Neetel Inside 文芸新都
表紙

ヘンプロって何のプロ?
#2

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「サカグチくんのやつは締切いつなの?」
「えーっとね、あのね、アレ……」
「ちょっ、まさか忘れたの?」
「いや、九月中旬発売だから、えっとね」
「さすがに忘れたらあかんて」
「ちょっと、締切なんて忘れたら一大事だよ? 探してきてあげよっか?」
「あ、いや、大丈夫だよ」
「いいからいいから、お手洗いにも行ってくる」
ツジグチくんが背中を椅子にぺたっとくっつけると、その前をヤーマダが「ごめっごめっ」と言いながら通り過ぎ、机の横、おれの横、そしてその後ろを通って店外へ出て行った。
「ツジグチくんのは締切決まってんの?」
「そら決まってるに決まってるやろ」
「あ……そっか、でいつ?」
「決まってない」
「は?」(しばいたろか……)と思ったが、関西弁がサマになるのはツジグチくんのほうだった。
「全体はまだ決まってない」
「そんなことあんの」
「うん、これから版元と打ち合わせして決まる」
「へえ」
「でも構成案はもうそろそろ提出せなあかん」
「マジか」
そのときだった。

「キャアアア」
「どした!」椅子席に座っていたおれが少しはやく、そしてすぐあとにツジグチくんがボックス席を立ち上がり、店外へのドアを開けてビル内のトイレに向かう。
 荒い息遣いは女性トイレの入り口から聞こえる。入って左。倒れこむヤーマダ。指差すヤーマダ。その先には、どん詰まりの個室の便座に腰掛けている物体。生気がない。その生気はきっと、赤黒く流れ出てこちらに向かってくる血溜まりが全て吸い込んでしまったのだろう。
「ヤーマダ」どちらともなく声をかけた。酒を飲んでいたはずなのに色を失ったヤーマダが、はくはくと乾いた唇を動かす。
「しめきり」
「へ?」
「締切だよ、そいつ……」

ミュージック:メイン・テーマ
タイトルロールが流れる

 テーテーテーテーテー テーテーテーテーテー テーテーテーテーテー テテレテレー

 おれは新米編集者、坂口おむにご。幼なじみの同級生たちはみんな受験戦争をドロップアウトしていく中、地方では指折りの黒尽大学文学部に入学した。小難しい本を読みながらエロ動画を見るのに夢中になっていたおれは、後ろから近づいてくる就職戦線に気づかなかった。おれは、その就職戦線に毒薬を飲まされ、目が覚めたら…………ヘンプロに入社してしまっていた!
地元の秀才がヘボ人生を送っていることがバレたら、また命を狙われ、一族郎党にも被害が及ぶ。就職実績に泥を塗りたくない教授の助言で正体を隠すことにしたおれは、蘭に名前をきかれてとっさにサカグチサンキチと名乗り、「両手で皿を回しながら千日回峰行を行うほど」とうたわれた過酷なヘンプロに転がり込んだ。ん、蘭? そんなやつおれの人生にいたか?

 20XX年入社組は、おれのほかにもう三人いる……はずだった。西の高校生探偵、服部平次、じゃなかった、西の大卒新入社員ツジグチくんと、旧帝大院卒の才媛ヤーマダ。彼女は黒づくめの男の仲間だったが、組織から逃げ出す際、おれが飲まされたのと同じ薬を飲んで、じゃなかった、普通に院卒だ。顔合わせでは四人入社すると聞かされていたのに、すでにバイト待遇で半年先に入社していたアイツはどうして正式入社前に辞めちまったんだ?
 三年働けば業界フリーパスとは聞くけど、締切はおれを待ってはくれない。闇夜にうごめく企業の謎、解くのが社内名探偵。真実は、いつもひとつ!



 「今回の被害者は、サカグチさん、あなたの締切ですね」イシグロ警部がこちらに背を向けたまま尋ねる。見ているのは締切の死んでいた便座、の近くの指紋を採取する鑑識だ。
「間違いありません」
「これはあなたが作業し、わたしが監督しながら最終的な手直しをする、実用系雑誌の締切だった――間違いないね?」
「はい」
「逆だよ逆」
「は?」
「美しく返答してくれたまえよ。『あなたの締切ですね』に対して『間違いありません』とあんたが答えたから、こちらも応じて『――間違いないね?』と水を向けたんだよ? ――までつかっちゃったよあたしは。原稿用紙にしてふたマス分、あんたのために時間を割いたんだよ応えておくれよ」
「間違いありません」
「そうだよあたしは捜査に美的感覚を持ち込んだ初めての男さ覚えておいてくれたまえ」流れるようなせりふ回しだった。
「あなたとツジグチくんとヤーマダは、同期で初めての外食に行ったんだね。……Is that correct?」
「Exactly.」
「いい返事だ、その調子だよ。そこでサカグチくん、あなたは件(くだん)の雑誌の締切を忘れてしまった」
「はい」
「反実在論的世界観であれば、彼――締切はこの時点で死んでいることになるが、どうかね」
「そのように思います」
「うむ。つまりこの事件はわれわれの存在論のスタンスを決定するところから始めるべきなのかもしれない」
「スタンスによって、死亡推定時刻が変わってくるということですね」
「サカグチ、おまえ刑事でもないクセにやけに知ったような口をきく。その通りだよ」

「警部、関係者を連れてきました」モブキャラがイシグロ警部を呼ぶ。
「よっしゃそこに並べなさい」
「締切までに原稿を提出することを約束されていた被原稿依頼者の五名、そしてデザイナーです」
「そしてサカグチ、おまえとおれだ」
「はい」
関係者は揃った。あとは各自アリバイを話していき、裏がとれればシロ、そうでなければグレーということになる。
「そのグレーを特上奈良墨でもって欠けざる漆黒に仕立てあげ、心地よく手錠をはめていただく、それが我々警察官の職務なのであります。警察手帳の表1にもそう書いております。あっと失礼、表1というのは編集用語でしたな、つまり表紙のすぐ裏側のことであります」
「存じております」なぜならおれは編集者なのだから。
 さて、締切が死んだ今、おれが受け持ったこの雑誌はどうなるのだろう。版元が新たに別の締切を差し向けてくるのだろうか。それとも、永遠に締切がやってこない世界がやってくるのだろうか。だとすると、それは死ぬほど恐ろしいことだ。

(つづく)

     

「さて皆さん」イシグロ警部が口を開いた。「皆さんは締切が死んだとされる時間、何をしていましたかな」
「わたしは、」いやに首尾よくひとり目が話し始める。あれはメールで原稿を依頼したヨシオカ教授だ。
「わたしはさっきまで原稿を書いていました。そしたらあなたがたに呼び出されて」
「書いていたのはわれわれの依頼した原稿ですかね」
「違う原稿です」
「はて。ではサカグチから依頼があった当該の原稿は」
「書いていませんでした」
「今のところは」
「手付かずです」
「はあ」その叫びはイシグロ警部だけのものではない。むろん、おれの叫びも混ざっている。
「締切までもう時間がないという自覚はお持ちでしたかな」
「あー、言われてみれば、そろそろ締切でしたかね」
「いいえ」
「は?」ぴしっとした白シャツにネクタイを結んでいても、素っ頓狂な声は出るものらしい。
「まだ手をつけていないなら厳しいですが、構想さえ練れていれば、専門分野の雑誌原稿くらい先生の腕でしたらお出来になるかと」
「分量によりますよ」
「覚えていらっしゃらない?」
「あー、たしか二千」
「五千字です」
「五千字だ」
「そうです。図表含めて十一ページ分です。お忘れでしたかな」
「随分と、持って回った言い方をなさるんですね」教授の口角が下がる。
「仕方のないことです。つまり、あたしは警部として、インスペクタとしてあなたの出方を測っているのです」
「出方を? そこは直裁におっしゃる」
「ご容赦願いたいね。そしてここまで測ってみてどうやら先生はわれわれの原稿の締切を失念している。それも、だいぶしっかりと失念している」
「そうでしょうね」
「つまり……締切を殺したのはあなたであると」
「それは言い過ぎだ、あれは事故で」
「事故だとしても」しぜんと言葉が出てきてしまった。「事故だとしても、それをただ放っておいたのでは、ひき逃げのようなものではないですか」
「しかし、原稿は書いていた」
「わたしの原稿じゃないでしょう」
「いいや、長い目でみればあなたの原稿だ。ひとつの原稿を書き上げることは、この地球上で私に課された原稿がひとつ減ったことと等価であって……」
「無理筋の論理じゃないですか!」
「あんたはどうなんだ」おれを制して、イシグロ警部はルポライターのシイナ女史に問いかけた。
「あたしは……ひとまず三ページ分送ってたじゃない」
「どうだ、サカグチ」
「ええ、三ページはメールで受領済みです。あと八ページ分の原稿が残っています」
「シイナさん?」
「途中だったの。締切くん、でしたっけ? そいつが死んだときも、パソコンに向かってたと思う」
「で、今のところは」
「五ページ半ってところ」
「守る気ありました? 締切を」やっぱり思わず口が出る。
「まあ、そりゃできれば締切までに納めたいよ」
「人類すべての願いですわな」やけに達観した口調で警部は言う。さすがキャリアを重ねた編集者だ、締切のひとりやふたり死んだとて冷静極まりない。ってそれでいいのか。
「結局、あなたも締切を見殺しにしているじゃないですか!」締切よ、すまない……おれはおまえの存在を保証しきれないような気がしてきた。
「わたしはね、実在論者ですよ」ぬるりと隙間に入り込むように口を挟んできたのは専門学校で講師をしているヒヤマ先生だ。彼は確か、
「三日前に原稿を送っています」
そう、三日前に原稿を送ってきた。レイアウトの汚いWordファイルで、ちょうど十三枚。誌面にして七ページ分。
「原稿に挿入する図表がめちゃくちゃだったので、もう一度作り直すか説明を加えて送ってくれとメールしたんですよ」おれはイシグロ警部に耳打ちする。
「原稿に挿入する図表がめちゃくちゃだったので、もう一度作り直すか説明を加えて送るようにサカグチがメールしたのでは?」ここまできれいにパクられると、むしろ気持ちがいい。
「いいかサカグチ台詞ってものはなあ、奪い合うものなんだよ」
「『覚えておいてくれたまえ』、ですか」
「そうだよく言った。さてヒヤマ先生」
「そうでしたね。メールボックスをもう一度確認します」
「はい?」
「まだ、確認しておりませんでしたので」
「おい」警部の刺すような目。(おまえ、まさかメールだけ投げてそのままにしたんじゃないだろうな)
「当然、昨日電話も差し上げております」すかさずおれ。催促においてメールと電話はいつもセットだ。そうだ、この話を適当にオチまで書き切ったら、次回作はメールと電話のアツいバディ・ストーリーを書こう。メールが拳銃を構え、電話がハンドルを握り、首都高をNISMOエディションの白いフェアレディZが走り抜けていく画が見えた。
――「締切を守らないやつにはこうしてやらないと」
  「タイヤを撃つには遠すぎるかな?」
  「この距離で十分。ちゃんと横付けしてなさいよ?」
 と運転席の【電話】の膝の上に滑り込む【メール】。運転席のドアウィンドウのほうを向き、じっと狙いを定める。彼女を軽く避けるようにして体を傾け運転する【電話】。【メール】の白いシャツは上からふたつボタンが外れていて、青黒いブラジャーが透けている。
  「おい【メール】、俺を運転に集中させない気だな」
  「大丈夫すぐに終わるから……私のお尻の下で、何かモゴモゴしてるみたいだけど」
  「早くしてくれよ、拳銃が二つになっちまう前にな」
  「あなたのソレは拳銃ってほどのものなのかしら?」
  「何だと」
  「ほら静かに。集中するから……さ、これで、グッバイよ」パン、パーン――女性語がくどいところは、あとで推敲だ。
「それであなた、サカグチの電話には何と」
「後ほどメールボックスを確認します、と」
「は、それから確認してないの?」
「いろいろ忙しくて」
「忙しくない奴はたいていそう言いますよ」警部は何食わぬ顔で続ける。
「で、したの?」
「今、しましょうか」
「バカにしてんのかあたしを。締切が死んだいま、確認したところで意味がないよ。コイツもクロ」

 次はシノハラ専務理事の番だ。ある一般社団法人の所属らしいが、こう、法人の専務だの理事だのって奴はいまひとつ何を飯の種としているのかわからない。不労所得みたいなものか。
「正直、覚えていないんです」
「締切のことを?」
「締切のことも、締切が殺された時に、自分が何をしていたのかも」
「そいつはいけませんね。しかし現に締切は死んでいるんです」
「原稿は進んでいらっしゃるのですか」これはおれ。締切が死んだ以上、次に聞くべきはこの疑問だ。
「原稿は……」
「何か、お書きになれない理由があったんでしょうか」
「……あったと言えば、あった」
「無かったと言えば、無かったわけですか」すかさず詰め寄る警部。
「うむ……」
「専務理事のくせに?」と思わず口から出かけて、とどめた。目だけが強く、シノハラさんに何か言いたげなのを気づかれてしまった。
「なにかね」こちらが口ごもっているのをいいことに強気に出てきた。この期に及んでなんちゅうジジイだ。
「最後のひとりは――」周囲を見渡した警部のふわふわした仕草に気づき、少し遅れておれたちも首を左右に振る。
「警部! スドウが逃げました」モブが叫ぶ。スドウ。単科大学で准教授をしているという話だが、いくら電話しても本人に通じず、版元すら「スドウさんとはほとんど話せないんです。私たちも最初に依頼した時に会って以来、メールでしかやりとりできなくて……ただ、締切までには必ず上げてくれるかたですので」と言うほどだった。
「さっきは確かに連れてきたんだろうな?」
「はい」
「どんな奴だった」
「それが、どうにも印象が薄くて、思い出せないんです」
「なるほど。みんなが締切の存在を思い出せないように、われわれもスドウのことを思い出せないということか」警部は頭を書いたあと、おれに向かって言った。
「スドウからの原稿は」
「まだ何も」
「原稿依頼に対する返答は」
「三通ほど送りましたが、それも来ていません」
「つまり、スドウにも締切を殺すことができたわけだ」

「あの」被疑者たちの間から、女性の低い声が聞こえてきた。
「うちの作業はあ、いつになるんでしょうかあ」デザイナーのハラマチさんだ。一ヶ月ほど前に名刺交換したはずだったが、ハラ・マチさんなのかハラマチ・ナニガシさんなのか忘れてしまった。ロングヘアで、髪質にコシがなさそうで、パーカーの上に黒いブルゾンを羽織っていた。
「締切が死んだ上、依頼した原稿もまったく上がってきていないのでね」
「原稿と図表ダミーにしてえ、テンプレートだけ作っておきましょうかあ」
 デザイナーはおれたち編集者が取り立てた原稿を引き取り、テキストデータと図表データをそれぞれ流し込んでページを制作する。原稿は校正やファクトチェックや執筆者の気まぐれで提出後も絶えず修正が加えられていく。そのためダミーテキスト「ああああああああ」や「□□□□□□□□□■□□□□□□□□■□□」を使って、ページを仮埋めした状態で見本を提出することもある。
「頼みます」警部が頭を下げ、つれておれも下げた。
「あ、そう、一応なんだけど」顔を上げたついでのように警部が話し始める。
「はあ、なんですかあ」
「締切が死んだ時は」
「わたしい、最初の原稿もらうまでは他の仕事に手をつけてるのでえ、この件の締切のことはちょっとお」
「なるほどね」

「全員がクロ、ですか」
「そうなるな」
「つまり、全員が犯人、ということですか」
「そうだが……それじゃあどうも締まらんな」
「締まらん?」
「ああ。全員が締切を殺した、もしくは見殺しにしたのかも知れないが――いいか、自分の殺意に愛情を持てないような奴をおれは犯人とは認めない!」
「殺意に愛情? どういうことですか」
「どういうこともこういうこともない。人を殺すにはそれ相応の力学ってのがあるはずだ。いや、無いなんて有り得ない。犯人になりたけりゃ、犯人として真っ当な生きかたをせにゃならんのだよ。今の奴らにはそれが明らかに足りんのだよ」
「そんなこと言われても」
「いいか、どうすればドラスチックに締切が死ぬのか、みんなもっと良く考えるんだ! そうでなけりゃ、こんな殺人事件をあたしは認めない!」
 そう言って、イシグロ警部は締切が殺された隣の個室の便器に腰かけ、ふんぞり返ってしまった。言われてみれば、彼らのうちの誰かは締切を殺したにもかかわらず、ここまで取り調べた誰ひとりとして罪を犯した、人を殺したという責任感や充実感、達成感に欠けている。ここまで大仰にやっておいて、のれんに腕押しというのもどこか切ない。

 ――犯人よ、お前はちゃんと締切を殺したんだろうな? そして締切よ、お前は確かに誰かに殺されたんだよな……?

(つづく)

     

 待てよ……全員がこの締切をまともに請けあっていなかったとしたら? だとしたら、反実在論的世界観に照らし合わせると、まさか。
「何かわかったんだな」警部からの鋭い視線を受ける。ええ、ええ。わかりましたよ、わかりましたとも。
「ここまで皆さんに締切との関係性、そして締切殺害当時のアリバイについて話してもらった訳ですが」
「『話してもらった』のはあたしだ。主語を勝手にすげ替えないでくれたまえ」相変わらず手厳しい。
「警部の要請に応じて、話してもらった訳ですが……その結果、皆さんに確実なアリバイが無いことがわかりました」
「ああ、わかった。大いにわかった」
「しかしもう一つ、わかったかも知れないこともあります」
「『かも知れないこと』。それが聞きたいんだ」
「それは皆さんが、」三十分尺の推理ドラマなら、ここで両端に【ドラマノベライズ本プレゼントキャンペーン】【詳しくは公式サイトをチェック】と出てCMを挟むが、あいにくこれは現実だ。
「それは皆さんが、一度目の締切を本気で受け取っていなかった、という可能性です」
「は」「え」「そんな」「ことが」「あっ」「たなんて」
「そしていま、皆さんのそのような雰囲気を、編集実務にあたっている私、サカグチも察している」
「なるほど、おまえも実在論を捨てたか」イシグロ警部は結論をわかっていて、あえて【そちら】に視線を送らない。おれに花を持たせたつもりだろうか。
「つまり、その拠って立つもの、レゾンデートルを失った締切は今やもう、締切ではない」
おれは小走りで五歩六歩、どす黒い血溜まりを避けるように安置された遺体に近づいた。さっきは遺体として処理され、うやうやしい手つきでトイレの脇に安置されたその物体。おれは勢いよくブルーシートをめくった。いや、「ブルーシートを剥がした」と書きたくなるくらいの、重くざらついた音がした。
「ご覧の通り、締め切りはもうここにはいない」
横たわっているのは中に砂がつまった人型の錘(おもり)だった。頭部には素描の際に描くアタリのような十字架が浮き出ている。
「では、締切はどこに」ヨシオカ教授がきく。
「そう、いまみなさんがそう思いました」教授のように、ここにいる全員が締切を意識し始めた。
「もしこの中に反実在論者が居ようとも、取調べにより否が応でも私の雑誌にかかわる全員が締切のことを考えてしまった以上、われわれにはひとつのコンセンサスが生じました。少なくともいまこの瞬間に締切は生きています、いや、この瞬間に締切は生き返ったんだ」
「よし締切が現れたぞ、探せ!」イシグロ警部の威勢のいい声が、トイレをジグザグに走ってビルの入り口の方へ消えていく。
「と言っても、一体どこへ」モブキャラは叫ぶ。叫ぶのがモブキャラの仕事だとでもいうように。
「手当たり次第に探せ! 威勢よく叫び、威勢よく駆け出していくのがモブキャラ共の仕事である!」そう言ってモブキャラ共を散らしたあと、警部はタバコをくゆらせはじめた。
「あれ、イシグロさんタバコ吸いましたっけ」
「ううん、吸わない」
「あれ、フィクションの中だと意外といけちゃうもんですか」
「ううん、クッソまずい」そう言っておれに吸いかけのタバコを押し付けてきた。ショートホープ。ああそういや、編集者だったころはショートホープ吸ってたわ。いまはアークロイヤルのアップルミントしか吸えない身体になっているし、吸う機会も激減した。
「まあでも結局、締切を捕まえるのはおまえだからね」
「そんな気は、しています」
「気じゃねえよ、やれよ。それが編集者だ」



 走って、走って、十五分ほど経っただろうか。高校時代陸上部でよかったという思いと走る前にタバコを吸うもんじゃなかったという後悔とがない交ぜになったカフェオレが、来週ファミマから発売されるとかされないとか。そんなこんなで三省堂書店の前に着いた。営業終了まであと十分。地下一階のドイツ料理「放心亭」につながる階段に煌々と明かりが点るほかは、棚も壁もドアも人々もみな疲れ果てて、少し黒ずんだ表情で閉店を待っていた。
 出ていく人ばかりの正面出入口を逆行し、いつも誘われる話題の書コーナーには目もくれず、といいつつ一瞥(いちべつ)はくれてやり、やっぱり大した本サジェストしてねえなと心の中で毒づいて雑誌コーナーに来た。
 おれの雑誌は平積みになるような人気誌ではないから、平積みの向こうに刺さっている面陳列の雑誌たちに目をすべらせる。「テクノポリス10月号」「脊柱管狭窄はこれで治せ」「医者が教える健康法ベスト37」「これであなたもテトリス5490連鎖」「4本のポッキーは7日半かけて食え」「2週間で口喧嘩に勝てる京都弁」……どれも違うし、どれも売れない気がするのだが、ここは天下の三省堂書店神保町本店。他所で売れない本も最低5刷の増刷をかけるまでに売ると名高い篇帙(へんちつ)の檜舞台。おれの本もこの平台に乗ったあかつきには……。
「シスアドなう」
見つけた。面陳列の棚よりはるか下方でこちらに背を向けて、一冊だけちんまり佇んでいた。びっちり詰まった雑誌たちから毟るように引き出し、震える手で表4――裏表紙の、奥付を確かめる。

〜システムアドミニストレーターのための月刊誌〜
シスアドなう 10月号
20XX年9月18日発売(毎月18日発売) 第X巻第X号……

しめた、この号だ。本来の締切に間に合えば、オンスケジュールで発売されていたはず。売場に一冊だけのこの本をおれが抱えていれば、今のところは安全だ。人気のある本でもないし、在庫を抱えてるってこともあるまい。おそらく今のところ白紙である中面を開きたい誘惑に耐えて慎重に、いかにも慎重にあいつを探し始めた。
 映画・演劇、テレビ誌、経済誌、女性誌、のとなりに、あいつはいた。文芸誌コーナーで、一冊の本を手に取り、まさに開かんとしている。
「文芸新都」
声をあげたのは、おれでも、目の前の締切でもなかった。締切の向こう側で、拳銃を構えたヨシオカ教授だった。

「文芸新都? 知らない文芸誌だな」教授は締切から本を取り上げ、ぱらぱらとめくった。
「競馬をやった報告だの、ユーチューブへの自作曲のリンクだの、精神を病んだ奴の闘病日記みたいなのばかりだが、これは本当に文芸誌なのか」
「知らん」おれは言った。おれにもよくわからないし、それについては何より読者諸賢にしっかりと考えてもらいたいのだ。
「なぜこれを読む必要がある」
締切は答えない。でもおれにはわかる。「文芸新都」に連載されているある作品に、締切自身の生死が書かれている。
 締切は教授から「文芸新都」を取り戻し、表4からページをめくっていく。本誌の後ろのほうにその作品があった。
【ヘンプロって何のプロ? 作:坂口おむにご】
首をかすかに上下に振って、強引に目線を動かしているのがわかる。顔の動きを推進力にして、無理矢理に読み進めている。ヨシオカ教授は締切の不可解な行動に呆然としている。今しかない。
 おれはヨシオカ教授にローブローをかまし、生まれて初めて生の肉体を殴った快さや血腥(ちなまぐさ)さにほとんど恍惚としながら、微かな意識の中で拳銃を奪い、教授に向けた。引き金を引けば、おれは生まれて初めて人を殴っただけではなく、人を撃ったことにもなる。
「何だ、わたしを殺すつもりか? いいのか? 編集者の分際で」
「生き返った締切を、もう一度殺すためにここに来たんですね」
「ああそうだよ。締切を繰り返し殺し続けて、永遠に締切の来ない世界を所望する」
「もう、誰も殺さない。おれは編集者の名にかけて、締切を守り抜く」

 さあ、締切、はやく続きを読むんだ。お前はこの小説のラス前まで生きている。そう、今この瞬間まで。お前が自分の生を実感したときが、この小説の終わりさ。ここまで読み進めれば、お前のレゾンデートルが、きっと自覚できるはずだ…………

       

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Neetsha