘンプロ』ってのは、何のプロなの?」
ああ、この人。そっかー。知らんのかー。

「そうねえ、『ヘンプロ』ってのはねえ、『変人のプロ』かなあ」
マムシソーダ割りは、五臓六腑に染みわたる。
表紙

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Neetsha