Neetel Inside 文芸新都
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ミステリー作家は樹海へ行くべきである
第一回

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皆さんは、小説をお読みになるだろうか。
文藝新都のエッセイなどを読んでいるということは、それなりに活字に耐性がある方かもしれない。

小説には様々なジャンルや形態があるが、私が特に好きなものはミステリーである。

人生においてはじめて触れたミステリーはアガサクリスティ『オリエント急行殺人事件』なのだが、当時小学生の頭には小説全体の4割ほどしか理解できなかった。中学生にあがり、はやみねかおる『名探偵夢水清志郎事件ノート』シリーズをきっかけとして宮部みゆきや東野圭吾に傾倒するようになった。

なぜミステリーは私を魅了するのか。それは論理的だからである。
そもそも小説というものは基本的に文字のみで構成されている。文字という記号は、限られた数を組み合わせ際限なく意味を生み出すことができる。それらは既定の論理で構築され、一般的な小説においてはその論理を逸脱することはない。これは小説というものがこの上なく論理的であり、逆に既定の論理で構築されていない文字の羅列は小説ではないということを意味する。しかしそれはミステリーに限らない。私がミステリーを愛する理由は、論理によって更に大きく緻密な論理が存在することにある。

ミステリーではない小説に論理がないということではない。しかし、ミステリー以上に論理の存在が保証されているジャンルは他にないと私は考える。なぜなら、論理が存在しなくてはいけないという制約がある小説はミステリーのみだからである。ミステリーから論理を取り除くとそれはホラーになり、ファンタジーになり、ミステリーではなくなってしまうのだ。論理こそがミステリーをミステリーたらしめる鍵である。その鍵を構成するのもまた論理なのだ。これほどまでに正々堂々としている存在はすくない。ミステリーの前では、ミステリー要素のないホラーやファンタジーは卑怯であるとさえ思えてくる。なんでもありというのは、何もないことと同義である。

さて、そんなミステリーを読んでいると書きたくなるのが人間である。私はミステリー作家を志したのだ。


(次回へ続く)

       

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